ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2013年09月

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不運続きだと感じたらどうすれば良いか

「最近、どうもツキがない」とか、「悪いことが続く」と思うことがあるかもしれない。
確かに、この世において、良いことばかりが起こることはない。
しかし、まるで目に見えない何者かが、自分が得に嫌だと思うことばかりを、まるで意図的に起こしているのではないかと思うこともあるかもしれない。
いわゆる、心が後ろ向きになっている時に、そんなことがよくある。
悟りを開いた人間でもない以上、そんなことは、度々起こるだろう。
それは苦しく不快であり、下手をすると心がどんどん陰鬱になって、人生は暗いものになっていく。
では、自分が不運続きで、良いことが何もないとしか思えない時はどうすれば良いのだろう?

本当は、どんなことが起ころうが、それを、起こるがままに任せて、そのまま受け入れるのが良い。
無論、現実的対処というものは必要である。
怪我をしたら手当てしないといけないし、トラブルに対しては、できるだけ賢く対処しなければならない。
しかし、心においては、抵抗してはならないが、そこが難しい。

大難を小難とし、小難を無難とするには、2つの方法がある。
1つは、最悪を覚悟することだ。
嫌われたくない人に嫌われそうなら、嫌われたと諦めることだ。
失敗したくないことに失敗しそうなら、失敗を覚悟することだ。
会社をリストラされる不安に怯えているなら、リストラされるものと決めてつけてしまうのだ。
すると、不思議な安らぎ、不思議な落ち着きを感じるようになる。
ただし、本当に諦め、本当に覚悟しなければ駄目だ。表面的に諦めたつもり、覚悟したつもりでも、神の目は誤魔化せない。

もう1つの方法は、自分の信じる神仏に全てを任せることだ。
『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナは、「ただ我のみ拝め。我のみ愛せ。そうすれば、我も汝を愛する。一切を我に委ねよ。そうすれば、我が汝を守る」と言ったというのは間違いではない。
法然は、『選択本願念仏集』で、「ただ、阿弥陀如来のみを想え。そうすれば阿弥陀如来は汝を想う。ただ、阿弥陀如来のみを礼拝せよ。そうすれば、阿弥陀如来はそれを見る。ただ『南無阿弥陀仏』と念仏を唱えよ。そうすれな、阿弥陀如来はこれを聞く」と述べた。
そのように、心を1つに決め、至高の存在に頼りきった時には、奇跡は必ず起こる。

最初の方法に関する最良の参考書は、『ノストラダムスの超法則死活の書』である。ノストラダムスの予言が外れたと思っている人が多いかもしれないが、本当は全部当っているのである。そして、普通の人には、こちらのやり方の方が、まだ理解しやすいかもしれない。
後の方法に関しては、もちろん、『バガヴァッド・ギーター』と『選択本願念仏集』という聖典が最も優れた教えである。できれば何度も読んで、魂から納得すれば、いかなる不安や困難も永遠に去るであろう。

そして、起こること一切を受け入れる無為自然の境地になれば、あなたが傷付いたり、損害を被ることは決してない。
これに関しては、『老子』に学ぶと良いと思う。
ただし、ひたすら無心に念仏を唱えるなら、その他の一切は不要である。









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偉大な聖典を簡単に理解する秘法

『般若心経』、『老子』、『歎異抄』などの優れた書物の解説本は、ほとんどが、ちょっと頭で分かっているといった者の個人的な観念が書かれている。
その例外の1つに、宗教家の五井昌久さんが書かれた『老子講義』があるが、五井さんは老子の解説をする時は老子そのものになれるのだから、彼は特別である。ところが、五井さんはこの本の中で、「本当は読み下し文を音読すれば分かるのだが」と書かれていたと思う。
読み下し分どころか、大発明家であった中山正和さんは、漢文の『法華経』を眺めていると、イメージが溢れてきて、本当の意味が直接に分かったという。
中山さんは、難解と言われる道元の『正法眼蔵』も、繰り返し音読すれば自然に分かるのだと著書に書かれていた。

このブログでよくご紹介しているが、田中嫺玉さん訳の『バガヴァッド・ギーター』のKindle版(Amazonの電子書籍)が出ている。
しかし、この電子書籍は、現在は、電子書籍としては失格だ。
多くの語に「この語は解説がある」という意味の番号が、その語の横に付されているのだが、普通、Kindle本では、その語をタップ(PCでいうクリック)すれば、解説ページに飛び、戻るボタンで元のページに戻る。これが電子書籍の素晴らしいところなのであるが、この『バガヴァッド・ギーター』にはそれがない。解説を見ようと思ったら、解説ページに手動で移動しなければならないが、こんな時、電子書籍は最悪の不便さを発揮する。紙の本なら、見当をつけて一気に数十ページでもめくれば良いが、電子書籍では1ページずつめくるしかないので、大変に手間がかかる。まさか、全ての解説ページにブックマーク(電子的なしおり)をつける訳にもいかない(つけられはする)。
手抜きもいいところの電子書籍である。
従って、解説を見ることなく読んでいくしかないのだが、それが案外に良いことに気付くのである。
頭で理解しようとせず、少々分からない言葉があっても、気にせず、リズムを大切にして読み進むと、全体が分かってくるのである。
特に、『バガヴァッド・ギーター』は詩であるのだから、リズムが大切なのである。

しかし、論理的な本や、科学技術に関する本であれば、そうはいかないだろう。
だが、上に挙げた『バガヴァッド・ギーター』の電子書籍は、例外中の例外といえる欠陥本(結果としてそれが良いのだが)で、ほとんどのKindle本は、タップすることで解説に移動する機能がちゃんとある。
ただ、こんな話があり、これも真理だと思うのである。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』という本の著者のベアード.T.スポールディングはインドで生まれ育ったのだが、そんな4歳の時、大学の予備校(現在の受験予備校とは異なり、大学で学ぶ準備をするような学校と思われる)に連れていかれて、初めてアルファベットを見せられ、教師に「どう思うか?」と聞かれた。スポールディングが「分からない」と言うと、教師は、「そんな考えは捨てなさい。自分はちゃんと分かっているという態度を取りなさい」と彼に注意した。そのおかげで、スポールディングは14歳で大学を卒業し、その後、科学技術研究者になっても、その真理が効力を発揮した。他の研究者が何年も解決できずにいることに初めて取り組んでも、数十分で解決してしまったのだ。彼は、「自分にはもう分かっている」という態度を取ることができるからだった。
※『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻より内容を引用。この第5巻は単独で読んでも有益な秘法書。

政木和三さんも、子供の時、腹式呼吸の訓練をしていたおかげで、母親が読んでいたお経の意味が「勝手に」分かり、母親に説明したことがあったという。
アメリカ最大の賢者エマーソンも、人間は、本質において初めから全て知っていることを示唆することを書いている。

最初に、老子や正法眼蔵を音読すれば自然に分かるという話を紹介したが、音読そのものに意味があるのではなく、音読の場合は黙読と違って、とにかく先に進むのだから、頭で分かろうとすることをさっさと諦めるしかないところが良いのである。
理屈を捨てた時に心は純粋になり、そうすれば、深い叡智につながるのである。
政木さんの場合は、腹式呼吸によって、心が静まって、純粋な意識に到達したから、内なる叡智と一体化したのである。

老子にしろ、バガヴァッド・ギーターにしろ、聖書にしろ、世間的な知である理屈で読んでは絶対に分からない。
しかし、ただ無心に淡々と読めば自然に分かる。
また、念仏を無心に唱えれば、やはり意識は純粋になり、何でも分かるのである。

下に、「電子書籍の有益な欠陥本」である『バガヴァッド・ギーター』(タオラボブックス)をご紹介しておく。









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後悔や罪悪感から解放されるには

私はこの数日、柄にもなく、自分の発言や行いを後悔していた。
ポール・マッカートニーの『Let It Be』では、そんな時、聖母マリアが現れて「Let It Be(あるがままに)」と言われて救われたらしいが、私には無理らしい。そもそも、意味が分からない。
だが、今日の午後、光明が射してきた。

私が何を言ったにしろ、それは私が言ったのではない。
神に言わされたのだ。
私が何をやったにしろ、それは私がやってのではない。
神にさせられたのだ。
ならば、全ての責任は神にある。
神に責任を取ってもらえば良いのではないか?

「そんなアホな」と言う人がいるかもしれない。
「では、銀行強盗をしても、それは神にさせられたのだから、責任は神にあるのか?」
と言われるなら、「その通り」である。
鳩が豆鉄砲をくらったような顔になった人がいるかもしれない。
しかし、親鸞ならこう言うかもしれない。
「じゃ、あんた、銀行強盗やってきなさい」
できるものか。
銀行強盗をやる運命でなければ、そんなことはできない。
逆に言えば、銀行強盗をやる運命であれば、それをすることは「決して」避けられない。

ちょっと話を変えて説明したい。
夏目志郎さんという、偉大なセールスマンがいた。
SMIという、アメリカの大きな自己啓発プログラムの販売会社で、6年連続世界一の成績を記録している。
私は、SMIの販売会社の社長と付き合いがあり、新人部門で世界一になった人をよく知っていた。そして、私も完全歩合制セールスで苦労したことがあるので、SMIでの世界一がどれほど凄いかは少しは分かると思う。
夏目さんは元々は中国人で(後に日本に帰化した)、戦後、大金と超高級車と共に日本にやってきた。
急速な発展の予感のある日本での成功という野望を持った若いビジネスマンだった。
しかし、夏目さんは大失敗し、膨大な借金を背負い込んでしまった。
失意の中、夏目さんは、キリスト教会のボランティアに参加し、布教の手伝いをした。その時に学んだ、教会への誠実な勧誘方法が、夏目さんの、後のセールスの基盤となったようだ。
心の平安を回復しかけた夏目さんだったが、自動車事故で脚を折ってしまう。
成功どころか、まさに踏んだり蹴ったりである。
しかし、聖書をかなり学んでいた夏目さんは、神に対し、こんな祈りをしたそうだ。

これまでの自分の人生の失敗は私の責任である。
しかし、これらからのことは、あなたに責任を取ってもらいたい。

夏目さん35歳。頭も薄くなりかけていた(後にツルツルになった)。
だが、それから、夏目さんの人生は急展開、急上昇し、トップセールスマンとなり、偉大な指導者になっていったのだ。

失敗続きの人生というのは、自分が行動していると思っている人生だ。
そのようであれば必ず失敗するし、当然、失敗の責任は、行為者である自分に帰する。
だが、全て神にまかせてしまえば、自分は何もしておらず、全ては神の行為だ。
当然、全ての責任は神に帰結するのだ。
そして、神はどんな責任も取れるし、神に失敗はない。

会社でも、社員の失敗は社長の責任であり、本物の社長はどんな責任でも取るし、取れる。
ましてや、神が我々の責任を取ることなど、いとも容易い。
私が何を言い、何をしたとしても、神は責任を取ってくれる。任せさえすれば。
過去に、自分が行為者だと思ってやったことも、本当は神の行為なのであり、それに気付けば、神は責任を取ってくれる。

このことを理解したければ、『バガヴァッド・ギーター』を読むと良い。
聖書よりずっと理解しやすいと思う。
この中で、神クリシュナが真理を教える相手であるアルジュナ王子は、我々同様、無明(無知)であり、了見も狭かったが、それでも、やがて理解する。
あなたは、罪悪感に苦しむことも、後悔に悶える必要もない。
私の経験では、念仏を唱えると、『バガヴァッド・ギータ』も、実にスムーズに理解できる。
なぜなら、阿弥陀如来や釈迦の教えは、多少の表現の違いはあっても『バガヴァッド・ギーター』と同じであり、神クリシュナと阿弥陀如来は同じものであると思われるからだ。
あなたは苦しむべきでなく、心から人生を楽しむべきである。









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余り物には福がある

「余り物には福がある」(「残り物に福がある」ともいう)という言葉がある。
子供の時、この言葉を聞き、特に意味を教えてもらわなかったので、この言葉のまま受け取ったが、本当にその通りだと何度も思ったものだ。
この言葉も、世間的には、「人が取り残したものや最後に残ったものの中には、意外によいものがある」という意味らしいが、私が子供の時に、「言葉通りに受け取った」意味とは、次のようなものだ。

誰も欲しがらず、余ったものの中にこそ、本当に良い物がある

つまり、割合にとか、そこそこに良いのではなく、最高があるということなのである。
『サウンド・オブ・ミュージック』という有名なミュージカル映画で、マリアが修道院を出て、トラップ大佐邸に行き、初めてトラップ大佐に会った時、トラップ大佐はマリアの服をしげしげと見て、「ひどい服だ」と言う。
マリアは、「誰も欲しがらなかったんです」と言う。
おそらく、寄付された服を貧しい人々に取らせた後、誰も取らなかった服をマリアがもらったということなのだろう。
それで、一番ひどい服が当たったということになるのだろうが、マリアは、大佐に指摘されるまでは、特に気にはしていないようだった。
私は、子供の時にこの映画を見たが、別にマリアの服が悪いとはちっとも思わなかったので、どうも不思議な場面であった。

この部分の話は創作なのかもしれないが(全体的には事実に基いた話なのらしい)、実際のマリアも、世間的には損を取る・・・余り物を得ることがよくあったのだと思う。それは彼女にとって、最高の影響を及ぼしたのだ。

余り物とは何だろう?
多くの物の中から好きなものを選ぶ時、人は、自分が一番良いものを取ろうとする。
それは自我の働きである。
だが、自我は表面的なことしか見ることができず、中身は悪くても、包装がきれいなものを選ぶのだ。
自我の判断は全て間違っている。
ならば、人々に好きなものを先に取らせるということは、悪いものを選んで除いてもらうということで、最良のものを残してもらうということだ。
もし、1つも残らないとしたら、全て、得るべきでない悪いものだったということだ。

幼稚園の時、感動的なものを見たことがある(このブログや以前のブログで何度か書いたが)。
幼稚園で、何かの行事の後、子供達にお菓子が入った袋が配られた。
みんな、我先に、お菓子を取りに行った。
ところが、どういうわけか、一人分、足りなかった。
それで、一人の、えらく可愛い女の子がお菓子の袋を得られなかった。
しかし、彼女は別に困った様子でなかったのが印象的だった。
すると、一人の別の女の子が、自分のお菓子を半分、その子にあげていた。
それも、袋の中の、一番良いお菓子と思えたチョコレートも渡していたのをよく覚えている。
その時、百分の一秒ほどだったが、私は目には見えないものを見た。5つか6つの時には、そんなことがよくある。
お菓子を取りそこなった子の正体は天使だった。そして、彼女は姉の天使を呼んで事情を伝え(多分、テレパシーで)、姉の驚くほど美しい天使は、妹にお菓子をくれた女の子を一生守ることにしたのだ。
妹の天使も、醜い自我を育てずに済む子を一人得た。
余り物には福があり、自分を余り物とする者にも最高の福があるのだ。
「余り物には福がある」。この言葉こそ、座右の銘に相応しい。









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アダムとイヴが知恵の木の実を食べて得てしまった知恵とは何か?

アダムとイヴは、神様に禁じられていたのに、知恵の木の実を食べたので、罰として、イヴは苦しんで産むことを、アダムは食べるために額に汗して働かなければならなくなった。

しかし、女性の全てが苦しんで産む訳ではない。
「心身医学の父」と言われたドイツ人医師ゲオルク・グロデックは、女性が子供を産む時の顔は、歓喜のために恍惚としているのだと述べている。
また、全ての男性が、苦しんで仕事をしている訳でもない。
むしろ、仕事ができないことの方が辛いという男は少なくはない。

では、神がアダムとイヴに与えた罰とは何なのだろう?

アダムとイヴが知恵の木の実を食べて得た知恵とは、「自分が行為者である」と思い込む、偽りの知恵であると思う。
罰を受ける前も後も、アダムは働いていたのだし、イヴが子供を産む方法も、何も変わってはいない。
しかし、罰を受ける前は、アダムは、働いても、自分が働いているとは思わなかったし、イヴは、子供を産んだとしても、自分が産んだとは思わなかったのだ。
せいぜいが、アダムは、働かされていると思い、イヴは産まされたと思うことだろう。
つまり、「する」のではなく、「させられる」だけなのである。
そして、罰を受ける前の、誤った知恵を得る前のアダムとイヴの認識こそが正しいのだ。

釈迦が、「行為はあっても行為者はいない」と言ったのはそんな意味と思う。
我が国でも、学問のない農民だったが、念仏を唱えて悟りを開いた因幡の源左(いなばのげんざ)も、いかなることも、「している」のではなく、「させていただいている」のだといつも言っていたらしい。彼は、念仏を唱えることで、阿弥陀如来によって、罪(原罪)から解放されたのだ。

インドの至高の聖典『バガヴァッド・ギーター』でも、神クリシュナは、こう言う。
「賢い人は、仕事をしても、実際は自分は何もしていないことを知っている」
では、それが分かるためにはどうすれば良いのか?
クリシュナは、「仕事の成果を求めずに働け」、「仕事の成果を全て我に捧げよ」、「全て我に任せてしまえ」と言った。
法然や親鸞も、自力を完全に捨て、阿弥陀如来に全て任せよと言い、それを阿弥陀如来に伝えるため、また、阿弥陀如来に完全にすがることを自分に分からせるために「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えよと教えたのだ。
念仏という、具体的で、極めて優しい方法を作ってくれた阿弥陀如来は、実に深い慈悲に満ちていたのである。
クリシュナから直接教えを受けながら、アルジュナは、このことを理解するために、『バガヴァッド・ギーラー』の全18章を要したのである。
ただ、アルジュナは、念仏のようなことを教えられたとしても、それに従うことができなかったかもしれない。
『バガヴァッド・ギーター』や『聖書』を読むと念仏の貴さが分かり、また逆に、念仏を唱えていると、これらの書が理解できるようになると思う。
ただ、私は、法然や親鸞が教えてくれたように、ただ念仏のみを頼みとしようと思う。









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