ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2013年07月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

離れた心は二度と戻らない

私の身近でも、50代とか60代になって離婚する夫婦や、離婚や別居はしなくても、家に中で全く顔を合わせないという夫婦がいる。
以前の私は、「いい年になって、なんて馬鹿なんだろう」と思っていたのだが、それは他人の勝手な言い分であり、当人らにしてみれば、やはりそうするしかないのだ。
だから、彼らを理屈で批判したり、考え直すよう説得しようなどというのは、全く余計なお世話というものかもしれない。まあ、「1億円やるから仲良くしろ」とでも言えば、何がしかの、効果はあるかもしれないが、それすら小さなものだ。単に口出しするだけなら、何の意味もないので、最初から黙っていることだ。
年配者や夫婦でなくても、若い恋人同士、あるいは、男女でなくても、それまでずっと仲良くしていた親友同士が、なぜか、口も利かなくなったり、会おうとしなくなることがある。そして、それは、両方が相手を避けるといった場合もあるだろうが、どちらか一方がそうするといったことも多いかもしれない。

私は、夏になればよく思い出す、ZARDの『瞳そらさないで』という歌で、それまできっと仲が良かった恋人同士だったのが、女の子の方が、理由は分からないが、静かに彼を避けるようになってしまったことを、叙情的ながら、どこか身近な現実のように歌われていたと思う。
なんとなく、詩を書いた坂井泉水さん自身の経験かなとか思ってしまう人は多いだろう。それを、坂井さんが男性の立場から歌うことで、心の嫌な色をすっ飛ばしてしまって、優しく表現できているように思うのである。
この歌で、女の子が彼に距離を置きたがった理由は、「今のままでは視野が狭くなる」「何かが終ってしまうそう」といった、まさに坂井さんに似合うような、前向き・・・というか、人生の深い意味を見つめようとする心情を感じるのだが、この言い方だって、きっと、彼に気を使って工夫した言葉だと思うのである。
勝手な想像を書いて悪かったが、いずれにしろ、人は、それまで親しかったのであるほど、一度、心が離れ始めたら、二度と元に戻るものではない。

そして、別れようとしているのが一方で、もう一方は別れを望まない場合であっても、共に傷付くのだ。
では、そんな時、どうすれば良いのだろう?
なるようにしかならない。だが、なるようにはなる。
それぞれが、どうなって欲しいかという願いがあるだろうが、思うようにはいかない。人は、どんな時も、状況をコントロールすることなどできないのだ。
ならば、流れに任せてしまうしかない。
大切なことは、自分の心が巻き込まれないことだ。どんな結果になろうと、それを受け入れ、なるべく心を静かにすることだ。
しかし、人には、それができない。
そんな時に、唱えるのが念仏であり、特別な祈りの言葉であり、神の高貴な名なのだ。
どんな結末に至るかは分からないし、ほとんどの場合は、心が願ったようにはならない。
だが、それを受け入れるなら、神仏と一つになる方に進んだということなのである。
そして、そのために、あらゆる出来事は起こるのである。









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学校にコンピュータープログラミング教育を導入したら日本はもう終り

中学校で、コンピュータープログラミングが授業に取り入れられたらしい。
それでどういうことになるだろうか?
美術や音楽を学校で教えることにより、生涯、絵が描けず、歌を歌えず、楽器を演奏できず、これらのことを自分で行うことに、救いようの無い抵抗や拒否感を持つ人だらけになった。
他のことで極めて優秀な人が、「僕は絵を描くのは全然駄目なんですよ」とか、「私は全く音痴で、歌うことなんてとてもできません」という、異常なことを平気で言うのである。
絵を描く楽しさ、楽器を演奏する楽しさという貴重で大切なことを、学校で根こそぎ奪われてしまったのだ。
音楽や美術の授業のやり方は、ほとんど全て教師に任せられている。それで、独善、偏見、脅迫がまかり通り、子供達が音楽や美術を楽しみ、生命の糧とする能力を、戦争中のアメリカの空襲さながらに、完膚なきまでに叩き壊されたのだ。自我があまりに強い教師によってだ。
哀れ子供達。
そして、コンピュータープログラミングだって、中学校で教えることになって、全く同じことになることは間違いないだろう。

こんな話を目にしたことがある。
「子供達にオブジェクト指向の考え方を教えるべき」
こんなことをぬかすヤツに言ってやろう。
「貴様、オブジェクト指向を5分で誰にでも分かるように説明してみろ」
私が目の前で説明が終るまで、30分でも1時間でも聞いてやる。そして、大きな声で言ってやろう。
「さっぱり分からん」
とね。
そんなものを子供達に教えたら、子供達の頭を混乱させ、子供達に、プログラミングに対する救いようのない拒絶を与えるのである。
私は、純粋なオブジェクト指向言語であるSmalltalkを何年も使ってみたが、オブジェクト指向が全く分からなかった。
私の頭が悪いことは確かだが、それでも微積分なら誰にも教わらなくても分かったのだ。
ところで、私がこれまで聞いた中で、最も好きなオブジェクト指向の概念は、「単なるメモリ保護技術」である。
しかし、それは、何年にも渡って、生活を賭けてソフト開発をやったから納得いったことなのである。
私は、それから、天才的な技術者であるだけでなく、コンピューター技術を誰よりも分かり易く説明する才能を持ったピーター・ノートンが書いた、一般にはオブジェクト指向とは遠いプログラミング言語と考えられているVisualBasic(VisualBasic6.0)によるオブジェクト指向プログラミングのテキストを読んで、やっと、オブジェクト指向を4割ほど理解できたのである。
ただの教師にオブジェクト指向を説明させたら、全くチグハグで、的外れで、曖昧模糊とした説明になるしかないだろう。言ってる本人がさっぱり分かっていないのだ。
そんなことを子供達に教えたら、子供達はオブジェクト指向を、地底人のグルメ料理よりも変なものだと思うようになるだろう。

とはいえ、子供達にコンピュータプログラミングを教えることは悪いことではない。
アラン・ケイは、ずっと以前から、Squeak(スクイーク)という、Smalltalk言語の1つを使って、子供達にプログラミング教育を行っている。
しかし、特殊な形態を持ち、特殊な操作を必要とするSqueakは、面倒過ぎて、子供どころか、コンピュータープログラミングに興味のある若者や大人にも不向きだ。
Smalltalk言語も使ってみた上で言うのだが、決して、普及を目指す人達が言うほど簡単ではなく、むしろ難しい。
今日、産業界では一般的なC系の言語・・・C、C++、Objective-C、Java、Perl、PHP、Ruby、Python 等も、書き方1つとっても癖があって、慣れたとしても抵抗があるものだ。これらも、教育用には適さないと思う。
かつては教育用言語と言われたPascalについて言えば、美しくはあると思うが、これが教育用と言うのは、ピアノを本格的に習う者にとってバイエルが教育用であると言うのと同じで、一般的な音楽教育にバイエルが適さないように、一般的なプログラミング教育にはPascalはやはり難し過ぎる。

LOGO言語は教育用に適したものの1つだが、良いLOGO言語のソフトがない。有償のものなら良いものがあるのかもしれないが、高過ぎる。
そもそも、教育用の良いプログラミング言語のソフトが無料で存在するよう、政府が形を整えてもいないところも、これが学校教育に適さない証拠の1つと言えると思う。政府のこの件の関係者は、自分では何も分からずに、「子供にプログラミング教育を」と言っているのだろう。
では、教育用として最近流行のScratchはどうだろう?
駄目だと思う。あれは、コンピュータプログラミングを教えることには全く適さない。そもそも、コンピュータープログラミングでいきなりグラフィックや画像を扱う必要はない。
グラフィイックが動く楽しさと、コンピュータープログラミングの楽しさは全く違うのだ。
自転車に乗る楽しさを味わう前に、自転車の形やブランド、個々のパーツに凝る様なものである。

教育用には、純粋にコンピュータープログラミングに取り組めるものが良い。
ジョン・ケメニーとトーマス・カーツが創ったBASIC言語は、文系大学生のプログラミング教育のためのものだったが、子供のプログラミング教育に最も向いていると思う。
余計な制約や押し付けが最も少なく、プログラミングの本質を単純に理解できるからだ。
ただ、やはり良いBASICの処理系(ソフト)がない。
現在のVisualBasicはあくまで産業用のもので、教育用には複雑過ぎる。
Excelなどに付いているVBA(Visual Basic for Application)くらいならまだ良いが、これの提供者であるマイクロソフトは、これをもう古いものとしたいのだろうと思う。
マイクロソフトが数年前に発表した無料のSmallBasicは、その後さっぱり流行らず、日本での普及は行われず(日本語サイトもいまだ無い)、マイクロソフトも、この言語の更新を長い間行っておらず、Windows8にも対応させていない。教育用に良いと思うのだが、どうもそんなものは流行らないらしい。
現在は、無料の十進BASICが一番と思うが、これがオープンソースになればなあと思う。
十進BASICのホームページ
だが、本当に本質的な意味では、Lisp言語(の中のScheme )が、教育用に最も好ましいプログラミング言語であると思う。ただし、現在は、総合的な意味で、人類の持つコンピューターの構造自体がLisp言語に向いていないのである。だから、Lisp言語は、いまのところ、コンピューターにおける最も高貴な趣味と言えるかもしれない。









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晴れた気分になる方法

私が1日1食の完全な菜食主義者だからといって、1日3食食べている人や、肉食の人を、自分より劣るなどとは夢にも思っていない。また、そんな人達が、食事の回数を減らすべきだとか、肉食をやめるべきだとも思わない。
ただ、これまでは、あまりに大食だったり、電車の中とか駅のホームなど、所構わず食べているような人を非難の目で見ていた。しかし、もうそれもやめる。もし、今後、そんな人達を見て、嫌な感情が起これば、ただ、念仏を唱えさせていただくことにする。

ところで、逆に、私が1日1食で、朝に木の実とビスケットを少々食べるだけだと聞くと、私を馬鹿にしたり笑ったりする人が多い。特に、自分の方が私よりずっと優れた人間だと思っている人は、ほとんどがそうなのではないかと思う。確かに、彼らの方が私より立派で有用な人間であるというのは確かであるから、私が能力のことで蔑まれるのは仕方がないが、食事のことで見下されるのは、できればやめて欲しいし、私はつい、憤りを感じたり、やるせない気持ちになっていた。しかし、やはり、これからは、そんな時も、ただ、念仏を唱えさせていただこう。

人は、成功して金持ちになると、会長、社長、CEO、理事長、総長、先生等と呼ばれることを好む。
しかし、昔の話であるが、自己啓発分野で世界的な成功を収めたポール・マイヤーは、職業記入欄に書き込む際、必ず「ザ・セールスマン」と書いたという。
セールスマンは蔑まれることも多いし、そうでなくても、あまり高くは扱われない職業かもしれない。私もセールスマンだったが、いつも犬のように扱われたものだ。そんな時には、とても悔しい思いをしたり、涙を流したこともあったが、やっぱり、仏様や菩薩様に、念仏を唱えさせていただけば良かったなあと思う。

私のようなソフトウェア開発技術者の世界では、上位者をシステムエンジニアと呼び、下っ端をプログラマーと呼ぶことがよくあるものだ。システムエンジニアと呼ばれてふんぞり返り、プログラマーと呼ばれる者を軽んじ、アゴで使うのだ。
だが、人類の歴史の中でも屈指のソフトウェア開発者であるコンピュータ科学者アラン・ケイは、これも以前のことかもしれないが、「ザ・プログラマー」と名乗っていたのである。
尚、プログラマーよりもっと軽視されるのが、コーダーと呼ばれる者だ。人に指図されるままにプログラムコードを書く者のことである。だが、考えてみれば、私も、ただ、顧客に言われるようなプログラムを書いているのであり、また、私が書いているのではなく、書かせていただいているのだ。では、やはり私は自分をコーダーと呼ぼう。
こう考えると、実に心が軽く、こだわりがなくなって、晴れた気分なのである。









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犯罪者こそ鏡に映った私の姿

私の親戚に警察官の男がいるが、彼がまだ若い巡査だった時、下着泥棒を逮捕し、その犯人の部屋から、盗んだ大量の女性用下着を押収したことがあった。後で警官の彼が私に、「気持ちは分からんでもないが」と半分冗談で言ったが、つまり、半分は本音であろう。
この警官の男は、子供の頃から親との縁が薄くて苦しいことが多かったが、前向きに努力し、勉強はイマイチだったが、スポーツに励んで、レスリングの名門と言われる大学でレスリング部の主将を務めた。人間的にも実に立派な男と思う。そんな彼が、犯罪者を身近で見た上で、「俺は犯罪者と同じ」と思ったのである。
私などは、テレビで犯罪者を見るたびに、いつも、「あれは私だ」と思うのである。
僧ではないが、ある熱心な念仏の行者は、監獄囚を見るといつも拝んでいたという。私はその気持ちが分かるように思うのだ。
彼は言った。「あの囚人は、私の代わりに悪いことをしたのだ。おかげで、私はそんなことをせずに済んでいる。かたじけないことだ」と。
我々にできることといえば、犯罪者と自分の心の穢れが祓われることを神仏に頼み、また、被害者や家族に神仏が恵みを与えて下さることを頼んで念仏をするだけである。

少し前に、NHKのEテレで、ある昔の時代劇が放送されていたが、敬愛する丹波哲郎さんの主演だったので、録画して熱心に見た。
丹波さん演じる天下一の剣の達人は、織田信長の御前での勝負を繰り返し、連戦連勝で、「天下一」の名誉を受けていたが、心はいつもプレッシャーに苦しんでいた。
だが、愛刀である名刀を抜くと、その刀が、「あなたは日本一です」と囁きかけてきて、名人は心を奮い起こし、次の試合に挑んだ。
そんなある日、この名人と門下の者が湯治場に行くと、そこで、名人は、自分の偽物に会う。
偽物は、名人の名を語って、高い金を取って面談したり、一筆書いたものを売っていた。それだけでなく、美しい姫様まで誘惑して弄ぶなどやりたい放題であった。
名人の門弟達が、「こらしめてやりましょう!」といきり立つが、名人は、「捨ておけ」と言う。門弟達は納得しないが、名人は手出しを許さない。
名人はこう考えていたのだ。
「俺だってあいつのようなことをしたいのだ。しかし、それができない俺のために、あいつが代わりにやってくれているのだ。いわば、あいつは俺の分身のようなものだ」
名人は、天下に賞賛される自分も、所詮、あの下種野郎と等しいことが心の奥では分かっていたのだろう。
今の時代にはない、素晴らしい時代劇であると思う。
名人は、ある時、若き日の宮本武蔵と私闘で戦って破れ、愛刀を川に投げ捨てる。彼は、自我の化身であった刀を遂に捨てて、自分を解放したのではないかと思う。

初めに述べたように、犯罪者を見たら、彼は自分と同じなのだと、ただ思うだけでなく、それが事実であると分かるようでありたいものである。
自分は、そんな下等な人間とは全く違うのだという了見違いが、世界の悲惨の原因である。
裁判人裁判制度で裁判員になり、死刑の判断を出すような時に、誰もが恐怖し、そして、理解するのである。自分だって、星の巡り合わせがそうであったら、同じことをやったかもしれない、いや、必ずやったのだということを。そして、仮に死刑の判断をしたとしても、敬虔な気持ちになり、犯罪者と共に自分を憐れむのだ。
また、犯罪者ではなくても、世の中にいくらでもいる、自分さえ良ければ良いという自己中心的な人間、自己の快楽のためなら誰がどれほど苦しんでも平気な人間、欲望を抑えることができず、我慢も慎みもできない下らない劣悪な人間・・・それらは全て自分なのだ。
今は運良く本性を隠すことができているかもしれないが、一皮剥けば、自分も全く同じなのだ。
しかし、私は、犯罪者やその家族、それに被害者、そして、世の中で、運が悪いだけで、私より蔑み疎まれる者達のために何かしてやれる訳ではない。私にはそんな力は全くない。ただ、念仏を唱えさせていただくことだけができるだけである。

親鸞は、自分の親の追善供養のために念仏をしたことは一度もないと言ったそうだ。
これは、自分が念仏を唱えた功徳を、親のために振り向けて親を極楽浄土に行かせてやるようなことはできないのだという意味だ。
それでは、自分の力で何かできることになってしまうが、そんな力は、親鸞聖人といえども無いのだ。
だから、自分のことも誰のことも、念仏をして、仏様に任せてしまうことだ。
任せる相手は阿弥陀如来であるが、観世音菩薩、勢至菩薩、あるいは、弥勒菩薩でも良いのである。
あるいは、イエスや釈迦でも良いし、自分の信じる神で良いのである。
自分には、何の力もないが、自分より高い存在があることを認めること。それを尊崇して、任せてしまうことができれば良いのだと思う。
「それでは、自分は何もしなくて良いのか?」と言われるなら、それは神仏次第である。何かさせていただくことになるとしても、それは、自分がするのではなく、させていただくのである。









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老シンガーの涙の訳

アメリカのマーブル教会の牧師だったノーマン.V.ピールや、日本の大実業家である斎藤一人さんが、会う人ごとに「祈りの砲撃」を浴びせることを薦めていることをご存知の方も多いかもしれない。つまり、誰に会っても、「この人に良いことが雪崩のように押し寄せますように」と祈るのである。そうすれば、自分にどんどん恵みがやって来るというものである。
彼らほどの人達が言うのだから、本当なのだろう。ただし、彼らや、彼らのように、優れた精神を持った人であればだと思う。
私のように、人嫌いだという心の歪んだ者がそれをやれば、心はさらに捻じ曲がり、無理にやると分裂症に陥るだろう。
「そんなことではいけない」と言われても、自分ではどうにもならない。
「たゆまずやっていれば、やがて心が澄んで、気持ちよくできるようになる」と言われても、その前に精力が枯渇して死んでしまうだろう。
優れた人には、蔑み疎まれるべき劣った人間のことは分からないのかもしれないと思う。

そして、こんなことを思い出す。
アメリカの伝説的な男性歌手であったサミー・デイヴィスJr.の60歳の誕生日を祝い、多くのトップミュージシャン達が集まって歌やダンスを披露したことがあった。
その中で、当時まだ20代だったスーパースター、マイケル・ジャクソンが登場し、デイヴィスjr.への讃歌を情熱的に歌い上げた。これだけでも十分だった。
しかし、最後、マイケルは股間に手をやり、あの、「シー!」と声を発するパフォーマンスで決めた。
その時、デイヴィスjr.は涙をとめどなく流し、顔をくしゃくしゃにして感激していたのだ。
マイケルは、別の時に、ある有名な女性アナウンサーに、「PTAから、あのポースは下品だって言われているのですが、それに関してどう思いますか?」と質問されたことがあったが、マイケルはこんな答えをしたと思う。
「僕は歌っている時は楽器になるんだ。どこに手がいってるかなんて分からないよ」
特に、あのポーズをする時のマイケルは、エクスタシー(忘我)の状態であり、無になりきっているのだろう。
つまり、あれは、マイケルが自分でやっているんじゃない。芸術の神にそれをさせられているのだ。
デイヴィスjr.は、マイケルが自分を全部捧げることで、デイヴィスjr.に神の祝福がもたらされたことが分かるので、かくも感激したのであると思う。

マイケルは、言葉で「デイヴィスに神の祝福を!」と言うより、はるかに強烈な眩しい神の祝福の法雨を降らせたのだ。
それは、マイケルが自分でやったのではない。マイケルは、神の道具になりきり、神がデイヴィスjrを祝福するに任せたのだ。

これは、「南無阿弥陀仏」の念仏と全く同じなのである。それは、親鸞がはっきり述べていると思う。
念仏は自分で唱えるのではない。阿弥陀如来に唱えさせていただくものなのだ。
自分が、誰かに、阿弥陀如来の恵みを与えるのではない。人間にそんな力はない。
だから、阿弥陀如来に完全にお任せして、誰かに恵みを与えていただくのだ。

私は、嫌いな人に対し、「あなたに良いことが雪崩のように押し寄せますように」などといった偽善的なことを考えると、たちまち疲れきり、沈鬱ですさんだ気分にすらなる。
しかし、唱えさせていただいているという気持ちで、念仏を唱えるなら、どんな人のためであっても、全く心に陰りはない。
最近は、私はよく、「南無阿弥陀仏」の念仏を取り上げるが、無論、「南無観世音菩薩」でも、「南無弥勒菩薩」、あるいは、「南無弥勒仏」でも良いのである。

念仏を唱えれば、仏、菩薩、神々、竜の王とその配下の竜、さらには、魔王すら念仏者を護るのである。
まして、念仏を唱えさせていただいていると思っている者、そのような気持ちで、他者のために念仏を唱える者が護られないはずがないのである。









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