ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2012年10月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

お里は変えられない

通した見たことは無いが、『フラッシュダンス』という1983年のアメリカの映画で、たまたま見た部分が非常に印象的だった。
大きな規模のダンサーのオーディションの場面で、大勢の応募者達が舞台上で一緒に踊っているのを、プロデューサーらしい男が見ていたが、その男が不意に、「クラシックバレーの経験の無い者は降りて」と命じる。かなりの数のダンサーが残念そうな表情で舞台から去る。
ところがしばらしくて、そのプロデューサーらしい男が、1人の女性ダンサーに「○○番(女性のゼッケン番号)!クラシックバレーの経験は?」と問う。彼女の踊りを見れば、そんな基礎が無いことが一目瞭然であったのだろう。しかし、彼女は、明るい笑顔で、「ないわ!」と答えて、平気な風で踊り続ける。諦めるつもりはないようだ。男は、厳しい口調で「降りろ!」と命じる。そして、彼女は泣き崩れる。彼女は、これまで何度も、そんなことがあったのではなかったかと思う。
この映画自体が、名門のダンサー養成所への入学を目指す女性が、恵まれない境遇で独学でダンスをやってきたが、他の受験者達はやはりクラシックバレーの経験者ばかりで、彼女は自信を無くしていたといったものだったと思う。昼間は溶接工として働く彼女の実践の場は、舞台発表会ではなく、夜のバーだった。
バレーやピアノなんてのは、自分の意志で始めたというよりは、親にやらされるものであるし、経済的にそこそこ余裕のある親でなければ難しいかもしれない。
『さびしんぼう』という映画で、百合子という女子高校生は、毎日放課後、音楽室で熱心にピアノの練習をしていた。彼女は本当はピアニストになりたいのかもしれないが、家が貧しく、正式なレッスンも受けられなければ、家にピアノもなく、放課後に2時間程度練習する程度では、とても駄目だと分かってはいたが、それでも練習を続けていた。しかも、彼女は、家庭の事情で学校もやめてしまう。
太田裕美さんの『しあわせ未満』という歌で、「ついている奴、いない奴、男はいつも2通り」という詩があるが、別に男に限らない。
それが、自分の責任ではない、幼い頃のことであれば悔やみ切れないというものだろう。

初音ミクの今年の3月のコンサートでは、これまでのコンサートではなかったと思うが、『Tell Your World』や『タイムリミット』の曲で、ミクがクラシックバレーのような踊りを見せた。やはり優雅で美しいものだと思ったが、こんなことでも、上に述べた、条件に恵まれない、運のない者のことを思い出し、ちょっと憂鬱になってしまうのだ。
特に、ミクは権威や伝統とは無縁であって欲しいからね。

だが、アルベルト・アインシュタインは、英才教育とは全く無縁の人であるだけでなく、学校には全く馴染まず、生涯、学校教育を批判していた。
また、大学には行ったが、講義に出たことは無く、卒業のための試験は自分から創造力を奪ったと述べたこともあった。
彼は、人類の偉人であるばかりでなく、運が無かった者の希望の星でもあるのだろう。

自分がついていないと思った時の対処法には色々あるだろう。
世間で一般的なのは、もっと恵まれていない者のことを考えるというものだ。
最近はどうか知らないが、昔なら、子供の頃、親や教師に、「学校にも行けない子も沢山いるのよ」「ご飯も食べられない子のことを考えなさい」と言われたことが一度や二度はあったものだ。ただ、その場合、子供達は、言っている親や教師を見て、説得力の無さを感じ、むしろ、逆効果にしかならなかったはずだ。
そうでなくても、下を見て満足するというのは最悪の方法だ。
正しいやり方は、どんな状況であろうと、そうなるべくしてそうなったのだということを認めることだ。
どんな運命であれ、それは避けられない運命であったことを受け入れることである。
運命を自分で変えられると思う傲慢さが不幸の原因であり、狭量、不寛容にもなることを、人間はなかなか認めない。
受容性があれば、たまたま運がよくて恵まれていても、思いあがることもなく、他を見下すこともない。それが自分の力ではないと知っているからだ。
人類が受容性を友とした時、不幸や悲惨は無くなり、病気も老化もなくなるだろう。
上でとりあげた『さびしんぼう』で、百合子は、最悪の状況かもしれなかったが、不幸には見えなかった。そして、美しい彼女に憧れ続けたヒロキも、状況は変えられないながら、彼女を愛することだけで満足した。この作品を黒澤明が絶賛したとも聞くが、そんなところも評価したのなら良いと思う。









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岡本太郎は超革新的ではなかった

超革新的な芸術家、思想家、事業家でありたいなら、生きている間に世間で報いられるという望みは、可能性としても捨てなければならない。
それを願う者に世界を変える力はない。
岡本太郎は、革新的ではあったが、超革新的ではなかった。これは無論、彼を低く評価することではない。ただ、変革者ではあったが、イェイツが『ラピス・ラズリ』で言った、「破壊して造り直すGay(陽気)な存在」ではなかったというだけだ。
彼は、「認められなくていい。いや、認めさせてたまるか」「売れなくていい。いや、売ってたまるか」と言ったが、かなり売れたし、いかにエキセントリック(風変わり)とはいえ、世間に受け入れられていた。
岡本太郎は、世間より1歩近く進んでいた。
もし、彼が半歩だけ進んでいたのだったら、彼は世間的にはもっと大成功していたかもしれない。だが、世間的に賞賛されるには進み過ぎていた。だから、彼より少し後である、今の時代の、進歩した精神の持ち主達に受け入れられてきているのだ。かつては暴論であった彼の思想は、いまや、極めて有意義なものになりつつある。
だが、もし彼が、本当に1歩進んでいたら、誰も見向きもしなかったし、誰も憶えていなかっただろう。
彼の時代にだって、もっともっと革新的な人はいたし、今もいる。しかし、そんな人達が認められるとしても、それは数世紀後だ。

ビジネスだって、世界より1歩も進んだら、ちっとも成功しない。
たとえ1歩進むことが出来るとしても、半歩だけ進むというセンスが事業成功のコツだ。
マイクロソフトだって、アップルだって、そして、GoogleやFacebookなども、決して超革新的なことをやった訳じゃない。
彼らのやることは、どこか極まったところがなく、鈍くて後一歩と感じるものだが、結局はそれが成功のために必要なのだ。

ピカソは半歩だけ進んでいた。
しかし、世間の芸術家ってのは、保守的なものだ。その中で半歩進んだということは異例中の異例で、そのため、彼は凄い革新者のように言われた。しかし、実際は、世間で成功するための半歩だけ進んでいたのだ。
実は、彼は元々、世間とぴったり歩調を合わせた芸術界の超エリートだった。そんな風に訓練され、それで上手くやれた天才であったがために、かえって彼があまり先に行けなかったのは、彼にとっては悩みだった。
彼は、「私は年々下手に描くことで救われている」と言ったところに、そんな本音が感じられる。
それを見破った岡本太郎は、「俺はピカソを超えた」と言ったが、それは本当のことで、ピカソはさぞ悔しかったことだろう。
だが、晩年のピカソは1歩進み、岡本太郎を抜き返した。80歳を超えて狂気のごとく制作したエロチカシリース(版画作品)は革新的過ぎ、誰にも理解できなかった。池田満寿夫さんは心酔したらしいが、誰もその意味を理解できない。

半歩進めば成功し、1歩進めば見向きもされない。
そして、2歩進めば迫害される。イエス・キリストがそうだった。
ミュージカル映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973年。ノーマン・ジュイスン監督)を見ていると、イスカリオテのユダが、「もっと上手くやれたはずなのに」とイエスに言うのが印象的だ。イエスは、進み過ぎていたと言いたいのだろう。
マザー・テレサでさえ、2歩進みたいところ、世間的駆け引きをして一歩以上戻った。彼女自身がそう言っていたのだ。それが実際的であったし、そうすることが彼女の運命だったのだ。
だが、ジョージ・アダムスキーは平気で1歩以上進んだ。
実際は、彼のUFO写真が偽者だという証拠を示すことは誰にも出来ないし(専門的学者は本物としか言えなかった)、彼の話は学会の権威でしか反駁できない。つまり、誰も自分の言葉で彼を否定出来ず、彼を批判しようとすると、そうする者の精神的なみすぼらしさが露(あらわ)になるだけだった。だから、彼の批判者は、風説や陰口で彼を貶めることしかできない(まあ、世間はそんな攻撃に乗る傾向が大きいので、それはそれで効果があったが)。
だから彼は弾圧と嘲笑を受けた。もう少し彼が無能であったら、彼はむしろ世間の人気者になれたかもしれないが(エンリケ・バリオスのように)、彼は優れていた上に、融通の効かない真面目な男だったのだろう。

賞賛を欲しがったり、贅沢をしたいのが本音の革命家が一番恐い。
彼らは、ビジネスマンになるべきなんだ。それで失敗したら、少しは自分を顧みることが出来るかもしれないからだ。
ところが、彼らは宗教的陶酔を持ってしまっているので、魂の高貴さを伴わないまま、世界を変えようとし、結果、何でも破壊したがるのだ。
真の革命家は、数世紀の間はこれっぽっちも評価されないと心得なければならないが、本当にそれが出来る者は世界に何人もいない。
自分とは、蔑み疎まれるものであると断じない限り、革命などやるべきでない。
政治的なものに限らず、思想的、芸術的、そして、あらゆることに関してそうなのだ。
ある本物の改革者に誰かが尋ねた。
「自分のことをどう思っていますか?」
彼は、
「軽蔑しています」
と本気で言ったのだった。









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パラリンピックなどやめてしまえ

私は昔から、パラリンピック(障害者を対象としたオリンピック)に違和感、不自然さを感じていた。
なぜ、たまたま身体に不具合があるからといって、彼らを障害者というカテゴリの中に押し込むのか?
学校のスポーツ部に、障害者が入部を希望すれば、当然のごとく許可されるはずである。
もしそれが出来ないか、あるいは、し難いというのであれば、それはパラリンピック(あるいはそれを行う思想)のためではないだろうか?
障害者であろうと、健常者と一緒にスポーツをし、皆が同じ大会に参加すべきである。

例えば、バスケットボールの試合で、一方のチームに車椅子の選手がいたとする。
両チームの、その他の選手の能力が大差無いなら、車椅子の選手のいるチームが大差を付けられて負ける可能性は大きい。
しかし、それが何であろうか?
無論、車椅子の選手がいたとして、相手チームは手加減する必要など全くない。
その結果、車椅子の選手がいる方のチームが負けたとして、それはただの試合結果だ。車椅子の選手はおかしな責任を感じる必要は無いし、相手チームも何も罪悪感を感じる必要はない。
しかし、今はそうではない。
なぜそこまで試合結果にこだわるのだろう?
勝負にこだわるのは別に悪いことではない。良いことかもしれない。しかし、勝敗を、かくもその他のことと隔絶した重要なことと思い込んでいるのはなぜだろう?
それは、勝者が得をするというおかしな状況であるからだ。
オリンピックで金メダルでも取れば、大金が入ったり、馬鹿げたほどの栄誉が与えられるのは、スポーツで大儲けを目論む欲深い連中が多過ぎるからだ。連中にとっては、スポーツの勝者はヒーローであり、羨むべきものであり、偉い人であり、感動を与え勇気をくれる救い主であるという幻想を愚民共に与える必要があるのだ。

勝敗に下らない褒賞を与えないなら、車椅子の選手がいるチームが負けたとして、彼らは何も残念がることはなくなる。
それどころか、車椅子の選手のいるチームの選手達は、勝敗など比較にもならない素晴らしいものを得るのである。それに気付かないなら、それこそ、あまりに残念なことである。

障害者が健常者の大会に参加すれば、現状のルールを適用できない?
そんなルールなど無くしてしまえばいい。
今のスポーツに事細かな変なルールがあるのは、やはり勝者が得をし、勝者を利用して儲けようとする連中がいるせいだ。決して、純粋で高貴な意味での平等・公平を目指しているのじゃない。
これについて説明しよう。
薬物の使用についてのルールがあるじゃないか?これは非常に細かく難しい。そのため、ただの風邪薬で陽性反応が出るという滑稽なことも起こる。
薬物の禁止規定なども一切必要ない。
筋肉増強剤などを使いたいなら、いくらでも使えばいい。
なぜそんなものを使うのかというと、やはり、金のため名誉のためだろう?それは、選手に金を与えて自分はもっと儲けたい企業や大会主催者等がいるからだろう?
そんなものが無くなれば、誰が肉体的に危険なだけでなく、精神的にも深い傷を負う薬物なんて使うものか。
必要な部分以外、全てのルールを無くせば、不正をやらかす者も多いかもしれない。だが、勝手にやらせればいい。勝利に過大な価値があるのではないということに我々が気付けば、不正をして勝負では有利になっても、それは魂を汚すことであることにも気付き、そんな本当に恐ろしいことをする者などいるはずがない。

今のところ、スポーツに勝敗は大切なものかもしれない。しかし、もっと大切なものがある。それが何か分からない者がいるとしても、それは必ずある。それに比べれば、勝敗など取るに足りないものだ。もし人類に進化した未来が来るなら、試合結果というものがあるにしろ、誰もそんなことを憶えていたりはしないのである。









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菜食主義者から肉食について

私は4年前から肉を一切食べなくなり、2年ほど前からは、会食などの場合を除き、卵や魚介類も全く食べなくなった。
その意味では、動物や魚を殺すことに加担していないと言えるかもしれないが、さりとて、動物や魚などの命を守ることに積極的に取り組んでいる訳でもない。
そして、野菜、穀物は食べるのであるが、植物だって命を持っているのであり、それを食べるということは、その命をもらっているのだということはちゃんと認識している。
だから、私は花を摘むといったことは一切出来ないし、草1枚引き抜くこともない。
しかし、生きるためには他の生き物の犠牲を必要としているのだし、それを避けられないことを受け入れている。
だが、必要がないのに命を奪うということは、出来るなら避けたいと思っている。
少なくとも、私は、ゴキブリがいても殺す気は無いし、蚊が飛び回っていても放っておくし、それが手足に留まれば、なるべく好きにさせるようにしている。

だが、私の叔父が漁師であるのだが、小さな船で漁をするその仕事は好きだし、また、古くからある方法で狩猟をするマタギについても、彼らの生活について深い敬意を感じているのである。
このブログでも時々ご紹介する、『解脱の真理』や『心身の神癒』の著者であるスコットランド出身の聖者マード・マクドナルド・ベインは、これらの本の中で、牛とほぼ同じであるヤクや鳥肉は好物でよく食べていたし、卵や乳製品、魚も食べていた。未開の地を含め、世界中を旅した彼には、食べ物を選ぶことなど出来なかったのであるし、今でも、地域によっては、ネズミ、トカゲ、あるいは、猿を食べなければ生きられない人達も沢山いる。
だが、私はそうではなく、幸運なことに動物や鳥、魚を食べなくて良いというだけのことであり、別に菜食者が偉いとは全く思っていない。
しかし、快楽のために動物や鳥や魚介類を食べるつもりは全くない。私は、今でも肉や魚を食べたいという欲望は大きいのであるが、それを抑えることは難しくないのである。

だが、肉を食べることについて、こういった話もあることをご紹介しておく。
食料として多くの人間に好まれる牛や豚、あるいは羊やニワトリ、キジ、鴨、七面鳥、それに多くの魚介類などは、それら自体、素晴らしい存在であり、自然の生命を表現しながら立派に生きている。
だが、人間の生涯は冒険であり、それによる大きな進歩の可能性を秘めており、他の動物では得ることの出来ない経験を得ることが出来ると言えるのではないか?
生物の細胞の1つ1つに生命があるが、さらに、その原子の1つ1つに意志があるに違いないと思う。
だから、牛であれば牛として生きるだけであるが、人間に食べられて、その一部が人間と一体化すれば、非常に多様な生き方をする人間として生きることになる。
その細胞や原子は、人間としての経験を得て、もしかしたら、高い段階に進化出来るかもしれない。
取り込んだ動物の細胞に満ちる生命に対し、優れた経験を得させることに使命を感じるのであれば、動物を食べることも良いことかもしれない。
それは植物に対しても同様である。
生き物は、他の生き物の命をもらって生きなければならないのだが、もらった方は生きることに対する責任がある。特に、他の動物に比べ、はるかに大きな自由意志を与えられた人間はそうなのである。
肉を食べるなら、決して快楽のためではなく、命をつなぐことで、良き冒険の人生を送り、いつか、自我を神の心の中に溶け込ませ、取り入れた動物の命と共にそれを喜ぶという使命を約束し、果たさなければならない。
それが出来るなら、肉を食べても良いのだろうと思う。
だが、そんな者は、肉を食べるしか生きる術がなく、食べる動物を自分で殺すのだが、それは、殺せるだけの力があることを示すことで、食べる相手に対する敬意を示すことにもなるのである。そうでなくても、少なくとも解体をすることで、愛惜と畏敬を感じる機会を持つのである。
川原礫さんの小説『アクセル・ワールド』で、小学4年生の可憐な少女、四埜宮 謡(しのみや・うたい)は、飼育しているアフリカオオコノハズク(フクロウの一種)のエサのネズミを、既に死んでいて毛も剃ってあるとはいえ、ナイフを使って自分で丁寧に解体していた。普通は解体するにしてもハサミでやるのだが、彼女が、手間のかかるナイフを使うのは敬意のためだと言う。お話の中でも、彼女は素晴らしい性質の少女であると思う。









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十分に楽しくあるべきだが限度はある

テレビ放送の録画が出来ない世界など想像することも出来ないかもしれないが、昔、録画装置を発明したソニーと、録画禁止を訴えるテレビ局とで長い裁判を行ったものだった。そして、アメリカで、テレビ放送の録画は違法でないという歴史的な判決が出たのだが、その反対の結果が出た可能性も大きかった。ソニーの盛田昭夫さんが弱気になっていたら、まず、テレビ局側が勝っていたことだろう。
もっとも、デジタル放送の時代になり、再びテレビ局側はエゴを主張して、録画装置の支配をますます強めようとするだろう。
ところで、昔から、テレビ番組の録画で誰もが残念に思うことが、CMまで一緒に録画されてしまうことだ。CMを飛ばして録画するようなものもあったような気がするが、おそらく、あまり上手くいかなかったのだろうと思う。
そのテレビCMであるが、私がテレビ放送の録画をしなくなり、また、なるべくテレビを見ない理由が、今のCMは、あまりにおぞましく醜いからだ。ビデオ録画の時代には、そこまでは感じなかった。いや、テレビCMだけではなく、あらゆるCM-コマーシャル(商売の)メッセージ-が今や醜悪の極みとなった。
CMは、欲望や快楽の肯定が前提だ。
私も、欲望や快楽を否定するわけではない。だが、欲望至上主義者、快楽史上主義者ではない。人間はそうであってはならない。
しかし、今のCMは、欲望第一、快楽第一を主張しているのである。
そこに気付かないといけない。
人間に欲望はあるし、快楽を求めるのも正常なことだ。しかし、それが一番大事になってしまったら、もう人間ではないのだ。
悪魔が、40日の断食で飢えたイエスに、「お前が神の子なら、この石をパンに変えてみよ」と命じたが、イエスは、「人はパンだけで生きるのではない」と答えた。
イエスは、「人にパンは不要」と言ったのではない。もっと大事なものがあると言っただけだ。

CMでよく使われるセリフだが、それ以外にもよく聞く言葉として、「楽しくなくちゃいけない」「面白くなくちゃいけない」というものがある。
楽しいこと、面白いことは良いことだ。訓練であっても、楽しい部分が無いと、特に未熟な者では継続が出来ないということは認めるべきだろう。
しかし、それをすりかえて、楽しいだけ、面白いだけ、あるいは、楽しさや面白さがあまりに大きいと、何の意味もないばかりか、堕落するだけである。

必要なだけの楽しさは、求めずとも誰にも与えられるのだと私は思う。
だから、あえて積極的に快楽を与えてくれるものを欲しがるべきでない。自然に得られるだけの快楽に満足すればよく、それに関しては、むしろ否定は良くない。
しかし、過ぎた快楽を求めれば、天からの警告があるように思う。
一般には、「楽しいことが無い」と言うのは、過分な快楽を求めているだけなのである。

アニメ『灼眼のシャナ・ファイナル』の最終回近くで、坂井悠二と一体化していた創造神「祭礼の蛇」が悠二と離れる時、祭礼の蛇は「私は快楽の肯定者だ。すまないな」と言う。祭礼の蛇は、「紅世(ぐぜ)」という異世界の神であるが、愛する紅世の民達のために、楽しい世界を創造した。
しかし、紅世のもう一柱の神「天罰神」アラストールは、その楽園に1つの理(ことわり)を織り込んだ。制約を設け、楽しいだけの世界には決してしなかったのだ。
だが、坂井悠二は徹底して快楽を嫌う。自分は罰せられないといけない存在であるとして、愛するシャナの手を取らない。アラストールは、それもまた戒めた。
そして、シャナに叩きのめされた悠二は、快楽と崇高さを、妥協させたのではなく、昇華させる。
まあ、そこまでの意味を込める気が制作者にあったかどうかは分からないが、そういう風にも取れたのだ。
この世の秘密を1つ明かすなら、人間は、快楽に向かう心、すなわち、放縦(勝手気まま)にしたがる心を抑えた分だけ、神から力を与えられるのである。それは、やってみればすぐに分かるであろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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