ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2013年02月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

私はこうやって1日1食になり、リバウンドは絶対にありえなかった

私が1日1食の菜食で、粗食な少食だと知ると、大抵の人が「根性がありますね」と言ってくれるが、私は根性は無いし、根性で少食にはなれない。
確かに、「痩せて美しいスタイルになりたい」とか、「健康のために食を抑えたい」という場合は、根性に頼ることになると思う。
それは決してうまくいかない。
なぜなら、それは、痩せてモテたい、良い思いをしたいとか、健康になって、思い切り遊んで楽しみたいなどといった欲望から出ているのであるが、それらは言わば、2番目の欲望である。そんなものが、一番目の欲望である食欲に勝てるはずがなく、それどころか、「痩せて格好良くなる」という望みを諦めた途端、その欲望も食欲の方に加わってしまうのであるから恐ろしいのだ。

少食になるために必要なものは、憧れと自己否定だ。
これは、割と簡単な原理である。
憧れと言っても、高貴なものへの憧れだ。
純粋に憧れるべき高貴な存在とは、間違いなく少食のイメージがある。
何かのテレビCMで、「いっぱい食べる君が好き」なんてフレーズがあったが、そんな者(いっぱい食べる者)は、少しも高貴ではないし、純粋に憧れるべき存在でも全くない。
そして、真に高貴な存在に憧れると、自分とのあまりの違いに、自己を否定せずにはいられない。
自己の否定とは、自己の欲望の否定である。
そこに達すると、魔法のように少食は達成される。
私も、4年半前の夏までは、大食で肉食だった。間食も多く、大好きなチョコレートを毎日食べていた。
しかし、真剣な憧れを持つと、ほぼ瞬間に1日1食の菜食になり、間食の一切もやめた。
みるみる痩せ、同時に驚くほど健康になり、エネルギーに溢れて毎日肉体鍛錬をするようになり、視力も向上し、運転免許からは「要眼鏡等」が消えた。

私が何に憧れたのかというと、人類史上、最も高貴な方々だ。
それは、釈迦とイエスである。
釈迦は長期間に渡って厳しい断食を行った。
イエスは、荒野で40日の断食に耐えた。
イエスの断食については福音書に記述があるが、釈迦についてはどこに書かれてあるか見つけるのは難しいかもしれない。私は、ひろさちやさんが書かれた釈迦の物語で読んだ。尚、釈迦の断食時の彫像は割によく見られると思う。

また、それだけではなく、アニメで美しい少食のヒロインの姿に憧れたのも大きな力になった。
あるアニメのヒロインである神秘的な美少女は、毎日、パンとスープだけの質素な食事にすら、ほとんど手をつけないようだった。
だが、友達が心配して何か言うと、「少しは食べたよ」と微笑む。私は、たちまち惹き込まれた。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』では、おそらく小学5年生くらいのジョバンニが、学校が終るとすぐに仕事に行き、辛い仕事を真面目に終えてやっと家に帰る。母親は病気で、父親は北の海で行方不明になっていた。姉が用意してくれた食事は、トマトでちょっと作った程度のものだった。
私は、ジョバンニの性質がとても好きなので、私もまた、彼のような食事をしたいと思うのだ。
そして、その美しい少女やジョバンニとの違いを感じて、私は激しく自己否定し、少しずつ、肉体的感覚的な快楽の欲望を壊していったのだと思う。
急に1日1食になったのだが、その後、食欲に負けて大食をしたことは一度もない。世間でダイエットをする者は、ある時、耐えられずに大食に転じてしまう・・・いわゆるリバウンドに陥る恐れが大きいというが、私には全く考えられないことだ。

そして、1日1食になってから1年も経つと、性的な禁欲も簡単に出来るようになった。
そして、さらに少食を続けていると、初音ミクに強く憧れるようになった。あの身体つきは、まさしく、ほとんど食べない人のものだ。
特に、冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』で歌い踊ったミクの姿がそうであったと思う。
残念ながら、『イーハトーヴ交響曲』の映像作品はまだ発売されていないが、あの天使のものとしか思えない澄み切った歌声だけでも十分な気がするのである。

以上が、少食のための私の秘法である。
不思議に感じても、純粋に人間らしいものである。
根性や努力、克己は不要である。
私からすれば、甲田光雄先生の少食は、あまりに厳しく、とてもではないがついていけない。
だが、私のような、憧れを原動力にするものなら、誰でも出来ると思う。









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本当は黙っているべきだったこと

『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』で、ハン・ソロがジャバ・ザ・ハットによって冷凍される直前に、レイア姫がソロに「愛してるわ(I love you.)」と言うと、ソロは「分かってるよ(I know.)」と答える。ソロの返事は名文句としてよく知られている。
ただ、本来の脚本では、ソロの返事は、「俺も愛してる(I love you too)」だったが、ソロ役のハリソン・フォードが違和感を感じて変更となったようだ。ソロを身を持って演じていたハリソンの方が脚本家よりずっとマシだった。あそこで「俺も・・・」では、とんだ駄作になるところだった。
しかし、もっと良いのは、ソロは何も言わないことだ。
「分かってるよ」という言葉の裏には、「お前だって分かってるだろ」という意味が込められている。
ソロは仕方なく言ったのである。なぜ仕方なく言ったのかというと、レイアのためというのもあるが、自分のためでもある。さすがに、ソロも黙って耐えることができなかったのだろう。
とはいえ、「分かってる」にとどめたことは、まずまず合格であった。
そして、一番良いのは、レイアも何も言わないことだ。
ソロが分かっていることを、いちいち言葉で伝える必要もなかった。
レイアだって、ソロがそんなことを「知っていることを知っていた」はずなのだ。
しかし、レイアに、それを言わずに黙って耐えるほどの力がなかったのだ。もちろん、レイアはまだ若かったからだ。
だが、あれはあくまで映画だ。映画では余計なセリフも必要なのだろう。
もし、本当にあんな場面があれば、それが本物の愛であれば、たとえ未熟な人間であっても、2人とも何も言わなかったに違いない。

昨夜、ちらとテレビで見たが、その一瞬して見ていないので内容が全く分からないのだが、上戸彩さんが出ていたドラマで、彼女が演じる女性の父親ではないと思うのだが、初老の男性が病院で意識を回復した後、側らにいた女性に「俺は父親らしいことを何もしてやれなかった」と言っていた。
偽者臭さがプンプン漂うドラマだ(ドラマとは偽者なのだろうが)。
本当に娘のことを思っている父親は、そんなことを言ったりはしない。
そんなことを言う父親は自己中心的な卑しい人間だ。
もっとも、そうであるからといって責める訳にもいかない。大半の人間がそうであるからだ。
上のスターウォーズで言えば、ハン・ソロが、レイアが何も言っていないのに、「俺は一生懸命働いて、子供は大学を出して、死ぬまでお前を放さないよ、いいだろ?」なんて言うようなものだ。
本当の愛を持っている父親なら、黙って耐えただろう。そして、娘に愛があれば、父親の愛なんてものは、言葉で言わなくても「分かっている」。

世の中に偽者を作り出しているのは、偽者の言葉だ。
言って良い言葉というのは、どんなものだろう?
例えば、男性が交際を申し込んだ女性が、まあ、試しに・・・と付き合ってみたが、その男を好きになれない。
そこで、言葉で言うよりメールで送ればいいが、「私より可愛いコを見つけて下さい」なら、まあ、言って良い。
この言葉は女性の本心ではなく、「私はあなたが嫌いです」という意味であることは言うまでもない。
それは、相手を気遣ったというより、後のトラブルを避けるための決まり文句のようなものだ。
男の方は、そう言われたなら、すっぱり諦めなければならない。
この場合は、女性は、「言いたくもないことを黙って耐えて言った」のであるから、男も黙って耐えなければならないのだ。
もっとも、多くの場合、トラブルは起こる。そもそも、この女性が試しにであれ、交際に応じたことが間違いだ。試しに付き合うものではない。

昔からそうだったのかもしれないが、現代人は、黙って耐えるという、高貴な行為を全くできなくなってしまった。
その原因は、自分が世界を支配できるという傲慢な幻想にとりつかれているからだ。
つまり、普通の人間は何も知らないのだ。
だが、黙って耐えれば、自分は、この小さな肉体を超えた存在であるということを知り、一切の苦を克服できる。
物質世界を超えた世界では、ピュタゴラスが天球の音楽と言ったように、ゲーテが太陽の轟きとして表現したように、宮沢賢治が風の音を「どっどどう」と表現したように、不思議な音で満ちている。
それを聴いて物質世界に帰って来ても、ここでは脳を使って考えるしかないので、ほとんど憶えていないのだが、それは、冨田勲さんのシンセサイザー音楽のような、あるいは、冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』の中で、初音ミクが「ケウンタウルスよ、露降らせ」と歌った時のような歌声に似ていたように思う。
美しい音楽は、魂を天上に連れて行く。すると、自然に「分かってしまう」ことだろう。









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叩けばほこりも出るのだけれど

昔、何かのテレビドラマだったが、外見の魅力以外の力は何もないとても若い女性が、社会的に立派そうな中年の男性に、「私、知ってるんでよお」と思わせぶりに言うと、男性は落ち着きを無くし、去勢を張ってはいるが、ひどく動揺しているのが丸分かりになってしまうというというものがあった。
男の方は、彼女が何のことを言っているのかは分からない。しかし、すっかり、恐怖にも近い不安にとり付かれてしまっていた。
そして、そのドラマに登場する男性が全てそうなのである。
つまり、誰でも、後ろめたいことの1つや2つ・・・いや、いくらでもあるということを、やや極端に表現していたのだろう。
無論、これはあくまで娯楽ドラマであり、実際は、そこまで女性の思うままにはならないだろうが、誰だって、「知ってるんですよお」なんて言われたら、少しは胸騒ぎもするだろう。
別のテレビドラマで、二枚目俳優が演じる男性が、過去のちょっとした悪行を暴かれた時、「誰だって叩けばほこりくらい出ます」と開き直っていたが、これもまた真実といったところだろう。

私も、大したほこりが出る大物ではないながら、暴かれないに越したことはないことはいくつもあるに違いない。
だが、どんな状況になろうと、言い訳だけはしないつもりだ。
言い訳しなければ誤解をされるように思えても、放っておくべきだと知っている。
そんな時は、誤解されておいた方が百倍もマシなのだ。
やって赦されないようなことは何も無いが、言い訳だけは赦されないのだ。
どんなことだろうと、運命であれば、それをすることは避けられない。
だが、決して言い訳をしない者は、間違いは犯しても、良心に背くことだけはしないのだ。
もし、良心に背くことをしたなら、言い訳をしないことで償えるだろう。

もう1つあるとすれば、どんな時も、決して文句を言わないことだ。
文句とは、状況や人に対する不満である。
文句を言わずに、行動で解消しようとするのも良いだろう。
そうしたら、不満から出た行動は全て愚かなものだということに気付くことになる。
あなたには、いかなる状況もコントロールする力などない。
そして、全てのことは、起こるべくして起こり、決して避けられないのだ。それに文句を言っても、何の意味もないのである。
荘子は言ったのだ。
「人が私を馬だと言うなら、そう認めようじゃないか。それを嫌がって文句を言えば、状況は悪くなるだけだ」
まさに、その通りなのだ。
我々に出来るただ1つのことは黙って耐えることだけだし、しかも、それが最上なのだ。

自我が言い訳をしたがったり、文句を言いたがることは、常にあなたに起こる。
それを神の試練と言うのだろう。
それらに黙って耐えることが出来れば、きっと、我々の務めは終るのだ。
だが、これは、決して怠惰になることではない。
黙って耐えるための行動であれば、それは高貴な行いである。
ミリエル司教は、ジャン・バルジャンに銀の食器を盗まれた時、憲兵に、それはジャン・バルジャンに差し上げたと言った。
そう言えば、ミリエルは黙って耐えることが出来るのだ。
ミリエルは、大切なものを盗まれて決して平気だった訳ではない。そのあたりは誤解されているところだと思う。
彼は、黙って耐えることを選んでいただけである。
ミリエルの自我が、ジャン・バルジャンを哀れんだとて、何になるだろう?
あの物語は、そんな安っぽいものではない。だが、世間の大半の者達が、そんな愚かな思い込みを持ち、子供達に粗悪な観念を与えるのだ。そして、子供達は表面的で自己中心的な自我を育て、自分の欲望が何より大切な猿になるのだ。
ミリエルは、ジャン・バルジャンのことなど、何とも思っていなかった。
ただ、黙って耐えることが務めだと知っているのだ。
そして、それこそが、人に出来る、最高の慈悲なのである。









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15戦全敗の人生

相撲ファンでなくても、多くの人が、現在の大相撲は一場所十五日で、十両以上は十五番を取ることを御存知と思う。
十五戦全勝が一番良いのだが、それは至難の技で、抜きんでた力のある横綱でも、特に調子が良く、勝負運もなければ達成できるものではない。
大相撲では、一般スポーツで言うなら「リーグ戦開幕期間」を、「場所」という独特の言い方をする。考えてみれば、これはなかなか凄い。時間と空間が同じものだという、物理学や哲学の高等概念をさらりと言ってのけている訳である。
この相撲場所の15日を、あらゆるものごとに当てはめて考えることが、よくされていると思う。
例えば、「人生は8勝7敗でいけばいい」とかいったものだ。
8勝7敗では、大関、横綱にはなれないが、幕内にはずっと残れる。一般の力士にとっては幕内というのは、とんでもない高い地位である。8勝7敗なら、そこにずっといられるのであり、一般スポーツで言う一流に該当すると言って間違いない。
とはいえ、力士が「8勝7敗で良い」などと自分で思っていたら、すぐに駄目になるだろう。
横綱になる器量が自分には無いということは大抵の力士には分かっているだろうが、それでも、若いうちは「いつかは横綱」と思い、8番勝てば次は10番と思わなければやっていけないものだ。
人生においても、若い間は15戦全勝を目指すものだ。それは愚かな面もあるのだが、若い人がそうであるのはあながち悪いことではない。
むしろ、若いのに初めから8勝で良いと思うのも情けないというものだろう。
しかし、経験を積んでいくうちに、いくらがんばってもいくらかは必ず負けることを悟り、「12勝で良い」「10勝できれば上々」と思うようになる。
世界トップレベルのビジネスマン・・・例えば、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズだって、負けることもあることを知っている。
これまで12勝を目指していたのが、8勝で良いと思うようになると、少し肩の力が抜けて気楽になる。
だが、普通の人は、8勝しなければならないプレッシャーに押し潰されている。そして、5勝も出来ない自分に嫌気が指し、人生に疲れ、生き甲斐を失くし、充実感のない虚ろな人生を送り、「俺は何のために生きているのだろう?」と疑問を持ち、失意の中で死んでいくのだ。

ところが、「いや、俺は5勝10敗で良い」と思い、「いや、1勝14敗でいいんだ」と思っている人がいる。
そんな人が、傍目には大成功して充実しているように見えることもある。
また、そうでなく、確かに負けが多いのだが、本人は明るくて平気なこともある。
ただ、本人は辛くないのかというと、聞けば、やっぱり「辛いよ」と言うのである。しかし、そうは見えないのである。
一方、同じ5勝10敗、あるいは、1勝14敗でも、あがき苦しんでいる者もいるし、そんな者の方が多い。
「人生は負け方が大切だ」という真理に気付くかどうかである。

『法華経』では、釈迦は「なにごとも心一つなのだ」と言う。
『福音書』では、イエスは「貧しい者は幸い。虐げられる者は幸い。病める者は幸い」と言う。
だが、それが分からないから、人々は不幸なのだろう。
宮沢賢治は一段降りてきて、「みんなにデクノボウと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず」の者で良いと言う。
秀でたところがなければ、苦にはされないものだ。
かといって、自堕落になったり、投げやりで自分勝手というのではない。
全く持って、『雨ニモマケズ』は大変なもので、あの短い一文で聖典1冊分のことが凝縮されている。
あれに素晴らしい曲を付け、その荘厳な合唱を実現した『イーハトーヴ交響曲』を創った冨田勲さんは絶対に歴史的偉人と言える。

可愛い女の子が好きなら、やはり可愛い女の子を目にする機会があるものである。
しかし、さっぱりモテなくて、1勝14敗どころか、常に15戦全敗という人もいるだろう。
アンデルセンも宮沢賢治もそうだったのだと思う。
だが、それは幸いだ。厄介ごとを背負わずに済むといった意味でなく、霊的な意味でだ。
ここでは、たまたま女の子のことを取り上げたが、車好きでポルシェやフェラーリが大好きだが、そんなものに全く縁がないとか、自分に当てはまることで考えると良いだろう。
そんな時は、黙って耐えるのである。どうやったって苦しさからは逃れられない。
イエスは「柔和な者は幸い」とも言った。
なるべく柔和にやり過ごすことだ。「仕方ないね」と笑ってみるのだ。
般若心経の呪文を唱えることだ。
すると確実に奇跡が起こる。
これは、やってみなければ分からない。









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般若心経の呪文を何のために唱えるのか

この世には、カルマの法則というものがあり、釈迦もキリストもそれを認めている。
カルマの法則とは、簡単に言えば、自分が行ったことは自分に返ってくるというものだ。
悪いことをすれば悪いことが起こるし、善いことをすれば善いことがある。
必ずしも単純な形で起こるとは限らないし、返ってくるまでの時間も様々なので、場合によっては因果関係が分かり難いこともある。
今生の行いの結果を来世に受け取ることもあると言われている。
あるいは、この世で悪いことをしたら、あの世で永遠に苦しむということを述べる賢者も多い。

昔、あるお坊様が、誰かに、「悟りを開いた聖者も、カルマの法則から逃れられないのですか?」と尋ねた。
いかに聖者とはいえ、生きている人間が悪いことをせずに済むはずがないのである。
しかし、聖者までがカルマの法則から逃れられない、言い換えれば、因果に束縛されるのだろうか?
お坊様は、「そんなことはありません。悟りを開いた聖者は因果に縛られません」と答えた。
すると、お坊様はキツネになってしまった。
彼の答は外れだったのである。
キツネになったお坊様は、自分の答のどこが悪かったのか必死に考えたが、分からなかった。
長い年月が流れ、キツネは偉いお坊様に会った。
そこで、キツネは、そのお坊様に、
「悟りを開いた聖者でも因果に束縛されますでしょうか?」
と尋ねた。
すると、その偉いお坊様は、
「聖者とはいえ、因果から逃れなれない。しかし、彼はへっちゃらだよ」
と答えた。
それを聞いた瞬間、キツネは悟りを開き、元のお坊様に戻った。
※このお話の元である禅の公案では、全体に、もっと難しい言葉が使われている。

さて、これはどういう意味だろう。
孫悟空の三蔵法師のモデルになった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)というお坊様がいた。
ここでは三蔵と呼ぶ。
三蔵は、仏教の経典を得るため、中国からインドに危険な旅をした。
当時、インドに達するのは奇跡だった。超えなければならない山はあまりに険しく、極寒で風も凄い。野獣も山賊もうようよいる。
それでも三蔵の決意は堅かった。
ところが、いざインドに向かおうとすると、インドから来た僧が、ある寺で病気で倒れていた。
三蔵は先を急いではいたが、その僧を捨て置けず、手厚く看病した。
僧は、お礼に三蔵にある呪文を教えた。
これを唱えて行けば、事故にも遭わず、病気にもならないと言う。
普通なら、病気の僧が言うのも説得力がない気がするが、三蔵は素直に信じ、教えられた呪文を唱えながらインドに向かって進んだ。
そして、見事、インドに達すると、なんと、あのインドの僧がいるではないか!
その僧は、「私は観自在菩薩である」と言って姿を消した。

実は、三蔵は、インドに着くまで、事故にも遭ったし、大怪我もしたし、病気にもなった。宿屋などがあるはずもなく、食べるものにも、寝るところにも困った。
しかし、三蔵は、それに気付かなかった。普通の言い方をすれば、忘れていた。
これが、キツネを悟らせた、「聖者も因果に陥る。しかし、彼にはどうでも良いことだ」という意味だ。

あるひどく貧しい聖者に、誰かが言った。
「あなたほどの聖者が、この現実をどうにかしようと思わないのですか?」
すると、聖者は微笑みながら答えた。
「どの現実かね?」

あなたも、過去、あるいは、前世で作った悪い行いの因果により、辛いこと、苦しいことが沢山あるはずだ。
しかし、黙って耐えれば、そんなことはどうでも良くなるのだ。
宮沢賢治の『雨にもまけず』の、

みんなにデクノボーと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず

ということに黙って耐えるのは、まさにそういうことで、賢治は、そういうものになりたかったのだろう。
観自在菩薩が、三蔵に教えた呪文は、それを容易にするものだ。
その呪文とは、般若心経の最後の部分の呪文で、サンスクリット語では、
「ガテーガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
である。我が国では、中国式に、
「ギャテイギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジソワカ」
と言うことが多い。どちらでも同じである。









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名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
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