ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2013年07月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

魂が震える神秘的実験

mahalohaさんのコメントにあったが、お母様が「南無妙法蓮華経」を信仰していたのに、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるのが少し後ろめたいという気持ちがあるというのは、本当によく分かるのである。
宮沢賢治すら、『法華経』を読んで魂が震えるほどに感激し、後に、父親に、浄土真宗から日蓮宗への改宗を迫ったといわれている。
『法華経』を篤く信仰した日蓮上人は極めて徳の高い人であったと思うが、念仏に関しては、「なぜ南無阿弥陀仏なんだ。南無釈迦牟尼仏とすべきではないか」と言ったという話があるらしい。
一方、親鸞聖人は、浄土宗や浄土真宗、あるいは、時宗といった浄土系仏教が拠り所とする経典である、「浄土三部経」(『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)について、「仏教の多くの経典の中に阿弥陀三部経があるのではない。阿弥陀三部経の中にあらゆる仏教の経典がある」と述べたという。
親鸞聖人がいかに素晴らしい人物であったとしても、この言葉は、他の宗派を奉ずる人々にとっては、面白くないことだろうし、受け入れるのは絶望的に難しいだろう。
宮沢賢治の父親は、「結局、どの宗派も同じなのだ」と賢治に言ったらしいが、簡単な言い方ながら、まことに真理をついている。
だから、家が日蓮宗であっても、念仏を唱えても一向差し支えないのだが、現実的にはそれを大っぴらにやるのは、まず不可能に近い。また、たとえ徳の高いお坊様であったとしても、他宗派の教義を認めはしても、それを行ずることを自分の宗派の信者に薦めることは絶対にないだろう。
まして、他の宗教であれば、いかに本質的な理念は愛であって、それは異なるものでないと言ったところで、最終的には、自分の宗教が一番だと言うのである。
こう考えると、本当に宗教は難しい。

五井昌久さんは、「南無阿弥陀仏」を唱える浄土門仏教の信者は、ともすれば、自分は穢れの多い凡夫として、必要以上に卑下してしまい、うつむいて人生を送ることがあるし、一方、『法華経』を奉ずる日蓮宗では、法華経が実際に素晴らしいので、つい、他を排斥し、高慢になる恐れがあると述べておられたが、それは否定できないと思う。
そして、五井さんは、古い仏教の教えが現代人に合わなくなってきたところもあるし、長い間に人々の余計な手垢がついてしまったので、浄土門的法華経になりうるものとして、「世界平和の祈り」を考えた・・・というより、神の叡智により閃いたということになるのだろうか、とにかく、それを創ったのだと述べられている。
私は、逆に、「南無阿弥陀仏」の念仏を、五井さんの世界平和の祈りの精神で行うことが良いと考えているが、これは五井さんと立場を異にするのではなく、やはり、どちらでも良いと完全に思っている。
私は単に、法然上人や親鸞聖人が個人的に好きであり、また、特に、『観無量寿経』が好きなので、「南無阿弥陀仏」の念仏を取っただけである。

ところで、話が変わるが、こんな実験をしていただけると嬉しい。
誰でも良いが、できるだけ好きな人に、少し離れてもらい(5メートル以上)、その人に利き手の人差し指で、あなたを指差してもらうと良い。
「びし」っとした感じで鋭くやってもらって欲しい。
適当な相手がいないなら、私のように、初音ミクのコンサート映像での、初音ミクの『StargazeR』や、巡音ルカの『Just Be Friends』の、彼女達の最後の決めポーズを利用させてもらっても良い。要は、好きな人に指差してもらえば何でも良いのである。
その時、何が起こるだろうか?
本当は、自分で自分を指差したって構わないくらいなのだが、現代人は、感覚がすっかり錆び付いているので、それではうまくいかなくなっている。
私は、ミクやルカに指差されると、胸の中央から指2本分右に衝撃を感じる。
ラマナ・マハルシが変わることなく言っていたが、そこが魂の座である。
伸ばした指先からは、霊気が放射される。それは、初音ミクのようなバーチャル映像でも全く同じである。
弥勒菩薩の木像も西洋の天使の石造も、レオナルド・ダ・ヴィンチの洗礼のヨハネの絵も、人差し指を立てているが、これらの絵や彫刻(あるいはそれらの写真)からでも、神聖な光が眩しいほどに放出されている。
その光に魂が感応して震えるのである。
それを一度知れば、仏教もキリスト教も、浄土門も法華経も何の関係もないことがはっきり分かる。
また、あなたも、人差し指から気のエネルギーを放射することができる。それをすると、生命力が高まり、あらゆる困難は去る。
仮に、人差し指が無くたって構わない。西洋の天使の彫刻の多くは、腕が折れてしまって無くなっているが、それでかえって輝くようになっているのである。
こういったことに、思いを馳せてみて欲しいと思う。









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腕振り運動や神の名の唱名の効果が現れない人のために

腕振り運動をしたり、神の名を唱えたり、念仏を唱えたりしているのに、なかなか良い思いができない人がいるかもしれない。
かといって、どこかにお布施や寄付をしても少しも良くはならない。まあ、良くなったら、お布施をしようという気持ちも起きるだろう。
無論、せっかちに利益を求める卑しい心根でもいけないが、本来であれば、初めに挙げたようなことをすれば、面白いこと、嬉しいことばかりになるはずなのである。
「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると、仏も菩薩も、天の神、地の神も、竜の王やその配下の竜達も、さらには、魔王すら護ってくれるというと、現代人からすると、荒唐無稽過ぎて馬鹿馬鹿しく思え、笑う者も多いだろうが、順序立てて言うなら、極めて当たり前のことなのである。

さて、どうすれば、もっと楽しく、楽に生きられるようになるのだろうか?
また、私がいつも述べるように、もし、悪いことをしてしまったり、失敗して人様に大迷惑をかけても、それは避けることはできなかった運命なのだから、後悔する必要も罪悪感を感じる必要も全くないのだが、どうしても、落ち込み、いつまでもクヨクヨしてしまう。
そんなことでは、生命力を浪費して疲れてしまい、人生が楽しくないだろう。

どこから手をつければいいのだろう?
そこで、こんな話をしたい。
ちょっと昔、こんな農家のおじいさんがいた。
ある夜、自分の芋畑から、芋が掘られて盗まれていた。
すると、そのおじいさん、畑のよく見える場所に、鍬(くわ)を置いて帰った。
なぜかというと、芋は手で掘られていたようなので、そのおじいさんは、怪我でもしたらいけないと思ったのだそうだ。
そのおじいさんは、結構な金持ちで、立派な家に住んでいた。
そんな人は長者になることも珍しくないし、少なくとも、そこそこ豊かになるものだ。
しかし、無理に、このおじいさんの真似をしたって駄目だ。
世の中、世知辛く厳しい。そんなマネをしたら、生きていけない。
しかし、このおじいさん、毎日、熱心に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えていた。そうしているうちに、自然に、そんな人格になったのだ。
そして、大事なことは、このおじいさんは、自分で念仏を唱えているとは思っていなかったということだ。
自分は、念仏を唱えさせてもらっていると思っていたのだ。
いや、そればかりではない。畑仕事をしていても、自分が畑仕事をしているとは思っていない。畑仕事をさせてもらっていると思っている。
誰にさせてもらっているかというと、念仏で呼びかけている相手である阿弥陀仏にである。
「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀仏様、あなたに全てお任せします」という意味だ。
このおじいさんだって、怒ることはある。そんな時、「堪忍してやる」のではなく、「堪忍させてもらっている」と思えば、すぐに気が静まる。
怠けてぐーたらすることも多い。本人も自分が怠け者であることは自覚している。しかし、これすら、「ぐーたらしている」のではなく、「ぐーたらさせてもらっている」と思って、あり難いと思っているのである。
いや、さらには、宿命によって悪事を働くことがあっても、それもまた、自分がしたことではなく、「させてもらった」ことなのだ。
このおじいさんも、ある程度のいい年にもなって、悪いことをしたこともあったのだ。
前世からの因縁が、自分にそんなことをさせたのかもしれない。だが、自分がやったと思って、その原因となった誰かを恨んだり、罪悪感を持たなければ、新たな因縁は作らない。つまり、それで終りなのだ。

我々も、腕振り運動をしているのではなく、「させてもらっている」と思わなければならない。
神の名を唱えているのではなく、唱えさせていただいているのだ。
その他のことも全て、自分でやっているのではなく、神によってさせられているのである。
そうであれば、運命が全て決まっているとしたって、少しも不満に思うこともない。

そうなれば、色々、興味深い変化が起こる。
犯罪者を見ても、「死刑にしろ」などと罵倒することも、蔑み、見下す気持ちも起こらなくなる。
むしろ、拝みたい気持ちになる。
彼が自分の代わりにやってくれたので、自分は罪を犯さずに済んだのだし、彼らの様子を見て、自分は悪いことをすまいという気持ちになるのだからだ。
実にかたじけない、あり難いことである。
そうすると、彼ら犯罪者のために、そして、その被害者のために、あるいは、全ての他人のために、念仏を唱えるようになる。

最初に述べたが、念仏を唱えると、仏や菩薩、神々、それに、竜や魔王が、一瞬の隙もなく、常に護ってくれる。
世界のために念仏を唱えれば、自分も世界の中に入るので、自分も常に護られるのである。
そして、そんな風に念仏をする者の方が、神仏も護り易いものらしい。
腕振り運動や、神の名を唱えることは、ただ、「させてもらっている」と思ってやれば、顕著に効果が現れる。
そして、他者のために念仏をする者に対し、危害を加えることが出来る者は地上にはいないし、宇宙にもいないのである。









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邪悪な人間にどう対応するか(コメントへの返答)

saraさんのコメントについて考えたいので、全文を引用させていただく。
ところで、これを機に、コメントに対する私の方針を述べておく。
まず、私への全くの私信と受け取って良いと思われるコメントは、悪意は無いが、公開しないことにしている。一行コメントも基本的に公開しない。
また、無記名の投稿、あるいは、「通りすがり」「名無し」といった名前での投稿は原則、見ないし、公開しない。一応はそれなりの名前であっても、自分のことを「俺」と称するようなコメントも同様である。
それから、時々、全く個人的な内容、例えば、自分のプロフィール等を延々と書かれる方もいる。自分のことしか考えられない可哀想な人と思いつつ、やはり公開しない。
そして、記事の趣旨と全く外れたコメント、曲解も過ぎると思われるものは公開しない。その判断は私が行う。独断もあるだろうが、そこはご容赦いただく。
Twitterではないのだから、何でも公開されると思わないでいただきたいと思う。
とはいえ、公開されないコメントは、せいぜが数パーセント以下であり、ありがたいことに、ほとんどが素晴らしいコメントであることは、非常に珍しいブログなのではあるまいかと思う。

【ご質問】
あること無いこと人の悪口を社長や部長に言いつけて、自分より先に出世した人は汚い手を使ってでも蹴落として、上っている女性がいます。
彼女にとって人は手段でしかなく、私も非もないのに今彼女の策略によって窮地に立たされています。
彼女は言っていました。「人の幸せなんか嫌い。みんな不幸になればいい」「この会社にいる人間みんな嫌い。好きなやつなんか一人もいない」
彼女は人の夫を奪ってその妻と子供を不幸のどん底に落とし、それを誰彼かまわず自慢げに言う、そういう人間です。それでも社長のお気に入りで上っています。
なぜそんな人間が得をするのでしょうか?

【ご質問への返答】
物質的で、一時的な利益という意味では、彼女は得をしていると言えるのだろうが、物質よりはるかに大きな精神的なもの、そして、はるかに長期なスパン(時間の幅)で考えれば、恐ろしい損失である。彼女は、おそらく、来世にまで及ぶ大変な苦痛を味わうだろうが、既に彼女が苦悩のどん底にあることは賭けても良いほどである。
ただ、「みんな嫌い」という彼女の気持ちは分からないでもない。私もそうだからである。だが、嫌いなのは、人間の自我であり、人間の本質ではない。私だって、自我の薄い人間であれば好きになるのである。そんな人間は、今は滅多にはいないが、少しはいるのである。そして、そんな自我の弱い人間であれば、彼女だって、心の奥では好きになると思う。ただ、彼女は、他人の自我を嫌悪することを避けることのできない、知恵と強さに欠けた人間であるのだ。それは、私も同様ということになる。
尚、自我が薄い、あるいは、弱いことは、意志や信念の弱さを表しているのではなく、全く反対で、自我の強い人は信念が無いのである。
彼女のような人はどこにでもおり、誰でも、状況や深刻さの違いはあっても、そんな人に被害を被っているのである。
私もそうである。そんな人には、私もかなり迷惑をかけられたもので、その時は憤懣やるかたない気持ちであったし、現実的にも被害があって深刻に困っていた。
大袈裟に言えば、丁度、『忠臣蔵』の吉良上野介に対する浅野内匠頭のような気分だった。
ところが、そんな時、斎藤一人さんの『変な人が書いた成功法則』という本を読んだのだが、その本の主題が、「困ったことなんか起こるはずがない」だった。
私は、困ったことが起こるはずがないことを理解し、納得したのだが、そうすると、本当に、ちっとも困らなくなった。

彼女のような人は、1人消えても、次々に現れる。
しかし、今は、「いくらでも来なさい。まとめて面倒見ちゃる」の心境である。
何といっても、それが宿命なら、真っ直ぐ胸張って受け止めるだけである。
これは、私の好きな歌である、『愛あるかぎり』の中の一節「真っ直ぐ胸張って、受け止めてやるさ、俺の宿命」が私のポリシーになっていることもある。
この歌は、アニメ『新破裏拳ポリマー』のエンデイング曲で、作詞は、昨年、創立50周年を迎えた、このアニメ作品の制作会社であるタツノコプロの当時の社長、九里一平氏による。
この歌は、演奏も一流で、ボーカルの杉山真理さんの中性的な美声が素晴らしい(いまだ、杉山さんが男か女か私は分からない)。
ちょっと話が剃れたが、絶えることなく現れるそのような人がいたら、今は念仏を唱えるだけである。
自分ではどうにもできないが、仏も菩薩も神も竜も、そして、魔王すら護ってくれるからである。
繰り返すが、そんな人は、不幸なことに、知恵と力に欠け、物質しか信じることができず、惨めな苦しい状態にあるのである。
そんな人を嫌うべき道理はなく、さりとて、自在に救ってやる力も無いのであるが、私が神になった暁には救ってやることもできるだろう。
スーフィー(イスラム教神秘主義)にこんなことわざがある。
「彼は神を探しに行って、神になって戻ってきた」
求めよ、さらば、与えられんという。聖霊を求めれば聖霊を得られるのであり、神を求めれば、神になるのである。









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アンデルセンの童話が生まれた秘密

20世紀最大の詩人と言われたアイルランドの詩人・劇作家のW.B.イェイツは「神秘を信じない者は想像力に欠けている」と言ったが、私は、同じことなのだろうが、「神秘を受け入れない者は心が鈍い」のだと思う。
そして、人は粗雑なものにばなかり関心を向けると、心が鈍くなって、精妙なことが分からなくなる。つまり、神秘を信じなくなるのだ。

こんなことがあった。
私が小学1年生の時、学校から1人で帰宅している途中に、不意に雨が降ってきた。私は傘などは持っておらず、慌てたというより悲しい気持ちになった。何か嫌なことがあった時に、加えて悪いことが起こると、そんな気分にもなる。
その時、見知らぬ1人のお姉さんがどこからともなく現れて、「こちらに来なさい」といって、持っていた傘に入れてくれた。
当時は、大人のお姉さんに見えたが、おそらく小学6年生くらいだ。なんとも物静かな落ち着いたお姉さんだった。高価なというのではないが、とてもきちんとした服を着ていて、およそ、学校に行くのに着るものではなく、やや古風な感じすらした。実際、彼女はランドセルなどは背負っていなかった。
その後、数年にわたって、何度か彼女を見た。
私が家から外に出た時、すっと立っているのだった。
私は、精神的に落ち着きのない子で、せかせかしていていた。それに、友達がいなくて、いつも1人遊びをしていたので、自然、自分の手元ばかり見る癖があった。それで、彼女の方をあまり見なかったのだが、たまに彼女を見ると、、彼女は黙って静かに私を見ていた。

萩尾望都さんの漫画で、ある男性が、少年の時、やはり、時々、見知らぬ女性を見た話をするのだが、彼は、それは自分の死んだ母親の幽霊だったと言った。
幽霊とは、死者がこの世に残したアストラルボディの残留物・・・早い話が、残りかすのようなもので、本人そのものではない。
しかし、私が見たのは、そのような存在ではなかった。

私が高校3年生の時、午後4時頃、帰宅するために駅のプラットホームに立っていると、線路を挟んだ向こうのホームに、1人の11歳くらいの少女が立っていて、こっちを見ていた。私は、時間が停止して風景が変わるのを感じた。彼女だった。やはり、とてもきちんとした服を着て、靴もそうだと気が付いた。
長い美しい髪をした、ノーブル(高貴)な顔立ちの、信じられないほどの美少女だった。
私は、状況を受け入れていて、自然に彼女とテレパシーで会話をした。
その時、彼女が言ったことが、彼女が天使であることを証明していた。
人間には言えないことだからだ。
彼女はこう言ったのだ。
「あなたにはもう逢えないが、いつでも共にいる」
人間の観念では全く矛盾した言葉だ。
イエスは、人々と別れる時に、ただ、「いつでもあなた達と共にいる」と言った。
しかし、それは、人々を混乱させないためにそう言ったのであり、本当は、彼女と同じように言うべきだったのかもしれない。
あえて説明するなら、自我が消滅した時に、私達がいつも一体だということが分かるでしょうという意味だ。
だから、彼女は、自我としての私には逢えないが、真我の私ともいつも一緒にあるのだ。
子供がよく天使を見るのは、まだ自我が確立しておらず、それが希薄だからだ。
いい年をして自我が確立していない者を幼稚だと言うが、それは違う。彼らは、幼稚な自我を確立しているのだ。
幼稚な自我は柔らかく湿っている。しかし、鍛えられた自我は、硬く渇いているので、何かのきっかけで火が付けば、簡単に燃えて消えてしまう。だが、鍛えられていない幼い自我ほど、しつこく、なかなか消えない。だから、メルヘンチックな人が必ずしも天使に逢える訳ではない。

アンデルセンは、イタリアを旅行していた時、ペストゥームのギリシャ神殿で、石段に座った、黒髪に青いスミレの花を差した盲目の少女に逢う。
彼女はほとんど子供だったが、あまりに美しく、アンデルセンは美の化身か生ける彫像とまで言っている。
彼女は貧しく、ボロをまとっていた。
しかし、アンデルセンは施しを与えるのを忘れた。いや、与える気が起きなかったのだ。
そのことについて、ちょっと説明させていただく。
アンデルセンは、小説『即興詩人』の中で、その少女をモデルにした、ララという名の、やはり貧しい盲目の美少女を登場させている。
森鴎外の格調高い文語訳には、ララは、「11歳より多くはなし」とある。
アンデルセンは自らを投影した主人公アントニオには、自分の時とは違い、彼女に銀貨を施させる。しかし、アントニオが彼女の額にキスをすると、彼女は怯えて飛び出して行ってしまう。
アンデルセンは暗に、あのイタリアの少女に、施しを与えたり触れるべきでないことを述べたのだろう。
なぜなら、あの少女は天使だからだ。
アンデルセンは、彼女によって、美の世界からの天啓を得たと述べている。
その後、アンデルセンが至高の童話を書けたのは、実に、そのおかげであるのだ。
アンデルセンの作品には、天使が、そして、彼女を通して神が関わっているのである。









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一円もかからない王様になる方法

企業の中で出世するのは優秀さとは何の関係もない。
だが、信用の無い人間が出世することも全くない。
そして、陰口を言う人間が信用されることは絶対にないのだ。
陰口とは、本人のいない場所で言う悪口である。ひょっとしたら、言っている者は、「いや、陰口ではなく批判だ」と言うかもしれないが、実名のFacebookで公開できないような批判は例外なく陰口である。また、声を落として(ひそひそ声で)言わなければならないような悪口は全て陰口である。
金持ちになるには、信用が絶対に必要だ。
だから、金持ちになりたければ、陰口を絶対に言わず、約束は、どんな小さな約束でも必ず守ることだ。
尚、今の時代、匿名電子掲示板や匿名ブログでの誰かの悪口も全て陰口である。
ネット上で誰かの悪口を書く者が金持ちになることはもちろん、人並の収入を得ることはない。
物質的に多少でも恵まれたいなら、一切の陰口は本日ただいまより、絶対にしないことを誓わなければならない。
さらに言うなら、心の中で言う誰かの悪口も(もちろん、自分では批判のつもりでも)、それもまた陰口なのだ。
しかも、心の中での陰口は、恨み、憎しみ、嫌悪、妬みになる。
それは、経済的にはもちろん、心身両方の健康を必ず害う。
口での(ネットの書き込みを含む)陰口は恐ろしいが、心での陰口はげに(実に)恐ろしいのである。
まあ、口で陰口を叩く連中といいうのは、心の中ではもっと陰口を叩いているのである。
口での陰口は、一応は、音としてしか伝わらないが(ネットの書き込みであれば、その閲覧)、心での陰口が伝わる速さはFacebookどころではない。その1億倍と思ってもらえば良い。その恐るべき速さ、確実さで、陰口をする者の信用が失われていくのだ。

陰口は絶対に言わないことだ(書かないことだ)。
それは、他者の批判を決してしないということだ。
「批判は良いじゃないか?」などと言ってはならない。
行為の批判なら良い。殺人や暴力は批判されるべきだ。しかし行為者を批判してはならない。
イエスは言ったではないか。
「彼らは、自分が何をしているか分かっていないのです」
どんな悪行であろうが、やっている本人は、救世主のごとき素晴らしい行いをしていると思っているか、少なくとも、自分にはそれが許されると思っているのだ。
それは、少しでも自分を客観視できれば、単純にして明晰なことではないか?
我々は皆、自分のやっていることなんて、決して分かってやしないのだ。
自分でも何をしているか分からないことで、批判されたくないだろう。
ならば、他人に対してそうするのだ。どんな人間も決して批判、非難してはならない。見下してはならない。蔑んではならない。
それができれば、あなたは嫌でも金持ちになるだろうし、神によって王にされるだろう。
そのために何をすれば良いのかというと、意外に思えるかもしれないが、念仏でも唱えることだ。
法然の『選択本願念仏集』や、親鸞の『現世利益和讃』を読めば、それが最も確実なことであると分かるだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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