ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2012年09月

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

他人や親を嫌悪すること自体は何も悪くない

精神分析学者の岸田秀さんが、何かの本に、「イエス・キリストのような大嘘つきがいるから気をつけなさい」と書かれていたのを覚えている。
(あくまで、文章の一部であり、これだけで岸田さんの思想を判断してはならない)
まあ、ニーチェやイェイツ、それに、オスカー・ワイルドのような反キリスト主義者は、他にも沢山いる。
私は、イエスを信じているが、彼らも皆、好きである。
ところで、岸田さんについては、もっと思うところがあるのだが、それは後で述べる。

今、私はイエスを信じていると書いたが、彼の教えの中でどうしても受け入れ難いものがある。
イエスは、人々に、モーセの定めた掟(いわゆる十戒)を守るよう命じた。
盗むな、殺すな、偽証するな、姦淫するな・・・これらは良い。
しかし、イエスはその中でも重要なものとして、「隣人を愛せ」と「父母を敬え」を取り上げた。
これは、私には無理である。
誰が何と言おうとだ。
おそらく、そう思っている人は多いのではないかと思う。
そして、岸田さんも、とっくの昔に死んだ母親を一生赦さないと著書に書かれていたし、おそらく、憎んでいると言って良いだろう。
このことについて、岸田さんを批判する気は毛頭無いし、世の中の人嫌い、親嫌いの人々に関しても同様である。
岸田さんは、母親の愛情なんてものは大嘘であり、世間でそんなものがあると思われているのは、狂った幻想であると断言する。
私は、岸田さんの唯幻論は、有益であるとは思うが、全て信じている訳ではない。
しかし、世間で言われる母親の愛なんてのは、大半がまやかしであることは間違いないと思っている。

ところで、私は、岸田さんが、「イエスは大嘘つき」と言ったことについても、それはその通りかもしれないと思う。
英文学者で詩人、そして、タオイスト(老荘思想家)の加島祥造さんが、著書の中で、「老子は嘘つき、荘子は大嘘つき」と書かれていたのを印象深く憶えている。
だが、加島さんは、「嘘のない真理はない」とも言ったのだ。
そして、インドの聖者ラメッシ・バルセカールは、イエスは、特に当時の人々には、ああいった教え方をするしかなかったと言う。そして、それは現代でも、さして事情は変わらないと思う。

親嫌い、人嫌いについて、正しい正しくない論に意味はない。
「自分が親になれば、親の有難さが分かる。親嫌いなど甘えだよ」
と言いたい者は多いだろうが、そんなものは無視して良い。
逆に、子供の方の言い分にも何の意味もない。
確実なことを言うなら、親を敬うか、隣人を愛するかは、自分の意志とは何の関係もないということだ。
親を敬うように生まれれば嫌でも敬うし、嫌悪するように生まれていれば、嫌悪するしかないのだ。
ラメッシ・バルセカールの言い方では、人間は、元々、そういったことは、最初からプログラムされているのであり、そのプログラムを修正することは絶対に不可能なのだ。
いかに、人を嫌悪し、親を憎むことが良くないことであると思っても、自分ではどうにもならないのだ。
人を嫌悪し、親を憎むようプログラムされているのに、人を愛しなければならないとか、親を敬わなければならないと思って、無理にそうであるように振舞うという嘘を演じれば、心は抑圧がされ、抑圧は歪んだものとして噴出し、人嫌い、親嫌いどころではない災禍になりかねないのだ。
宗教家は、人を愛さないことや親を敬わないことを赦さず、無理矢理にそんな思いや行いを強要し、とんだ災いや不幸を作っているのだ。

どれほど他人を嫌悪しても構わない。
それだけ親を憎んでも構わない。
その正当性があるかどうかはどうでもいい。
あなたに、他人や親を嫌うことは止められない。
だが、それは、単にあなたの内部に組み込まれたプログラムのせいであり、言ってみれば、運命なのだ。
そして、それは事実なのだから、受け入れるべきなのだ。
だから、自分を嫌悪する必要は全く無いということだ。
あなたには何の責任もないのだから。
だが、運命に逆らうことや、必ずそれに失敗するはずの自分を嫌うことは罪なのだ。
運命を受け入れれば、どれほど人嫌い、親嫌いであっても、他人や親とも、そこそこ平和にやっていけるのである。
そして、出来れば、他人や親に親切であって欲しいと思うが、そんなことも、無理をしなくても出来るかもしれないのだ。
だが、自分を嫌悪する者には決して出来ないだろう。

ところで、モーセの十戒にある、姦淫についてはどうだろう?
実は同じだ。
前にも書いたが、死して半世紀以上が経っても世界中からの巡礼者が絶えず、ガンジーやユングも崇敬した聖者ラマナ・マハルシに、ある男が、自分には妻子があるが、隣の家の娘が魅力的でたまらない。間違いを犯しそうだが、どうすればいいだろうかと尋ねた。
マハルシは、そう言っている自分が誰なのか探求しなさいとは言ったが、間違いが起こっても後悔するなと言ったのだ。
運命であれば、彼が間違いを犯すことは避けられない。
だが、彼のすべきことは、運命を受け入れることであり、自分を嫌悪しないことなのだ。
無論、これは、彼が罪に問われないとか、彼は、妻や家族に対して謝罪の必要が無いという意味ではない。
だが、全ては運命である。
イエスもまた、神の意思でなければどんなことも起こらないと言った。
だが、その出来事にどんな意味があるのかは、たかが人間に分かることではない。
我々に出来ること、ただ、運命を受け入れることである。
荘子も親鸞も、ほぼ同じことを言った。
「起こることを、起こるままに赦せる者には、神々も地に伏して崇める」









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夢は、現実よりも真の世界に近い

眠ってる時に見る夢は、目が覚めている時の世界とは別の世界だと言うことができる。
大正・昭和の作家である江戸川乱歩は、「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」、つまり、目覚めの時の方が夢で、眠っている時の世界の方が本物なのだと常に言っていたらしい。
だが、事実はこうだ。
目覚めている時の世界も、眠っている時の世界も、両方共夢なのだ。
本当の世界は別にある。
そして、眠っている時の夢の世界の方が、目覚めている時の世界よりも本当の世界により近いのだ。

眠っている時の夢の世界は、目覚めている時の世界よりはるかにスケールが大きくダイナミックだ。
目覚めている時の心では、夢の世界の大きさについていけないので、夢はほとんど覚えていないのである。
目覚めている時に意識改革を起こして、大きさな心を得ると、覚えていられる夢が多くなる。
よく、心を雄大にすると、夜見る夢も雄大になると言うが、それは間違いだ。夢は元々雄大なのだが、目覚めている時の心が矮小だと、夢の壮大・荘厳なところを覚えていないというだけのことなのだ。

まして、本物の世界のこととなると、夢のことさえろくに覚えていない、我々の小さな心に感知できる訳がない。
夢というのは、本物の世界を知るための手がかりなのだ。
それは、夢の世界を月に、本物の世界を太陽に喩えることが出来る。
月は夜道を照らしてくれるが、その光は太陽のものだ。
だが、もし、昼を知らなければ、太陽のことが分からない。
そこで、月を見て、太陽の存在に気付こうとする。
しかし、そんなことをせず、昼に太陽を見れば分かることだ。
夜は月に頼るしかない。しかし、太陽が出ているのに、月に頼る必要はない。
そして、さらに、我々は太陽を超えて真理の光に到達しなければならない。

『トータル・リコール』や『マトリックス』といったバーチャル・ワールド(仮想世界)を扱った映画に独特の魅力があるのは、その中に、微かではあるが、本物の世界へのきっかけが見えるからだ。
川原礫さんの小説『アクセル・ワールド』を読むと、バーチャルゲームの世界に、現実以上の現実があることを発見する(感性があればだが)。
夢と同じで、仮想世界は、我々が現実と言っている世界より、むしろ上位なのだ。なぜなら、そこでは、現実世界では隠された、心の深奥が現れてくるからだ。
さらに、この作品では、目覚めの時に心を磨くことで広大な夢に馴染むように、現実世界での心の強さが、仮想ゲームの質を高めることもちゃんと描いている。
しかし、忘れてはならないのは、夢や仮想世界をはるかに超えた本物の世界があることだ。
『アクセル・ワールド』も、それに気付くような読み方をするのが良い。
そういう読み方をするなら、芥川賞どころかノーベル賞を与えるべき作品である。

下位の世界は、上位の世界のための修行の場とでも言えよう。
修行の場はとても重要であるが、そこが唯一最高の世界であると勘違いしてはならないのだ。
『アクセル・ワールド』でも、ゲームの世界はあくまで楽しむためのものであると言う。ただし、快楽のためのものではないのだ。
問題は、本当の楽しさとは何であるかということだ。
この世でだって、美食や性やゲームや映画といった、娯楽や快楽に耽ると、すぐに飽きて、苦痛にすらなる。普通の人は、そんな時、さらに大きな快楽の刺激を求めるという愚かなことをするし、社会もそれを煽る。
だが、食を慎んでいれば、どんな食事も素晴らしくなるし、宿命により与えられた義務を果たしてこそ、休暇が楽しいのだ。
いずれにしろ、この世界は、下位の世界だ。それを唯一で最上位の世界だという大誤解をするから、絶望したりするのだ。
だからといって、この世界を軽んじてないがしろにするのも、同じくらい愚かだ。
この世界で心を磨かないと、上位の世界に通じる道が開かず、ずっと下位の世界にいるしかなくなる。
この世での楽しみなど求めないことだ。もっとも、そう思っていると、案外に楽しいのも確かである。

ところで、初音ミクの歌も、とくに、コンサートで使われるほどの歌になると、こういったことを全部言っているのである。
それは、ミク自体が仮想の存在であり、報酬を求めずに歌を創る作者達の心に上位世界が働きかけるきっかけが多くなるからだろう。
ミクは福音を語っているのである。

それと、黒澤明監督の『夢』は必ず見るべきものだ。こんな素晴らしい作品のDVDがわずか千円ちょっとで買えるとは驚きである。









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桁外れの力はむしろ無力に見える

英会話学校に入ったら英語が話せたり聞けるようになれるべきだし、エステに通ったらスタイルが良くなるのでなければならないと誰もが思うだろう。
人々がジョッギングやウォーキングをするのは、痩せたり体力をつけるためなのだろう。
中学生や高校生、あるいは、小学生ががんばって勉強するのは、試験の順位が上がったり、良い学校に進学できると思うからに違いない。

そういった考え方が世間に蔓延してしまい、そこは人間が生きるに相応しくない処になってしまったのだ。
だが、効果が明らかに見えたりすることなんて、つまらないものなのだ。
こう言われて、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして困惑したり、「金を払ったり努力して効果を求めるのは当たり前じゃないか」と怒ったり、笑ったり馬鹿にしたりする人が多いだろう。
笑われたとしても、イエスは、笑われないようなら真理ではないと言ったのだから、むしろ喜ぶべきかもしれないがね。

私は、TM(超越瞑想)を1年ほど、毎日欠かさず熱心にやっていたが、効果は全く感じなかった。しかし、ある時、驚くべき効果を実感してしまった。しかし、それでTMをやめてしまったのだ。悪くはないが、それほどでもないということなのだ。
TMの書籍やWebサイトには、その実習者達が、「こんな素晴らしい効果がありました」と言う言葉が書かれているが、それを見ると、私は虚しく感じるのだ。「その程度のことをしてどうするのだ?」と私は思うのだ。

その後、私は、政木和三さんが発明した、パラメモリ、アルファシータ、バイオソニックを使った。効果は何も感じなかったが、それで良かった。
だが、いつしか、持っていたのは、皆、人にあげた。私には不要になったのだ。
親戚の男子中学生に、最後に持っていたバイオソニックをあげたのだが、彼は、自分では何も効果を感じていなかっただろう。だが、私がみれば、効果が分かるのである。確かに、彼は中学校の劣等性だったのが、良い高校に入り、成績もずっと1番を通すようになった。それだけでも大した効果だが、その程度であって欲しくはない。
これらの装置と同じ理論のヘミシンクも、やっている本人は、ほとんど効果を感じない。
これに関しては、ヘミシンクの研究者であったロバート・モンローの本にこんなことが書いてある。ある男が奨められてヘミシンクに取り組んだが、やがてこう言う。
「効果なんて何もないじゃないか!そりゃ、妻を5年振りに食事に連れていったり、息子と初めて釣りに行ったりはしたが、それだけなんだ。何も変わらないんだ!」
無論、それを大きな変化と言うのである。

私がよくお奨めする腕振り運動も、効果を感じられない人が多いと思う。
いや、時々、素晴らしい効果があったと言う人がいるが、それは妄想の効果だろう。腕振り運動は、そんな安っぽいものじゃない。
私は10年以上、全く効果を感じないまま続けている。
私が最近、あまり腕振り運動について言わないのは、効果が無いのではなく、効果があり過ぎて危ないと感じてきたということもある。
まあ、根気良く続けられる人があまりいないから、力を身に付けた人も少ないのであるがね。
関英男博士は、腕振り運動を続けると、GTP(複数の重力子が特殊に構成された粒子)が体内に多量に蓄積されると言った。GTPは、赤ん坊の時が最大で、その後は、減る一方で決して増えないが、腕振り運動で増やすことができる。
だが、実際は体内に蓄積されるというよりは、エネルギーの渦を作り出して、その人を取り巻く。
それで何が危ないかというと、その力が人を直接殺すようなことはもちろん無いが、結果的にそうなることはある。
それは、呪術で言う呪い返しのように、悪意を受けたら、それを発した人に返すといったものではない。それどころか、悪意は、発した人から1センチも飛ばずに留まってしまうのだ。GTPが作り出す波動(GTW)が及ぼす範囲なんて、ほとんど無限だからだ。
だが、何よりも、こちらが悪意を持たれないようにすることだ。私は、愚かにも、かなりやらかしてしまった。

私は、無目的に、毎日、腕立て伏せやスクワットをやっているが、こちらはさすがに、長くやっていると効果が嫌でも出てしまう。
だから、なるべく、それに無頓着でいるようにしている。
それに比べ、腕振り運動は、全く効果を感じない。しかし、直感を働かせるなら、その威力は凄いとか言ったレベルではない。
そんな修行は、他にもあるだろう。それらは全て、何の効果もないとして、世間の人々に顧みられないものである。

喩えて言えば、ガンジーの非暴力主義のようなものだ。
暴力は一定の効果がある。しかし、非暴力は、その1万倍の効果がある。それを世間の人は知らない。
だが、『バガヴァッド・ギーター』の熱心な愛読者だったガンジーはそれを知っていた。
世間で、人々が取り組むことは暴力と同じなのだ。心では効果は無いと思っても、賢い人は非暴力を選ぶのだ。









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天使に逢っても憶えていないはず

私は小学生の頃から勉強嫌いで、成績も悪かったが、ある日、何かの気紛れで、教科書を取り出して真面目に読み、漢字の書き取り練習をしてみたところ、これまで味わったことのなかった充実感を感じて少し驚いたことがあった。
勉強とは、賢くなるためにするものであるが、その根本をまるで顧みず、「明日は当てられるから」「試験に出るから」「優越感を味わえるから」「将来、偉い人や金持ちになれるから」などといった下らない目標を押し付けられ、高貴さを完全に捨て去った、卑しい馬鹿になるための勉強をさせられるのが学校である。

私は、社会に出て初めてやった仕事はセールスマンだったが、私のように、人との関わりに緊張を感じる引きこもり気質の者でなくても辛い仕事であると思う。しかし、何と言っても初めて働くのであり、嬉しい感じもあって熱心にやっていると、苦しいながらも充実しており、今、その時のことを思い返しても、やはり楽しく感じて懐かしいのである。
しかし、社会に慣れてくると、歩合制セールスということもあり、がんばれば、収入が増えて、いい車を買ったり、さらには、人生で成功者になれるといったことを考えるようになってしまい、仕事は辛く味気ないだけのものになり、やがて続けられなくなった。同じセールスマンであっても、顧客の利益を本当に考える人なら、また、そんなことが可能なセールスであれば、長く熱意を持って続けられるかもしれない。そんなものが今の日本にあるとは考えられないのであるがね。
他の仕事でも、スキルが上がり実力が付けば、収入、賞賛、立場、地位といった世間の褒美が得られるといった、やはり卑しい思いが強くなれば、仕事の楽しみは失われ、金や会社の奴隷になるのである。

無目的にただやっていれば、内部にある素晴らしい英知に導かれ、自ずと正しくなり、やがて、その英知と融合するのに、世間の教義や信念にひれ伏せば、英知と完全に切り離され、やがて惨めな亡者になる。そんな人は、食欲や性欲に溺れるしかなくなるが、それが、現代のほぼ全ての人間であることはすぐ分かると思う。
イエスは、「二人の主人に同時に仕えることは出来ない」と言ったが、この二人の主人とは、今述べた、内なる英知と世間の教義である。内なる英知とはまた、宇宙全体に偏在する至高の存在でもある。

個人的な欲望のために本を読んだり、身体を鍛えても、精神は汚れ、惨めさを増すだけだ。
サミュエル・スマイルズの『自助論』は名著と言われるが、これを読むことで、多くの人達はかえって堕落したのである。
子供の時に、無目的に花に水をやり、自分のおやつをきょうだいや他の子に分け与え、神話を読んだことがあるなら、それが輝かしい光の中にあったことが分かるであろう。
私は、毎日、何の見返りも求めず、全く無目的に数百回のスクワットや百数十回の腕立て伏せをやり、ただ福音書を読むようにしているが、本当に無目的であれば、それが、子供の時の楽しさを少しは思い出させてくれることがある。
誰の詩だったか忘れたが、「新たな目で見れば何でも美しい」と書かれていたのを憶えているが、全くその通りだ。そのためには、全く無目的でいて、何の報酬も求めてはならないのだ。
楽しもうなどと考えてもならない。そうすれば、聴き飽きたと思っている音楽も、見飽きたと思った映画も輝きを取り戻す。
私にとっても、新たな目で見、思慮を離れて聴く初音ミクの美しさは息を飲むほどであるのだ。
天使というのは、思慮や判断を超えた精神の状態でなければ見えないが、そんな時の純粋な目で見た美しさは度が過ぎていて、ほとんど記憶に残らないのである。









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誰を目標としているか

どんな人間になりたいのかと考えることは難しいものだ。
それに比べれば、誰かを目標に置けば、自分なりにかもしれないがそのイメージに近付けば、自分が理想とする特質に近付くことができる。
しかし、多くの場合、目標の選定を誤る。
子供のうちなら、イチローや浅田真央さんのようなスポーツ選手に憧れて目標にしたいと思うことも多いだろうし、大人であれば、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのような大事業家を志したいと思うかもしれない。
しかし、彼らはただの人間であり、特に我々と違いがある訳ではない。
彼らを特別と見るかどうかは主観の問題であるが、彼らはただ、あのようなことをすることが運命付けられているだけのことだ。
言い換えれば、どんなに彼らのようになりたくても、そんな運命でなければ、決してそうはなれないのだ。
人は他人になどなれない。
それが分かれば、見栄と欲望から出るだけの間抜けな目標など持たないことだ。

イエス・キリストは、「私はこの世の者ではない」と言った。
世間的な人間としての彼を目標にすることは意味がない。それは彼の本質ではないからだ。しかし、彼は、本当の意味での、人類の模範なのだ。
しかも、イエスは、「あなた方は私より大きなことが出来る」と言ったのであり、自分が特別だと言ったのではない。
釈迦の姿は掴み難いが、イエスについては、4人の異なる福音書作家が全く別にその姿を描いたに関わらず、かなりの詳細まで一致しているのだから、福音書に書かれたことがイエスの本当のことだと信用して良いと私は思っている。
福音書では、まず、教会に属さなかった塚本虎二が14年の時をかけ、戦時中に訳し終えた、非常に分かり易い福音書をお奨めする。
これは、現代においてもロングセラーを続けている。
また、私は、16歳の時、フェデリコ・バルバロが書いた聖書を買ったが、バルバロはイタリア人宣教師で、日本に来て日本語を学び、見事な日本語で訳しているのである。
日本においては、江戸末期の神道家、黒住宗忠がイエスのような人であったと思う。そして、とても親しみの持てる人であると思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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