ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2012年06月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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下級カーストのための教えでしか救えない人達

人の運命は、生まれてから死ぬまで完全に決まっていて、決して変更できないと言うと、「それなら、皆、好き勝手してもいいのじゃないか?」と言う人達がよくいる。
事実は逆である。
もし、運命が決まっていないなら、皆、好き勝手なことをして、地球は3分で滅んでしまうのである。
人間は、自分で考えているのではなく、何を考えるかも全て決められている。
だから、何を考えても自分の責任ではない。
そう言うと、責任が無いなら、皆、自分勝手なことや悪いことばかり考えるようになるのではないかと言う人がいるだろう。
これも全く逆だ。
もし、人が自由に考えることができるなら、人類全員、3分で発狂するのである。

アメリカには、スーパーマンという架空のヒーローがいる。
無限のパワーを持つ無敵の存在だが、なぜ、彼が世界の帝王になったり、逆に、世界の悪者達を片っ端からやっつけないのだろう?
それは、漫画や映画の制作者達がそう決めたからという理由のみによる。
もし、作家達が、スーパーマンが独裁国家の支配者達を叩きのめして人民を解放するように作品を作れば、スーパーマンはそんなことをせざるを得なくなるが、作品が成り立たなくなってしまうだろう。
もし、現実の世界にスーパーマンがいたらどうなるかというと、世界が存在できない。スーパーマンが存在できる法則と、世界が存在できる法則が両立しないからだ。
もし、神が何らかの理由で、あるいは、無目的にスーパーマンを創造したとしたら、スーパーマンは、その存在を決して知られないようにするだろう。
人の意識が、スーパンーマンの存在を認識することで世界が成り立たなくなるからである。
しかし、認識しなければ、スーパーマンは存在しないことになるのである。

古代から、インドの聖者達は、徹底して、心を破壊する教えを説いてきた。
インドには、3千年をはるかに超える、カーストという厳しい身分制度があり、下級のカーストや、まして、カースト以外の者には、何の希望もなかった。
カーストは1950年に憲法で廃止されたが、実際は現在も存在する。
ところが、カーストを認識する心が消えれば、カーストは存在しないのである。
それしか、貧民が救われる道はなかった。
インドの聖者の教えを学ぶ際には、そのあたりの事情は少し考えても良いと思う。
中国も、インドほどではないが、やはり似たところがある。
日本にも、当然ながら身分差別というものはあったが、日本という国は、伝統的に、支配者が庶民を大切にした。もちろん、自分だけがいい思いをすることしか考えない支配者も少なくはなかったが、古事記の中で、庶民の生活に配慮した天皇家を、支配者達が敬い続けた稀有な国なのである。
だから、日本では、インドのように、心を否定せず、心の成熟を重視するのである。
ただ、現在の日本においては、希望の無い人々も増えてきてしまった。
例えばだ。社会に馴染めず、社会に入っていかなかったり、いったんは入っても、そこから出て、二度と入ろうとしない人は少なくはない。
それは、一般に引きこもりと言われ、英語の辞書にも、hikikomoriという言葉を作らせたほどである。
40歳まで社会から引きこもったら、そこから一般の国民として生きることは不可能である。
そんな人達は、インド式に、心を消す道を選ぶしかないと思う。
ラマナ・マハルシや、ニサルガダッタ・マハラジらは、そんな方法を説いた純粋な聖者で、彼らは、最低限の範囲で、肉体との同一化をするための希薄な心を持っていただけだった。
彼らの教えが必要な人達が多いように思われる。それは日本の伝統に反することではある。









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不思議なことは意外に起こっている

世界的版画家であった池田満寿夫さんは、芥川賞を受賞した作家でもあった。
その池田満寿夫さんの小説で、池田さん自身が監督を務めて映画化までした『エーゲ海に捧ぐ』という作品がある。
その登場人物である、12歳の知恵遅れの少女リーザにとって、ある1つのテーブルの下が最も心が落ち着く場所だった。いわゆる、彼女の聖域である。
子供には、そんな聖域というものがあるらしく、My Little Loverの『Hello,Again』やZARDの『DAN DAN 心魅かれてく』といった歌にも、そんなものを暗示する箇所があったと思う。

普通の大人にとっては、そんな、子供の聖域というのは、他愛もないものでしかない。
しかし、我々が大事にしているものだって、それとさして変わらないものに違いない。

鎌倉時代の禅僧であった道元の『正法眼蔵』の『山水経』の中に、こんなことが書かれている。
人間には水に見えるものも、魚にとっては宮殿であり、魚は水が流れるものだとは感じていない。同じように、人間にとっては山はどっしりと動かないものに見えるが、天人から見れば、やはり、山も流れているのだ。
つまり、子供の聖域が大人にとってさしたるものでないのと同様、大人が大事にしている何かも、我々より高い存在からみれば、やはり取るに足りないものなのである。

我々が大層なものだと考えていることが、実はさほどでもないことが分かると、世界は変わる。
そんな話をしよう。

初音ミクのライブコンサートでは、ステージに設置されたディラッドボードという透明なボードに、映画とは逆に背面からプロジェクターで投射することで、初音ミクの3次元映像が現れ、観客には、ステージの上で縦横無尽に、初音ミクが歌って踊っているように見える。
しかし、実際の初音ミクの居場所はその薄いディラッドボードの中だけである。そして、彼女の映像は映像データをコンピュータプログラムが処理したものだ。
しかし、神から見れば、我々も全く同じようなものでしかない。
我々も、空間の中に満ちている、我々の科学では捉えられない精妙な媒体(エーテルと呼ばれることがある)に、やはり、我々に理解不能な神の業(わざ)により、姿を投影されたものに過ぎない。いわば、我々は、ある種のホログラム映像だ。映像媒体であるエーテルのエネルギーにより、我々は物質的な性質を示しているが、人間だって、いつかは、密度が高い、物質的な3次元映像も作れるようになるだろう。

我々の身体と同様、あらゆるものが本質的にホログラフィックな映像であるなら、『正法眼蔵』の「山が流れる」ということもあるだろう。
初音ミクのライブコサートでは、ミクの姿が急に出現したり、逆に消えたりすることや、ミクの衣装が変化することがある。ミクが空中に浮かんだり、イエスのように食べ物を出したといったものは見たことはないが、映像を制作する者がやろうと思えば出来ることだ。
イエスは、数個のパンを数千人が満腹するほどに増やしたり、人々の病気を治したし、扉を開けずに部屋の中に入ってきたが、神の力を借りれば、そんなことは簡単に出来るに違いないことが想像できるのである。
江戸末期の神道家、黒住宗忠もイエスのような奇跡を数多く行った記録があるし、アメリカのベアード.T.スポールディングが書いた『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、ヒマラヤの大師達は自分達がそんなことが出来ただけでなく、誰にでも出来ることだと言った。
だが、それは、自我が念じて起こせることではない。
自我が消えた時、人を通して神の力が発露するのだろうと思われる。
そして、そのようなことは、実際は、誰もが、何度も見たり、経験しているはずなのだ。
しかし、注意をしている人が少ないので、ほとんど気付かれないのだ。
つまり、「不思議なことは案外に起こっている」のである。













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真の修行は異様に楽しいはずのもの

「修行ほど楽しいものはない」
と言ったら、
「馬鹿者!修行とは辛く苦しいものだ」
と言う人が多いかもしれない。
そんな人は、修行の意味を勘違いしているのだろう。
もちろん、楽しいと言っても、快楽的な楽しさではない。
しかし、修行には、どこか不思議な、惹きつけられるようなもの、うずうずするような、わくわくするようなものが必ずある。
だが、修行というものは、絶対に無目的でなければならない。
目的があるなら修行ではない。
スポーツ選手のトレーニングや受験合格のための勉強は決して修行ではない。
超能力を得るために滝に打たれることや、精神修養のためにサラリーマンをやることも修行ではない。

座禅病というものがある。
座禅をやって、かえって心が不安定になったり、身体の調子が悪くなってしまうといったものだ。
それは、座禅をやることに際して、心を安定させるためとか、身体の具合を良くしたいという目的があり、しかも、それが強い場合には、必ずそうなる。
座禅は、「ただ座る」、つまり、無目的にやるものだ。
武道の訓練でも、ある時期までは、強くなって勝つことが目的であろうから、そんな時期は、身体の鍛錬には良いだろうが、修行ではない。
私がよくお奨めする腕振り運動(スワイソウ)も、良い健康法ではあるが、健康を目的にしている間は修行ではない。だが、無目的になれば修行になる。

高橋 弥七郎さんの小説『灼眼のシャナ』で、高校1年生の坂井悠二が、死を覚悟した時、シャナ(ヒロイン)に、「自分が何者でも、どうなろうと、ただやる。それだけだったんだ」と言うのだが、彼は、この若さで大したものだと感心してしまった。さすが、異界の神に見込まれるだけのことはある。いや、彼は、あらゆる超大物達を感服させただけでなく、シャナやヘカテーといった特別な美少女達を虜にするのであるが、それもありだと思ってしまうのである。

修行に目的はないが、敢えて言うなら、自分を消すことだ。
対して、訓練というのは、自分の立場を強くするためにするのであるから、正反対のことなのである。
自分を消すことは、自我にとっては目的になり得ない。なぜなら、自我は自分の存在を強くすることを何よりも願うのであり、決して自殺しないからだ。
しかし、人の不幸の唯一かつ最大の原因は自我の強さである。
ならば、無目的の行為が本質においては楽しくないはずがないが、自我には理解できないので、「不思議な楽しさ」になるのだ。
無目的の行為を、荘子は、「無為の為」と言ったのである。荘子を奇妙に思うのは、自我で読むからである。無心に読めば、これほど面白いものはない。

無目的でさえあれば、どんな行為も修行だ。
修行でない無目的の行為はない。
エドガー・ケイシーは9歳で自分専用の聖書を買ってもらい、熱心に読んでいた当初は、楽しくて読んでいたかもしれないが、ある時からは無目的で読んでいたのだろう。だから、13歳までに13回通読出来たのだ。面白いという理由でそこまで読めない。だから、彼は神秘な力を得た。
ミルトン・エリクソンが、少年時代、辞書を繰り返し読んでいたのも、別に知識を得ようなんて目的はなかったはずだ。ただ読んでいたのだ。せいぜいが、退屈だからといった程度の理由だろうし、それも最初のうちだけだ(辞書を読むほど退屈なことはない)。彼のやることはいつもそうだった。彼が驚異的な人間になった原因もそこだろう。
自分が消えれば神のようなものになるのだから、望まなくても大変なものになってしまう。
逆に、望めば何も得られない。
「無限の代償は有限の全て」、「全てを諦めた時、全てを得る」とは、よくいったものだ。

本を読むことだって、無目的であれば立派な修行だ。
有能になろうとか、知識を得ようなんて目的があって読むなら修行でない。
聖書や『バガヴァッド・ギーター』、『エメラルド・タブレット』なんて、まさに修行用の本だ。
『老子』や『正法眼蔵』なども実に良い。意味がさっぱり分からないから、無目的にならざるを得ない。尤も、無目的で読めば分かってしまうのだが。

最上の修行を教えるなら、呼吸を意識することだ。
なぜ最上なのかというと、「ただ意識する」ことが難しいからだ。
呼吸を意識すると、自我はどうしても呼吸を制御してしまうのだ。
自我は、意識してしまえば、呼吸を自然に任せておくことができない。
だが、最初はそれでも良い。
もし、呼吸を自然(神)に明け渡すことが出来れば、仙人くらいにはなっているだろう。
ただ、それを目的にしてはならないが。













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人生の仕組みは映画に似ている

『ラマナ・マハリシの教え』という本に、マハルシ(マハリシ)が話した、真の自己と心と世界の関係を、映画に喩えた、興味深い記述がある。
しかし、これが、まずい書き方になっていて、あまり意味を成していなかった。
なぜ、こんなおかしな表現になったかは、いろいろ理由があるのだろう。
マハルシがあまり正確に言わなかったか、記述者が正しく書かなかったか、あるいは、その両方だろう。
さらに、マハルシが話したタミル語から英語、英語から日本語へと翻訳される中でさらに齟齬が発生したのかもしれない。
そんな本は多いと思う。
新約聖書の福音書にも、そんなところはあると思う。福音書作者が、イエスの言葉を正しく捉えていなかったところも少なくないかもしれない。

そこで、ラマナ・マハルシが述べた、世界と映画の対応関係を、その本に書いてあったことは、参考にする程度に留め、私が少し書き直してみたい。

まず、言葉を簡単に定義する。
真の自己とは、神と等しい霊(あるいは魂)であり、真我(アートマン)と呼ばれる。
真我は、神そのものである梵我(ブラフマン)と異なるものではない。
しかし、真我を、一応、生きている人間の真の実体を指すものとし、神そのものである梵我と分けて言うことが多い。
真我を小宇宙と言い、梵我を大宇宙と言うこともある。しかし、実際には、宇宙に大も小もない。小宇宙=大宇宙である。
「私はアートマンである」と言うことも、「私はブラフマンである」と言うこともあり、それらは同じことである。

真我(真の自己)と心と世界の関係を映画に喩えれば、次のようなものだ。

真我は、電燈である。
心はレンズである。
無意識(潜在意識)がフィルムである。

映画では、電燈の光がフィルムを照らし、その光がレンズを通してスクリーン上に映像を結ぶ。
世界をこれに対応して述べると、次のようになる。

真我の光が、無意識を照らし、心は無意識の中のイメージを空間に投影し、世界を造る。
ここでは、仮に「空間に投影」と書いたのだが、それは正確ではない。しかし、一応、それで良いと思う。

このように、世界は映画とうまく対応する。
ただ、世界においては、世界を見る者である個人が出現する。
世界を見る個人は自我である。
それは、観客に喩えられる、

映画のフィルムに相当するのは無意識であるが、そこに詰まっている内容は、神が作ったものだ。
1本の映画が、上映開始から終了まで、その内容が決まっているように、人の無意識の中身も決まっていて、人の人生に起こる出来事は、全て決まっているのである。
実際の人生においては、経験によって無意識が変化するのであるが、神が作ったフィルムには、変化する内容まで全て含まれているのである。

人生は、長い映画だ。
賢い観客は、ただ映画を楽しみ、一章が終われば、それを忘れる。
賢い人とて、終わった章のことは、記憶としては残っているかもしれないが、後の章を見ている時にまで、その印象を引きずっていないのである。
昔、プロレスのジャイアント馬場さんが、「過去を振り返るやつに、強いやつはいない」と言っていたが、こんな、大人物のさりげない一言が至言なのである。
また、愚かな観客は、映画を見ながら、自分の望む展開になることを切望し、その通りなれば、自分が影響を与えたのだと思い込み、希望した結末にならなければ落胆する。そして、終わった章のことに、いつまでも執着するのだ。
人生も同じである。
自我である我々が、何を望もうと、これから起こる出来事に何の影響も与えない。
しかし、愚かな自我は、人生や世界が自分の思うがままになることを願っている。たまには、それが実現するように見えることもあるが、そんな時には自我は得意になって自惚れ、傲慢になる。逆に、望みが実現しないと、落胆し、他人や、あるいは、神を恨むのである。
映画の観客のごとく、我々は世界という映画に対して、いかなるコントロールも出来ず、何の影響も与えることもできない。
それが分かれば、中国の賢者、荘子が言った、「一切をなりゆきに任せよ」「全てをあるがままに見て、是非好悪の判断をしてはならない」「ものごとを起こるがままに起こさせるのだ」という言葉の正当性、偉大な知恵が理解できるだろう。

ちなみに、現代的に言えば、映画よりも、初音ミクのコンサート映像を世界と対比させた方が、より適切かもしれない。
早い話が、実際には、映画では無理がある。
私は、この数ヶ月、毎日、初音ミクのコンサート映像をブルーレイ等で見ると共に、道元の『正法眼蔵』の中の『山水経』を読んでいて、上のことに気付いたのである。
また、電波工学の世界的権威であった関英男博士と、合気道の達人で神道家の佐々木の将人(まさんど)さんの共著である『心は宇宙の鏡』が大いに参考になった。
それで、宇宙の構造について、直感的に多くのことが分かったと思う。
これらについては、また別の機会に述べよう。
尚、私が読んだ『正法眼蔵』は、下にご紹介した禅文化学院のもので、全95巻から12巻を選び、書き下し文と共に、素直で分かり易い現代語訳と、極めて簡易な解説を記して、1冊にまとめている。『正法眼蔵』の全部を読むのは難しい。この本にあるものをじっくり読むのが良いと思う。













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地球人類は宇宙人の家畜か?

信じていた価値観を完全に壊された人間はどうなるか?
敗戦時の日本がそうであったらしく、日本国民はそれまで、日本は神の国で、天皇陛下は生ける神だと信じていたのが、敗戦と同時に、日本は、軍部がのさばっていた、だだの遅れた国で、天皇陛下もただの人間だということになってしまった。
人々の困惑、苦悩は大きかったと聞く。
※ただし、そのような話があるというだけで、本当のところは私は知らない。国民が本当に国家の押し付けたそんな思想を信じていたのか疑わしい。

それよりも、こんな話はどうだろう?
SF小説で時々見かける題材に、子供が大きな屋敷の中だけで育てられ、屋敷の外は危険な異世界であると信じさせられているというものがある。その子の親が世間を嫌っていて、自分の子供を汚れた世間と関わらせたくないからというエゴイズムを貫いたといった理由である。
しかし、親が急死したりして、やがて、外部の者が屋敷の中に入ってきたり、子供自身が、屋敷の外に出て行く。
そこで、その子供は、屋敷の外の世界や、そこに生きる人間を見ても、どう対応していいか全く分からず、自分が狂ったとか、死んだとか、途方もない異常事態が起こったと思い込んでしまうといったものだ。
レイ・ブラッドベリの短編小説『びっくり箱』がそんな話だが、萩尾望都さんは漫画家する時、その子供を、原作では14歳の男の子だったのを、12歳の女の子に変えてしまった。しかし、それがよく出来ていた。

しかし、その哀れな子供と、我々は似たような状況かもしれない。

我々地球人類は、宇宙人の家畜のようなものだという説がある。
家畜といっても、大抵の場合、肉を食べられるのではない。
人間が精神から発する、あるエネルギーを収穫するために、我々は心と身体を持った生物として製造され、地球上に置かれたのである。
人生には苦しいことが多い。大半が苦しみである。
しかし、多くの健康的な人間は、若い間は、その苦しみを逞しく克服していく。
だが、いかに苦しみを乗り越えても、必ず、次の苦しみがあるのだ。
徳川家康が言った通り、
「人生は重荷を背負うて坂道を行くが如し」
である。
そして、年を取って、苦しみに立ち向かうエネルギーが無くなったところで死ぬのである。
しかし、なぜ、人間はそんなふうに生きなければならないのだろう?
それは、人間は苦しみを感じ、それに立ち向かって心をすり減らす時、宇宙人のご馳走になるエネルギーが放出されるように作られており、、宇宙人はそれを採取するのだ。
そして、人間が苦労に耐える理由は、それを克服した時、ちょっと嬉しい感じや、達成感という気分良さ、優越感の陶酔、そして、ことによっては、至高体験(万物と一体化したような神秘的な精神状態)に達する。
それが、我々にぶら下げられたニンジンである。

よって、我々の人生の苦労には、実は、何の高貴な理由も無い。
そして、最上絶品のエネルギーを人間が出すのは、悟りを開く時だ。
悟りには、最大の苦しみが伴うからだ。
全ての欲望を諦めるという苦しみである。
しかし、それを出来る者は滅多にいない。
つまり、宇宙人にとって、釈迦やイエスは、超レアな逸品という訳である。

さて、もしそうであるなら、人生の苦難に立ち向かったり、ましてや、悟りを得ることなど、なんとも馬鹿げたことであることになる。
では、我々はどうすれば良いのだろう?
どうしようもない。
家畜の牛や豚が、狭い小屋の中で、ただ食べ、太り、いずれ殺されて食べられるしかないようなものだ。
しかし、美味しい餌になるために苦しめられるとは、人間がやっていることと同じで文句も言えない。
苦しみを避ける人間は、餌としての価値がないので、さっさと死ぬことになるのだろう。それも、つじつまが合うだけに可笑しい。

まあ、あくまで、そんな話があるということであるが、私に関して言えば、別にそれでも構わない。何も言うことはない。何をする気もないし、生き方を変える気もない。
親鸞聖人も、こんなことを言っていた。
「私は、師の法然上人の言われたことを信じて、念仏をしているだけである。もし、上人の言うことが嘘で、念仏をすることで地獄に落ちることになっても、それでも構わない。なぜなら、私には、他に出来ることは何もないからだ」

まあ、間違っても、そんな宇宙人に一泡吹かせることなど出来そうもない。
なら、私の知ったことではない。美味しい家畜になれるかどうかは分からないが、好きにしてくれればいいのである。
この話は、ロバート・モンローの『魂の体外旅行』という本に書かれていたことを、ちょっと表現を変えて述べたものだ。この本では、それが真実であるように書かれていたと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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