ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2012年07月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

腹が据われば運も良くなる

運と言うとき、その多くが、金運か女運(男運)と言うのではないかと思う。
あまり、健康運とか安全運などと言わないと思う。
ギャンブル運と言うことはあるが、ギャンブルとは、あくまで遊びであり、実利を求めるものではない。いかなるギャンブルの名人であれ、自分がいくら稼ぐかの予想は付かないし、トータルで言えば、収支はある程度のマイナスになるのである。

ところで、文豪と云われる作家の作品というものは、現実以上のリアリティがある。なぜなら、彼らは例外なく、優れた直感の持ち主であり、直感は真理を直接に知る唯一の方法だからだ。科学なんてのは、ただ、直感の正しさを裏付ける程度のものに過ぎない。
ソクラテスは、いかなる職業であれ、優れた仕事をする者は、間違いなく、ダイモーンの援助を受けていると言ったが、ダイモーンとは、内なる英知を使える声のことで、それが即ち直感なのだ。
この素晴らしい直感により、女運や金運について考えてみよう。

ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』の中に、とてもモテる男が登場する。
彼は、酔っ払いながら、「俺って、どうしてこうも女運がいいのだろう」と言う。
実際、彼はどんな女にもモテるのだが、女にモテる以外には、何一つ取り得の無い男でもあった。
しかし、私には、彼がモテることに対するリアリティを感じるのだ。
さすが、ゴーリキーであると思う。
それはどんなところかと言うと、この小説のタイトルにもある26人の男達とは、社会の最下層にいる惨めな男達だった。あまりにも身なりが貧しく、公園にも入れてもらえないほどで、人生に何の希望もない、いったい、生きていることに何か意味があるのか分からないような男達なのだ。
しかし、その、狙った女は必ず落とす色男は、そんな男達にも、愛想よく親しげに接するのである。それも、全く普通にであった。彼自身は、社会的にはそこそこの立場で、若く、軍人上がりで逞しかった。彼のような男は、普通は、そんな男達を見下し、虫けらのように扱うに違いない。
それで、その男達も、彼のことは、女たらしの軽薄な男だと思いつつ、好意を感じていたのだった。

はじめに、ギャンブルは遊びだと述べたが、特殊な状況で偶然とは思えない運を発揮する者がいる。
ドストエフスキーの『賭博者』で、初めてギャンブル(ルーレット)をやった老婆は、最初から最後まで0に賭け、大勝ちする。彼女は、誰が止めても、0に賭けることを決して止めなかった。
この話は、ギャンブルに通じた人達もよく取り上げるのである。やはり、何か感じるのであろう。
そもそも、ドストエフスキー自身、どうにもならない賭博好きである。
また、彼は、銃殺で処刑される寸前に恩赦となり、運というものに対して、特別の思いもあるのだろう。

明治、大正の偉人、岡田虎二郎は、岡田式静坐法という、人間形成のための行を教えていたが、指導を受けていたある男が、金に窮していることを訴えた。
すると、虎二郎は、「金?腹に力が付けば、金はいくらでも出来ます」と答えた。
私は、虎二郎のこの言葉が印象的だった。
『二十六人の男と一人の少女』の登場する、軍人上がりの(といっても大した軍人でもなかったが)色男は、普段は軽薄な役立たずなのだが、女を口説く時だけは、なぜか腹が据わるのだ。
この色男は、26人の男達に、ターニャという名の16歳の美少女には、お前でも歯が立たないだろうと言われ、プライドを傷付けられて取り乱したが、それでも、女に向かうとなぜか腹が据わるのだろう。もちろん、ターニャも見事陥落させた。
『賭博者』の老婆も、誰の言うことも聞かず、0に賭け続けた時は、やはり腹が据わっていたのだ。
だが、その時は大勝ちしたが、この老婆が次にまたルーレットをやり、同じように0に賭け続けた時、彼女は前の時のように腹が据わっていなかった。
それで、惨敗し、大金を失ったのである。

さて、なぜ腹が据わっていると運が良いのだろう?
そもそも、腹が据わるとはどういう意味だろう?
日本の学校では、いつの頃からは分からないが、おそらく、西洋の流儀に倣い、「胸を張って腹を引く」という姿勢を取るよう、子供を指導した。
それから、日本人は、魂と心が分離し、腹が据わらなくなったのだ。
これは、多くの賢い人達が指摘していることであるが、当然の結果なのである。
胸を張って腹を引くと、胸にある自我は魂のある腹から離れ、自我を中心に置くようになる。
それとは逆に、日本人の本来の姿勢である、肩の力を抜き、自然に背筋を伸ばした姿で立ち、あるいは座ると、胸が腹に近付き、心は魂に溶けるのである。
赤ん坊を見ると分かるが、腹で呼吸している。
だから、赤ん坊はエネルギーに満ちている。
エネルギーの根源たる腹に完全に一致しいているのだ。
学校の誤った教育に騙されず、下腹に重心を置き、肩から力を抜いて、背筋を伸ばすことだ。椅子の背もたれは使ってはならない。
電車の中で、ふんぞり返って座っているのは、最近では男性ばかりではなく、女性もそうなってしまっている。
大切な腹を捨ててしまったような者に、いかなる運もなく、力は漏れ続けるだけであろう。









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他人の目を気にせず自由に気楽に生きるには

サラリーマン五年目さんからのコメントが良かったので、お答えしたい。
他の方々にも有益な、良いコメントや質問をお願いしたい。

【コメント】他人の目を評価を気にしなくなると人生は楽に生きられますよね?自分はかなり気にしてじまう性格でこの性格を変えたいです。Kさんはどう考えますか?他人にきを使わない性格を身につけたいです。

まず、なぜ他人の目が気になるかというと、その他人と同じ価値観を持っているからだ。
その他人とは、おそらく、世間の普通の人のことであろうから、つまり、自分も世間の価値観を持っているということだ。
世間的価値観を持っているから、世間の人の目が気になるのである。

中には、「いや、俺は世間的な価値観は持っていない。自分独自の価値観で生きている」と言う人もいるだろう。
しかし、それでも、他人の目が気になるなら、やはり、かなり世間の価値観に毒されているのである。

真理を言うなら、他人というものは存在しないのだが、世間的価値観を持つ普通の人である限り、他人は現実として存在する。
そこで、まずは、世間の価値観を疑うことから始めなければならない。
確かに、世間で価値あるとされているものは、ほぼ全て無価値ではあるのだけれど、なんでもかでも否定すればいいってものでもない。
しかし、まずは、なんでもかでも、鵜呑みにするよりは疑うのだ。
理性を正しく導くことが必要であるが、それには、今でもデカルトの『方法序説』が役に立つ。
この、12歳の子供でも理解できるように書いたという、短い「理性を導く方法」は、あまりに軽視されており、本来、誰でも一度は読んでおくべきものだ。
デカルトは、「単に確からしいと思えるものは全て虚偽とみなす」というほど、徹底して疑ったのだ。

だが、最も大切なものは直観である。
デカルトだって、最後には直観によって、真理を悟ったのである。
それは、聖者の悟りとは言えなかったかもしれないが、それでも、世間の人の認識や価値観をはるかに超えたものだ。
デカルトは、自分が通った学校を賞賛し、教師達に感謝を捧げていた。おそらく、良い教育が行われていたのだろう。
だから、デカルトは、級友達の中に、自分よりはるかに優れた能力を持つ者達がいくらでもいたことを認める謙虚さを持てたのだ。
しかし、おそらく、我が国の学校には、何も価値はないのだが、それは、自らの直感の光で確認しなければならない。

理性を正しくするためには、可能な限り、不要なものを求めず、欲望を持たず、静かな心にならなければならない。
理性とは、直感力のある状態と異なるものではない。
直感を持つと、自ずと、世間の教義や信念とは、逸脱と迷妄、迷信であることが分かってくる。
マスコミでは、オリンピックで日本人がメダルを取ると、大絶賛し、メダリストをヒーロー扱いする。
オリンピックメダリストに何か価値があるだろうか?
何もない。
「彼らの努力を評価しないのか?」
と言われるなら、我欲のために努力することは、別に非難する気はないが、全く評価に値しないと言うしかない。
彼らは、金のため、世間の名誉と賞賛のため、ちやほやされる欲望のために努力をしたに過ぎない。
日本に元気や勇気を与えるためだとかいったことを、マスコミや、選手のスポンサーの大企業や、あるいは選手自身が言う。だが、競技で勝つことで、本当の活力を与えることは出来ないし、そもそも、元気や勇気は、与えるものでも、与えられるものでもない。
元気や勇気は、ある状態が自然なのであり、与えられないといけないなら、そもそも異常なのだ。メダリストを賞賛するような価値観を持っているから、元気も勇気も無いのだということに気付かなければならない。
もちろん、スポーツから良い影響を得ることは出来る。それは否定しない。
それはどのようなものかと言うと、勝者が敗者に敬意を示し、より謙虚な態度を取る姿だ。
しかし、オリンピックでも、敗者の前で無神経にガッツポーズを取って狂喜乱舞する醜い姿ばかりだ。そんな何の美徳も持たない選手達の姿は、子供達に見せてはならないものであると言って間違いない。

世間では、良い学校を出ていること、高収益の大きな企業の社員や公務員であること、収入が多いことが価値があることであるが、それらは全て、ただ運命でそうなったのであり、悪いことではないとしても、何の価値もないことである。
こういった、世間の価値観、世間の教義や信念とは全く異なる、正しい価値観を持てば、やがては、他人の目など、全く気にならなくなるだろう。
直感を得るには、真理を認識しなければならないが、そのためには、『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナ神の教えが最上であろう。
ガンジーが生涯愛読し、あのエマーソンすら、この書から学び、一切の聖典を重んじなかったラーマクリシュナが、これだけは真の神の言葉と言った短い聖典である。
世間や、その代表格の学校が『バガヴァッド・ギーター』を読めということはない。学校とは、正しいことを教えないところだからだ。
そして、日本人であれば、古事記を読むことの価値は計り知れないだろう。
何と言っていいのか分からないので、とりあえずこう言うが、古事記に馴染み、そこに書かれた言霊に馴染むなら、神々はいつでも我々の味方である。
無理にそう思う必要はないが、自ずから分かるだろうと思う。古事記の表向きの意味にこだわってはならない。ただ、心静かに淡々と読むことである。特に、神々の名前に意識を向けるのだ。
本当の真理を知れば、もはや、他人というものは存在しない。気にするような他人の目など、初めから無かったことが分かるのである。
世界の中には、無数の個別化した自分が存在するだけである。









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面白きこともなき世をどう生きるか

江戸時代の長州藩士であった高杉晋作の辞世の句(死に臨んで残す言葉)は

おもしろきこともなき世におもしろく

であったことはよく知られている。
ただ、一字違いの、

おもしろきこともなき世をおもしろく

であったのではないかとも言われているが、本当のことは分からない。
彼が書いたものが残っている訳ではないからだ。
そして、この句の後に、野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」と続けたものが知られているようである。
この2つを合わせた、

おもしろきこともなき世におもしろく、すみなすものは心なりけり

であるが、一般には、「世界は、そのままでは面白いものではないが、それを面白くするのは、各人の気持ち次第だ」と解釈されているのではないかと思う。
もしかしたら、高杉もそんな意味で言ったのかもしれない。

だが、その場合、ちょっと困ったことがあるのだ。
この言葉から、多くの人々が、「では、この世が面白くなるような気持ちになろう、あるいは、面白い気持ちになれるよう努めよう」と思うからだ。
しかし、誰も、自分の思うままに、面白い気持ちになどなれない。いや、どんな気持ちにだってなれないのだ。
あなたは、自分の思うままに、楽しい気分、愉快な気分、憂鬱な気分、悲しい気分になど、決してなれない。

「雨が降れば憂鬱」と感じることが、愚かであるように言われることがあるかもしれない。
しかし、決してそんなことはないのだ。
誰も、雨が降って、憂鬱になるかならないかを自分で選ぶことは出来ないのだ。
憂鬱になるなら、なれば良いのである。
どんな偉人にだって、雨が降れば憂鬱だと思う人はいるのだ。
大切なことは、「雨が降って憂鬱になってしまう私は駄目な人だ」と思わないことだ。

だから、面白いこともない世の中で、自分の心を面白くできないからといって、自分は弱い人間だと自己嫌悪する必要はない。それは、あなたの欠陥ではない。
そして、世の中の印象を自分で決めようなんて思うと、必ず惨めな気分になる。それは決して叶わず、自分の無力を思い知るからだ。
まるで、イケメンの彼を、佐々木希と奪い合って、自分の愚かさを思い知るようなものだ。

では、面白くない心をどうすれば良いのだろう?
出来るだけ、何も考えないことだ。
一切の想念を、出来る限り起こさないことだ。
「そんな・・・頭を使わないと馬鹿にならないか?」
と思ってはならない。
瞬間的な想いは、自動的に起こる。それは、止めようとしても止まらない。
生きている人間が、頭を使わないなんてことはない。
ただ、その思考を、まるで他人のもののように、出来るだけ無関心でいることだ。

ラマナ・マハルシに、ある男が訴えた。
「隣の家の娘が美しく、もうたまらない。私は妻子があるが、この欲望を止められない。とんでもない間違いを犯しそうだ。どうすればいいでしょうか?」
マハルシは、
「そう思っているのは誰かね?」
と尋ねると、男は、
「私です」
と答えた。すると、マハルシは、
「私とは誰かを見出しなさい」
と言った。
しかし、多分、その男は、そう簡単に「私」を見出せないだろう。
それで、マハルシは、
「間違いが起こったとしても、それが運命だったと思い、苦しむな」
と、慈悲に満ちた態度で言った。
マハルシは言う。
「全ては、神の至高の力が動かす。汽車に乗ってまで、あなたの小さな荷物を頭に乗せて苦労する必要があろうか?荷物を降ろして安心しなさい」
この世が面白かろうが、面白くなかろうが、それを、どうこうしようなどと思わなくなってこそ安らかでいられるのだ。つまり、全て大自然に任せることだ。

初音ミクと巡音ルカのデュエット曲『ワールズエンド・ダンスホール』(作詞・作曲:wowaka)の中に、

全然良いこともないし、ねえ その手を引いてみようか?

とフレーズがある。
まあ、全然良いこともないのは、お互い様だが、この手を引けるものなら引いてみるがいい。私がどう反応するか、自分でも分からないし、それで何が起こるかも分からない。
古事記で、タケミナカタノカミがタケミカヅチの手を取った時、タケミカヅチの手は氷や刀に変化し、タケミナカタノカミは恐れた。
私の手は何に変わるであろうか?
起こることは、どうあっても必ず起こる。
起こらないことは、どれほど熱望しようが、絶対に起こらない。
なるようにしかならないが、なるようにはなる。
ならば、気楽に、何が起こるかを傍観することだ。幼稚園の演劇を見るように。









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日本の宝典、古事記に馴染むには

古事記は聖書やマハーバーラタ、ヴェーダ、タルムード、易経などを凌ぐものである。
だが、石ノ森章太郎さんが、古事記の上巻のみ漫画にした際、「古事記は漫画である。特に上巻が漫画っぽい」と述べており、確かに、古事記は、表向きは荒唐無稽なおとぎ話である。
ただ、石ノ森章太郎さんが漫画だというからには、何か素晴らしいものを秘めていることも感じていたのだろう。
世間的には、「漫画だ」と言ったら蔑みかもしれないが、石ノ森さんがそう言うのは誉め言葉だ。

優れた霊覚者の方々が古事記の深い意味を教えている書物もある。
その中で、谷口雅春さんの『古事記と日本国の世界的使命』には感服したものだ。谷口さんの、1900万部を超えるロングセラー『生命の実相』の神道篇だったらしいが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により発禁処分とされたらしい。まあ、読めば、それも仕方がないと思う。
ただ、本当に素晴らしい本なのだが、谷口さんの親切過ぎる性格のためだろうか、1つ良いことを言った後に2つ3つ、余計なことを言っているように思うことが多いのである。
また、この本の中に、GHQ(というよりはアメリカ)による発禁とされた原因と思われる、「未来において、天皇陛下が世界に号令を発するようになる」などという部分は、日本人でも受け入れられないかもしれないが、これは霊的な意味であろう。2千年近く続く王室、皇室など世界に例を見ないが、我が国の皇室には、それだけのものがあるのである。
私は、谷口さんは、発禁となることを承知で、このような書き方をしたように思うのである。
書かれてから、六十数年を経た平成二十年出版ということに意味があるのだと思う。
春日大社の宮司をされていた、世界最高の形成外科医でもあった葉室頼昭さんも、当然かもしれないが古事記を読むことを奨めておられたようで、彼の著書にも古事記を解説したものがあるが、彼は谷口さんの著書の影響がかなりあるのだろうと思う。

特に古事記の解説書と言う訳ではないのだが、古事記の真意を述べた最高の書は、合気道の創始者である植芝盛平の講和を口述した『武産合氣(たけむすあいき)』と思う。
私は、この書を10年以上前に入手していたのだが、最近まで、さっぱり歯が立たなかった。意味が全く分からず、ただ文字の上を目が追っているだけの状態であった。
しかし、数年前、関英男博士の『心は宇宙の鏡-いま見えてきた「グラヴィトン」の時代』で、共著者の佐々木の将人(まさんど)さんを知り、佐々木の将人さんが合気道の達人で神道家なのだが、植芝盛平の弟子だったと知った。そして、将人さんの『数霊のメッセージ』を読むと、『武産合氣』に書かれたことが、普通の人でも分かるように易しく書いてあった。
また、古事記も何冊か読んで多少理解したこともあり、最近は、『武産合氣』を読むと、一応はよく分かるのである。
ただ、そうなると、やはり、自分で古事記をしっかり読むことが大切であると感じるのである。

古事記は、日本の宝典であるのだが、まさに言霊による理解が必要であり、そうでなければ、ただの漫画にしか思えない。しかし、分かってくれば、この書のあらゆるところから霊感が現れてくる。
まずは、古事記に馴染むことが大切であるが、それは、子供の頃からであれば何よりだろう。
子供にも読める古事記の名著が2つある。
共に『古事記物語』というタイトルであるが、鈴木三重吉のものと、福永武彦のものである。
鈴木三重吉は1882年生まれで、福永武彦は1918年生まれである。
鈴木三重吉の古事記物語は1920年に出ているようである。
福永武彦のものは1957年初版である。
福永武彦には、大人向けの現代語訳古事記もあり、ロングセラーとなっている。
小説としての面白さは、福永さんの方がある。福永さんは天才的な作家で、文章のリズムが素晴らしい。大人用の現代語訳古事記を見ても、古事記をこれほど楽しく読めるように書ける人はいないだろう。無論、面白いだけでなく、魂のこもった、そして、善意に満ちたものである。
しかし、児童文学者でもある鈴木さんの、格調高い文章が実に素晴らしいのである。この美しい文章で古事記に馴染んだ子供は実に幸運と思う。
共に、大人が読んでも十分に良いものである。
まずは、これらの書で古事記に馴染むのが良いと思う。
この2冊もまた、日本の宝であり、永遠に出版され続けるだろう。出版が止まるなら、日本の終りである。

















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セレンディピティはありふれたものになる

このブログで、セレンディピティについて何度か取り上げたが、この言葉も、昔と比べれば、よく知られるようになったと思う。
しかし、この言葉の確定した意味なんてのは決め難いのではないかと思う。
私は、この言葉の深い意味について実感しているであろう化学者(工学博士)から、それは、「意味のある偶然を引き寄せる能力」なのだと言われたのが、この言葉を初めて聞いた時のものだったので、これを覚えている。
それを聞いた数日後、私はその化学者に、セレンディピティとは、「必然を引き起こす意志の性質のこと」だと手紙で書き、その数ヵ月後、あるパーティーで偶然会った彼に、大学で講義するよう言われた。彼は学長になっていたようだ。ただし・・・彼はベロベロに酔っ払って言ったのだがね。

2人の科学技術者がいて、一方は超エリートで、最新の設備や、研究のための膨大な予算を割り当てられているという、恵まれた環境にあった。
一方は、平凡なサラリーマンで、研究予算どころか、単に労働者として雇われていた。それで、彼は、業務時間外に個人的に研究をしていたのだが、画期的な発明をしたのは、彼の方だった。
そんな話はよくある。
アインシュタインも、特許丁の職員をしていた時、特殊相対性理論をはじめとする重要な発表を多くしている。彼の論文に注目していた学者達は、アインシュタインはどこかの大学の教授だと当然のように思っていたが、ただの事務員だと知って驚いたのだった。
そんなことが出来たのは、アインシュタインが物凄く優秀だったからという考えもあろうが、彼は、少なくとも、世間的な意味では優秀な人間ではなかったと思う。
際立って知能指数が高い訳でも、記憶力が良かった訳でもなく、特に、記憶に関しては、本人が苦手だと認めていた。学歴のない2度目の奥さんが楽々と出来るエレベーターの操作にもしり込みして、決して自分でやらなかったくらいだ。
今日でも使われる数学座標や物理学の運動量を考案し、また、最も有名な哲学者の一人でもあるデカルトも、自分が決して最優秀でなかったことを認め、学生の頃、素晴らしく頭の回転が速かったり、抜群の記憶力を持っている級友を羨ましく思ったことを著書に書いていた。

ある研究者が、知能の優秀さと業績とは必ずしも一致しないが、知能指数120以下の成功者はいないと思うと述べていた。しかし、それが事実であっても、IQ120なら、阻害要因を取り除けば、誰でもなれるものではないだろうか。
逆に言えば、高度なIQを持っていても、成功するかどうかは、あまり関係のないことかもしれない。

私は、俗に言われる、エジソンが白熱電球を作るのに、1万回の実験をしたという話を、全く信じていない。
かなりの努力はしたかもしれないが、明らかに誇張と思う。
案外に、楽々とやったのではないかとすら思うし、もし、そうでなくても、本当は苦労する必要はなかったかもしれない。
確かに、大発明、大発見というのは、稀にしかないものであり、湯川秀樹は、それを「天の羽衣が来て撫でる」ほどに稀有なことだと、芸術的な表現をしているが、彼は漢文の素養があったそうである。
その湯川博士が中間子の発想を得たのは夢の中でのことであった。
これもまた、セレンディピティと言えるかもしれない。
「湯川博士は、日頃、熱心に研究していたから、そんな夢を見ることが出来たのだ」
と思う人が多いと思う。確かにそうかもしれないが、それでも、努力は、直接の要因ではないのだ。
ただ、その直接の要因に結び付くために、現代では努力が必要なのだ。
電波工学の世界的権威であった関英男博士は、今後は、勉強しなくても何でも分かるようになるでしょうと言っていたが、それが本当かもしれない。
セレンディピティは、頻繁に、誰にでも起こるようになる。
縄文時代よりも昔の日本で、人々は、現代の科学をはるかに超えた宇宙理論、物質理論、生命理論を有していたということが、楢崎皐月 (ならさきこうげつ)が発見し解読した「カタカムナ文献」にあるという話があるが、別に、その時代に高度な機械文明があった訳ではなく、人々の生活は素朴だった。
カタカムナ文明の真偽はともかくとしても、老子、荘子、あるいは、エマニュエル・スウェーデンボルグらも、超古代の人々が高度な英知を有していたことを説いている。
古代の人々は、セレンディピティのようなものを、をありふれたものとして意識もしなかったのだろう。

セレンディピティとは、つまるところ、直観である。
しかし、現代人は、直観をあまりに軽視し、その何よりも重要な能力を葬ろうとさえしている。

「ミサトさん。この使徒の落下予想地点の根拠はいったい何ですか?」
「勘よ!女の勘」
「そんなアバウトな・・・(><)」
~『新世紀エヴェンゲリオン』より~

こんなものが笑い話になるというのも、勘、あるいは、直観を、無いもの、あるいは、低い能力と我々が見なしているからだろう。
だが、ミサトの勘は当たったのである。

直観の磨き方が書かれた本というのは、改竄されるか、あるいは、重要な部分が隠されるものだ。
本自体が消されることもある。
聖書、仏教の密教経典、カバラー、バガヴァッド・ギーター、老子、古事記などがそうだ。
しかし、著者は、はじめから、それを直観で悟り、わざとおとぎ話のような神話の形にしたのだ。
これらは、無心にただ読めば、自然に読む者に直観能力を与える。
ただし、優れた直観を得ようという欲望があっては、全く駄目なのだ。
だから、子供の頃から親しみのある、民族に伝わる神話を静かに読むのが一番である。

















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