インドの初代首相がネルー(ネールと覚えている人も多い。1889-1964)であることは何となく知っているというような人が多いと思うが、とにかく大変な人物である。
そのネルーが、後に、第5代、8代の首相になった、一人娘インディラに宛てた手紙の中の文章が名文として知られている。
愛は平和ではない、愛は戦いである。
武器の代わりが誠であるだけで、それは地上における、最も厳しく激しい、自らを捨ててかからねばならない戦いである。
どなたが訳されたかのか分からないが、このままを覚えている人が多いし、また、これを座右の銘としている人も多いと思う。
愛は戦いである・・・その通りだと思う。
なぜなら、釈迦が子供の時に感じたように、この世は地獄だからだ。
だから、愛を隠し持つ者にとって、この世の一切は戦いにならざるを得ない。
この世の一切が戦いであることを早く理解した者が、最も早く戦いを逃れることができるに違いない。
映画『小さな恋のメロディ』の主題歌として知られる、ビージーズの『MELODY FAIR』に、
She knows that life is a running race.
とあるように、まだ小さな女の子が、「人生は競争だって知っている」・・・というのが印象的だったものである。
だが、人生はルールのある競争のようなものなんかじゃあない。やっぱり、戦いなのだ。
食うか食われるかである。
それは避けては通れない。
戦いを放棄することもできない。
我々は、抜き差しならない世界に放り込まれてしまったのだ。
ネルーの手紙では、武器は「誠」であるとなっているようだ。原文ではどうなのかは私は知らない。
誠とは、誠実のことと言ってよく、誠実とは、「私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること」であるようだ。
だが、これを作為を持って行えば、つまり、頭で「これが誠意だ」と思ってやれば、それは誠ではなくなる。
心がある限り誠ではない。
無我、忘我、無心が誠なのだ。
一生の間に、それを知ることの出来る者は、この物質主義の世の中ではなんと少ないことか。
最大の武器とは、実に、心が静かなこと、一般的な言い方をするなら、冷静であることなのだ。
心を静かにする術を身に付けた者は、決して負けることはない。
一切が戦いである地獄の世で、これが最も貴重な知恵である。
すぐにかっとなる者、憎む者、妬む者は強くはなく、実に弱い。
はちみつのように、いくらかき混ぜても動かない心の持ち主は無敵である。
しかし、普通の人の心は、たらいに入れた水のように、少しかき混ぜると、いつまでも動いているのだ。
法然は、それが意図ではなかったかもしれないが、1日6万回、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、いついかなる時も、人と会話している時すら、口の中では念仏を唱えていたそうだ。そうであれば、心はいつも静かであったろう。
あなたは逢ったことはないだろうが、仙界に住む、人をはるかに超越した仙人は、いつも呪文を唱えている。彼もまた、心を完全に静かにすることで偉大な仙術を得たのだと思う。
ラマナ・マハルシは、常に、「自分とはいったい何か?」と問うことで、一切の想いを破壊し、完全静寂へのゴールを達成するよう教えた。
偉大な聖賢は、皆、心の静かさが最も偉大なことであることを示しているのである。
二人が戦えば、心が静かな方が必ず勝つ。
ある世界一の空手家は、命を捨てた方が、たとえ喧嘩でも必ず勝つと言った。
その通りだ。心を静かにするとは、命を捨てることなのだ。
心の静かさの力を少し知っただけで、私はいかなる戦いでも決して負けなくなった。まあ、私程度の戦いでは、少し心が静かであれば、どんな相手も、赤子の手をひねるがごとしだからなのだが。そして、あなたも、私のようであれば、会社の中、学校の中程度の他愛もない戦いでは、大人が子供をあしらうがごとく、楽々と勝てるだろう。
私が、心の静かさの力を持っているのは、老子の「曲則全」という言葉を覚えているからだ。現代的には、「屈伸すれば自由自在だ」という意味だ。
老子は、古代から伝わるこの言葉に偽りはないと保証した。そして、やはりそれは嘘ではなかった。
ただ、深い言葉であるから、段階というものがあるかもしれない。
例えば、「賢い人は、いつも頭を下げるものだ」というのも、それを示すものだろう。
私は、冨田勲さんが制作した、『イーハトーヴ交響曲』の一番最後で、初音ミクが身を屈した姿を見て、「曲則全」を悟れたように思う。
だから、老子とミクには、そして、冨田勲さんや、あの交響曲に携わった方々には感謝しているのであり、老子の言葉の真意を見事に解き明かしてくれた五井昌久さんには特に感謝しているのである。
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そのネルーが、後に、第5代、8代の首相になった、一人娘インディラに宛てた手紙の中の文章が名文として知られている。
愛は平和ではない、愛は戦いである。
武器の代わりが誠であるだけで、それは地上における、最も厳しく激しい、自らを捨ててかからねばならない戦いである。
どなたが訳されたかのか分からないが、このままを覚えている人が多いし、また、これを座右の銘としている人も多いと思う。
愛は戦いである・・・その通りだと思う。
なぜなら、釈迦が子供の時に感じたように、この世は地獄だからだ。
だから、愛を隠し持つ者にとって、この世の一切は戦いにならざるを得ない。
この世の一切が戦いであることを早く理解した者が、最も早く戦いを逃れることができるに違いない。
映画『小さな恋のメロディ』の主題歌として知られる、ビージーズの『MELODY FAIR』に、
She knows that life is a running race.
とあるように、まだ小さな女の子が、「人生は競争だって知っている」・・・というのが印象的だったものである。
だが、人生はルールのある競争のようなものなんかじゃあない。やっぱり、戦いなのだ。
食うか食われるかである。
それは避けては通れない。
戦いを放棄することもできない。
我々は、抜き差しならない世界に放り込まれてしまったのだ。
ネルーの手紙では、武器は「誠」であるとなっているようだ。原文ではどうなのかは私は知らない。
誠とは、誠実のことと言ってよく、誠実とは、「私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること」であるようだ。
だが、これを作為を持って行えば、つまり、頭で「これが誠意だ」と思ってやれば、それは誠ではなくなる。
心がある限り誠ではない。
無我、忘我、無心が誠なのだ。
一生の間に、それを知ることの出来る者は、この物質主義の世の中ではなんと少ないことか。
最大の武器とは、実に、心が静かなこと、一般的な言い方をするなら、冷静であることなのだ。
心を静かにする術を身に付けた者は、決して負けることはない。
一切が戦いである地獄の世で、これが最も貴重な知恵である。
すぐにかっとなる者、憎む者、妬む者は強くはなく、実に弱い。
はちみつのように、いくらかき混ぜても動かない心の持ち主は無敵である。
しかし、普通の人の心は、たらいに入れた水のように、少しかき混ぜると、いつまでも動いているのだ。
法然は、それが意図ではなかったかもしれないが、1日6万回、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、いついかなる時も、人と会話している時すら、口の中では念仏を唱えていたそうだ。そうであれば、心はいつも静かであったろう。
あなたは逢ったことはないだろうが、仙界に住む、人をはるかに超越した仙人は、いつも呪文を唱えている。彼もまた、心を完全に静かにすることで偉大な仙術を得たのだと思う。
ラマナ・マハルシは、常に、「自分とはいったい何か?」と問うことで、一切の想いを破壊し、完全静寂へのゴールを達成するよう教えた。
偉大な聖賢は、皆、心の静かさが最も偉大なことであることを示しているのである。
二人が戦えば、心が静かな方が必ず勝つ。
ある世界一の空手家は、命を捨てた方が、たとえ喧嘩でも必ず勝つと言った。
その通りだ。心を静かにするとは、命を捨てることなのだ。
心の静かさの力を少し知っただけで、私はいかなる戦いでも決して負けなくなった。まあ、私程度の戦いでは、少し心が静かであれば、どんな相手も、赤子の手をひねるがごとしだからなのだが。そして、あなたも、私のようであれば、会社の中、学校の中程度の他愛もない戦いでは、大人が子供をあしらうがごとく、楽々と勝てるだろう。
私が、心の静かさの力を持っているのは、老子の「曲則全」という言葉を覚えているからだ。現代的には、「屈伸すれば自由自在だ」という意味だ。
老子は、古代から伝わるこの言葉に偽りはないと保証した。そして、やはりそれは嘘ではなかった。
ただ、深い言葉であるから、段階というものがあるかもしれない。
例えば、「賢い人は、いつも頭を下げるものだ」というのも、それを示すものだろう。
私は、冨田勲さんが制作した、『イーハトーヴ交響曲』の一番最後で、初音ミクが身を屈した姿を見て、「曲則全」を悟れたように思う。
だから、老子とミクには、そして、冨田勲さんや、あの交響曲に携わった方々には感謝しているのであり、老子の言葉の真意を見事に解き明かしてくれた五井昌久さんには特に感謝しているのである。
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