ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2013年10月

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

最大の防御力を得る方法

心を鍛え、何者にも負けないようになれる最上の方法は、沈黙と食の慎みである。
この2つで得られるのは防御の力であり、この方法でなら、驚くほどの効果があり、あなたは生涯、誰にも傷付けられることはなくなる。
その力は、大神ゼウスが女神アテーナーに与えたアイギスという盾のようなものである。
知恵と戦いの女神アテーナーは、これにより、「アイギス持つアテーナー」と称されるのである。
アイギスはありとあらゆる邪悪・災厄を払う魔除けの能力を持つとされている。
全くその通りの力が得られる。
沈黙を守り、食を慎むだけで良いのである。

ただし、完全に何も言わない沈黙や、極端な少食をしなければならないのではない。
不要なおしゃべりや、満腹するまで食べるようなことをしてはいけないだけだ。
完全に黙ってしまえば、日々の糧を得ることすらできないだろう。
また、あまりに食べないと、身体が痩せ細り、心までギスギスしてしまうことだろう。
人間には、適度な会話と適切な食事が必要である。

しかし、無駄なことを言うのは、断じて差し控えなければならない。
世間の人々は、あまりに無駄な言葉が多い。
是非を争い、自分の面目や見栄を守るための、醜い、不快な言葉を抑えることができないのだ。
だが、本当に話すべきことは、驚くほど少ないのだ。
言ってはいけないことはもちろん言ってはならない。
他人の悪口、陰口や、自分に関わりもない物事や人物の批判などをしてはいけない。そんなことで声を張り上げる人間は醜くて見るに耐えず、その言葉は穢れている。
単に言いたいだけのことでしかないなら、言うのを我慢して沈黙を保つのだ。
言わなくても良いことは、言うより言わない方が千倍も良いのだ。
人間は、必要もないことを言う度に、頭が悪くなり、感覚も鈍くなっていくのだ。

だが、我々は聖者でもなければ、聖者を目指すわけでもない。
だから、必要なことは話さなくてはならない。
ただ、ほとんどの場合は、ただ明白な事実だけを述べ、質問には、「はい」か「いいえ」で答えれば事が足りるのである。

ラマナ・マハルシは、悟りを開いた後でさえ、3年の沈黙の行をして、揺るぎない自己を確立した。
かなりの段階に達した者なら、このように完全に沈黙したとしても、世間的なことも神が世話を焼いてくれる。
ある者が、神により、17歳だったマハルシに食事を毎日届けるよう命じられ、その通りに畏まって務めたのだ。
だが、我々は自分の食事は自分で得なければならない。
よって、必要なことであれば、誠意ある言葉で、きちんと会話しなければならない。
それができず、自分の食事や服を自分の力で得られないなら、愚か者であるということだが、今はそうでも心配はいらない。
沈黙と食の慎みの力によって、苦労は去るだろう。
神が守るからである。
そして、あなたが、外にいる邪悪なものを攻撃をする必要はない。
最強の勇者である神が、あなたの代わりに戦ってくれる。
だから、あなたはただ、無駄なことを話したがり、必要以上に(腹8分目以上に)食べさせようとする内なる敵を退ければ良い。









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夜空の星と瞳の関係

人が眠っている様子を見る機会は、昔の時代に比べて少なくなっていると思う。
人が本当に無防備な状態で寝ている姿はなかなか面白いし、何かに気付くことも多いのに残念なことである。
電車の中で本当に熟睡してイビキを立てている者も稀に見るかもしれないが、それはむしろあまり見たくないというだけでなく、そんな者は細胞が緊張しており、自分の家で寝ている時とは違うのである。

岡本太郎の『今日の芸術』に書かれているが、西洋で女性の裸体画が多いのは、西洋の家では、部屋に鍵をかけてしまえば、侵入される恐れがほとんどないので、冷房がなかった時代では、女性でも、部屋に鍵をかけて裸になっていたからだという。
一方、日本の、ふすま1枚隔てた部屋ではそんなことはできないから、日本でヌード画は不自然であり、文化風習の異なる西洋の絵の真似をするなという主張であったと思う。
フランスに長く留学し、フランスの大学で民俗学や哲学を学び、そこにいた多くの外国人と交流し、そして、あらゆる国の美女、美少女達と同棲していた岡本太郎が言うのだから、説得力もあるというものである。
それで言えば、確かに、西洋の絵には、ヌード画だけでなく、人が眠っている絵にも印象的なものが多い。
フランスのモローの『夜(ナイト)』は、夜の女神自身が眠っているという、考えてみればおかしなものだが、それで通ってしまうし、文句なく神秘的な素晴らしい絵である。
モローに限らず、西洋の絵画では、目を伏せた人物は、眠っているように感じるものが多いと思う。

眠ってる人の姿を見るのは良いことであり、重要なことに気付かされる。
それは何かというと、自我、あるいは、心が身体と共にない人間の姿である。
そこに、神秘性や崇高さがある。
心を持たない人間には、言い様のない美しさがある。
ある意味、眠っている姿は人間の理想である。
だから、人が無防備に眠っている姿は、見ている者に安らぎを与える。
年を取るにつれて、心が身体にからみつく度合いが大きくなり、眠っていてすら、心と関わりを持つようになってしまう。
そんな寝顔は美しくないのだが、そんな人でも、疲れ果てて、心を完全に放棄して眠っている時、「つきものが取れた」ように、安らかな顔になっている。
我々は、美しい寝顔をしていること、そして、日中でも、そのような顔をすることが、 願うべき理想であり、それを、天使や神になった者と言うのである。

どこかの民族には、人は眠ると、目がその人から離れて空に浮かび、星になるというお話があるようだ。
お伽噺のようなものだが、どこか「本気で」心惹かれるところがあるのではないだろうか?
眠っている人の魂は、星のように崇高で、まるで神々のように、下界を静かに見下ろしているのだから。
リルケの『夢』第7夜(青空文庫で無料で読める)には、「都会では、人々は心配が多くて眠れなかったり、夜更かしをするので星が少ない」と書かれているが、それを笑う気にはなれない。
夜空の星を見上げていると、星達が話しかけてくるようだったり、その慈愛に満ちた眼差しに見つめられているように感じるかもしれない。
そして、心が洗われ、生まれ変わり、不思議な活力を得る。
崇高な人物の眼差しは、まさにそんな星のようである。
心を星の世界に解き放って眠っている者、あるいは、つとめを終えて永久の眠りについた者を見て、我々は人としての真の有り様を知り、自ら星になろうと思うのである。









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辛い日々も、過ぎてみれば貴重な青春の思い出である

今朝も書いたことだが、重要なので繰り返すと、我々は耐えることで心を鍛えなければならない。
私は、善い人間や優秀な人間になれと言うつもりはない。
それは私には到底不可能だ。
だが、悪人になっても、心が弱ければ、心の弱い善人のように辛く哀れである。
意気地がなければ、明るく、悠然としていることはできないからだ。
逆に言えば、悪人でも、愚か者でも、心が鍛えられれば、心安らかでいられる。そうすれば、幸福になれる。
そして、心を鍛えることは、さして難しくはないのだ。

泣き言を言わないことだ。
泣き言を言うような者が、この世で思い通りに闊歩できるはずがない。
法然も親鸞も、何もしなくていいから、ただ念仏をしろと言った。
念仏を唱えれば、耐えることができる。
そして、心が強くなるのである。そうなれば、この世の利益はきわ(際。限界という意味)もない。

そして、心を鍛えるには、孤独に耐えることや、食を慎むことが大いに有効である。
確かに、いつでもすぐに群れたがり、食べたい時に、どこでも、そして、好きなだけ食べたがる者に、大したやつは決していない。
別に、それが悪いと言っているのではない。
そんな者のことなど、私には何の関係もないし、誰にも何の関係もない。
ただ、その本人の心が弱いせいで、いつまでも惨めでいなければならないから可哀想だと言っているだけである。

耐えるコツは、まず一秒耐えることだ。
一秒が過ぎたら、次の一秒と、耐えられるだけ耐えるのだ。
すると、すぐに、長い間耐えられるようになり、さらには、常に耐えられるようになる。
すると、もう耐える必要もなくなる。
強い心は揺らがないからで、揺らがない心に災難はやってこれないと決まっているからだ。
そのようになった心は、強力で、驚くべき力を持つ。
それは、台風の中で自由自在に動けるようになった者が、風のない大地で活動するようなものだ。
あまりに楽なので、どんなことも子供の遊びになってしまうのだ。

だが1つ言っておく。
耐えるのは良いことだが、過度な重荷を背負おうとしてはならない。
厳し過ぎる訓練をしてもいけない。
人間は、激しい欲望のために、過酷な訓練や戦いをしたがるものだ。
しかし、それは修羅の道であり、魔道に落ちざるをえない。
受けるべき試練は神が与えてくれるし、神は耐えられないような試練は与えない。
神を信じるのだ。
そして、さっきも述べたように、まず一秒、そして、また一秒と耐えるのだ。
それは容易い。
やってみれば、必ずでき、それで強くなり、その楽な試練に感謝するだろう。
そもそも、試練のない人生ほどつまらない、苦痛なものはないはずだ。
辛い日々も、過ぎてみれば、甘く、楽しい、そして、切ない青春の思い出である。









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不安を消すための、役に立たない沢山の話とたった1つの役に立つ話

人間は誰でも不安を抱えていて、これを消してくれる人を求めている。
そして、一時的に不安を忘れさせてくれる人を英雄にしてしまう。
あるいは、不安を解消してくれそうなことを言う人を一時的に崇める。

ある人は不安など本当は存在しないという。
それを示すのに、ちょっとうまいことを言う人は「いくらでも」いる。
一休さんは、絵の中の虎を捕まえるよう言われ、「では、誰かこの虎を絵の中から追い出して下さい」と言ったという話がある。本当にあったことかどうかは知らないが、なかなかオツムのよろしいことだ。
これの真似をして、「あなたの不安をここに出して下さい。私が消してあげましょう」などと言って、「悦に」入っている者がいるかもしれないが、それは、相談者を困らせるか、怒らせるだけだろう。
虎の絵ならともかく、幽霊の絵であれば、追い出せなくても、精神的には「エラくマジで」存在する。
不安も同じく、精神的なものだ。誰が何と言おうと存在する。

もっとオツムの良い「センセイ」なら、「不安を持っているのは誰ですか?」と尋ね、相談者が「私です」と言うと、その「私」は、本当は存在しない、ただのイメージでしかないと言う。
だが、イメージは存在しているのだ。
賢者は、「私、あるいは、自分は何かと問い続ければ、それは存在しないと分かり、消えてしまうのだ」とか言うが、10年続けたって消えない方に百円賭けよう。そもそも、そんなこと3日も続かない。

またある人は、「なるようにしかならない。しかし、なるようにはなる。なんとかなるぜ世の中は」なんてことを言うが、なんともならないし、なるようになっちゃ困るんだ。
さっきの、幽霊の絵のことを考えてみたまえ。
「なんとかなるぜ」とか言って、絵の中の幽霊の実体に祟られたら、なんとかなるどころか、どうにもならない。
「誰が祟られるのですか?」なんて誤魔化そうとしたって、「俺だ!俺だよ!」って言われて収拾がつかない。
迷子の子猫はキャンニャンニャニャーと泣き、犬のお巡りさんは、困ってしまって、ワンワンワワーと鳴くしかない。

だが、こう話しているうちに結論が出たことになる。
つまり、不安で仕方がないというのは、迷子の子猫と同じで、心が幼いのだ。
そして、犬のお巡りさんは知恵がない。
「不安を出してごらんなさい」だの、「不安に思っているあなたは本当は存在しない」だの、誰かの真似をしている者は知恵がないので、少しも不安を消してあげられないばかりか、滑稽なことに、自分も一緒に不安になっているのだ。

さて、結論だ。
「不安に耐えて心を鍛えよ」
である。
他に道はない。
不安があるなら、とても良いことだ。
早速、訓練が提供されたのだから。この上ない配慮で不安を差し出してくれた神には感謝せねばならない。
不安に黙って耐えることだ。
他に何ができるってんだい?
いつ頭の上に原爆が落ちてくるか分からないなら、その恐怖に黙って耐えることだ。
心ってのは、筋肉より精妙で、ちょっと鍛えれば、あっという間に強くなる。
だが、筋トレには熱心でも、心のトレーニングを誰もやらない。やり方を知らないということもあるのだけれど。
心を鍛える方法は、痛みに耐えるということだ。
孤独が辛いなら、孤独に耐えることだ。
愛を失うことが恐ければ、愛を失うことに耐えることだ。
効果は絶大だ。この手の訓練には、天使が直接サポートしてくれるのだからだ。
つまり、これが天使に会う真実の方法である。

USSエンタープライズ号の船長ミスター・スポックのところに、かつてこの船の船長で、その当時はスポックの上司だったジェームズ・カークが来て辛そうな顔をする。
スポックは穏かに言う。
「カーク、あなたが船長を務めて下さい」
カークが「しかし・・・」とためらうと、スポックは、
「バルカン星人に面子などないのです」
と平然と言った。
しかし、きっと、本当はスポックにも面子はあるのだ。でなければ、そんなことを「カークのために」言ったりはしない。
だが、彼は心を鍛えて、面子にこだわることを克服したのだ。
その報酬は計り知れないほどであったはずだ。









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もう人生は夢だとばれている

人生は「夢のようなもの」ではない。夢である。
「なぜ?」も何も、これほど、偶然とは思えない「出来過ぎ」のことばかりが起こっているのに、世界とは単に自分の心が紡ぎ出したものでないはずがない。
とはいえ、無理に「世界は夢だ」と思えと言うつもりはない。
ちゃんと納得した上で、そう見なさなければ、動じず、悠然としていることはできない。
夢であることが分かっていれば、どんなに恐い夢であっても、スリルは楽しみつつ、どこか醒めているものだ。
それは、自分が映画の登場人物ででもあるかのようである。
どんな危機的な状況でも、どこか緊迫感に欠けるのである。
しかし、劇の中で、徹底的に恐がらなくてはならないという決まりはない。
むしろ、緊張感を味わいつつ、なりゆきを楽しむのが良い役者だ。
W.B.イェイツ(「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドの詩人・劇作家)も言ったのである。
「主役を演じるほどの役者が泣いたりしないのだ」
悲劇を演じつつ、本当は陽気だと、イェイツは気付いていたのだ。

良き闘いは、少人数で真剣に演じる劇に似ています。
~『燃えよドラゴン』より~

中国の賢者、荘子も、「我々は夢を見ている。かく言う私も間違いなく夢を見ているのだ」と述べた。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、「夢は短く、目覚めは長い。その他には両者に何の違いもない」と断言したのだ。
しかし、誰が言ったかというのではなく、自分が、ごく自然で当たり前のこととして、そう言わなければならないのだ。

それには、出来事をよく観察することだ。
科学者のように、冷静に、「今、ここ」に起こることを、ただ観察するのである。それは、本当は、観照(本質を見極めること)と言う方が適切だ。
出来事に心が乱されても、その心は放っておけ。心が揺れるなら、揺らしておくのだ。心はやがて、抜け落ちて消えていく。

世界は、自分の心が創り出したものだ。
真の自己は光であり、意識の中のフィルム(個人的、あるいは、集合的な記憶)に自己の光を当て、純粋な心がレンズのように、世界というスクリーンに像を結ぶのである。
単純に言えば、それが世界の正体だ。
意識がフィルム(記憶)の影響を受けなくなれば、世界は消え、楽園(天国、極楽浄土)という真の世界が現れ、我々もまた、真の姿となる。
時々、ゆっくりと、丁寧に、「神の他に何もない。ただ神だけがある」と想うことだ。
それによって、必要とあらば、いかなる奇跡でも起こせるだろう。









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