ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2013年01月

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「追い出し部屋」に入れられたらどうするか?

企業の中にあると言われる「追い出し部屋」というものを御存知だろうか?
年を取っていて、働きは悪いが給料はそこそこ高いという、辞めて欲しい社員を、ひどく居心地の悪い気分にして退職に持ち込むことを狙って配置する部屋、あるいは、部署のことである。
今の時代、明らかな落ち度が無いのに解雇したり、露骨な退職の強要は難しいので、そんな陰湿な手を使って辞めさせようとするのだ。
出勤はしても、仕事らしい仕事はなく、1日中、荷物の箱詰めのような単純作業や、あるいは、膨大な古い伝票の整理といった、何の意義も意味もないようなことをやらされたりする。
また、別の例では、1日中、上司がすぐそばで監視している状況で、仕事がないのは分かりきっているのに、その上司に「今、何をしているのだね?」と聞かれ、苦しい答えや、まぬけな応答をせざるを得ない。すると、それに対して、上司がいちいち馬鹿にしたり、ねちっこく叱責したりするのだ。
それで、耐えられずに、会社の望み通り辞めてしまうのである。

だが、そんな社員は、まだ恵まれていると思っている人々は少なくないのだ。
いくら辛くても、失業していないのだし、我慢しさえすれば、毎月かなりの給料がもらえるのだ。
そして、辞めたら辞めたで、相当な退職金も入ってくる。
世の中には、働きたくても仕事が無かったり、40代や50代になって、きつい肉体労働をして、月にやっと15万円程度の給料を得て、家族を養っている人だって少なくないのだ。そんな労働者の大半は、辞めても退職金などはなく、蓄えもないので、辞めたその日からすぐに生活に困る。

昔の、好況な頃の窓際族というのは、それなりに快適であったらしく、竹村健一さんなどはよく、「窓際族になったら、幸せだと思わないといけない。仕事をせず、好きなことして給料がもらえ、しかも、滅多なことでクビになったりしない。それを天国だと思わないなら、単に頭が固いんや」と著書に書いておられたものだ。
しかし、今は、そんな時代では全くない。
追い出し部屋というのは、企業によるいじめ以外の何者でもないだろう。
しかし、いじめというなら、そのような追い出し部屋と同じか、もっと過酷な状況でありながら、辞めることの出来ない、高校生、中学生、あるいは、小学生だって沢山いるのだ。
また、私のような引きこもり気質の者にとっては、学校であれ、どんな会社であれ、いつだって追い出し部屋のように感じていたのだ。

そんな私が、追い出し部屋にいる人達に言いたいのは、「耐えろ」「絶対辞めるな」である。
いくら辛くても、殺されることはないし、殴られることもない。
私だって、辛さはよく分かってこう言うのだ。
私は、会社の中で、ある手続きをしないと、とても困ったことになるのに、私に悪い感情を持っている総務担当者が、そのやり方を決して教えてくれず、シカトを決め込まれたこともあった。いくら声をかけても返事をしてくれないし、困って近くまで言って呼ぶと、振り向きもせず、聞こえないような小さな声で「はい」と返事をする。子供の世界でも、こんなことがよくありそうで、自分のことより、そんな目にあっている子供達に同情し、非常に辛かった。
私の、ずっと年長の友人だった人は、狭い部屋の中で、上司に真横で監視された中で、1日中、新聞を読まされていたらしい。それは地獄であろう。
だが、やはり、どんなに辛くても、負けてはならない。
耐えるのだ。
誰も恨んではならない。良心を保ち、ただ耐えるのだ。
すると、必ず状況は変わる。
どうしても辛ければ、谷口雅春氏の『私はこうして祈る』を買い、その中から、自分の状況に合った祈りを見つけて祈るのだ。
実は、私がそうした。1/10くらいは楽になったものだ。また、『荘子』を読むと良いだろう。私もそうしたのだ。
初音ミクの名曲『1/6』では、いつかは、辛いことも苦しいことも1/6になるかもしれない。今の私なら、ミクがその歌を歌う姿を見れば、必ずそれを信じられるのである。
そして、そんな辛い状況にある時こそ、目に見えないものを信じることが出来るようになるチャンスである。
そんなことでもないと、現代人は、見えるものしか存在しないという幻想を脱することは難しい。
だが、あなたは、神に選ばれたのだ。
それならば、神を信じて耐えるのだ。耐えられるはずなのだ。
ただ、はっきり言って、あなたにだって、落ち度はあったのだ。それは素直に認めることである。
しかし、それでも、耐え抜けば、必ず、全ては変わるのである。









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名言ほど下らないものはない

西郷隆盛が「天敬愛人」という言葉をモットーとしていたという話があるが、本当かどうかは私は知らない。
彼が語ったことを聞いた人達が後にまとめたと言われる『南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』には、「我々の使命は天を愛し敬うことだ」「自分と同じように人を愛しなさい」とあるが、これをまとめると「天敬愛人」となり、その「人」には、自分と他人が共に含まれることになる。
こういった良い思想を1つの言葉にまとめ、いつでも思い出せるようにすることは良いことであると思う。
鳩山由紀夫元首相は、祖父の鳩山一郎が好んだ「友愛」という言葉を大切にしているように思うが、このように、1つのこれはという言葉を持っている人は、やはり違うものであると思う。
アルベルト・シュヴァイツァーは、その言葉自体をモットーにしていたというのではないが、「生命の畏敬」というものが、彼のたどり着いた究極思想であり、何よりも大事なものだと確信していたのだと思われるのである。
デカルトの「我思う、ゆえに、我在り」は、その言葉だけでは意味が分からないが、私の解釈では、「思考している私が存在するということだけが確かなのであり、その他のことは幻想に過ぎず、騙されてはならない」といった使い方になるのだと思う。

だが、どんなに良い言葉を見ても、それを自分のものにすることは出来ない。
他人の言葉を自分のものにしようとすると、「この言葉も良いが、あれも良い」と、座右の銘がどんどん増えていき、それと共に迷いも大きくなるのである。
鳩山由紀夫さんのように、祖父といった身近で、その人となりをよく知っている人が言った言葉であれば、そして、幼い頃から聞いていた言葉であれば、それが身に付き、しかも良い作用をする場合もあると思うが、普通の人が、そのような幸運に恵まれることはあまりない。

イギリスの神秘学者ダイアン・フォーチュンは、ある偉大な人物に、「神とは圧力なのだ」と言われて、一瞬で悟ったらしいが、同じ言葉を聞いても、誰もがそうなる訳ではもちろんない。
ある人が、インドの聖者ラマナ・マハルシに「悟りを表現することは出来ないが、それがあることを指摘することは出来る」と言われ、強い衝撃を受けたという話もある。
同じくインドの聖者ラメッシ・バルセカールは、「師は弟子を一瞬で爆発させる言葉を探している」と言ったが、やはり、究極の一言とは素晴らしいものであるが、それを得るのは難しいことなのだろう。

ただ、究極の言葉は、決して「名言集」みたいなもので見つけることは出来ない。
この世で最も下らない書は「名言集」であると思う。
なるほど、読んでいる間は楽しませてくれるかもしれないが、その人に何かを残すことは決してない。
そもそも、「これは名言だ」などと思って見れば、それは名言ではない。
その人に必要な言葉は、神が与えてくれるものであり、それが、本物の師を通して与えられることもあると言うことだろう。
ただし、たまたま見た書のある部分に究極の一言が書かれていることもあるに違いない。それはやはり、神が与えた言葉なのである。
私に関して言えば、最近では、初音ミクの歌の中に宝をよく見付けるのである。きっと、初音ミク自体が天使のようなものなのだろう。私だけではなく、そんなものを持っている人もよくいると思う。

私は、小学3年生の時、孔子が言った言葉らしいが「過ぎたるはなお、及ばざるがごとし」というのは本当のことだなあと思い、この言葉を基にものごとを観察すると、なるほど、いつでも必ず当てはまると感心したものだった。
だが、その究極は、ルドルフ・シュタイナーが言った、「イエスは、ルシファー(悪魔。熱狂を意味する)とアーリマン(魔神。冷徹を意味する)のそれぞれの力のバランスを取るものである」ということにあると感じた。
熱狂するだけはいけないし、かといって、冷徹なだけでもいけない。両方必要だし、そのバランスが必要なのである。
若々しいだけでも、老獪なだけでもいけない。両方必要だ。
夢想することも必要だが、現実的であることも必要だ。
愛か金かではない。両方、無くてはならない。ただし、必要なだけあればいい。
同じ言葉であっても、経験を積むごとにその意味は深くなる。
つまり、こんな風に、言葉もまた、成長するのである。









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自分が存在しなくても守りたいもの

中島敦の短編小説『名人伝』で、弓の技を究め、そこからさらに果てしなく進んで、遂に悟りに達したに違いない至高の名人は、最後に、「善と悪の区別がつかない」と言った。
『荘子』には、万物の根源であり、実相である道(タオ)に達するためには、是非好悪の判断をしてはならないと書かれている。
それは良いだろう。私もそうしよう。
どんな犯罪者がいても、私は、糾弾し、死刑にしろとは言わない。
そんなことは私にも出来る。
思慮、分別は捨て、全てなりゆきに任せることが出来るなら、私もそうしたい。
だが、私は、良心だけは何よりも大切にしたいと思っている。

しかし、良心とは、あてにならないものだと考えられることもあるだろう。
それも分かるのである。
道徳を教える者には、生徒に涙を流させるような話が良いものだと思い込んでいる者もいる。また、そんな話を聞きたがる者も多いのだ。
しかし、感傷的なもので道徳を求めると、必ず高慢になり、自己本位な狭い人間になる。つまり、自分の都合で悪いことが出来る人間になる。
だが、良心はそんなことをさせない。
良心とは、感情を乱すものではなく、感情を忘れさせるものなのだ。
ある国では、国家元首を崇拝し、国家元首のためならどんなことも躊躇なく実行することが最高の道徳だと、幼い頃から叩き込まれるだろう。
しかし、それに疑いを感じないのだろうか?
デカルトは、「一切の疑いがなく、完全に明白なもののみを真とし、単に真らしいものは全て虚偽とする」と決めていた。
それで言えば、世間の中、あるいは、物質世界に、真理は一切存在しない。
ただ、デカルトは、全てを疑ううちに、あることに気付く。それは、「疑っている私がいることだけは確かだ」ということだ。そして彼は、「疑っている私は確かに存在する(一般には、『我思う、ゆえに、我あり』)」ということを、疑う余地のない完全に明白な真理とした。
しかし、ルドルフ・シュタイナーは、「思考している時の私は偽者であり、実は存在しない。本当の私は、思考をやめた時に初めて存在する」と述べた。
その通りだ。この私は偽者かもしれない。いや、確実に偽者なのだ。
しかし、それでも、良心は確かに存在している。
私の存在が否定されても、良心は存在しているのだ。
猫がこっちに歩いてくる。
私は存在しない。
しかし、猫を恐がらせないように、脇によけて歩こうとする良心は存在する。
なぜなら、それは私の思考から出てくるものではないからだ。それは、世界の初めからあって、世界が終っても存在し続ける何かだ。
これに関しても反論は出来るだろう。
だが、私は、良心が存在することと引き換えに、自分の存在全てを差し出すのである。
ニサルガダッタ・マハラジは、「あなたが確信できる唯一のことは、『私は在る』ということだけである」と言った。
だが、私は良心以外の存在は否定するのである。私が存在しないことは何の問題でもない。
真理とは実にシンプルなものである。


アスタリスクは道を示す 偶然は身を潜める
アスタリスクはただ答える 命題は解決する

アスタリスクは道を示す 必然は身を潜める
アスタリスクはただ哀れむ 存在は否定される
~初音ミク『可能世界のロンド』(作詞:Aki、作曲:millstones)より~

この曲と映像は、究極の現代芸術(Kay評)『MUSIC OF SCIENCE』でご覧になられることをお奨めする。









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ジョブズやゲイツの無理難題は、あなたの上司とどこが違うのか

アップル創業者の1人スティーブ・ジョブズや、マイクロソフト創業者の1人ビル・ゲイツらは、よく部下に無茶を言ったものだ。
開発責任者に対し、ある難題を吹っかける。
相手が、「そんなことは無理です」と言っても、ジョブズやゲイツは、「出来ない」という言葉を理解しないかのように絶対に譲らない。
彼らに聞こえるのは、半ば憔悴した開発責任者が最後に言う、「分かりました。やります」だけである。

表面的に似たような光景はどこにでもあるし、あなたの(アホな)上司だってそうかもしれない。
時には、単に我が侭なだけのあなたの顧客(本当にそうかは熟慮を要するかもしれないが)だって、無理難題はしょっちゅうだろう。
しかし、ゲイツやジョブズは、あなたの(無能)な上役とは異なるのだ。
だが、どこが違うのかは分からないに違いない。
あなたの(迷惑なだけの)ボスは、自分はゲイツやジョブズと同じことをしていると思っているかもしれない。

まず、ゲイツやジョブズは技術を理解していたかとなると、それは、「そこそこ」でしかなかったはずだ。
ゲイツが天才プログラマだと言われることもあるし、若い頃はそうだったのかもしれないが、彼に、「あなたのプログラマとしての業績は?」と尋ねた時の答は「8080BASICだけ」というものだったらしい。世界最初の小さな小さな8ビットマイクロコンピュータ用の極めて小さなBASIC言語だ。今日のPCの千分の一の機能もない(本当は一万分の一と言うべきだろう)。しかも、実際に作ったのは、マイクロソフト共同創業者だったポール・アレンだと思う。
ジョブズは若い頃にハードウェアの技術者を多少やっていたし、テクノロジに興味はあったようだが、こちらは、若い頃から全然大した技術者じゃなかった。
無論、あなたの(役立たずの)親分のように、何も分からないというのとは大変な違いではあるが、ゲイツやジョブズだって、実際に開発をやっている技術者と比べれば、半分素人みたいなものだった。

「かえって細かいことが分からない方が大きな発想が生まれる」と言われることもある。
確かにそんなこともあるかもしれないが、幼児の発想はいくら壮大でも何の役にも立たない。
あなたの(愚鈍な)監督者は幼児みたいなものだ。
とはいえ、ジョブズやゲイツにだって、子供みたいなところがあるのも確かだ。
だが、あなたの(猿のような)首領とは違うのだ。

優れた発想には、確かに、熱狂や空想じみた部分も必要なのだ。
現実的で冷静なだけでは、優れたアイディアは出てこない。
だが、「熱意だけでは何もできない」というのも事実だ。
ニュートンやアインシュタインらも、相当に空想的なところがあったらしい。彼らは確かに、実際的な科学知識は普通の人よりはあったが、その点では、学校の秀才達には全く及ばなかったようだし、それは本当に違いない。アインシュタインが相対性理論の数学的証明を自分では出来なかったことはよく知られている。
天才達は、熱狂と現実性のバランスを取ることが出来たのだ。
これは、あなたの愚鈍なフォアマンだけでなく、誰にとっても難しいことなのだ。
ルドルフ・シュタイナー(ハンガリー帝国出身の神秘学者。哲学博士。特に教育分野で知られるが、医療、農業、建築などの業績も多く、ゲーテ研究の権威であり、芸術家でもあった)は、それを象徴する素晴らしい彫刻を造っている。
上にルシファー(悪魔)、下にアーリマン(魔神)を置き、その中間にイエス・キリストを置いた。
ルシファーは、熱狂や夢想を表し、アーリマンは唯物的な物質主義を表している。
イエス・キリストは、その中にあって、どちらにも偏らずに、双方の力を引き出して、バランスを作っているのである。
現実の人間は、ルシファー(熱狂や夢想)タイプか、アーリマン(冷徹、物質主義)タイプかのどちらかに偏り、15世紀頃から、世界的には冷淡な物質主義が支配し、今後、ますますそうなっていく。
一方で、ただ熱狂するだけで、現実性のない者達もいる。
イエス・キリストの本当の教えは、いずれにも偏らずに、バランスを取らなければならないというものだった。

無論、ジョブズやゲイツらがイエスのようなものだと言うのではない。
だが、少しは、そういったバランスの力を持っていたので、世界の発達に貢献したのだろうと思う。
もっとも、ジョブズは、自分でも言ったように、「コンピュータ世界の偉大な先人達からのバトンを落としてしまった」のだと私は思う。
確かに、彼がいなければ、コンピュータは今日のような使い易いものにはならなかったと思う。
しかし、タブレット端末は発達の方向を間違い、思考のための道具であるべきコンピュータが、思考にブレーキをかけるものになってしまった。
今日、「教育にタブレットを」という愚かなことを言う者が多い。誰も、ことに、コンピュータメーカーは、それを善意で推進しているのではない。
せめて、ゲイツが言うように、「教育現場に必要なのは、タブレットではなく、キーボードの付いたノートパコンである」ということを認識して欲しい。









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良心は、超自我の命令か、それともマナ(神秘力)か

昔、中国で、ある偉いお坊様に、誰かが、「一言、お教えを!」と願った。
すると、お坊様は、こう言った。
「善いことをせよ。悪いことをするな」
言われた方は、ややがっかりし、
「そんなことは子供でも知っています」
と不満げに言った。
すると、お坊様は、
「だが、行うのは老人でも難しい」
と答えた。

素晴らしい教えではあるが、私は、それよりも、老人はもちろん、子供でも、善いこととは何かを知っているということに気付き、感激した。
人間の中には、やはり、良心があるのだと確信したのだ。
これに関し、あのジクムント・フロイトの考えはこうだった。
人間には、普通の自我とは別に、超自我というものがあり、良心、道徳観、倫理観などは、その超自我が司っていて、悪に陥り易い自我に対して、怖いお父さんのように、悪いことをしないよう命じたり、裁いたりするのである。
カール・グスタフ・ユングは、超自我というものは認めなかったが、それでもやはり、自我に対して、善い考えや行いをさせようとすものがあると考えていた。
フロイトとユングの考え方の違いは、フロイトは超自我を個人的なものと考えており、ユングは非個人的なものだと考えていた。
ユングは、そのような善に導くものを、個人を超えたマナ(神秘的な力)であると考えていた。マナは、ユングの言う、個人を超えて存在する集合意識の中にあるものだということだろう。
しかし、フロイトは、ユングの言う集合意識を決して認めなかった。
ユングはフロイトの後継者と言われていたが、あれほど優秀な二人が、ひどく仲が悪くなってしまったことも知られている。
一方、やはりフロイトの後継者と言われたアブラハム・マズローは、フロイトとの意見の違いはあったが、こう語っていた。
「私はフロイトを否定してはいない。ただ、フロイトの深い意味を追求していたのだ」
神秘的なユングに比べ、マズローは現実的であったと考えられていると思うが、実際は、マズローの自己超越とか、至高体験などは、やはりとても神秘的で、案外に、ユングとマズローは近いように感じるのである。

医学的には、フロイトの超自我の考え方の方が、一定の評価を得ていると思うがそれは当然だろう。
なぜなら、世俗の学問が、目に見えないようなものを受け入れるはずがない。医学では、超自我は、脳の前頭葉にあると推測していることがあるようだ。
しかし、私は、良心とは、個人を超えた、大きなものの中にあるのだと確信している。
その大きなものとは神の魂と言ってよく、我々は、良心を大切にすることで、精霊である、この神の魂と結び付くのだ。
私は、良心を守ることを何よりも大切に思っており、それが出来るよう、ある程度の物質的な強さを得て、霊的なものと、地上的なものとのバランスも取らなければならないと思うのである。









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