ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2013年11月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

強く生きる秘訣

萩尾望都さんの漫画『ポーの一族』で、こんな場面がある。
14歳の少年アランが、同級生で友人のエドガーに「メリーベルはどこ?」と尋ねる。
メリーベルはエドガーの妹で、13歳の美しい少女だ。
エドガーは、答える代わりに、「君は人が生まれる前、どこにいるか知ってるか?」と尋ねる。
アランが「知らない」と答えると、エドガーは、「僕もメリーベルがどこに行ったか知らない」と言う。
無論、メリーベルは死んだということなのだが、二人にとって、それはあまりに悲しいことなので、エドガーはそんなふうに言ったのだろう。

シャトレ座(パリの名門オペラ劇場)でも公演が行われたオペラ『THE END』で、初音ミクが、「私も死ぬの?」と問う。
初音ミクが死ぬだろうか?
メーテルリンクの『青い鳥』で、「思い出の国」に行ったチルチルとミチルは、亡くなったおじいさんとおばあさんに会う。
おじいさんは、「我々は、生きている人が思い出してくれたら目が覚める」と言うが、死というものはないのだと言う。
それで言えば、いつか人々がミクのことをすっかり忘れ去ったら、ミクは永遠に眠るのだ。
ミクも、「眠っているのも死んでるのも同じこと」といったことを言う。
つまり、ある意味、ミクも死ぬのだ。
ただ、『青い鳥』の「眠る」の意味は深いものなので早合点しない方が良い。
ミクも我々も、世間の人が思うような意味では死なない。
しかし、観念を弄ぶべきではない。
死は観念に過ぎないが、誰も死が何かなど知らない。
聖者がそれ(死)について何を言ったとしても、私も誰も、本当にそれ(死)が何か知っているわけではない。

私は死ぬだろうか?
この卑怯者の自己中心主義者ならいつかは死ぬ。
それを早めてやろうと、あまりエサを与えないようにしていたが、なかなか死にそうもない。
人間には、生の願望と共に、死の願望があるものらしい。
私は、後者が強くなったので、あまり食べなくなった。
しかし、朝4時に木の実とビスケットを少々、夜におにぎり1つを食べるほどには生きていたいらしいのだ。
ある意味、体重が生命力だ。私は、この1年で5kg減ったので、さらに生命力が弱くなったのかもしれない。
だが、今年の9月に、初音ミクが歌う『イーハトーヴ交響曲』を鑑賞に行った夜は、かなりご馳走を食べたものだった(友人が払ってくれた)。

太平洋戦争の時、シベリアの収容所で、捕虜になっていた日本人兵の中のコックがロシア兵に呼び出され、ある場所に連れて行かれた。
そこには、瀕死の日本人兵がいた。作業中に事故でもあったのだろう。
ロシア兵は、「今夜一晩持ちそうにないので、最後に何か美味しいものを食べさせてやってくれ」と言う。
私はロシア人達の親切さに感激した。
コックがその日本人兵に「何が食べたい?」と聞くと、「パイナップル」と言う。
そんなものはなかったが、コックはリンゴを心を込めて料理し、パイナップルのようにしてやった。
食べさせてやると、日本人兵は全部食べた。だが、コックは、「もう会うことはないだろう」と思いながら去った。
しかし、その日本人兵は死ななかったのだ。彼は言う。「こんな美味いものが食えるなら、もう一度生きてやろうと思ったのだ」と。

大切なことは、死の観念ではなく、生きることだ。
イエスは、「お前達は私の肉を食べ、私の血を飲む」と言った。
それが今の「聖体拝領」とか「聖餐」という、教会で聖職者が信者に、ペラペラのパンを与える儀式になったのかもしれないが、儀式とは形式化するものだ。
私はカトリック教徒ではないので、むしろ、イエスの教えを形骸化させなかった。
私が、初音ミクを食べ、シベリア収容所の日本人兵が、ロシア兵達や、後に帝国ホテルの料理長になったあの日本人コック(村上信夫氏)の真心を食べたように、イエスは、人々に自分の生命力を食べさせたのだ。

では、我々は、どうすれば、生きる力を得ることができるのだろう?
今は、ほとんどの人が生きていない。
ニサルガダッタ・マハラジは、「私は世間的には死んでいる」と言ったが、それが生きる秘訣だ。
イエスも、「生きるために、死ななければならない」と言ったと思う。
条件付けられた心が死んだ時に、生きることができる。
家庭や学校や、マスコミや企業などから成る社会で条件付けられた心を殺してしまわなければならない。
だが、聖者の教えを読むだけでは駄目だ。
クリシュナムルティは、「あなたの講演を聞いたり、著書を読んで人々は変わったか?」と聞かれると、「何人かは」と答えた。
たった「何人」だ。
だが、「それなら、なぜあなたは話すのですか?」と聞かれたクリシュナムルティは「なぜ花は咲くのか?」と答えた。
同じような禅語が『無門関』にあったと思うが、感動的な答ではないか?!
花が咲くのに理由はない。それは自然であり、運命だ。
あなたも、ただ花のように生きるのだ。
そうすれば、生命力に溢れて強く生き、死も克服するだろう。

切なく降り積もる雪のように眩しすぎて
強く生きてゆく花のように幸せになれ
~VOiCE(作詞、作曲、編曲:ラヴリーP。唄:初音ミク)より~













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「文句を言わない」だけで能力も可能性も百倍になる

ヘレン・ケラーのことは少しはご存知と思う。
幼い時に、病気で視力、聴力を失い、その影響と思うが言葉も話せなかった。
そんな絶望的な状況ではどうすれば良いのかということを、彼女は教えてくれている。
それは、言葉ではなく、行動によってだ。
まずやるべきは、現実的な範囲で、失われた能力を回復させることだ。
ヘレンの場合、発声に関してはある程度克服したが、視力、聴力に関しては回復不能というのが現実で、それを受け入れた。
そして、その後どうするかだが、それは、残された能力を使ってやるべきことをやる・・・それだけである。
彼女は、そのようにして、普通の人よりずっと優れたことをした。
これは、彼女が特別な人間だったからではなく、視力、聴力がない分、普通の人よりも「本来、人間が持っている能力」をより多く使ったというに過ぎない。

私は、羽化した時に羽が損傷していて飛べないアシナガバチを見たことがある。
そのハチはどうしただろう?
「俺は不幸なハチだ」と嘆いて沈み込んでいたのではない。
「神よ助けたまえ!」と言って、ずっとお祈りをしていたのでもない。
歩いて出かけ、仕事をして、歩いて帰ってきた。
悲しんでいる様子でも、辛い様子でもない。
実に自然な様子で、とても生き生きとしているようにすら感じた。
生命力をそのままちゃんと生かしていたからだ。
他のハチも、その「障害者」のハチを蔑んでいる様子はなかった。
なるほど、確かに、他のハチに比べ、劣る部分が多く、天敵にたやすく捕獲されたり、飛べるハチなら無事に切り抜けられることで命を落とすかもしれない。
だが、黙ってやる者には、そんなことはどうでも良いことである。

そして、人間には、ハチにはない精神的な能力が沢山あり、また、社会が多様なので、可能性も多い。
ヘレンの場合は、やはりほぼ無限の可能性があったのであり、彼女は、その中のほんの少しをやったのだが、それでも、極めて偉大な一生だった。
我々もまた、持っている能力、環境のままで、間違いなく、可能性は無限である。
ただ、それを見出し、実践する責任は自分にあるというだけのことだ。

結局、人間にとって、最も悪い不幸な病気は、「文句を言う」ことである。
それは、他人や環境などの外部を批判することで、自分の可能性を閉ざすだけのことである。
ビートたけしさんが、こんなことを言われていたのを思い出す。
「今の若い芸人はだらしないと思うよ。でもね、あいつらがだらしないから、こんなオッサンがやってられるんだ」
あえて蛇足の解説をすれば、若くて、外見が格好良く、体力もあって、記憶力も良い若い者がしっかりしていたら、年寄りの自分なんて出る幕がないが、そうならなくて有り難いという意味だろう。
これはプラス思考でも何でもない。
単に、「文句を言わない」という、ちょっと賢い姿勢と思考に過ぎない。
会社でよく、上司が無能で苦労させられると文句を言う者は多い。
まあ、誰だって、他人に比べ、優秀な部分もあれば、劣っている部分もある。自分の方が有利な部分に着目すれば、確かに相手が自分より劣って見える。
しかし、たとえ天才と凡人を比べたって、さしたる差はない。ましてや、たかが同じ会社の部長とヒラという程度ではドングリの背比べ、五十歩百歩であり、もちろん、どちらかが相手より明らかに優るということは絶対にない。
だが、「相手が無能だから」と言って文句を言うことで、「自分が」圧倒的に無力になるのだ。
人間は、文句を言わなければ言わないほど、真の能力は無限に高くなる。
逆に、文句を言えば言うほど、石ころや道端の犬の糞に近くなる。
これを忘れないことだ。
私は、上司が無能であれば、本当に有り難いと思うのだ。上司が無能だからこそ、無能な私がのうのうと楽をできるのである。上司が有能なら、私程度の者は無用であろう。









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腹筋運動は一生しないと決めた

1週間ほど前、ひどい腰痛になり、うつむくこともできないほどだった。
別に腰に負担がかかるようなことはしていないはずなのにと思っていたが、横向けで寝る時に変なねじり方でもしたのかなあと思った。
しかし、最近の習い性で、気にせず、あまり考えないようにしていたら、朝晩欠かさずやっている肉体鍛錬の中の腹筋運動をやめようという気になった。
そして、実際にやめたら、何もしなくても、2日で完全に治った。

私は、高校2年生の時、やはりひどく腰を痛めたことがあった。
よく憶えているのだが、学校からの帰り、家まで後数百メートルの道を歩いていたら、不意に腰に痛みが走った。
それから、腰が痛くて、膝と肘を付けることもできないほどだった。
その頃、毎日熱心に腹筋運動をしていたのだ。
かなり負荷のかかる方法で、百回を3セットはやっていたと思う。
間違いなく、それが腰を痛めた原因だった。
腹筋運動の後、ストレッチやマッサージでほぐしてやれば良いのだが、そんなこと誰も教えてくれなかったので、腹筋はずっと緊張したままで放っておかれたのが腰痛の原因だったのだ。
腰の痛みはひどかったが、若かったので、腹筋運動を止めなかった。
それから数年に渡り、苦しんだ。
病院には行ったが、レントゲンを撮った医師は、「軟骨が出てる」とか言うだけだった。いい加減なものである。

数年前、毎日、数百回の腹筋運動をしていたが、その時も、やはりひどい腰痛になったのだが、それでも、腹筋運動が原因だと気付かなかった。
幸い、その時は、仕事が激務で、腹筋運動をする暇がなくなったから治ったのだ。

最近は、私は、腹筋運動は、一度に15回しかしない。よって、朝晩で30回だ。
ヨーロッパで活躍するプロサッカー選手が20回しかしないが、毎日やれば良いとテレビで言っていたので、それに倣ったが、20回では最後に姿勢が乱れるので15回にしたのだった。
しかし、回数は少なくても、高い負荷がかかるようなやり方はあるものだ。
私には、「効く」運動を有り難がる古い気質があることを認めざるをえない。
だが、ようやく、腹筋運動は腰を痛めることが分かった。
確かに、上に書いたように、腹筋運動の後、丁寧にマッサージしたり、ストレッチ運動で筋肉を緩めれば良いのかもしれないが、おそらく、腹筋運動というのは、少なくとも、普通の人には不要な運動なのだと思う。
私は、腕立伏せは、神が人間に教えた素晴らしい運動だと感じ、愛好している。
また、体重だけでやる、ヒンズースクワットも同様だ。
ただし、両方とも、きちんとした形でゆっくりやることが必要だ。
以前、テレビで見たが、高校生の運動部員が腕立伏せをやっていたが、苦しそうに身体をよじるようにしてやっていた。
あんなやり方は決してしてはならないと思う。きっと、回数が多過ぎるのだ。
きちんとした姿勢でできる範囲でやるべきであり、あんなにデタラメな乱れた姿勢でやれば、やはり身体を痛めることになるだろう。
そんなやり方はせずに、回数を減らし、その分、必ず美しい姿勢でやらないといけない。
どうも、腕立伏せもスクワットも、我々は回数や負荷の大きさを自慢したがる。
だが、そんな馬鹿な見栄は捨て、余計な負荷をかけず、ゆっくりと、完璧な形でやれる範囲で行うことが一番大切であると思う。
腕立伏せは、自分では分かり難いが、身体が真っ直ぐではなく、反っていることが多いはずだ。身体を真っ直ぐに保つには、腹筋に力を入れる必要がある。
ある一流のプロレスラーが、「腹筋をやるくらいなら、腕立をやれ」と言っているらしいが、それが正しいことがやっと分かったのである。
腕立伏せをやれば、十分に腹筋も鍛えられる。
また、腹筋、背筋を鍛えるのに最も大切なことは、普段の姿勢だ。そして、よく歩くことだ。
昔の日本人は、何かに寄りかかることなく正座をしていたのと、よく歩いていたから、運動などしなくても身体が強かったのである。
立っている時は、身体を真っ直ぐにし、座っていても、電車の中でほとんどの人がやっているように、だらしなく腰を前に出し、背中を丸めて座るのではなく、なるべく背もたれに、身体を預けずに、身体を立てて座るのだ。私は、座っている時、背もたれに背中が付いていることは無いが、全く楽なのである。

以上、参考になればと思う。









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全ての人が我が親、我が子、我がきょうだいであれば良いと思う

ニュースを見た人もいると思うが、60歳の男性2人が、新生児だった時に病院で取り違えられて、それぞれ、生みの親の処とは異なる家庭で育ったことが数年前に分かり、病院を訴えて病院の賠償責任を認めさせた。
これを見た私の感想は、まず、60年前の病院が今も存続していることに少し感動したことと、当時の医師、看護師等のほとんどは、もう亡くなっているんだろうなということだった。
だが、もし、私が同じように、本当の親は別にいることが分かったとしても、私に関して言えば、多少驚く程度だと思う。
そして、もし私を他の子と取り違えた人がいたとしても、私はその人の責任を追及しようとは思わない。
それは別に、「育った家庭が素晴らしかったので、この親やきょうだいに会わせてくれてありがたいと思う」とかいったような意味ではない。
単に、それが私の運命だったということだ。
そうであるなら、どうしたって、そうなることは避けられなかったのだ。
取り違えた人は、そんな運命を定めた神の道具だったに過ぎない。

誰だって、一度くらいは、自分は本当は違う家の子かもしれないと、本気か軽い冗談かは別として、考えたことはあると思う。
友達同士や、あるいは、家族の間でも、そんな話の一度や二度はしているはずだ。
私もそうだったし、なんとなく憶えているだけでも何度もある。
そして、私の親戚の60歳を過ぎた男性だが、30歳くらいで結婚する時、「実はお前の本当の親は別にいる」と教えられたという人が実際にいる。何かの事情で、彼が赤ん坊の時に、彼が育った家に引き取られたのだそうだ。彼は、その時は嘆いたようだが、その後は普通に生活している。
そんな話を聞いたのは、私が子供の時のことだが、そのことを印象深く憶えている私が、「私の本当の親が別にいると知っても、さしたることはない」と思っているのだ。

産みの親とは違う親に育てられたという人は沢山いる。
精神分析学者の岸田秀さんの本で読んだが、あるオリンピックメダリストは、やはり、産みの親ではない親に育てられたのだが、「私は有名になって、本当の母親を探すためにメダルを取った」と言い、そして、実際に本当の親を探し当てたらしい。
そんなふうに、積極的に、場合によっては相当な苦労をして、自分の本当の親を見つけたという人も多いと思う。
しかし、本当の親を見つけた後、一緒に住むどころか、極めて親密になるということも少ないものらしい。
「分かればそれで良い」というものなのだそうだ。

私は、「これは自分の子」、「あれは他人の子」という想いが少ないほど良いと思うのだ。
同じように、自分の親も、他の人の親も同じだ。
子供は全てわが子で、年配者は全てわが親だと良いと思う。
江戸時代には、多くの庶民が、長屋という、1つの建物の中で同居していたようだ。
それは、時代劇で見るような、一つ一つの家庭が、今のアパートのようにしっかり区切られたものではなく、ふすま1枚で隔ててあるだけという雰囲気だったらしい。
同じ長屋の子供達は、自然、一緒にいることが多く、きょうだいのようになり、大人達も、どの子供達ともすっかり馴染みになる。
そんな中では、自分の子と他人の子の区別が希薄になるばかりか、どれが自分の本当の子か分からないというのも、別に珍しいことではなかったらしく、もしかしたら、それが普通だったのかもしれない。
そして、食事の時には、そこにいる子供達にご飯を食べさせるのが当たり前だったようだ。
素晴らしいことじゃないか?
きっと食べ物も、余っている家が足りない家に回すということが普通に行われたのだと思うのだ。
そんな家で育った者は、自分の本当の親も、他のおじさんやおばさんも区別なく、皆、自分の父親、自分の母親であると思う。
そして、年長者にとって、年少者は皆、自分の子、弟、妹だ。
結婚してなくたって親になれ、実のきょうだいがなくても、兄にも姉にも、そして、弟や妹になれるのだ。
それは実に良いことに違いない。

少し話を変えるが、実はこれも同じことと思う。
自分が本当は罪を犯していないのに犯罪者にされた冤罪を晴らせぬまま人生を終える人も、世界中にいくらでもいる。
中には、無実でありながら処刑された人だって沢山いるはずだ。
だが、私は、頭で考える限りは、ある犯罪者が全くの他人であっても、その犯罪者が罪を犯した責任は私にもあるのだと感じるのだ。
もし私が、無実の罪で死刑になるとしたら、こう言うと思う。
「信じてもらえなかったようですが、私は被害者を殺していません。本当に殺した人は別にいます。それが、その可能性が無いとは言えませんが、何らかの理由で私の精神が錯乱しているのでない限りは、私が知る事実であります。しかし、私が犯人にされてしまったのは運命であり、私はこの運命を受け入れる。それに、論理的根拠は示せないが、真犯人が罪を犯した責任が私に全くないとは思っていません。これらの理由により、私は、自分がやった訳ではない殺人の罪を、甘んじて受け入れるのです」









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自分を軽蔑する

アファーメーションとかいうものをご存知かもしれない。
「私は偉大だ」
「私は素晴らしい」
「私はできる」
「私は社長だ」
といった感じで、自分に対して力強く、肯定的な宣言をするのだそうだ。
これは、惨めで不幸になる確実な方法である。
やっているなら、すぐに止めることをお薦めしておく。

なぜ不幸になるのかというと、わざわざ、虚偽、欺瞞、幻想の牢獄の中に自分を閉じ込めてしまうことになるからだ。
では、なぜこんなことを教える者がよくいるのだろう?
全部ではないかもしれないが(単なる無知も多い)、意図的にやってるなら、自分の信者、崇拝者を作り、そんな者達から金を搾り取り続けようとしているのだろう。
人間は、心地よい妄想を与えてくれる者にひれ伏すものだからだ。
このことを悪用して、悪い商売をしないように。
そんなことをする者もまた、例外なく、どん底に落ちているのだから。

これが究極とは言わないが、それと正反対の効果を上げる方法はこうだ。
あの聖ベルナデッタは、いつもこう言っていた。
「私は役立たずです」
他にも、
「俺は駄目だ」
「私は最低だ」
「僕があの子に相応しいはずがない」
「私の能力では全く話にならない」
「私なら首で当然だ」
「絶対に私が負けるだろう」
とかが良いだろう。

私が成功法則としては、世間にあるものの中では最上と思う、五島勉さんの『ノストラダムスの超法則 死活の書』にも、そんなことが書かれていた。
本の推薦者は、全盛時の竹村健一さんと舛添要一さんだ。
では、そんな言い方がなぜ良いのだろう?
五島さんも、そこらは書いていなかったと思う。
いや、神秘的には書いていたが・・・
しかし、もっと現実的に言うなら、そんなふうに自分を軽蔑すると、自分を見ることができるのだ。
だって、我々は最低だから。
あなただって、本心では、自分は駄目だと感じているから道を探しているはずだ。
だが、人間は、自分はなかなかのものだという自惚れを持っていて、自分をちゃんと見ることができない。
そこで、「俺は最低だ」と断言すれば、幻想が剥がれて自分を見ることができる。
自分を見さえすれば、自分の中にある光に気付く。初めはほんの少しだ。しかし、それで、初めて正しい道を進み始めるのだ。

『新世紀エヴァンゲリオン』のアニメで、こんなとんでもない場面があった。
病院で意識がなく眠っている14歳の美少女アスカの衣服が乱れ、興奮したシンジが、その場でマスターベーションをした直後のセリフが良かった。
それは勿論、「(僕は)最低だ!」である。
その通り、とんでもない最低男だ。
薄汚い下種野郎!
情けないにもほどがある。
しかし、あそこでシンジが、「誰も見ていない」と思って自分から逃げたり、「これくらい普通だ」と自分を誤魔化さずに、「最低だ」と正しい認識をしたことだけは救いだった。
それによって、彼は自分の真の姿をちゃんと見たからだ。
彼は幻想を壊し、やがて、光を見つけるだろう。









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名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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