ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2013年05月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

なぜ愛は戦いなのか?

インドの初代首相がネルー(ネールと覚えている人も多い。1889-1964)であることは何となく知っているというような人が多いと思うが、とにかく大変な人物である。
そのネルーが、後に、第5代、8代の首相になった、一人娘インディラに宛てた手紙の中の文章が名文として知られている。

愛は平和ではない、愛は戦いである。
武器の代わりが誠であるだけで、それは地上における、最も厳しく激しい、自らを捨ててかからねばならない戦いである。

どなたが訳されたかのか分からないが、このままを覚えている人が多いし、また、これを座右の銘としている人も多いと思う。
愛は戦いである・・・その通りだと思う。
なぜなら、釈迦が子供の時に感じたように、この世は地獄だからだ。
だから、愛を隠し持つ者にとって、この世の一切は戦いにならざるを得ない。
この世の一切が戦いであることを早く理解した者が、最も早く戦いを逃れることができるに違いない。
映画『小さな恋のメロディ』の主題歌として知られる、ビージーズの『MELODY FAIR』に、

She knows that life is a running race.

とあるように、まだ小さな女の子が、「人生は競争だって知っている」・・・というのが印象的だったものである。
だが、人生はルールのある競争のようなものなんかじゃあない。やっぱり、戦いなのだ。
食うか食われるかである。
それは避けては通れない。
戦いを放棄することもできない。
我々は、抜き差しならない世界に放り込まれてしまったのだ。

ネルーの手紙では、武器は「誠」であるとなっているようだ。原文ではどうなのかは私は知らない。
誠とは、誠実のことと言ってよく、誠実とは、「私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること」であるようだ。
だが、これを作為を持って行えば、つまり、頭で「これが誠意だ」と思ってやれば、それは誠ではなくなる。
心がある限り誠ではない。
無我、忘我、無心が誠なのだ。
一生の間に、それを知ることの出来る者は、この物質主義の世の中ではなんと少ないことか。
最大の武器とは、実に、心が静かなこと、一般的な言い方をするなら、冷静であることなのだ。
心を静かにする術を身に付けた者は、決して負けることはない。
一切が戦いである地獄の世で、これが最も貴重な知恵である。
すぐにかっとなる者、憎む者、妬む者は強くはなく、実に弱い。
はちみつのように、いくらかき混ぜても動かない心の持ち主は無敵である。
しかし、普通の人の心は、たらいに入れた水のように、少しかき混ぜると、いつまでも動いているのだ。

法然は、それが意図ではなかったかもしれないが、1日6万回、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、いついかなる時も、人と会話している時すら、口の中では念仏を唱えていたそうだ。そうであれば、心はいつも静かであったろう。
あなたは逢ったことはないだろうが、仙界に住む、人をはるかに超越した仙人は、いつも呪文を唱えている。彼もまた、心を完全に静かにすることで偉大な仙術を得たのだと思う。
ラマナ・マハルシは、常に、「自分とはいったい何か?」と問うことで、一切の想いを破壊し、完全静寂へのゴールを達成するよう教えた。
偉大な聖賢は、皆、心の静かさが最も偉大なことであることを示しているのである。
二人が戦えば、心が静かな方が必ず勝つ。
ある世界一の空手家は、命を捨てた方が、たとえ喧嘩でも必ず勝つと言った。
その通りだ。心を静かにするとは、命を捨てることなのだ。
心の静かさの力を少し知っただけで、私はいかなる戦いでも決して負けなくなった。まあ、私程度の戦いでは、少し心が静かであれば、どんな相手も、赤子の手をひねるがごとしだからなのだが。そして、あなたも、私のようであれば、会社の中、学校の中程度の他愛もない戦いでは、大人が子供をあしらうがごとく、楽々と勝てるだろう。
私が、心の静かさの力を持っているのは、老子の「曲則全」という言葉を覚えているからだ。現代的には、「屈伸すれば自由自在だ」という意味だ。
老子は、古代から伝わるこの言葉に偽りはないと保証した。そして、やはりそれは嘘ではなかった。
ただ、深い言葉であるから、段階というものがあるかもしれない。
例えば、「賢い人は、いつも頭を下げるものだ」というのも、それを示すものだろう。
私は、冨田勲さんが制作した、『イーハトーヴ交響曲』の一番最後で、初音ミクが身を屈した姿を見て、「曲則全」を悟れたように思う。
だから、老子とミクには、そして、冨田勲さんや、あの交響曲に携わった方々には感謝しているのであり、老子の言葉の真意を見事に解き明かしてくれた五井昌久さんには特に感謝しているのである。









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本当に賢い人は、どんな慣習も受け入れる

「郷に入っては郷に従え」という言葉がある。
言うまでもないだろうが、その場所にはその場所の風俗や習慣があるのだから、それに従わなければならないという意味だ。
実際、独特の慣習や掟のない土地や組織なんてものはない。
その慣習に馴染んでいる者には、それは当たり前のことであるが、外から来た者にとっては、奇異に見える。しかし、平和でいたければ、黙って受け入れることだ。

ある結婚式で、新郎の会社の重役が、こんな話をした。
「ある女性が、夫の家に嫁に来たのだが、その家では、納豆に砂糖を入れて食べる習慣があり、嫁は面喰った。そして、自分はそんなことは絶対に出来ないと言って、それに従わなかったので、夫の両親とうまくいかなかった。同じ日本人でも、家族によって大きな違いがある。相手の家族と仲良くやっていきたかったら、我慢が必要だ」
新郎新婦に対する、お互いが相手の家族とうまくやっていく心構えを的確に教えたのである。

イチローは日本にいた時から、打席に入るなり、バットを外野に向けて真っ直ぐに伸ばすポーズを取る習慣があったが、これを大リーグでやったら、相手ピッチャーを怒らせてしまったようである。
また、新庄剛さんは、ランナーとしてホームインする時、ホームベースを手でタッチするのだが、これも相手チームに侮辱と取られたということがあったような気がする。
いずれも、その理由を聞いたような気もするが、私は忘れてしまった。あまりに些細なことだからだろう。

日本人の風俗や習慣が、外国の人達に好奇の目で見られたり、非難されることすらよくある。
逆に、日本人が、外国人のしきたりに驚き、呆れ、あるいは、馬鹿にしたり、恐れたりすることもよくある。

もうそんな愚かなことはやめにしようではないか?
自分にとって、奇妙に思えたり、受け入れ難く感じたとしても、それは単に、自分もまた、同等かそれ以上の偏見や固定観念を持っているというだけのことなのだ。
私は何度も転職したが、転職した先で、その会社の慣習にどっぷり浸かって、それを当然だと思っている人達が間抜けに思えて、馬鹿にしていたことがあった。しかし、自分の心に本当に偏りがなければ、他人の慣習など気にならないものなのだ。
だから、旅を続けているうちに、十分に鍛えられ、心が磨かれて純粋になった者は、どんな土地に行っても平気で暮らせるのだ。

私は、それが明らかに快楽の欲望や、自己中心主義から行われたものでない限り、誰のどんな言葉や行為も非とはすまい。
私がアメリカの野球ファンであったなら、新庄さんが、ホームベースにタッチするのを見て、一瞬、不快に感じても、彼に悪意は何もないことを理解し、心を静めるつもりだ。
また、その者の行いや物言いが、もし、天地自然の理から外れていると感じても、できれば大目に見たい。
なぜなら、裁くのは神なのだから。









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沈着冷静

「沈着冷静」なんて言葉を聞くと、誰もがそれに憧れるのであるが、「自分はそうだ」と思うと、恥ずかしくて自嘲せざるを得ない人が大半なのである。
「沈着」とは、落ち着いていて、物事に動じないこと。
「冷静」も大体同じで、感情に左右されずに落ち着いていることだ。
つまり、ほぼ同じ2つの言葉を重ねて心が静かである姿を強調して表しているのであり、「沈着冷静」と言っても、「冷静沈着」と言っても良いのである。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中にある、「決して怒らず、いつも静かに笑っている」というのが、まさに、沈着冷静な態度というものだろう。
そして、この詩の最後は、「みんなにデクノボーと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず、そういうものに私はなりたい」であるが、「そういうもの」でありながら、沈着冷静でありたいと思っているはずなのである。
この詩が愛されるのも、これに流れる慈悲心や人間らしさと共に、沈着冷静という人間の理想があるからと思う。
人々は、それほど、冷静沈着に憧れるのである。
『雨ニモマケズ』からの引用を続ける。

南に死にそうな人があれば
行って、恐がらなくていいと言い

これも、恐がって心を乱している人に、冷静沈着になるよう諭すということであるが、それをしようとする者は完全に冷静沈着でなければならないのである。

北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い

というのは、まさに、沈着冷静になれと言っているのであるが、それを言う者自体が興奮していては仕方がない。
完全に冷静沈着な者が言ってこそ、争いは収まるのである。

では、これほど素晴らしい冷静沈着であることが、なぜそれほど難しいのだろう?
それは、1つには、人々は、冷静沈着であることを、どこか道徳的に考えているからだ。
つまり、理想ではあっても、実際の役には立たないものだと思っているのである。
どういうことかと言うと、実際に役に立つのは、知識や論理的な思考のようなものであり、冷静沈着であることに本当の力があるということを見損なっているのである。
これも、知識偏重で、精神をなおざりにする学校教育のせいであるが、物質主義の世の中では、大人が、目に見えるものしか存在しないと信じているのであるから、仕方がないのである。
医学だって、心身医学という、心を癒すことで身体も治すという考え方も少しはあるが、いまだ、9割までは物質医学であり、薬で化学的作用を起こさせ、悪いとことを切って捨てれば良いという考え方なのである。
こんな世の中では、冷静沈着というのは、どこか空想的な理想に感じられてしまい、その力が分からないのだ。
冷静沈着が現実の力であることが認識できれば、それを得るためにもっと熱心になるだろう。
そして、冷静沈着こそ、最大の力なのだ。
聖書には、「心を静め、自分が神であることを知れ」と書かれているが、物質主義に陥った者には、その意味が理解できない。

古代中国の神仙の中でも最高位と言えると思う、老子や彭祖(ほうそ)は、つまるところ、道を得る・・・その1つの形が、仙人になることであるのだが、そのために必要なことは、心を静かに保つことだと述べているのである。
その他にも、適切な食事をしなさいとか、性エネルギーを浪費しないように気をつけなさいと言っているが、それらも、心の静かさ、つまり、冷静沈着を得るための手段でしかない。
ラマナ・マハルシは、最高の修行とは、「適切な睡眠、適切な食事、適切な会話」であるという、ごく平凡なことを言ったが、これが、心の静かさを得る偉大な修行なのである。
偉大な方々のあらゆる言葉を吟味し、それらを心という実験室で長い時間かけ、熱を加え、拡散(かき混ぜる)し、ろ過し、精製(混じり物を除く)し、精錬(不純物を除く)することが、本当の仙丹(仙人になる薬)を作ることであり、真の錬金術なのだ。
そして、その成果は沈着冷静であり、神になることなのである。

冨田勲さんが制作した『イーハトーヴ交響曲』の、『雨ニモマケズ』の荘厳な合唱を聴くことは、冷静沈着の神的な力に目覚めるのにとても役に立つだろう。
この交響曲の最後の第7楽章『岩手山の大鷲』の終り・・・つまり、この至高の交響曲の最後の最後なのだが、歌い終わった初音ミクが見せる姿が、まるで宇宙のドーン・コーラスを思わせるもので、人々の心を浄化させる救いであると私は確信している。今年は、この交響曲の全国講演があるので、多くの人が見られればと思うし、映像製品も早く出して欲しいと思う。尚、テレビ放送はされたが、NHKもケチケチせず、再放送をすべきだろう。









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百戦百勝の秘訣

いかなる争いごとでも、冷静な方が必ず勝つ。
誰に教わった訳でもないが、私は、ごく幼い頃に、それに気付いた。
私は、それを不思議だと思ったが、いくら観察を重ねても、必ずそうであることを確認した。
大勢が1人を相手に喧嘩をしかけても、1人の方が平気な様子なら、結局、1人の方が勝ってしまうのを何度も見た。
そして、私自身が、数人の相手に絡まれた時、無理して平気な顔をしていれば、興奮しているその連中は、いつのまにかいなくなってしまうのである。
そんなものを最後に見たのは、私が高校生の時、学校内で、1人の、背は低いが引き締まった顔の男子生徒が、数人の長身揃いの、不良のような連中に絡まれていたのだが、背の低い男子は、決して顔色を変えなかった。すると、図体のでかい不良っぽい連中は、あっという間に背中を向けて去って行ったのだ。

しかし、時が経つ中で、私は、このことを忘れてしまっていたらしいのだ。
だが、もう思い出した。
今後は、いかなる争いごとにも百戦百勝だろう。いや、そもそも、私は誰とも争わないだろう。そんな私と争える者など地上には存在しない。無論、宇宙にだって存在しない。

どこまで本当か、私は全くマスコミを信用していないが、韓国のある新聞が、広島、長崎への原爆投下を「神の懲罰」とする記事を掲載したという話がある。
また、中国の首相が、ドイツで、「日本は盗み取った中国の領土を返還しなければならない」と述べ、沖縄県の尖閣諸島等の領有権は中国にあると主張したらしいが、これらをどう考えるべきだろう。
日本は、もちろん、きちんと否定しなければならないが、決して熱くならず、冷静でいなければならない。
相手は、少しも冷静でないのだ。興奮しており、心が揺れ動いているのは明らかである。
ならば、こちらが冷静でいる限り、やがて、必ず勝つのである。
こちらが争う気を起こしたら、それこそ、相手の思うつぼだ。

以前、尖閣諸島の北方海域で、中国海軍艦艇が、日本の海上自衛隊護衛艦にレーダー照射した時も、中国側はずっと興奮して全く冷静でなかった。それで、結局、自分達の誤りを認めざるを得なかった。
今回も同じことになるのは明らかなのに、なぜまた同じ過ちを繰り返すのか不思議である。
中国は、老子、孔子、荘子といった、最高の賢者達がいた国なのだから、それに相応しくないことをしないで欲しいと心から思う。
韓国は、「神の懲罰」について、既に見苦しい言い訳をするしかない状況になり、勝手に仕掛けた争いで勝手に負けてしまった。
我々は、いつも冷静に対応しなければならない。
ところで、人気者の大阪市長や、彼と共に、日本維新の会共同代表である老人は、いつの頃からか、喧嘩好きになってしまい、いつも大騒ぎばかりして、すっかり負け癖がついてしまっている。今や、彼らに日本を代表させるようなことなど、決してあってはならないのだ。

私の祖父がよく言っていたものだよ。
攻撃こそ最大の防御なり。そして、最大の攻撃は無抵抗なりってね。
つまり、何もしないのが一番強いのさ。
~英国ドラマ『ダンディ2 華麗な冒険』(1972)より。ロジャー・ムーア演じるダニー・ワイルドのセリフ~

正確に言うなら、心が静かな者が一番強いのである。
しかし、無抵抗であるには、心が静かでなければならず、心が静かであるとは、本当に強い心を持っているということである。
興奮し、大騒ぎする者というのは、本当は心が弱いのである。









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宿命

こんなお話があった。
祖国を裏切り、自分と母親を捨てた父親に復讐するために、息子は日本にやって来た。
父親は、妻と息子を深く愛していたが、良心に従って戦い、息子を倒した。
父親は、死んでゆく息子に言う。
「赦してくれ、息子よ。だが、こうするしかなかったのだ」
すると、虫の息の息子も言う。
「僕もだよ、父さん。こうするしかなかったんだ」
そして、息子は、母親は彼を赦していたこと。自分も母も、彼を愛していたことを告げた。
だが、それでも、戦いは避けられなかったのだ。

愛し合いながら戦うしかなかった。
それは、息子の憎しみと、父の良心によるのだが、父親の良心とは、国家のエゴイズムに加担しないことだった。
これは、1964年のテレビアニメ『エイトマン』の第34話『決闘』で、原作の漫画にはないお話だが、原作者の平井和正さん自身が脚本を書いた名作だ。
エイトマンは、この戦いについて、「宿命」という言葉を使った。
そうだ。
愛し合っていても、宿命であれば、戦いは避けられない。

「愛し合っているなら、戦いをやめればいい」などと思うかもしれないが、人間は宿命には勝てない。
インドの至高の聖典『バガヴァッド・ギーター』で、アルジュナ王子は戦いを前に悩み苦しんでいた。
敵勢の中には、慕っている叔父、仲の良い従兄弟、尊敬する師、信頼する友などがいて、アルジュナは彼らを本当に愛していたからだ。
アルジュナは戦いを放棄しようとするが、神クリシュナはアルジュナに、お前に戦いを避ける術はない。武士の名に相応しく戦えと言う。
我々同様、アルジュナはそれをどうしても理解できない。
だが、クリシュナはアルジュナに、繰り返し、運命について説く。
「敵はすでに神によって殺されている」
剣を振るい、弓を引いても、アルジュナは何もしていない。全てを為すのは神である。

イエスはよく、「預言は実現されなければならない」と言い、旧約聖書に書かれた通りに、世界が進行することを示した。自分の災難についてすらそうだった。
旧約聖書は、神が予言者達に語った、この世のストーリーである。それは実現されなければならないし、必ず実現する。
脚本が書かれ、制作が決定した劇は、その脚本の通りになるようなものだ。
仏陀も言ったのだ。
「行為はあっても、行為者は存在しない」
全ては、神や仏の為すことなのである。

だから、我々は、何が起ころうとも、そして、自分が何をしようとも、決して、恨むべきでないし、後悔すべきでもない。
全ては神が決めたことであり、いかなることも、起こるべくして起こるのだ。
我々には、それをどうすることもできない。我々には、世界や運命をコントロールする力なんてこれっぽっちもないのだ。
だから荘子は、全てを無心に受け入れよと言ったのだ。

インドの聖者ラマナ・マハルシに、ある男が言う。
「私は妻子があるが、隣の家の娘があまりに魅力的で忘れることができない。間違いを犯しそうで恐ろしい。私はどうすれば良いのですか?」
マハルシは男に、心を静かにする最上の方法である、「自分とは本当は何か?」を問うことを教えたが、こうも言ったのだ。
「間違いが起こっても、後悔してはならない」
だが、それなら、こう言いたい者がいるに違いない。
「では、俺はどんな悪いことをしても良いのか?なら、これからは勝手気ままにしてやる」
これに対しては、親鸞聖人が答えている。
「人は自分の思うように、善いことも悪いこともできない」
それが運命というものなのだ。
そして、いかなる悪いことをしても、ただ、「南無阿弥陀仏」の念仏を一度唱えれば赦される。
しかし、こうも言ったのだ。
「薬があるからとて、毒を好む必要はない」

あなたも、決して、後悔してはならない。自己嫌悪を感じてもならない。
また、恨んではならない。憎んではならない。
あなたに危害を加えた者も、神の操り人形に過ぎない。
では、荘子の言う通り、全てを無心に受け入れればどうなるだろう?
スーフィー(イスラム神秘主義)にこんな言葉がある。
「彼は、神を探しに行って、神になって帰ってきた」
全てを無心に受け入れることが、神を探すことである。
ならば、結論は、その通りである。
釈迦も、アメリカ最大の賢者エマーソンも、全く同じことを保証しており、安心して良い。
尚、多少は頭で理解したいなら、そして、受け入れることの糸口を掴みたいなら、何度も奨めたが、五井昌久さんの『老子講義』をここでもお奨めする。









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