ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2013年09月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

叶えなかった夢はないし、叶わない夢もない

ポップソングやアニメソング等で、「幸せを掴むには諦めないことが大事」と訴えるものをいくつか知っているが、私が知っている以外にも、そんな歌がまだあると思う。
一方、深遠な人生の知恵を得た者は、「諦めが肝心」、「諦めれば幸せになれる」と言う者もいる。
どちらが正しいのかというと、はぐらかす訳でも逃げる訳でもないが、両方正しい。

イエスが、「山に海に入れと命じ、その通りになると信じて疑わないならそうなる」と言ったが、そんなこと叶うはずがないじゃないかと思うかもしれない。
ところが、ロバート・シュラーという牧師が著書にこう書いていた。
「イエスは、どのくらいの時間がかかるかは言ってないのだよ」
私は、衝撃を感じたものだ。
同じことが、中国の『列子』にもある。ここでは、山を移すのに、何世代もかけたことが書かれている。

つまり、こうだ。
諦めず、無限の時間をかければ何でもできる。
あるいは、短い時間で達成することを諦めれば、いつか叶う。
つまり、諦めることも、諦めないことも、同時に正しく、同時に必要なのだ。

NHKの大河ドラマで、源義経が若い頃、「人々が、衣食足り、家族が一緒に安心して暮らせる世の中にしたい」と言うのをよく覚えてるが、もし、義経がそんなことを本当に考えていたのなら、900年かかったが、今日の日本ではほぼ達成されている。
願いとは叶うものだ。

確かに、叶わない夢なんてない。
なかなか結婚できなくて悩んでいるとしたら、50年以内にできるとか、今世で無理なら、来世で結婚できると考えれば、可能性はぐっと大きくなる。
しかし、実際は、そんな願いを叶えるのに1分もかからない。
世界のどこかで、1分以内に、数多くのカップルが結婚しているに違いない。
真理を言うなら、この世界に他人なんてものはおらず、全て自分である。
昔、私は、ある素晴らしい美人を、「こんなのを嫁にできたらなあ」とちょっと思ったことがある。それからしばらくしたら、彼女は誰かと結婚したのだが、私は妙に嬉しかった。彼女の結婚相手の嬉しさがよく分かるのであり、結局、この世での彼女の結婚相手の男も私も何の違いもないということなのである。
火星に行きたいなら、もう近い未来に誰かが行くのである。
オリンピックで金メダルがとりたいなら、確実に取れる。次のオリンピックで、軽く百人以上の金メダリストが出るのだからだ。
宇宙人の宇宙船に乗りたいのなら、もう誰かが乗っているかもしれない。もし、地球でそんなことがないとしても、遠い遠い星で、誰かが乗っているはずだ。宇宙人すら他人ではなく、自分なのである。

夢の中で、超一流のスポーツマンになったり、アイドル歌手、あるいは、大統領になったことがあるかもしれない。
私もあるのだが、その時、どこか違和感を感じたことがある。
ところが、「本物の」そんな人達にも、自分のそういった世間的立場には違和感があるのだ。
我々は昨日、一国の王様だったのが、今日は社会の底辺で生きる貧しい者だったりする。王様だった時の記憶はほとんどなく、ずっと前から貧乏人だったと「思い込んでいる」だけなのだ。
魂は宇宙大なのに、自我という小さなフォーカスポイントを自分だと思っているので、そんなことが起こるのだ。
自我を捨てれば、どんな願いも叶うし、叶っているし、叶えていたのだ。
だから、自我を持たない者は、どんな願いも持たない。

あるひどく貧しい聖者に誰かが尋ねた。
「あなたほどの賢者が、この状況を変えようと思わないのですか?」
賢者はおかしくて笑いながら答えた。
「どの状況かね?」









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

念仏の行者はトラブルが起きてもイライラしない

8月の初め頃に、私としては初めてスマートフォンを買ったのだが、ドコモショップやauショップで買ったのではなく、AmazonでSIMカードなしの、いわゆる白ロムのスマートフォンを購入し、NTTコミュニケーションズのd LTE980(現在はOCNモバイルONE)というSIMカードを入れた。
スマートフォンは、富士通の ARROWS X F-02Eだ。5インチ画面は1920×1080ピクセルのフルHDで、画素密度はiPhoneを大きく上回る。
ところが、このスマートフォンが初期不良で、頻繁に再起動を繰り返し、全く使い物にならなかった。
だが、ドコモショップに持ち込んだら、修理と称してはいたが、事実上、新品と交換してくれた。

最近、Googleの新しいNexus7を購入した。
7インチタブレットではトップクラスの1920×1200ピクセルのWXGA (Wide-XGA)の画面は非常に美しい。
LTEモデルで、上記のF-02EのSIMカードはこちらに写し、テザリングという方法でモバイルルーター化し、F-02EをこれにWiFi接続させている。
どういう訳か、F-02Eの通信が高速度化した。F-02Eは3G通信になることが多かったが、Nexus7はほとんどLTE(4G)でつながっているからだ。
詳しくは書かないが、理論的には不思議な感じがする。
そして、思いがけないメリットになったのが、F-02Eの電池が極めて長持ちするようになったことだ。F-02Eの場合だけかどうかは分からないが、自らLTE/3G通信するよりもWiFi接続にした方が、はるかに電力消費が少ないようだ。

ところが、このNexus7もまた、トラブルに見舞われた。
同じような人がよくいるようだが、電源を落としてから、電源を入れて起動させたところ、まず、Googleの文字が出て、次に、カラフルな「X」の文字が出たところから、全く動かなくなってしまったのだ。
何度電源を落としても、充電しても、また、しばらく放置しても駄目だった。
しかし、私は、以前のようにイライラせずに落ち着いていた。
なるようになるものだ。念仏を唱え、阿弥陀如来にまかせてしまえば、心は安らかである。
ネットで調べると、多くの人達が新品に交換してもらったようだ。つまり、初期不良で治らないのだ。
しかし、私のは治ってしまった。
その手順は以下の通りだ。

(1)電源を落とす
(2)電源スイッチと、ボリュームのマイナスボタンを同時に長押しする。
(3)大きなアンドロイド君とメニューが出たら、ボリュームのプラスボタンやマイナスボタンを押して、RECOVERY MODEに合わせ、電源スイッチで選択する。
(4)小さな、仰向けに倒れたアンドロイド君が出たら、電源スイッチとボリュームのプラスボタンを軽く1回押し、左下の小さなメニューを出す。
(5)同じくボリュームボタンで、Wipe data / Factory Resetに合わせ、電源スイッチで起動する。
(6)別のメニューが出るので、Yes — delete all user dataを選ぶ。データもアプリも全部消えて、最初に届いた時の状態になる。

こんなことが起こる度に、初期化していたらどうにもならないが、しばらく様子を見ようと思う。
とりあえず、ウイルスチェックソフトは変えようと思うし、アプリも少なめにしようと思う。

私は、スマートフォンもタブレットPCも、ほとんど電子書籍の読書に使っているが、普段は、もっぱらスマートフォンを使う。
小さな図が多い本や、美術書は、Nexus7で読むと快適である。
それと、このブログに寄せていただいたコメントをしっかり読んでいる。
やはり、コメントは有り難いものである。

今夜は、私の愛読の電子書籍を少しご紹介しておく。
全て紙の本も存在する。(ただし、最後の宮沢賢治のものは、80の作品を1つの電子書籍に統合したもので、値段も100円とお得と思う)
まだまだ電子書籍は少なく、私も、家では紙の本を読んでいるが、持ち歩くには、電子書籍が圧倒的に便利だということは認めざるを得ない。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

悪い出来事はなぜ起こるのか?

災難は忘れた頃にやってくると言う。
災難のない人生なんてない。
どれほど、あらゆる悪いことに備えていたって、備えのない部分に目印でもあるかのように、そこを襲われる。
不死身の英雄アキレスだって、唯一の弱点である踵に矢が当たって死ぬのだ。
ましてや、普通の人間は、身体も心も弱点だらけだ。たかが人間の浅知恵で防備を固めたところで、たかが知れている。
「隙あり」ではなく、「隙だらけ」なのである。
どんなに仲の良い夫婦がいたって、なぜか夫の好みのタイプの女性が身近に関わって彼が浮気し、それまでが良かった夫婦ほど凄惨な争いになったりすることが多いものだ。
子供の教育に万全を尽くし、心身両面に贅沢に栄養を与え、一生安泰で幸福に過ごせるようにあらゆることをした子供は、表向きにろくでなしになる場合はまだ良い方で、実際に親の望むような地位や人間性を持つに至ったように見えても、その裏側、心の奥に深い闇を作ってしまっているのだ。

私はゲームというものを全くしないのだが、ゲームには、人生ゲーム、学園生活ゲーム、恋愛ゲーム、戦争ゲーム、スポーツゲームといったものがあるとして、もし、悪いことが何も起こらないとしたら、なんともつまらないゲームになるだろう。人生ゲームで、儲かる一方、計画は成功する一方では、すぐに飽きてしまうし、こんなゲームを買う者はいない。
ただ、ゲームが流行る理由の1つに、実人生に起伏が少ないので、せめてゲームの中で波乱や冒険を体験しようとか、現実の恋愛がまるでうまくいかないので、好みのタイプの異性と結ばれる可能性の高いゲームで、それを満たそうとするのかもしれない。ゲームの製作者も、そのようなユーザーをターゲットにしてゲームを開発するのだろう。
ゲームというものは、現実世界よりも勝率が高かったり、因果関係が極端に単純で結果を予想しやすいのだろう。
しかし、現実の人生は、人間が作ったゲームに比べ、刺激という点では劣るように見えるかもしれないが、はるかに多くのイベント(出来事)や可能性に満ちている。
そして、良いこと、悪いことを含め、予期しなかった事が起こるのを歓迎すれば、やがて、我々は人生というゲームの傍観者であると分かるようになる。

とはいえ、やはり、現実というものは、ゲームなどと比べ、はるかに意地悪と感じることだろう。
それはそうだ。我々は、現実に対する支配力が弱いからだ。ゲームなら、ちょっとテクニックを覚えれば、どんな美少女も俺のものだが、現実では手も足もでない。
しかし、現実で通用するテクニックを身につければ、うまくいくのだと考える者は多いし、そのテクニックを教えようなんて者も沢山いる。
だが、ここが要点なのだが、本当は、我々の現実をコントロールする力は全くゼロなのである。
悪い出来事は不意に起こる。
そして、それを無事切り抜けた時、冷静に振り返ると、それができたのは、自分にとってはただの偶然である。努力や奮闘をしようがしまいが、勝つ時は勝ち、負ける時は負ける。
そして、悪い出来事の半分は、好ましい結末にならない。
まずい結果に終った場合も、うまくいった時と同様の精神状態を持てれば、あなたにもう悪いことは起こらない。
うまくいって喜んでも、過ぎてしまえばすぐに忘れ、悪い結果だとしても、通り過ぎた鳥が鏡に映らないように、心に何の痕跡も残さないようなら、あなたが傷付くことは決してない。
そうすることによって、あなたは宇宙の所有者に近付くのである。
「諦めた時に願いが叶う」ということがあるが、本当はそうではないのだけれど、確かにそんな感じがするものだ。
ただ、悪いことが起こった方が、後の報いも大きいような気はするのである。それで、むしろ、悪いことが起こる方が嬉しいように思えることもあるのである。絶世の美女を得る前なんてのは、最悪は避けられないものである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

誰ともうまくやっていけない者はどう生きるか?

周りと合わない人というのはいるものだ。
普通の人が暑いと騒いでいる時に、別に暑いと感じないか、暑いとは思っても、そんなことを話したいと思わなければ、回りとテンポが合わないだろう。
世間の人が話したがるようなこと・・・グルメや、学生生活の思い出や、子供の学校のことや、旅行のことなどに、何の興味もなければ、無理に合わせても会話は弾まない。
そして、平凡な人間の方が数が圧倒的に多いので、彼らと話が合わない少数派は、変人で、迷惑なやつで、駄目で悪人ということになってしまう。

しかし、世間の人に抵抗したり、憤慨したりしてはならない。
彼らにとって、確かにあなたはおかしなやつで、社会不適合者で、可哀想なやつなのだ。
無理に世間の者達と距離を置く必要もないが、近付く必要もない。
あなたと彼らでは、教義や信念が異なる。
だが、彼らの迷妄は放っておくのだ。彼らが、焼肉や寿司が大好きでたらふく食べていても、非難するには及ばない。
あなたは、なるべくなら、空中にいる天使や、あらゆるところに偏在する神に思念を合わせるのだ。
世間の人を嫌い、拒否する限り、あなたが辛い目に遭うことは避けられない。
しかし、風に運ばれるタンポポの種が火に飛び込むことに対してあなたに責任がないように、誰かが知らずに蟻を踏み潰すのを、あなたが助ける義務などないように、外の世界のことは放っておくのだ。
だが、あなたが助ける運命にある蟻なら、あなたは助けるだろう。しかし、本当はあなたが助けるのではない。神が助けるのだ。
そして、もし、餌を見つけられずに死ぬ野良犬や野良猫がいたとしても、それを殺すのは神なのだ。だから、あなたが悔やんではならない。

良寛さんは、いつも遊び相手にしている女の子達が、家が貧しいので、まだ幼いのに身売りをさせられるのを、どうすることもできずに嘆いた。だが、彼もやがて気付いたが、彼は嘆くには及ばなかった。女の子を身売りさせるのは神であり、それが彼女達の運命であって、避ける術はないし、誰も運命を変えることなどできないのだ。

誰ともうまくやっていけないなら、残念に思ったり、辛いと思うのは悪いことではないし、なんとか仲良くやれるよう工夫してみても良い。
しかし、どうしても彼らの流儀を受け入れるのが嫌なら仕方がない。
自分勝手な未熟者というレッテルをあえて受け入れ、孤独に徹することだ。
そして、誰も読まない『バガヴァッド・ギーター』を読み、至高神クリシュナを友とするのだ。
あるいは、法然の『選択本願念仏集』を読み、ただ念仏を唱えるのだ。
世間の人だって、ことによったら、これらの本を読むかもしれない。
しかし、読み方が違う。我々は、読むと同時に著者なのである。
本を読むことは書くことなのだ。
そして、これらの本は、あなたの物語であり、あなたについて書かれているのだ。
世間の人は、この秘中の秘を知らないし、知ろうとも思わない。
しかし、我々は知っている。我々は、真っ直ぐに神への道を進むのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

子供のために良かれと思ってやることは、確実に子供を不幸にする

善悪(あるいは優劣)なんてものは全く信用ならない。
親が、子供のために良かれと思ってやることは、確実に子供を不幸にする。例外など決してない。

『スター・ウォーズ』っていうのは、ジェダイ騎士団と帝国軍の戦いの物語だが、ジェダイが善で帝国軍が悪なんてことがなぜ言えるのだろう?
『レンズマン』シリーズという歴史的なSF大作では、銀河パトロール隊と宇宙海賊ボスコーンとの戦いが描かれているが、このボスコーンという海賊一団の略奪振りは凄い。しかし、銀河パトロール隊最高の戦士である若きレンズマン、キニスンは、疑問を起こしたことがあった。科学力において、自分達パトロール隊より、ボスコーンの方がはるかに上で、彼らのボスの知性や精神力もおそるべき高さだ。彼らを、ただの悪と言えるだろうか?善と言い、悪と言っても、それはただ、文化の違いに過ぎないのではないだろうか?キニスンは銀河パトロール隊最高位の長官ヘインズにそんなことを言ったところ、ヘインズも否定はしなかった。できなかったのだろう。

中島敦の『名人伝』で、真理に目覚め、宇宙そのものとなったような弓の究極の名人は最後に言うのだ。
「目と鼻の違いが分からない。善と悪の違いが分からない」
そんな違いは、元々無いのではないだろうか?
善と悪も、目と鼻と同じく、ただ、使い方が異なるに過ぎず、どちらが優れているという訳ではないのだ。

ある人にとっては、ビートルズは素晴らしいと感じるが、別の人の中には、ただの騒音としか聴こえない人もいる。しかし、どちらが正しいなんてことは言えない。
秋の虫の声を、「嗚呼、面白い」なんて思うのは日本人だけで、特に西洋人には雑音にしか聴こえないものらしい。しかし、どちらの感覚が優れているという訳ではない。
『荘子』は、人間最高の美女の顔だって、魚が見れば驚いて水中に潜り、鳥は空へ逃げ去るが、別に魚や鳥の美的感覚が劣っている訳ではないと、これはまあ喩え話なのであるが、やはり、是非好悪の分別はあてにならないことを示している。

昔、私にある人が、「美空ひばりは最高の天才なんだ」って言うから、私は、「好きな人にとってはそうだが、興味の無い人には何の価値もないのでは?」と言うと、彼は非常に賢い人だったので「その通りだ」と認めた。
ただし、私は決して、美空ひばりの価値を否定する訳ではない。
ところが、別の美空ひばりファンが、「いや、美空ひばりが良くないというなら、そいつはものの価値が分からない馬鹿だ。そいつは間違っているのだ」と言うから、美空ひばりの価値を否定する者もいるのだ。

円空(えんくう)という、お坊さんで天才彫刻家でもあるという人がいて、数多くの木彫りの仏像を造った。
それを我々は貴重品扱いするが、円空が彫った仏像に乗っかって、ボロボロにして遊ぶ子供が実際にいたらしいが、その子供には円空仏は、おもちゃ程度の価値があるということになる。そして、それで良いのではないか?円空だって、そうやって、子供達が仏様に親しめば、それで良いと思うに違いないのだ。
仏像によっては、寺の奥の開かずの間で、さらに堅固な箱の中に厳重にしまいこんで、人々の目に触れさせないというものがあるらしいが、滑稽なことではないだろうか?

我々は、善いことをしたと言って満足し、悪いことをしたと言って後悔する。
しかし、古代の叡智も、現代の神経科学も、人間の行いは、本人の意思によるのではなく、自動的な反応に過ぎないことを教えている。
分かり易く言えば、我々は神のような存在の操り人形、あるいは、ロボットに過ぎない。
何をしても、誇って驕るなかれ、悔やんで泣くなかれである。
「俺がやったんじゃない。神がやったんだ」と開き直れ。
じゃあ、どんな悪いことをしても良いのかと言うと、できやしないさ。
良いことをするロボットに、悪いことはできない。悪いことをするように出来ていないのだ。
ガンジーやマザー・テレサはそんなものなのだ。別に、彼らは偉いから博愛行為をしたんじゃない。そうするしかなかったのだ。
信じないかもしれないが、私に分かる範囲では、人にできる唯一の優れた行為は念仏だ。無論、同じような概念はどこの国にもあるのだろうけど、分かり難いのだ。概ねでは、「神を愛せよ」「神を崇めよ」と言われているが、念仏ほど簡単、確実なものはない。
そして、念仏を唱えてさえいれば、どれも分かるようになるだろう。
親鸞は、全ての経典の中の1つとして浄土三部経があるのではなく、浄土三部経の中に全ての経典があると言ったが、これは別に、浄土三部経が他の経典より優れているという意味ではないので、他宗の方は目くじらを立てる必要はないし、浄土門の方も、自慢をすることではない。
単に、馬鹿でも分かるというか、馬鹿ほど分かるという程度に考えれば良いと思う。

我々にできることは、是非好悪の判断を捨て、自分より高い存在・・・神と言っても、仏と言っても、至高者、宇宙エネルギーと言っても構わないのだけれど、そんなものがあり、それに動かされている者として、一切を受容することだけである。
それを認める合図が念仏であり、聖音オームであり、(特に)詩篇23や91なのである。
いや、そんな屁理屈を言わず、ただ念仏を唱えた方が良いと思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード