ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2012年12月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

私は、どんな偉い人の前でも全く平気である

以前なら、私も、自分が勤務している会社の重役や社長の前に出れば、かなり緊張していた。
あるいは、取引先の偉い人に対しては、蛇に睨まれたカエルのようなものであったかもしれない。
しかし、今は、相手が大会社の社長であろうが、スポーツや映画界のスーパースターであろうが、あるいは、我が国の総理大臣や、アメリカやロシアの大統領であろうが、その前に出ても、煩わしいとは思うだろうが、私は、緊張どころか何の感慨も無いと断言する。
無論、私は全く偉くないし、別に一目置かれるような立派なところがある訳でもない。
相手が人間である限り対等だ・・・などと思っている訳でも全くない。
彼らに比べれば、私は虫けらだと言われるなら、その通りだ。
しかし、私は、自分を自分以上のものに見せることに何の興味も無いのだし、誰にどう思われようと全く意に介しない。
「まあ、殺されたりはしないしね」と言う人がいるかもしれないが、殺されたって構わないような気がする。
そもそも、殺される運命であれば、それを避けることは私には出来ない。

こんな話があった。
ある王国に、1人の清らかで美しい乙女がいた。それを、もう老人の王様が見初め、乙女の両親に、娘を差し出すよう命令が下った。
乙女の両親は、他のどんなものでも差し上げるから、娘だけは取り上げないで欲しいと懇願したが、許されなかった。
乙女に想いを寄せる青年は大勢いたが、王が相手では敵う訳がないと、無念には思っても諦めた。
これは悲劇として伝えられているかもしれない。
しかし、何か問題があるだろうか?
もし乙女が、自分は別に大したものではなく、そんな運命であるなら、それに従うまでと受け入れれば、何も悪いことなど起こっていないのである。
悲劇が起こるとすれば、それは、乙女の愚かなプライドが引き起こすのだ。
また、必ずそうとは言わないが、乙女が高い受容性を持っているなら、彼女が王宮に上がる前に、王様は糖尿病あたりでひっくり返ることだろう。

だが、私は、偉い人を嫌う訳でもない。
愛想よく笑い、肩を組んで仲良くしようと思っている。
私の態度が悪ければ、誰かが殺されるのだとしても、馬鹿丁寧になったり、逆に諌めるような態度を取れば、無事では済まないだろう。
結局のところ、人間関係を築くしかないのである。
ビジネスや政治だって、英語が出来るだの、相手の文化や思想を理解するなんて、実はそれほど重要なことではないのだ。
人間としての本質で心が通じ合えば、そんなことはどうでも良いことなのである。そして、それは容易いのだ。
相手が私を犬と言うなら、私はそれを認め、相手の心も、そして、状況も支配しようなどとは全く思わない。
私がどう考えようが、結果は全く変わらない。
それを完全に受け入れることが出来るほどの者であるなら、全く安全なのである。
老子や荘子も、それを完全に保証しているはずである。









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気の活性化の易しい原理

体内にも無限に在る気のエネルギーを活性化させれば、何でもうまくいくし、病気も治る。
ただし、うまくやって儲けようとか、金メダルを取ろうとか、病気を治そうと思って、気が活性化することは無い。
ワクワクしている時は、気が活性化していると言えるかもしれないが、自己本位の理由でワクワクする時は、気は活性化していない。
難病に侵された人が、大笑い出来るようなビデオを見て病気を治したという話も本当のこととは思うが、本当は、笑って想像力を少し取り戻した時に、創造的なことをしたから気が活性化して病気が治ったのである。
巷には、「ワクワクすれば良い」だの「笑えば良い」、「氣を出せば良い」といった、有益で無いし、今の大半の人にとっては、むしろ害になるようなアドヴァイスが多く溢れているように思われるのである。

料理などは、普通、手間隙(手間暇)かけて作ったものは気が溢れている。だが、本当は、作った人の気が活性化している時、周りの人達が影響を受けて、多少、気を活性化させるのである。
ただし、手間隙かけても、気が活性化しないこともある。創造的で無い場合である。創造とは、自己は無になり、人のためになることをしたいと思っている時に起こるのである。
ところで、料理でも、手間もかけずにぱっと作ったものが美味しいということもあり、そんな料理に気が満ちていることもあるが、手抜きの料理で気が出ることはない。そうではなくて、気が活性化している人なら、手間をかけずに作っても上手くいくというだけのことだ。

『モナ・リザ』という絵は、抜群に気が出ている。いや、本当のことを言えば、あの絵から気が出ているのではなく、見ている人が気を活性化させる場合が多いのである。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、儲けるためでも、何かの見返りを求める訳でもなく、あの絵に何十年も手を加え続けた。ただし、ダ・ヴィンチは、ある時期には、あの絵を無心で描くことで気を活性化させていたが、その気が活性化する感覚だけを求めて描くようになった時期もあった。あの絵にも、多少の改悪はあるかもしれない。いや、見る人が見れば、かなり曇っていることが分かるかもしれない。

作者が気を活性化させながら創った作品は、それを見る者にも気を活性化させる。
絵でも小説でも、詩でも彫刻でも音楽でもだ。
三浦関造さんは、インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』を9年かけて翻訳したという。翻訳だけなら、彼なら短期間で出来たであろうが、満足の出来るものにするのに、それほどの時間がかかったのだ。今は、『バガヴァッド・ギーター』もサンスクリット語原典からの訳が多いが、三浦さんのものは英訳からの日本語訳である。しかし、彼は、素晴らしい英訳を選び、他のあらゆる英訳も参考にし、ヨーガそのものも深く研究した。元々の英訳が気に満ちている上に、三浦さんの気も最高に活性化していた。その三浦さんが訳したバガヴァッド・ギーターである『至高者の歌』は、読む者の気を最高に活性化させる。

石ノ森章太郎さんは、『サイボーグ009』の完結編の原稿を書いている時に、すさまじく気が活性化していた。末期の癌に侵され、医者が、「生きているのが奇跡」と言った状態であったが、気が活性化していたので、膨大な原稿を書けたのであり、その原稿は見た目は混沌とし、間違い、欠陥も多かったが、気の塊であった。そして、それを、凄まじい苦難に耐えて完成させた彼の長男の小野寺丈さんの気も活性化していた。あの作品を読むと、単に面白いだの、感動するだのでなく、気が活性化し、超人に変化するのを感じるのである。作品の中でも、サイボーグ戦士達の気もますます活性化し、驚くべきことが起こるのである。これほど優れた作品は無く、現代の聖書と言って良いほどである。
また、福永武彦さんの『現代語訳 古事記』はとても気が活性化させられる。それは、多くの人が、「リズムがある」といった感覚で感じている。お正月の読書にお奨めしたい。彼が、子供向けに書いた『古事記物語』も遜色ないほど素晴らしい。大人が読んでも良いものだ。









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気で超人になるには何かのスキルも必要だ

気功やヨーガでは、気やプラーナというものを取り込むとか言うことがあるが、気やプラーナは実際には、どこにでもある。取り込む必要なんか無い。
そうではなく、気やプラーナ(実際は同じものだろう)を活性化させることが大切なのである。
この、気やプラーナという宇宙エネルギーの振動数を上げ、活性化させれば、人の能力は飛躍的に高まる。
ただし、高めるべきス能力が無ければ何にもならない。
何にも出来ない者が、もし、気やプラーナを活性化させることが出来ても、何も起こりようが無い。
このあたりを、気功家やヨーギ(ヨーガ行者)がちゃんと言わないから駄目なのだ。
野球選手が体内の気を活性化させれば、超人的なバッティングやピッチングをするし、ある程度、楽器演奏の練習をした者なら、可能性としてはホロビッツのような演奏をするだろう。
詩人ならシェイクスピアになるし、趣味で作曲をしている者が大音画家になることもある。
名曲の誉れ高い、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』を作詞作曲したのは、音楽家でも何でもない職業軍人だった。彼は、ある夜、気の波動を驚くほど高めたのだ。

ただし、いかに気を活性化させたと言っても、コンピュータゲームが上手くなったりしないし、ちょっとパソコンやスマートフォンを使える程度では何も起こらない。
また、ワープロソフトや表計算ソフトをいくらか使える程度のスキルでも、レベルが低過ぎて駄目なのだ。
だが、私はMAGIC(イスラエルで開発されたシステム開発ツール)や桐(管理工学研究所のデータベースソフト)、あるいは、Filemaker(ファイルメーカー社のデータベースソフト)を明らかに常人とかけ離れた能力で使う達人を何人か見たことがある。これらのソフトは、少し努力すれば誰でも使えるものだが、彼らは、気を活性化していたので、その力で、これらのソフトをスーパーツールにし、驚くべき成果を挙げるのである。彼らは、金には無欲だが、当然にして高収入だ。このような、素人の道具と言われるものを使っていても、気を活性化すれば高級なプロになれるのである。

つまり、高い創造性を発揮するようなスキルや、あるいは、人の役にたつようなことでないと駄目なのだ。
また、スポーツや武道でも、自分の金や名誉のためとか、他人を傷付けて自分が満足するためであれば、ある程度は力を発揮しても、すぐに限界が来る。
フィギュアスケートの選手であれば、欽メダルを取ろうという欲望が高いほど、気の周波数は落ちてしまい、凡ミスをしてしまうのである。

身に付けたスキルを、気を活性化して力を伸ばし続けた者が仙人なのである。
その道を極めようという純粋な気持ちで、金も名誉も全く顧みずに精進したり、ただ人のために力を使い続けた人が、力をどこまでも伸ばし続け、仙人のようになるのである。
アインシュタインは、物理学を趣味と言い、自分を重要人物だとは全く思っていなかった。アメリカのプリンストン高等研究所に迎えられ、年棒の希望を聞かれた時、アインシュタインの希望額があまりに安いので、担当官が「つまり・・・それは月給ですね?」と尋ねた。すると、アインシュタインは、「いえ、年棒です」と慌てたという話がある。
アインシュタインも一種の仙人であったのだろう。

腕振り運動も、ただ丁寧に無欲でやれば、気が活性化し、持っている能力を拡大するだろう。
しかし、基本的な能力は自分の努力で得なければならない。
だが、何かのスキルを修得し、腕振り運動を、丁寧に、何も期待せず淡々とやれば、面白いほど能力は上がり、人々に驚嘆の目で見られるようになる。
それは容易い。
必殺技とは、得意技に多量のエネルギーを注いだものなのだ。









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新たな聖書

芸術家が覚せい剤の助けを借りるという話はよくある。
また、酒にかなり酔わないと制作を行えない画家もいると聞くし、ポーのような偉大な作家すら、酒が入ってから、凡人から天才に変貌したとも言われる。
そして、フレッド・アラン・ウルフ(『ザ・シークレット』にも登場した量子物理学者)や、グラハム・ハンコック(『神々の指紋』などで知られる作家)、あるいは、エハン・デラヴィといった精神的リーダーには、公然と覚せい剤の使用を薦める者もいる。
だが、アルコールや覚せい剤に促される創造は決して本物ではない。
それにより、一応は深い精神に到達するかもしれないが、覚せい剤を使用したサルトルが巨大海老に追い回されたように、心の奥に詰め込まれた様々なものも同時に表出し、根本意識は歪められる。そのようなガラクタ要因は、おそらく、普通の人で少なくとも数百はあるだろうから、とてもではないが、神意識を純粋に表すことはない。せいぜいが見世物として面白い程度だ。

漫画家の石ノ森章太郎さんは、平井和正さん原作による『幻魔大戦』を描いた時、「新しい聖書を書くような意気込みで書いた」と述べた。確かに素晴らしい作品であったが、石ノ森さんのオリジナルではなかったし、超売れっ子だった石ノ森さんには十分な時間も無く、彼の自由な作品にすることも難しいと言うより、不可能だっただろう。
ところで、平井和正さんは元々、漫画家志望だったらしいが、石ノ森さんを見て、「こんな天才に敵うわけがない」と思って作家になったらしい。逆に石ノ森さんは、本来、作家志望であったというから、おかしなものである。
『幻魔大戦』は平井さんのライフワークとなり、彼の書いた聖書のようなものになったと思われる。
石ノ森さんが聖書を描きたいというのは、若い頃からあったのではないかと思う。そして、それはやはり、彼の純粋なオリジナルでないといけないし、出版社はじめ、商的な制約に縛られない方が良い。
そして、石ノ森さんは病に冒され、病室から出られなくなったが、時間だけは確保できた。制作内容を縛るものも無いし、彼が元々やりたかった小説として書くことも出来る。
ただ、病そのものよりも、化学治療や放射線治療により、精神的に創作意欲を奪われるという難敵が立ち塞がったが、それと戦うこともまた、聖書を生み出すには必要なことだったと思う。
そんな状態になってやっと、酒や覚せい剤によるものとは全く違う、神と一体化した本物の創造が許されるのかもしれない。
石ノ森さんのヒット作は数多いが、最大の代表作は、決して商的な意味だけではなく、やはり『サイボーグ009』ではないかと思う。
9人のサイボーグ戦士達の中には、必ずしも誉められた人間では無い者も少なくないが、誰もが、仲間のために進んで犠牲になるだけではなく、見えているなら、いかなる人間も見捨てずに助ける、愚直なまでの崇高さこそ、彼らの特徴である。
医者が、「生きているのが奇跡」と言うほどの状態の中で石ノ森さんは膨大な原稿を残したが、未完成のまま亡くなった。
ところで、先ほど、石ノ森さんのような状況になって、初めて神が降りてくるようなことを書いたが、この作品でのサイボーグ戦士達の、最終最大の敵は神なのである。

残された原稿は、あらゆる意味で判読不能なところも少なくなかったが、彼の長男の小野寺丈さんが、長年月をかけて完成させた。小野寺さんが多くの加筆をしたのは当然であるし、タイトルしかない章もあり、小野寺さんが全面的に書いたものもあるが、それとて、間違いなく、石ノ森さんの意志が乗り移っていただろう。
そして完成した「聖書」が、『サイボーグ009 完結編 2012 009 conclusion GOD'S WAR』全3巻で、今年刊行された。
実は私は、今、第3巻を読んでいる途中である。
未完の原稿を、他の者が大変な苦労の末に完成させたものとしては、「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドのノーベル賞作家W.B.イェイツの自伝小説と言われる『まだらの鳥』があるが、これも大変な名作であると思った。このような形で創られたものは、それが神の計画でなければ完成したりはしなかったのだろう。
そして、そんな意味でも、石ノ森さんの『サイボーグ009完結編』は、著者が言った訳ではないが、聖書というに相応しいものであると思う。









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人間は2通りになる

人間が、神という観念を持つようになってから、神に挑戦したり、神を超えようとする人間の話が創られるようになった。
立ち向かう神とは別の神の加護を受けたような場合を除き、そんな人間達は、当然ながら、いずれも悲惨な結果となっている。
神に挑むなど、身の程知らずも甚だしいというものだろう。
ギリシャ神話にあるお話では、いかに神のすることが不条理に思えても、神の意図は人知の及ぶところではないので、批判も赦されないのである。

だが、荘子は、起こることを起こるままに赦し、一切をあるがままに受け入れることが出来る人間には、鬼神も道を譲ると言った。
また、親鸞は、念仏の行者には、神々も地に伏して拝すると述べた。念仏の行者とは、仏に一切を任せ切った者のことである。

これらは、いずれも正しいことだ。
自分には、ものごとや状況を支配する力は全く無く、ただ、運命に定められた通りに生きるしかないことを完全に受け入れる者であれば、決して傷付くことはなく、一生安全であろう。
そのような者とは、精神の働きを制限して沈黙の中にあり、心が静かな者である。
普通の人の心が水のようなものなら、自己に制約を課し、受容性のある人間の心はハチミツのようなものだ。
コップの水をかき混ぜると、水はいつまでも揺れ動き、なかなか静かにならない。
しかし、ハチミツはいくらかき混ぜても、瞬時に静かになる。
そのような心を持つなら、あなたは無敵であり、いかなるものも、あなたを遮ることは出来ず、どんなものを恐れる必要は全くないだろう。
人類の歴史の中で、賢い人は常にそう言い続けたが、それを自分のこととして知ることが出来た者は極めて少なかった。
しかし、今や、誰でもそんな力を得られるようになった。
だが、同時に、それと全く反対の方に行ってしまう者も多く、いずれ、真っ二つに別れるだろう。
自分は人生を思い通りにすることが出来るという傲慢な思いを持ち、放埓(勝手きまま)に振舞うか、それとも、受容し、沈黙するかである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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