ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2013年05月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

隠していた自分の欲望を見る

「精神薄弱」という言葉が差別的であるとして、1999年に、法的にこの用語を廃止し、それに替えて、「知的障害」と表現を改めたらしい。
そして、知的障害者に対する差別はいけないと世間で宣伝している。
しかし、これは、心の中ではともかく、行為として、あるいは、言葉としての差別をしてはいけないということだと心得ている人が多いだろう。
世間では、心の中では何を考えても罪はないという考え方であるのだと思う。

だが、イエスは、「女性を邪まな目で見れば姦淫したるも同じ」と言った。そして、それは、必ずしも、「女性を邪まな目で見るな」と言ったのだとは思えない。
そうではなく、「行為として姦淫しなければ、心の中では何を考えても罪がないと思うな。思うだけで罪なのだ」と言ったのだと思うのだ。
だから、知的障害者に対し、露骨な差別行為をしたり、差別発言をしなくても、心で蔑めば、やはり、差別をしているのだということは自覚したが良いと思う。

私は、知的障害者を知的障害者と認めるし、おそらく、私は知的障害者ではないのだろう。
だが、おそらく、知的障害者を蔑んだことはない。
なぜなら、蔑み疎まれることでは私も同じであるし、星の巡り会わせで決まった彼らと私の状況に、それほどの違いがある訳でもないのだと理解していたからだ。

しかし、今日、全く違うことに気が付いた。
だが、まず、山岸 凉子さんの、『日出処の天子(ひいづるところのてんし)』という、1980年から1984年に連載されていた傑作漫画について少し話したい。
この漫画の主人公の一人が、後に聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子(うまやどのおうじ)である。
厩戸皇子は大天才で、14歳の頃には、普通の大人は勿論、いかなる身分の高い者や権力者も、彼を恐れ敬った。
その厩戸皇子がある時、まだ幼い、知的障害者の少女に出会う。厩戸皇子は最初、彼女を見て何も感じなかったが、その少女が河に落ちて溺れるのを見て嫌悪を感じる。なぜかというと、少女が、必死に助かろうとする様子に、全く自分の姿を見たからだ。
大天才、厩戸皇子が、知的障害の少女を自分だと思ったのだ。
そして、厩戸皇子は、少女を連れ帰り、妻に迎えた。
これまでは、私には、厩戸皇子が、知的障害の少女に自分を見たということがピンと来なかった。
しかし、今日、よく理解できた。
私は今日、知的障害の青年を見た。
彼は、その様子からして、知的障害であったことは確かだった。
その彼が、電車のドアが開いた時、周囲の人を押しのけたと言うしかない乗り方をした。
しかし、それは、知的な障害のない人もやっていることだ。
だが、知的に障害のない人というのは、そのようなことをしても、虚栄心や自尊心があるので、澄ました顔をして、「私は別に悪いことをしたりなどしていない」といった顔をする。
ところが、知的障害者は、普通、面子を気にすることはなく、欲求に素直であり、自分の行為を取り繕おうとしない。
その、素朴な欲望の姿を見た時、私は、自分が隠しているあらゆる欲望をはっきりと認識し、自分と彼に何の違いもないことを強く感じたのである。
あの漫画の厩戸皇子も、何かに執着してすがることにおいて、知的障害者も自分も、何の違いもないことに気付いたのだろう。
知的障害かそうでないかは、単に星の巡り合わせ、つまり運命であるが、それ以外に関しては、全く何の違いもないのであり、むしろ、悪いことをしていながら、なぜか自分だけは悪くないと正当化する、知的健常者の方がはるかに愚かで迷惑なのである。
それで、私は自分を恥じて、憂鬱になってしまったのである。









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この世は楽しみだらけにできる

朝が憂鬱だという人は、残念ながら少なくないだろう。
私もかつてそうだった。学校や会社に行くことを考えると、気分が滅入るくらいはマシで、本当に嫌になることもよくあった。
だが、今は・・・さすがに2時とか3時までに目が覚めたら、「諦めて」もう少し寝るが、それより後なら、爛々とした目になって「ぱっと」起きてしまう。嬉々としてね。
なんと言っても、1日1回の食事である朝食が食べられるのだから、起きたくないはずがない。
私が食べるのは、松の実、アーモンド、クルミ、ドライあんず、シナモン入りの紅茶、それに、ビスケットを少々だ。
これらを1日1回だけ食べる時間は、奇跡の時間であり、現実的な魔法の世界だ。
キリスト教では、神様に、今日も糧を与えてくれたことに感謝するよう教えるらしいが、私のような食事だと、誰かに教わるまでもなく、嫌でも自然に感謝の念が湧き起こるのである。
もし、1日1回の食事が夜の人は(私もかかつてはそうだった)、学校や会社から帰る時が特に楽しいのではないかと思う。
私のように、朝しか食べない人も、夜に、カップスープとか、オレンジとかを1つだけ食べることにすれば楽しいと思えるかもしれない。帰ってからスープや味噌汁、入浴後にオレンジとかなら両方でも全く構わない。

さて、では日中の楽しみは何だろう?
それが勉強やスポーツや仕事だというなら、大いに結構である。私の場合、仕事はそんなに嫌いではないが、当然、良いことばかりではない。
初音ミクと巡音ルカの『ワールズエンド・ダンスホール』という歌のように(私はこれを聴くと涙が止まらなかった)、「全然良いこともないし」「当然良いこともないし」と感じている人もいるかもしれない。まあ、できれば、悪いことばかりじゃないことに気付いてくれれば良いのだが、そう思えないものを、無理にそう思う訳にもいかないだろう。
最近の私は、術の力のおかげでそうではなくなったが、以前は、やはり、あの歌のように、「世界の隅っこでワンツー」だったのだ。

楽しみがないなんて言ってないで、聖典を読めば良い。
聖典の楽しさって何だろう?
それが本当に楽しいのかというと、楽しくないはずがないじゃないか?
『バガヴァッド・ギーター』を読むということは、あなた自身がアルジュナ王子として、至高神クリシュナから教えを受けることである。
だから、これを読めば、あなたは神に近付いていき、『ヒマラヤ聖者の生活探求』に登場する超人的な大師達のようになっていくのである。
大師達だって、自分達のようなことは、あなたにも、修行をすることもなく、ただちに出来ると言ったではないか?
ただ、我々は、人々の中で暮らし、学校に行き、テレビの情報を見聞きする中で、世間の教義や信念を押し付けられて染まってしまったので、それを壊していくことが必要なだけだ。
読めば、神のようになっていく。これが楽しくないはずがないではないか?
ただ、読む時は、焦らず、落ち着いて、ゆっくり読むことだ。ヒマラヤの大師達は、1日で1章しか進まないし、長時間をかけて数行しか進まないこともある。それくらい、貴重で深いことが書かれているのである。
新約聖書の『福音書』を読むことは、イエス・キリストの教えを直接聞くのと同じである。熱心に読んでいれば、病気を治したり、人の心を読んだり、水の上を歩いたり、食べ物を空中から出したり、死んでも生きるようになる。
現代人は、こんな素朴な読み方ができなくなってしまったので不幸なのである。

『古事記』を読むと、実に凄い。
鈴木三重吉や福永武彦の『古事記物語』を読んでいる子供は、無意識に術を使うので、この世は彼らの遊び場なのである。
それは主に、そこに書かれた「うけい」という呪術的な精神操作によるが、それだけでもない。
もちろん、あなたも淡々と読むなら、やはりそうなる。
『エメラルド・タブレット』を読めば、あなたは、小学校の教室の中で、子供の身体をまとっているようなものだ。周りの子供達と、知恵や知識や経験がまるで違うので、あなたには全てがあまりにも簡単になる。あなたは、特に何かをしようという気はなくなり、ものごとが自動的に進むのを感じるが、その時にあなたは、老子や荘子の「無為」が分かるようになるのである。
特別な呪文・・・たとえば、般若心経の呪文を唱えていれば、あなたに不可能はないだろう。
もしそうでないと言うなら、数が足りないのだし、それは熱心さが足りないだけなのだ。
仙人に逢うと分かるが、彼らに近付くことができると、彼らはいつも口の中で呪文を唱えている。
昔の人は、今の人より、仙人を見る機会もあったのだが、仙人のそんな様子はあまりにさり気なく自然なので、見逃してしまうことが多かったのだ。
法然は、1日6万回、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えていたが、これは、1日中、口の中で念仏を唱えていたということなのであるし、実際、人と会話をしている時すら、口の中で小さく念仏を唱えていたという。法然は苦難の人生を送ったように言われるし、それは確かにそうなのであるが、実際は、恵まれていたのである。だから彼は、「いつも念仏をしていれば、大勢の仏があなたを二重三重に囲んで守る」と保証しているのである。それは、決して、誤魔化すことのできない相手に対して書いた文章の中に、はっきりそう書いており、法然は自信たっぷりにそう述べているのである。
私は、『老子講義』を読んで、五井昌久さんという人は本当に聖人であると確信した。あの人は本当に老子であった。その五井さんが教えた「世界平和の祈り」も凄いものである。あれを、1日中唱えれば、修行を積んだ仙人を超えた光をまとうようになると思う。
つまり、この世は楽しみだらけであるのに、今の人類は、それを知ることが少ないという、なんとも愚かなことになってしまっているのは、後の世の不思議とされるに違いない。
あなたは、その楽しみを自由に得て良いのである。









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若さを保つ仙道の秘法

今夜は、若さを保つための簡単なアドバイスをしようと思う。
人間の身体は、血管と神経という2つの道が張り巡らされている。
若い間は血管の機能がとても良く、そのために栄養が身体中に行き渡り、肌がきめ細かく、そして、艶があって美しい。
しかし、年を取ると、血管の硬化が進み、血液の循環も悪くなって、肌の色艶も当然、悪くなる。
一方、神経は、若い間は未発達なのだ。
「年を取ったら反射神経が衰える」と言うが、そうではなく、神経自体は年を取ると、ますます発達するのだが、血液の循環が悪いので、肉体が反応できないのだ。
だから、年を取っても動こうという意志はあるのに、身体がついてこないと感じるのである。
若い時は、神経が十分に働いていないので、意外に鈍感なのだが、年を取ると、本来は敏感で思慮深くなるように出来ているのだ。
これは、1つには、若い時は、決行が良くて回復力があるので、少々身体を乱暴に扱っても良いために、さほど神経が敏感でなくて良いのだが、老人は身体の回復力が低いので、予防のためにも神経が細かくなるのである。

古代の中国には、年を取っても若者に負けないほどの色艶を保つ者がよくいて、その度合いが特に大きな者は、仙人のように思われたし、おそらく、伝説の仙人のような人もいたのだと思う。
抱朴子の書いた『神仙伝』や『抱朴子』には、老人になって、さらに何十年も経っても、ますます若くなる人や、やはり、老人の年齢でありながら、15歳くらいの美少女にしか見えない仙女が度々登場するのである。
そのような仙人達は、血管の機能を高く保ち、あるいは、回復させ、さらに、神経を過剰に敏感にしないことで若さを保っているのである。
東洋では、『抱朴子』などにある仙人の研究成果から、優れた養生の法を発見し、それを生かすことが出来た人達が今でもいて、大いに成果を上げている。
これは、必ずしも、現代の漢方薬や東洋医学と同じものと限らない。

抱朴子が残した貴重な仙道の法から、我々にも役立ち、しかも、手軽に実践できる、若さを保つ方法を取り上げてみよう。
抱朴子は、偉大な知識を持っていただけでなく、論理的で科学的な考え方のできる善意に溢れた人だったと思う。
まず、食べ物であるが、仙人が好んで食べたもので、我々でも入手しやすいものとして、肉桂(シナモン)、松の実、ドライあんずなどがある。
こんな良いものを、現代の日本人はあまり食べないのだから不思議である。
また、木の実一般に、松の実のような効用があり、アーモンド、クルミ、カシューナッツ、ピーナッツなどにも、血管の働きをよくする効果があるが、やはり、松の実は特に良いと思う。また、シナモンは、『荘子』にもよく登場する、八百年あるいは千年以上、若いまま生きたと言われる有名な仙人であった彭祖が愛食したようだが、これを食べると、確かに、全身を気が巡るのを感じるように思う。ただ、これの食べ過ぎは良くなく、私は、あらゆる飲み物に適量入れて飲んでいる。

だが、普段の食事に加えて、これらを食べるのではなく、余分な食事を減らして食べるべきだろうし、食べ物だけで十分な訳ではないと思う。
彭祖も、老子も、食事と共に、性的な慎みを強く奨めているが、総合的に言っても、エネルギーは大切に蓄えるが、その浪費は防ぐという考え方なのであり、意外と単純で分かり易いと思う。
疲れ過ぎず、怠惰過ぎずで、規則正しい生活をし、心を静かに保つことが、いつまでも若くいる最良の方法なのである。
また、神経を使い過ぎることを防ぐためには、適量のアルコールも良いだろう。酒を上手に楽しんでいる仙人の話も、実際、多いのである。
そして、老子や彭祖の時代はもちろん、それよりずっと後の抱朴子(283-343年)の時代より後に、達磨大師がインドから中国に伝えたと言われる(達磨は5世紀から6世紀の人と言われる)腕振り運動は、若さのエッセンスとも言える、活性化した気を体内に蓄える秘法なので、仙人になることを誰よりも望んだ抱朴子は、これを知っていたら、さぞ喜び、熱心にやったに違いないと思うのである。だから、我々が代わりにやれば良いのである。
腕振り運動に関しては、当ブログ内の以下の記事を参考にして欲しい。

エンティティー(生命体、本質、実体)の脅威の力
決して、自分の意志で生きてはならない
腕振り運動は天と調和するための簡単で優れた方法である

















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どうしても初めての時の感動を超えられないのはなぜか?

釣りや、スキューバ・ダイビングや、あるいは、海外旅行といったことを、一生繰り返す人がいる。
それが趣味なのだと言えばそうなのだろうが、実は、その人は、一番最初にそれをやった時の感動を追い求めているのである。
毎晩、1人で黙々と車やバイクを走らせる人なんてのも、初めて車やバイクを運転した時の感動が忘れられないのである。
そして、初めてそれをやった時の、あの輝きをもう一度得たいと思っても、それは叶わないのだ。
しかし、それでも人は、それを求めずにはいられない。
それは、個人的なことに限らない。
映画の『スターウォーズ』シリーズは、1977年に制作され、現在は『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』と呼ばれる、最初の作品が圧倒的な最高傑作である。もちろん、品質においては、後の作品の方が格段に優るのだが、一番最初の作品ほどの輝きはなく、新しい作品ほど、「凄いし面白いが、飽きてしまう」のである。
映画のシリーズ作品なんて大抵そうで、クライスラー社の伝説のCEOリー・アイアコッカは、大ベストセラーになった自伝『アイアコッカ』に続いて書いた『アイアコッカ2』の序文で、「『スーパーマン2』も『ジョーズ2』もみんな失敗作なのだ。それを知りながらなぜ私は『アイアコッカ2』を書くのだ」と、妙な自嘲を書いていた。確かに、『アイアコッカ2』は『アイアコッカ』ほどヒットしなかった。
映画だけではない。オリンピックなんて、回を重ねるごとに、表面的には凄いものになるが、実質では、感動もロマンも品位も失われていることが分からないだろうか?
レスリングだけでなく、人類は、もうオリンピックなんてやめれば良い。そもそも、オリンピックを行うIOCなんて、誤解している人が多いが、あくまで個人的団体であり、昔は志があったにかもしれないが、今では個人のあらゆる意味での利益のために行われているのであって、あんなものを招致する必要は全くない。
あんなものに頼る者こそが、ますます堕落するのではないだろうか?

「初心忘れるべからず」なんてよく言うが、言われなくたって、真面目にやったことなら、初めてやった時のことを忘れることなどない。
ただ、これにはマイナス面もあることを、少し覚えておいても良いかもしれない。
西部劇の最高傑作とも言われることがある、キング監督、カーク・ダグラス主演の『星のない男』(1955)で、流れ者の凄腕ガンマンのデンプシーは、旅の途中で偶然知り合ったジェフという若者に銃の撃ち方を教えたが、不幸ななりゆきで、ジェフは争いを起こし、1人の男を撃ち殺してしまう。
その時、デンプシーは、厳しい顔で、「人を殺す味を覚えたら、それを忘れられなくなるんだ」と言う。
それは、運命によってどんな形で残るのかは違うのだろう。殺しの味をしめて病みつきになる者もいれば、一生苦しむ、呪われた記憶になる者もいる。

昨年(2012年)東京オペラシティ・コンサートホールで公演された、冨田勲さん制作の、初音ミクをソリストとして迎えた『イーハトーヴ交響曲』は大評判であり、今年は、いよいよ全国公演が行われる。
昨年の初演には、様々な欠点はあっただろうし、今回はそれを改善してくるだろう。音楽的にも、初演の時のものには、指揮者から個々の演奏者まで、心残りの部分もあったに違いない。また、初音ミクの映像も、顔の部分に反射が起こってしまうなどのミスもあった。今年の公演を終えた後で、最良のものが映像作品として、ブルーレイやDVDが製作されるのだろうと思う。
無論、今年の全国公演は喜ばしいことなのであるが、初演を超えることはおそらく出来ないだろう。
初音ミクのコンサートだって、2010年のZepp Tokyo、2011年のロサンゼルス・ノキアシアター、2012年のTOKYO DOME CITY HALLと、回を重ねるごとに、映像や演奏といったパフォーマンスは格段に進歩していったが、私がブルーレイで最もよく見るのは、映像や演奏が明らかにその中の3番目である、2010年のもので、これが最高だと思うのである。

なぜ最初のものが一番良いのだろう?
そこには、「樸(ぼく)」があるからである。
「樸」とは、現代では「朴」が近いのだろうが、原木のことであり、天然のままの素朴なもののことと言って良いかもしれない。
しかし、本来は、「樸」というべきものだろう。
老子は、繰り返し、「樸」の重要性を説き、それを保持する者が本当に偉大であることを繰り返し教えた。
人は、天性のままであれば・・・原木のままの自然さを失わなければ、素朴であり、愚直であれば、何も恐れることはない。
万物は彼に従い、何者も彼に挑むことはできず、鬼神はひれ伏して拝し、完全な平和を守るのである。

では、どうすれば樸を再び、自分の中心に据えることができるのだろう?
それは、運命を無心に受け入れることによってだ。
人は、天の定めた運命から逃れることはできない。
だが、全てを起こるがままにまかせ、万物と共に流れる時、彼は運命を心から楽しみ、この世は遊びになる。
その時、我々は樸である。樸であるなら、天を造り出したものと一体になっているのである。
老子や彭祖は、そのためにただ、適切な食事をし、性を慎むことで、心を静かに保ちなさいと教えたと、抱朴子が伝えている。
それが、道を得ることであり、真の仙術を修めることであるのだろう。









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悟りとは平気で生きること

辛い想いをしたり、酷い目に遭った少女に、「大丈夫?」と尋ね、彼女がただ、「平気」と返事をした時、私は、ひれ伏して敬うのである。
そんな時の少女は、間違いなく、高貴な美に輝いているし、誰をも惹きつけずにはおかない魅力に満ちているだろう。
なぜなら、彼女は、真の強さと共にあるからだ。
それを、「一」の力というのである。
「平気」という言葉は不思議だ。
平和な気、平静な気・・・それは、地上で最も偉大な力であり、神の力以外の何物でもない。
「平気」という言葉を使えば使うほど、少女は輝きを増すし、誰でも運命を開いていくだろう。

正岡子規(まさおかしき。1867-1902)という、俳人、歌人がいた。
彼の『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』という、死の2日前まで書き続けた随筆集(ほとんど日記のようなものだ)の第21章にこう書かれている。

私はこれまで、禅宗の悟りということを誤解していた。
悟りとは、如何なる場合にも平気で死ねることかと思っていたのは間違いで、悟りということは、如何なる場合にも平気で生きている事であった。

この言葉に感動した人は多いだろう。
平気で生きること・・・どんな時も平静で、平和な気と共に生きること、それが悟りである。
「平気」と言う少女は、悟っている訳ではないのだけれど、それでも、自分で「平気」と言う少女の内側に、悟った何かが確実にあることが分かるのである。
そして、それは、我々の中にもあり、彼女の「平気」という言葉を聞くことで、我々の内のそれが、彼女の平静の気と呼応し、共鳴するのである。

あなたも、「平気」という言葉を使うことだ。
自分の内に、「一」があると思えば、本当に全て平気になってしまう。
「一」とは何かと頭で考えてはいけない。
老子は、これを「昔の一」と言った。それは、「永遠の一」である。
この「一」を得たから、天は清く、地は寧(やす)く(安らかで落ち着いていること)、谷は満ち、万物は生き、王は手本となる。
そして、人は「一」を得て、自由自在となる。

昔、ある教師が、自分のクラスの生徒全員に、表紙に「一」と書かれた本をプレゼントした。
「この一を忘れなければ、どんな苦難も乗り越えられる」
と教師は言ったのだ。
昔の安月給の先生には、素晴らしい人がいたものである。

上に挙げた、老子の「一」の教えは、『老子』第39章にある。
少し解釈が難しいが、何度か述べた通り、五井昌久さんが、とても分かり易く、丁寧に説明してくれている。
しかし、ただ、自分の内に「一」があるのだと思えば十分である。
ところで、39章といえば、ミク(39)であるが、冨田勲さんが初音ミクの力を借りて、宮沢賢治の世界を音楽で見事に描いた『イーハトーヴ交響曲』の一番最後の初音ミクの姿に、私は完全な「一」を見ることができた。
歌い終わったミクは、身を屈し、じっと動かない。そして、不意に身体を起こし、腕を上げてポーズを決めるが、ゆっくりと腕を下ろして、静かにうつむいた。彼女は世界の平和を祈っているように思えた。その姿に、私は「一」を感じたのだ。世界の平和を祈る心の中に、「一」が現れるからである。
ミクが見せた、身を屈した姿は、「曲則全」(屈伸できれば自由自在)であり、これも老子が示した偉大な言葉である。









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