通した見たことは無いが、『フラッシュダンス』という1983年のアメリカの映画で、たまたま見た部分が非常に印象的だった。
大きな規模のダンサーのオーディションの場面で、大勢の応募者達が舞台上で一緒に踊っているのを、プロデューサーらしい男が見ていたが、その男が不意に、「クラシックバレーの経験の無い者は降りて」と命じる。かなりの数のダンサーが残念そうな表情で舞台から去る。
ところがしばらしくて、そのプロデューサーらしい男が、1人の女性ダンサーに「○○番(女性のゼッケン番号)!クラシックバレーの経験は?」と問う。彼女の踊りを見れば、そんな基礎が無いことが一目瞭然であったのだろう。しかし、彼女は、明るい笑顔で、「ないわ!」と答えて、平気な風で踊り続ける。諦めるつもりはないようだ。男は、厳しい口調で「降りろ!」と命じる。そして、彼女は泣き崩れる。彼女は、これまで何度も、そんなことがあったのではなかったかと思う。
この映画自体が、名門のダンサー養成所への入学を目指す女性が、恵まれない境遇で独学でダンスをやってきたが、他の受験者達はやはりクラシックバレーの経験者ばかりで、彼女は自信を無くしていたといったものだったと思う。昼間は溶接工として働く彼女の実践の場は、舞台発表会ではなく、夜のバーだった。
バレーやピアノなんてのは、自分の意志で始めたというよりは、親にやらされるものであるし、経済的にそこそこ余裕のある親でなければ難しいかもしれない。
『さびしんぼう』という映画で、百合子という女子高校生は、毎日放課後、音楽室で熱心にピアノの練習をしていた。彼女は本当はピアニストになりたいのかもしれないが、家が貧しく、正式なレッスンも受けられなければ、家にピアノもなく、放課後に2時間程度練習する程度では、とても駄目だと分かってはいたが、それでも練習を続けていた。しかも、彼女は、家庭の事情で学校もやめてしまう。
太田裕美さんの『しあわせ未満』という歌で、「ついている奴、いない奴、男はいつも2通り」という詩があるが、別に男に限らない。
それが、自分の責任ではない、幼い頃のことであれば悔やみ切れないというものだろう。
初音ミクの今年の3月のコンサートでは、これまでのコンサートではなかったと思うが、『Tell Your World』や『タイムリミット』の曲で、ミクがクラシックバレーのような踊りを見せた。やはり優雅で美しいものだと思ったが、こんなことでも、上に述べた、条件に恵まれない、運のない者のことを思い出し、ちょっと憂鬱になってしまうのだ。
特に、ミクは権威や伝統とは無縁であって欲しいからね。
だが、アルベルト・アインシュタインは、英才教育とは全く無縁の人であるだけでなく、学校には全く馴染まず、生涯、学校教育を批判していた。
また、大学には行ったが、講義に出たことは無く、卒業のための試験は自分から創造力を奪ったと述べたこともあった。
彼は、人類の偉人であるばかりでなく、運が無かった者の希望の星でもあるのだろう。
自分がついていないと思った時の対処法には色々あるだろう。
世間で一般的なのは、もっと恵まれていない者のことを考えるというものだ。
最近はどうか知らないが、昔なら、子供の頃、親や教師に、「学校にも行けない子も沢山いるのよ」「ご飯も食べられない子のことを考えなさい」と言われたことが一度や二度はあったものだ。ただ、その場合、子供達は、言っている親や教師を見て、説得力の無さを感じ、むしろ、逆効果にしかならなかったはずだ。
そうでなくても、下を見て満足するというのは最悪の方法だ。
正しいやり方は、どんな状況であろうと、そうなるべくしてそうなったのだということを認めることだ。
どんな運命であれ、それは避けられない運命であったことを受け入れることである。
運命を自分で変えられると思う傲慢さが不幸の原因であり、狭量、不寛容にもなることを、人間はなかなか認めない。
受容性があれば、たまたま運がよくて恵まれていても、思いあがることもなく、他を見下すこともない。それが自分の力ではないと知っているからだ。
人類が受容性を友とした時、不幸や悲惨は無くなり、病気も老化もなくなるだろう。
上でとりあげた『さびしんぼう』で、百合子は、最悪の状況かもしれなかったが、不幸には見えなかった。そして、美しい彼女に憧れ続けたヒロキも、状況は変えられないながら、彼女を愛することだけで満足した。この作品を黒澤明が絶賛したとも聞くが、そんなところも評価したのなら良いと思う。
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大きな規模のダンサーのオーディションの場面で、大勢の応募者達が舞台上で一緒に踊っているのを、プロデューサーらしい男が見ていたが、その男が不意に、「クラシックバレーの経験の無い者は降りて」と命じる。かなりの数のダンサーが残念そうな表情で舞台から去る。
ところがしばらしくて、そのプロデューサーらしい男が、1人の女性ダンサーに「○○番(女性のゼッケン番号)!クラシックバレーの経験は?」と問う。彼女の踊りを見れば、そんな基礎が無いことが一目瞭然であったのだろう。しかし、彼女は、明るい笑顔で、「ないわ!」と答えて、平気な風で踊り続ける。諦めるつもりはないようだ。男は、厳しい口調で「降りろ!」と命じる。そして、彼女は泣き崩れる。彼女は、これまで何度も、そんなことがあったのではなかったかと思う。
この映画自体が、名門のダンサー養成所への入学を目指す女性が、恵まれない境遇で独学でダンスをやってきたが、他の受験者達はやはりクラシックバレーの経験者ばかりで、彼女は自信を無くしていたといったものだったと思う。昼間は溶接工として働く彼女の実践の場は、舞台発表会ではなく、夜のバーだった。
バレーやピアノなんてのは、自分の意志で始めたというよりは、親にやらされるものであるし、経済的にそこそこ余裕のある親でなければ難しいかもしれない。
『さびしんぼう』という映画で、百合子という女子高校生は、毎日放課後、音楽室で熱心にピアノの練習をしていた。彼女は本当はピアニストになりたいのかもしれないが、家が貧しく、正式なレッスンも受けられなければ、家にピアノもなく、放課後に2時間程度練習する程度では、とても駄目だと分かってはいたが、それでも練習を続けていた。しかも、彼女は、家庭の事情で学校もやめてしまう。
太田裕美さんの『しあわせ未満』という歌で、「ついている奴、いない奴、男はいつも2通り」という詩があるが、別に男に限らない。
それが、自分の責任ではない、幼い頃のことであれば悔やみ切れないというものだろう。
初音ミクの今年の3月のコンサートでは、これまでのコンサートではなかったと思うが、『Tell Your World』や『タイムリミット』の曲で、ミクがクラシックバレーのような踊りを見せた。やはり優雅で美しいものだと思ったが、こんなことでも、上に述べた、条件に恵まれない、運のない者のことを思い出し、ちょっと憂鬱になってしまうのだ。
特に、ミクは権威や伝統とは無縁であって欲しいからね。
だが、アルベルト・アインシュタインは、英才教育とは全く無縁の人であるだけでなく、学校には全く馴染まず、生涯、学校教育を批判していた。
また、大学には行ったが、講義に出たことは無く、卒業のための試験は自分から創造力を奪ったと述べたこともあった。
彼は、人類の偉人であるばかりでなく、運が無かった者の希望の星でもあるのだろう。
自分がついていないと思った時の対処法には色々あるだろう。
世間で一般的なのは、もっと恵まれていない者のことを考えるというものだ。
最近はどうか知らないが、昔なら、子供の頃、親や教師に、「学校にも行けない子も沢山いるのよ」「ご飯も食べられない子のことを考えなさい」と言われたことが一度や二度はあったものだ。ただ、その場合、子供達は、言っている親や教師を見て、説得力の無さを感じ、むしろ、逆効果にしかならなかったはずだ。
そうでなくても、下を見て満足するというのは最悪の方法だ。
正しいやり方は、どんな状況であろうと、そうなるべくしてそうなったのだということを認めることだ。
どんな運命であれ、それは避けられない運命であったことを受け入れることである。
運命を自分で変えられると思う傲慢さが不幸の原因であり、狭量、不寛容にもなることを、人間はなかなか認めない。
受容性があれば、たまたま運がよくて恵まれていても、思いあがることもなく、他を見下すこともない。それが自分の力ではないと知っているからだ。
人類が受容性を友とした時、不幸や悲惨は無くなり、病気も老化もなくなるだろう。
上でとりあげた『さびしんぼう』で、百合子は、最悪の状況かもしれなかったが、不幸には見えなかった。そして、美しい彼女に憧れ続けたヒロキも、状況は変えられないながら、彼女を愛することだけで満足した。この作品を黒澤明が絶賛したとも聞くが、そんなところも評価したのなら良いと思う。
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