ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2012年06月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

自分の無敵の切り札を持っておけ

運命は決まっていて、絶対変えられなくても、あなたを800倍化するくらいは出来ると思っている。
今回は、そんな話だ。

まず思い出話だ。
私は、7つくらいの時の夏、道を歩いていたら、なんとも可愛らしい子猫に遭遇した。
ところが、そこに、特別に大きな犬が現れた。どこかの飼い犬だと思うが、飼い主が目を離したスキに外に出てしまったのかもしれなかった。
そして、その犬が、子猫に近寄って行くではないか。
凶暴そうな犬には見えなかったが、とにかく大きい。私はなりゆきを見守っていた。
犬は、子猫にどんどん接近する。いじめるつもりでもないようだったが、ちょっかいを出す気はあるようだった。
子猫は逃げるか、恐がってすくみ上がるかだと思った。
ところが、子猫は犬に真正面に向き合うと、つま先を立てて犬を睨みつけるではないか。
すると、なんと、犬が後ずさりして、その場を数歩離れた。
しかし、犬もすぐには引き下がらず、「なめられてたまるか」とでも言うように、再度、子猫に向かって行った。
子猫はまたもつま先立ち、目を吊り上げ、「フー!」と声を上げて一歩も引かない。
戦えば、話にもならないだろうが、子猫の気迫が勝り、犬を追っ払ってしまった。

なんとも印象深い出来事だった。
子猫の精神力も凄いが、後で、これが猫が、強い敵に逢った時の常套手段なのだと知った。つま先だって自分を不意に大きく見せ、目と声で驚かせるのだ。
つまり、これが、猫の奥の手、切り札なのである。
私は、「切り札」の重要性を感じた。

プロレスラーも指導する、ある強力な武道家は、若い頃、喧嘩の修行に励んでいて、喧嘩が強い男がいると聞くと、飛んで行って教えを乞うていたという。
彼は、ある、凄い喧嘩の達人のヤクザがいると聞き、さっそく、「勉強に」行った。喧嘩が強いなら、ヤクザでも何でも関係なかった。
会えば、小柄で貧相な体格の、もういい歳の男だった。
「先生のお噂を聞き、是非お逢いしたく、やって参りました」
すると、そのヤクザは、今から出入り(喧嘩のこと)だから、ついて来いと言う。
ヤクザの乱闘に付き合うなど、とんでもない話であるが、その武道家は、実戦で見られるとは願ってもないと、喜んで一緒に行った。
ついに決闘が始まり、敵のヤクザが襲ってくると、その喧嘩の達人は、素早い動きで、足から地面にスライディングすると、敵の1人の脛に強烈な蹴りを叩き込んだ。
凄い音がして、脚が折れたことが分かった。
これが、その「喧嘩の達人」の、奥の手だった。
なんとも馬鹿な奥の手であるが、私は思った。
その喧嘩の達人は、おそらく、人間として何の取り得もない、能力も才能もない、駄目な男だったのだ。普通だったら、それこそ、引きこもりで一生を過ごしたかもしれない。
ひょっとしたら、学校時代は、かなり屈辱的な想いを重ねていたのではなかっただろうかと想像してしまう。
この親近感を感じざるを得ない惨めな男が、このたった1つの必殺技を磨きに磨くことで、肩で風切って歩ける立場になったのだ。
私には、どうしても、彼を否定できないのだ。

梶原一騎さん原作の『愛と誠』という、傑作と言われる漫画作品がある。
それに登場する、高原由紀という、高校2年生の女子は、見かけは素晴らしい美少女であったが、実は学園の影のスケバン(ギャグでなく、シリアスでダークな)だった。
彼女は、捨て子で、孤児院で虐待され、ぐれて女子少年院に入れられたが、なまじ顔が可愛いというのでイジメの標的にされた。
すると、彼女は、投げナイフの猛訓練に打ち込み、達人の腕前になった時、皆を震え上がらせ、女王の座に君臨する。
色々問題のある作家だったが、自らも少年院を経験した梶原さんのお話は、説得力があった。

ジャイアント馬場さんのライバルでもあった、フリッツ・フォン・エリックという、超一流のプロレスラーは、「鉄の爪」のニックネームで有名だったが、彼の必殺技は、手で相手の顔や胃袋を掴んで締め上げるという、超シンプルな「クロー攻撃」と言われる技だった。彼の握力は人間離れしており、顔を長時間掴まれると、相手は出血して意識が遠のいた。
馬場さんは、エリックのクロー攻撃の後が頭に残っているとよく言っていた。エリックは、馬場さん相手の時は、特に燃えたようだった。
そのエリックも、元は大したことのないレスラーだった。しかし、握力が意外に強いことに気付き、野球のボールを持ち歩いて、いつでもどこでも、それを万力で握って鍛え、ついに必殺のクロー攻撃を完成した・・・と言うのは、本当か嘘か知らないが、そんなことはどうでもいい。大事なことは、この気構えだ。
実際、エリックは、クロー攻撃以外は、これといった技もなく、ただ、パンチとキックばかりだった。しかし、そのパンチやキックが凄い迫力で、「ぶったおしさえすれば、後はクローで俺の勝ち」といったものだった。彼のパンチやキックのエネルギーは、クロー攻撃の自信から生まれているようにすら思えた。

心が揺るぎなく落ち着いている者というのは、ただ1つの「奥の手」を隠し持つことで、絶対の自信を内に秘めているのだ。
「本当に凶暴な者は、普段は普通の人よりずっと物静かだ」というのは、知っている人は知っていることだ。
しかし、奥の手は、上に挙げたような喧嘩や格闘技の技のようなものだけではない。
インドの聖者だって、弟子に与える必殺の一言をいつも探してやっているのである。
たった1つの言葉が、揺るぎない聖なる技になるのだ。
一応、仮の話としておくが、密教の秘法で、思念の力で相手の精神をかく乱させることの出来る者もいる。ただ、害意のない相手に使うと、自分に返ってくるので、使い方には余程気を付ける必要がある。私も適度にマスターしていて、効果も凄かったが、ある時期から使わなくなった。

法然の念仏や、岡田虎二郎の静坐も、間違いなく、無敵の切り札だったと思う。
法然は、遺書に、「私は念仏以外、絶対何も知らん」といった意味のことを書いていたものだ。
岡田虎二郎の弟子で、日航の社長や日銀の副総裁も歴任した柳田誠二郎さんも、「心を締める鍵を1つ持ちなさい。私にはそれが岡田先生の静坐だった」とよく言っていたらしい。

我々も、必殺の切り札、奥の手を1つマスターすれば、人生、恐れるものなしである。
ただ、自分の奥の手に巡り遭うことはなかなか出来ない。
しかし、他のものと違い、その気があるなら、運命は、それを用意しているはずだ。
だから、本気で得たいなら、恐れずに求めるべきである。

植芝盛平や中村天風の弟子で、隻眼(片目を失明していた)ながら、合気道の達人で神道神官でもある、佐々木の将人さんの『数霊のメッセージ』は、危ない秘法満載の本だが、残念ながら絶版である。いや、絶版の方が良いかもしれない。
しかし、ヒントはいたるところにあるだろう。
尚、最上の書を百回読めば、切り札を超えた切り札を得ることは間違いないと思う。









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願いが叶うという確信がなぜ起こるのか?

願い事が心に浮かんだ後、「これは叶う」という確信を持つことがある。そういった願いは確実に叶う。

私は、小学4年生の時、天体望遠鏡が欲しいと思った。おこづかいで買えるようなものではないし、親は、そういったものは買ってくれないと分かっていた。
しかし、なぜか、確実に得られると確信し、もう手に入ったものとして振舞っていたくらいだった。
そして、1ヶ月も経たないうちに、遠くに住む大学生の従兄が天体望遠鏡を譲ってくれた。

だが、このようなことについて、成功法則の本や願望成就のノウハウ本に、間違ったことが述べられている。
私のように、「手に入ったように振舞う」、あるいは、「成ったという態度を取る」ことで、願いが叶うのだという誤った説をよく見る。
そうではない。
わざとらしく手に入ったように振舞うことや、不自然に願いが叶ったという態度を取ることと、願いが叶うことは何の関係もない。

なかなか信じてもらえないかもしれないが、人は自分で考えているのではなく、考えは自動的に浮かぶのである。
心に勝手に浮かんだ考えを、自分が考えたと思い込むような仕組みになっているのである。これは、科学的事実でもある。
そして、いつか科学で証明できるかどうかは分からないが、事実として、未来に起こる出来事というものは、些細なことも含め、完全に決まっている。
つまり、考えることも、起こる出来事も、自分の意志に関係なく、初めから全て決まっているのだ。
そして、未来に起こる出来事が、心に浮かぶこともある。そんな時、それが未来に起こると確信するのである。それが願い事である場合、その願いは叶うと分かってしまうのだ。
世間的な考え方をする人には信じられないかもしれないが、知っている者にとっては、ありふれたことでしかない。

もう1つ、願いが叶うかどうか、知る方法がある。
作詞家の阿久悠さんが述べていたらしいことだ。
シングルの売上げで、国内で2位以下に大差を付ける圧倒的なNo.1である阿久さんにだって、売れなかった歌は沢山あった。
阿久さんは、「息を吸って、歌がヒットしたことを想い、息を吐いて、後は忘れる」ことがヒットの秘訣と言ったらしい(下にご紹介する、『強くなる瞑想法』紹介文の中)。
阿久さんは、それが出来なかった歌はヒットしなかったと言う。
私も、少し前まで、それを信じていたが、阿久さんは思い違いをしていたのだ。
阿久さんの言われる通り、「忘れる」ことが重要である。
しかし、自分で忘れることは出来ないことに気付くべきだ。
勝手に忘れる願いは叶うのである。

叶ったも同然と確信してしまえることや、願ったことを忘れてしまったことは叶うのである。
それは、運命が、「願い」と「成就」の両方をセットで与えたということなのである。

ついでに言うと、「紙に書いた願いが叶う」というのも同じだ。
書いたことを忘れた願いは叶う。しかし、いつまでも憶えている願いは叶わないのである
これは、試してみると、なかなか面白いかもしれない。

次に、「断ち物」での願望成就について述べよう。
断ち物とは、願いを叶えるために、好きな食べ物を断ったり、あるいは、薬を飲まないと誓うようなものだ。
上杉謙信は戦に勝つために、一生、女を遠ざけることを誓ったという。
水野南北は、食事の三分の一を神仏に捧げて願えば、小さな願いで1年、大きな願いでも十年で叶うと言った。
結論から言って、断ち物と願望の成就は普通、関係がない。
上杉謙信は破れたし、断ち物で願いが叶ったという話は、実際には滅多にない。
ただ、叶う場合もある。
ガンジーも、謙信のように、ある時期から生涯、性的禁欲を守り、彼の高貴な願いは叶った。
また、上に述べたように、水野南北が奨める通り、食を慎んで願いを叶えた人もいる。
これは、断ち物をしたから叶ったのではなく、厳しい裁ち物が出来るほどの願いであれば、「元々叶っていた」ということである。
私は、1日1食の菜食・少食を始めて、この8月で4年になるし、性的禁欲も2年になるが、そんなことで願いが叶うとは思っていない。
聖人ではないので、願いも色々あるが、願いを叶えるために断ち物をしているのではない。全くの無目的である。
言ってみれば、叶う願いは勝手に叶うだろうし、叶わない願いは、どうやっても叶わないのである。
だが、がっかりする必要は全くない。
外的な願いの成就など、本当に他愛も無いものだ。すぐに消えるばかりか、苦しみになることも多いではないか?
人間には、もっとはるかに大きな喜びがあることは間違いがない。
ラルフ・ウォルドー・エマーソンが「内にあるものに比べれば、外にあるものなど取るに足りない」と言っていたようなものである。









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刺激が必要なカップルなら別れなさい

「いかに熱望したものでも、得てしまえば、さほどでもなくなる」
アメリカのSFテレビドラマ『宇宙大作戦(スター・トレック)』で、バルカン星人のミスター・スポックが言った、このことをよく憶えている。
しかし、いかに含蓄に富む言葉であっても、私は扱いかねていた。

そして、単に、「喜びはすぐに醒める」どころではないことを、やっと理解できた。
上のスポックの言葉は、実は恋愛絡みであったので(スポックをご存知なら驚きだ)、そんな話で続ける。
例えば、あなたが男で、ある素晴らしい美少女に夢中になり、幸運にも、彼女と結ばれたとする。
それで、いつか喜びが醒めるだけなら、まだ良いだろう。
しかし、まだ熱い幸せを感じているあなたの前に、別の魅力的な少女が現れて、あなたは、そっちに強烈に魅かれる。あるいは、逆に、はじめの彼女の方が別の男の虜になるといったことが必ず起こるのである。
そういったものではなく、2人の間に、別の大きな困難が訪れるということもある。
いずれの場合も、2人は相手を嫌いになったという訳ではない。
単に、相手に飽きたとか、愛想を尽かしたとかいうなら、愚かな者同士として別れればいいだろう。
そうではなく、2人とも苦悩することになるのである。

それを、「運命のいたずら」とか言うのだろう。

「いや、必ずしもそんな悪いことは起こらない」と思うかもしれない。
あっさり言うが、そうかもしれない。
だが、次のことは断言できるのである。

「もし、運命があなたに優しいなら、そういった悪いことは必ず起こるのだ」

書き間違いではない。
幸せに結ばれたカップルは、運命の恵みにより、悲痛の中で引き裂かれるのである。
もし、そのまま何事もなく行けば、それこそ不幸だ。
繰り返すが、昨今珍しくもない離婚のようなものとは別の問題である。

さて、この話の真意は何であろうか?
ここで、別の話で述べることで、真相がはっきりするだろう。

何でも良いのでだが、武道の修行とでも思ってもらえばよい。
師が弟子にある課題を与える。
真面目で熱心な弟子は、それを苦労しながら何とか達成し、意気揚々と師の前に出る。
弟子は、鍛錬の成果を見せれば、師は驚くだろうかとか、すごく褒めてくれるだろうかと思い、うきうきしている。
ところが、師は、ろくに弟子の成果を見ることもなく、別のことをやらせる。
それは、前の課題よりずっと難しく、弟子は手も足も出ない。
弟子はすっかり惨めな気分になり、期待を裏切った師に恨みすら抱く。
では、師はなぜそんなことをしたのだろう?

師は、弟子の力量から見て、前に与えた課題をクリアすることは可能だと思っていたし、弟子の嬉しそうな様子から見て、その通りになったことは分かったのである。
だが、その弟子は、自分ほどの運命に恵まれていなかった。
だから、師は、弟子から、成果を奪い取ったのだ。
もし、運命がもっと弟子に優しいなら、運命がそれをしたことだろう。
そもそも、弟子になるってことは、師ほどの幸運に恵まれていないということに過ぎない。
もし、師が弟子の成果を奪わなければ、弟子の進歩は止まったのである。そして、堕落するしかなかったのだ。

最初にあげた、結ばれた恋人同士にしても、運命が優しくなくて、そのままであったなら、2人はさぞやつまらない、見るに耐えないカップルに堕落したのである。

ZARDの『君がいない』という歌に、

トキメキがやすらぎに変われば、刺激というスパイスだって必要かもね

という詩がある(作詞は坂井泉水さん)。
刺激というスパイスが必要なカップルなんて、残念ながらもう終わっているのだ。
良いカップルなら、嫌でも何か起こるのである。

私が知っている、ある職人は、修行が進み、かなりの腕になった頃、機械の操作を誤ってしまい、指を1本、半分ほど無くしてしまった。
しかし、そのおかげで、彼はさらに高いレベルの職人になったという。
もし、そんなことが無ければ、彼は、ちょっと腕の良い、ただの職人で終わり、いつか、仕事にも飽きていたことだろう。
運命は彼に優しかったのである。

人間というのは、先に進むか、退歩するしかないのである。
現状維持というのは有り得ない。
だから、運命が優しいなら、何かを得ても、それを速やかに奪い去るのだ。
そして、更に先に進ませるのである。

もし、運命に恵まれていないと思うなら、出来れば、自分から、さっさと成果を捨てることだ。
その重要性に気付いている人も稀にだがいる。
もっとも、単にうまくいかないだけで投げ出すことと、成果を捨てることは全く違うのは、言うまでもない。
そうではなく、絶頂期になぜか引退する人達だ。自分でもよく分からないが、そのまま続けることの恐ろしさを感じることが出来たのだ。
しかし、もし、もっと運命に恵まれているなら、強制的に奪い去られるのだ。









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腹を意識すると心が安定する理由

アメリカのプロ野球の監督って、誉め方が上手いものだなと思うことがある。
マスコミを通じての話はあまり信用しないが、オフに選手が帰って来た時、テレビ番組で直接話すのを聞いても、やはりそうなのだと思う。
とにかく、選手について、悪いことをほとんど言わない。
確かに、誉めることが大切だとはよく言われる。
だからといって、真似したつもりで、そこらの会社の上司や教師や親が、部下や生徒や子供を誉めても、まるっきり駄目なのだ。
会社で、若い社員同士でこんな話をしていた。ある上司のことについて、「あいつにだけは誉められたくない」と言っていたのだ。
大リーグの監督もそこの会社の上司も、言うことは同じようなものなのに、何が違うのだろう。
私は、今日寝ていて、夢の中で、松井秀喜選手になっていた。松井選手といえば、最近、あまり調子が良くない。
私は監督に何か言われた。途端に、心が落ち着いた。
はて、何を言われたかというと、夢の中のことだ。何も覚えていない。
夢は、自我意識が無い状態で見ているので、自我である心にはあまり記憶が残らないものだ。
しかし、目覚めの瞬間の夢であれば、ほんのわずか、シンボルとして、記憶が心の中に入り込んでくる。覚えている夢は、目覚めの前のものだけだ。
それで、こんなことを覚えていた。2つの玉が見えた。その2つがくっついたのである。その時、落ち着いたのだ。
1つは大きな玉で、1つは小さな玉だ。
つまり、こういうことだ。
下手な誉め方は、2つを分離させるが、上手い誉め方は、2つをくっつけるのだ。
大きな玉は中心である大我(真我)だ。小さな玉は自我だ。
以下に説明する。

昨夜、このブログで、戦後の日本の教育では、「胸を張って、腹を引け」という教育が子供を駄目にしたと書いた。
この姿勢は、腹という中心から、胸という自我を離し、頭は、自我が中心だとみなしてしまうのだと気付いた。
人間は、精神的なことより、まずは身体的な正しさを得ることで、心も自ずと収まるのである。
だから、良い姿勢で立ち、良い姿勢で座らないといけない。
では、良い座り方、良い立ち方とは何かというと、押されてもよろめかない座り方、立ち方だ。
胸を張って、腹を引き、膝を伸ばして、すっくと立っていると、後ろから押されると簡単につんのめる。
しかし、腹を少し前にして、肩と腕をだらりとし、背筋をまっすぐにして、膝が緩んでいると、安定して、どこから押されても簡単にはよろめかない。

日航の社長や日銀の副総裁だった柳田誠二郎さんは、心身共に病んでいた時に、長く座禅をやったが、ますます駄目になり、勧められて岡田虎二郎に静坐を教わりに行った。
そして、静坐して座っていると、虎二郎は柳田さんの胸倉を掴み、ぐっと下に降ろした。
その姿勢で静坐すると、柳田さんは、たちまち心が晴れやかになったという。
柳田さんは、鳩尾(みぞおち)を下に降ろすという言い方をしたが、私はイメージが掴めずに苦労した。
要は、柳田さんは、座禅をしていた時、胸を張ってがんばり、重心が上に上がっていたのだ。
岡田虎十郎はそれに一瞬で気付き、胸を降ろさせて、重心を下げてやったのだ。
別に座禅が悪いのではなく、座り方に問題があったのだ。

合氣道の達人、藤平光一さんは、著書で、「重みは下にある」と言うと、氣が出るというが、これも、下を意識することが、上がっていた重心を下に降ろすことで心が安定するという意味だろう。それだけで、奇跡のような効果が確かにあるのである。
軍隊の「胸を張って、腹を引け」は、「重みを上にやれ」と言うようなものである。戦後の日本教育は本当にひどいものだったとぞっとするのである。

私が日頃お奨めする、腕振り運動も、下腹を意識してやるのだが、これも重心を下げるということだ。
少し前に、腕振り運動をすると、ぐらぐらしてしまって上手くやれないという方のコメントがあったが、普段から、重心が上に上がってしまっているのだろう。
私は、下腹を意識してやるようコメントを返したが、ついでに言うと、足をしっかり踏みしめていることを確認してからやるのも良いと思う。
まさに、腕振り運動は、重心を下に下ろし、腹という中心に心を一致させることも出来るものだ。つくづく、万能運動であると思う。

「胸を張って、腹を引く」姿勢は、重心が上がってしまって、中心である腹から心が離れる。重心が上がっていると、心も上がりやすい。つまり、緊張する。
重心を降ろし、腹に意識を持っていくと、心も安定して上がらない。
上がっている時ほど、自我は自己を主張して、自己中心的になる。逆に、安定した心は、中心である大我に溶け、忘我になる。
立っていても、座っていても、どこから押されても、揺るがない姿勢であることを意識すれば良いと思う。
普段から、腕振り運動で、重心を下に降ろす訓練をすれば良いだろう。
これだけで、怖いものなしであることは間違いない。

尚、かなり個性的であるが、D.H.ロレンス(『チャタレイ夫人の恋人』の著者)が、腹の神秘を考察した幻の名著『無意識の幻想』を下にご紹介しておく。









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軍隊式姿勢が日本人を駄目にした

我々が感じる、身体的に格好の良い姿勢というのは、どんなものだろう。
立った姿としては、胸をぐっと張り、お腹をぎゅっと引っ込め、脚が真っ直ぐに伸びた姿勢というイメージがあるのではないかと思う。

カールフリート・デュルクハイムの世界的名著『肚-人間の重心』の冒頭に、戦後の日本の教育の最大の汚点が、軍隊式の姿勢である「胸を張って、腹を引け」を子供達に指導したことであるという記述がある。
また、脚を伸ばすことに関しても、ナチス式行進(ガチョウ足行進)として知られる、膝を曲げない歩き方は、単に見栄えが良いという理由だけで、多くの国の軍隊で導入されたが(現在も採用している国がある)が、不合理極まりないものである。
アインシュタインは子供の時、人々が熱狂する、そんな軍隊の行進を見て、「きっと、神様が間違えて、こいつらに頭をくっつけたんだ」と言ったと云われる。
我々の感じている、素晴らしい姿勢は、西洋の軍隊から来た愚かなものかもしれない。

少し昔、ミル・マスカラスという、世界的に人気のあったメキシコのプロレスラーがいた。
だが、彼と対戦する相手は、ある嫌な感情を持ったと云われる。
その理由は、彼の、すっくと胸を張り、膝を伸ばして歩く様子によるものだった。
その姿勢は、身体の機能を殺してしまうものであるのだから、対戦相手としては、馬鹿にされているように感じるのである。もちろん、相手も、マスカラスが格好を付けているだけだというのは分かっているのだが、限度を超えているのだろう。それほど、不合理な姿勢なのである。
もっとも、彼だって、いざファイトが始まると、膝を緩め、うつむき加減の正しい姿勢であったのは当然のことだった。
私は、マイケル・ジャクソンが腰痛に苦しんでいたというのは、あの格好の良い姿勢をいつも取らざるを得なかったことがあったのではないかと思っている。

日本人というのは、元々、床に座る習慣があったことから、歩く時に西洋人ほどは膝が伸びておらず、これが「アヒル歩き」などと揶揄される通り、見栄えが悪かった。
しかし、能や歌舞伎では、軸足をやや曲げて、溜めを作ることが、優れた動きの秘訣とされ、武道でもそれに倣うことが多い、とても良いことなのである。

クリプトン・フューチャー・メディアのWindows用音声合成ソフトウェア『初音ミク』のパッケージに描かれた初音ミクの姿は、特に昔の教育者が見れば、「もっと胸を張れ」「腹を引っ込めろ」「腕はぴっしりとしろ」と言われそうである。
しかし、ポージングの都合で、やや腰をひねった感じではあるが、割合に良い姿勢ではないかと思う。お腹を少し前に出し、膝も緩んでいる。腕をだらりとしているのも良い(実際は、あくまで美しさを重視したポーズである)。

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初音ミクの公式画像の非営利での使用は、版権者であるクリプトン・フューチャー・メディアが許可しています。

(c)クリプトン・フューチャー・メディア
illustration by KEI

日本人は、天皇陛下がそうであるのだが、偉い人が人々の前に出る時に、威風堂々と胸を張るのではなく、お腹を少し前に出して、肩と腕をだらりとたらし、慎ましい姿勢をする美徳があったのである。
そして、それは、身体の中心が腹であることを示している。日本人は昔から、腹の重要性をよく理解していた民族で、「腹が出来ている」「腹を割る」などといった、腹を使った言葉が多くあり、武士は最大の誠意を示すために、最も重要な腹を切ったのである。
胸を張って、腹を引く姿勢を取れば、重心は上にあがって、中心であるべき腹から切り離され、精神的にも不安定になるのである。
そして、慎ましい心があれば、自然に正しい姿勢になるのである。
日本人の素晴らしさは、自然の中に神を感じ、それを畏怖して、身を慎んだことで、自ずと身体が正しい姿勢になり、正座をするようにもなったのであると思う。

最初に述べた、『肚-人間の重心』の著者である、心理学者、哲学者のカールフリート・デュルクハイムは、日本で長く暮らし、弓道、華道、茶道、書道といった日本文化を学ぶうちに、日本精神と共に、腹の重要性を感じ、座禅や岡田式静坐法を学んで、ドイツに持ち帰り、心身療法に導入して成果を上げたと云われる。
岡田式静坐法を創始した岡田虎二郎は、人は、腹から力が抜けた時に悪しきことを考えるのだから、片時も腹から力を抜いてはならぬと言ったそうである。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠も、常に下腹に手をやって、力を込め、また、門弟達にも腹を鍛錬することを勧めていた。ただ、「腹に力を込める」「腹を鍛える」というのは、現代の我々の観念とはやや異なるかもしれない。ただ、腹を意識すること、腹を中心に動作することなどを工夫してみても良いだろうと思う。
下に、参考になる書籍をご紹介しておく。









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