ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2012年05月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

醜女が一瞬で息を呑む美女になった話

美しくなるのは大変なことだろう。
ところが、一瞬で美しくなった非常に印象的な話がある。
別に、一般受けするような怪しい話ではない。

美しいという言葉など全く無縁で、むしろ、蔑み疎まれるような容貌で、若くもない女性が、前から彼女を知っていた者に、「あなたって綺麗ねえ」と感嘆されるほどだった。
注意していただきたいのは、「あなたって綺麗ねえ」であり、「綺麗になったねえ」ではないということだ。
エステやメイクで表面的にどうにかしたというのではない。
メイクもしなかったし、髪型も変えなかった。まして、ダイエットする期間などなかった間の出来事である。
こういった話は、空想ではなく、十分に有り得ることと思う。

1つは、英国の著名な作家コリン・ウィルソンの『賢者の石』にあるお話だ。
コリン・ウィルソンは、膨大な著作のある世界的作家だが、作家と言っても、私は彼のフィクション(小説)作品を1つしか知らない。実は、その1つが『賢者の石』なのだ。
だが、ウィルソンが書くからには、そして、ウィルソン自身も明かしたが、これは小説の形を借りただけの人間探求の書なのである。
小説の形を借りることで、著者は、具体的資料を収集し、その正確さを検証し、さらには、引用の許可を版権者に請求するといった手間を省くことが出来る。小説なら、参照した事柄の実証性を問われないからだ。
それは、作品が空虚なものになる危険もあるが、ウィルソンのように、天才的洞察力を特徴とする人物の場合は、その方が優れた作品になると思う。
私がウィルソンに期待するのは、彼の鋭い直観であり、彼のへたくそな論理の構築ではない。彼が学者ぶって書いた『右脳の冒険』や『超越意識の探求』などは、文章間に散りばめられた彼の驚くべき直観的洞察に関しては見るべきものがあると感じるが、こと論理となると、彼は最大の無能さを発揮し、ためいきの10や20もつきたくなるというものである。
彼が、文豪の小説を引用して考察を進めた『アウトサイダー』のようなものは、ある段階までは良いのだが、彼が頭で深く考察すると、やはり馬鹿げたものになる。つまり、彼が文豪の作品に対して直感的に感じたことは宝石なのだが、それを彼の歪んだ頭で考えると、途端に陰鬱でおかしなものになるのだ。

こう書くと、ウィルソンを褒めているのか貶しているのか分からないが、彼はやはり天才なのである。そして、頭で考えたら駄目だというのは、別にウィルソンの場合に限らない。
大発明、大発見というものだって、考えに考えてもどうにもならず、諦めて考えるのをやめた時になされるのだ。
エジソンは、発明の秘訣は「1%の霊感と99%の努力」と言ったらしいが、真意は、99%の努力を注ぐべき1%の霊感がなければ話にならないということだ。
アインシュタインだって、ごく若い時に、相対性原理を直感的には分かっていたが、数学的に証明するのに大変な時間がかかったし、実はそれは彼には出来なかった。数学者の助けを借りたのだ。

前置きが長くなったが。『賢者の石』に戻る。
平凡な人間が、事故のような出来事により賢者になったり、ESP(超感覚的知覚)と考えざるをえないような能力を得ることがある。これについては、具体例の方は、ウィルソンは『右脳の冒険』などで述べている。
例えば、頭に大怪我をして脳に何らかの障害を負うことで、ごく普通の人だった者が、まるでインドやチベットの聖者のように深遠な真理を語るようになったことがある。
そもそも、天才というものは、ある意味では、脳障害のようなものと言えるかもしれない。
ある7歳の少女は、絵を習った訳でもないのに、レオナルド・ダ・ヴィンチばりの動物デッサンを描いたが、彼女には言語系の脳障害があった。そして、それが年齢と共に正常になっていくと、絵の才能も無くなったという。
幼い時に神童と言われるほど、特定のことで才能を示した者でも、「二十歳過ぎればただの人」と言われるように、ほとんどの者が天才的能力を維持できないのは、たまたま発生した脳の不調和な発達によって天才に見えたのが、時と共に自然に(あるいは医療により)調和されていったことで、その異常な能力が消えたということが多いのだろう。

『賢者の石』では、突発的に天才になった人に起こるような出来事を、人為的にやってみようとする研究者が登場する。
この小説の中では、ある特殊な金属を脳のある部位に取り付けることで、通常の脳における電気的特性を変化させるといった説明がされていたと思うが、私はよく憶えていないし、このあたりの詳細はどうでも良いことだろう。
そして、ある女性がこの実験の被験者になることに同意する。中年の、特に特徴もなく、魅力もない女性だった。
ところが、施術を行う中で、その女性の目が輝き、表情に神秘的としか言えないようなものが現れる。そして、施術に立ち会った主人公は、これほど美しい女性を見たことはないと感じる。

これは、何らかの方法で、脳あるいは心を抑圧するものを取り去ることで人間に起こる変化であり、それは有り得ないことではない。
人間は、生まれてから、あるいは、生まれる以前から、絶えず何らかの抑圧を受け続け、それがストレスとなって心身に蓄積される。その量は、予想されるよりはるかに多く、強力だ。それは、人の生命力を枯渇させ、能力の低下や老化といった作用を起こす。
その抑圧要因を取り除くことが出来るなら、能力の向上はもちろん、若さも回復し、本来持っているはずの美しさも現れてくるはずである。
そう簡単なことではないが、催眠術を使うことで、うまく幼児期からの抑圧から解放された女性が、一瞬で驚くほど美しくなるといった話を聞いたことがあるし、私も、ある高額なセミナーで、そういった実例を見たことがある。だが、催眠術やNLP(神経言語プログラミング)といった手法で、そう簡単に劇的な効果を得られることはまずなく、ある程度の効果があったとしても、それは短期的なものだろう。それは、悪要因が一時的に隠れただけで、それはむしろ威力を増して帰ってくることも多く、結果、より悪いことになりかねない。よって、安易にそんなものに頼ってはならない。

特殊な話と言えるが、霊的な障害(いわゆる霊障)にとりつかれた、40歳くらいだが老婆のように見える女性が、有能な霊能力者によって除霊を受け、長時間の苦闘の末に悪霊を祓った時、周囲の人が、少し前までの醜い老婆のようだった女性の美しさに驚いたという話がある。霊障が本当にあるのかどうかはともかく、これも一種の精神的抑圧の解消例だとするなら、有り得ないことではないと思う。

強い恨みや妬み、あるいは後悔といった重荷を抱え、すっかり醜くなった女性が、何かで死ぬような体験をすることにより、そういった精神的抑圧から解放されたところ、以前とは別人のような美しい人に変わったという例を、あなたも知っているかもしれない。
もっとも、社会的行動が聖女のようであるからといって、その女性が必ずしも美しい訳ではない。そういった人は、むしろ、強い精神的抑圧を感じているかもしれないのだ。
象徴的なお話としては、ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に登場するミリエル司教の妹のバティスティーヌ嬢のことがあげられる。彼女は若い時でさえ美しくはなく、男性と交際したことは一度もなかったが、老齢になってから不思議な美しさをまとうようになる。魂に目覚めていった兄とずっと一緒に暮らす間に、彼女もまた、人の魂を束縛する何かに打ち勝ち、退ける術を得たのであろう。

もうお分かりかと思うが、特に女性の場合、魂を縛る何かから解放されることで、生命力を回復すれば、本質的な美しさが輝くのであり、それは、美容法で創るようなものの比ではない。
逆に、いかに美容的な方法で外的な美しさを作ったところで、本当の魅力は得られない。それは、金をかけてプロポーションや何かは確かに素晴らしいのだが、少しも美しくないという女性が沢山いることでよく分かると思う。
もちろん、『賢者の石』にあるような、怪しげな脳への細工など不要だ。

1つには、『エメラルド・タブレット』にも書かれているように、食欲からの解放が魂の解放につながるのである。
確かに、食欲に打ち勝つことは非常に難しい。そして、このブログで常に述べているが、何事も運命によらずに決して起こらない。
食を慎むことが出来るかどうかも運命なのかもしれない。
しかし、同時に、人は空想だけは意思の力で支配できる可能性がある。今回は詳しく述べないが、それはあらゆる聖者、賢者が保障するところである。
そして、過ぎた食欲は、空想から起こるのである。そうであるなら、見かけ上の食の量がどうなるかは分からないが、人が食欲から解放されるということは可能であると私は思う。

この問題に関しても、常にこのブログで述べる方法により、空想を止めることが、ほとんど唯一の解答である。
簡単に言えば、自分は全く無力で、世界や人生に対し、何の影響も与えることができないことを受け入れ、ものごとを完全になりゆきに任せることだ。
尚、男性の場合は、魂の束縛からの解放が美しさに現れる程度は、全く無いとは言わないが、女性ほどではないと思われる。また、女性の場合でも、それは必ずしも性的魅力として現れる訳ではない。そのあたりを、とりあえず注意しておく。









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10人の愚かな男達(あるいは豚さん達)のお話の真意

『おはなしおばさんの小道具』(藤田浩子編著)の中に、『一ぴき足りないブーブーブー』というお話がある。現在はどうか知らないが、小学校低学年用の教科書に載っていたこともあるらしい。
オリジナルは世界的な寓話だろうから、教科書だけでなく、誰もが、いろいろなもので一度は見たり聞いたりしたことがあるに違いない。
しかし、このお話の本当に重要な意味を誰も知らない。単に、「お馬鹿なブタさんですね」といって笑う話ではない。

インドの聖者ラマナ・マハルシが、それと似たお話である『10人の愚かな男達』の話を引用して、教えを授けたことがある。
私はそれを、めるくまーる社の『ラマナ・マハリシの教え』で読んだのだが、そこに書かれていたことが、どうもマハルシらしくない。
マハルシが、インドの方言であるタミール語で話したものを誰かが記述し、それが英語に翻訳され、さらに日本語に翻訳する中で、齟齬や欠落が発生したのではないかという気がする。
実際、この話は、深く難しい。

『10人の愚かな男達』は、大体こんな話だ。
10人の男達が大きな川を歩いて渡った。
川を渡り終えた時、仲間の無事を確かめるため、1人の男が、全員の数を数えた。しかし、彼は自分を数に入れなかったために、9人しか数えられなかった。
他の誰が数えても、皆、自分を数えないので、どうしても1人足りない。
「誰がいなくなったのだろう?」
10人の男達は考えたが、分からない。
その時、感傷的な男が、
「あいつが流されたんだ」
と言って泣き出したので、皆、つられて泣き出してしまった。
そこに旅人が通りかかり、泣いている男達に事情を聞いたところ、旅人はすぐに問題を理解した。
そこで、旅人は、
「お前達の頭を1人ずつ殴るから、殴られた者は、自分が何番目に殴られたかを言え」
と男達に言い、男達は同意した。
最初に殴られた男は大きな声で「1」と叫び、そして、旅人は次々と殴り続け、数は「2」、「3」と続いた。
そうすることにより、10人の無事が確認できた男達は喜び、悲しみから解放してくれた旅人に感謝したのだった。

この本では、マハルシがその話を引用した理由を、「失われた男が現れた」「本当は誰も失われた訳ではない」ということを示したかったためと書かれていた。
つまり、真の自己である真我(自己の内に存在する神)は、決して無くなったことはなく、常に存在するのだということを言いたいためだということだ。

間違いではないかもしれない。
しかし、それだけでは、肝心のところが抜け落ちることになる。

10人の男達が泣く原因となった、「流されてしまった誰か」というのは、本当は決して存在しないということが重要なのだ。
男達は、妄想(空想)により、「流されてしまった誰か」を創り出した。その、決して存在しなかった誰かのことが、男達にとっては現実になってしまったのだ。
存在しない誰かが創造されてしまい、さらには、その存在しない誰かが流されたという出来事まで創り上げられてしまった。それは虚偽であり幻想なのだけれども、それが実際に、男達に悲しみをもたらし、男達は不幸になってしまったのだ。
ここのところをよく理解しなくてはならない。
旅人が、男達の頭を殴り終えた時、失ったと思い込んでいた一人が現れたのではなく、その、本当はいないのに、男達にとっては実在となってしまった誰かが消えたのだ。
それが、男達を悲しみから解放したのだ。

さて、では、マハルシの話の真意は何だろう?
『10人の愚かな男達』のお話の中の、本当はいないはずの誰かというのは、実は、我々自身のことなのだ。
それに気付くことは、極めて重要なことであるが、同時に、気付くことは難しい。
我々は、「私が考える」「私がする」「これは私のものだ」という言い方をする。
しかし、そんな「私」など、決して存在しないのだ。
ラマナ・マハルシが教え続けたのはそのことなのだ。
あの愚かな男達が、本当は存在しない誰かのために不幸になったように、我々も、存在しない「私」のために不幸になるという愚かなことをしているのだ。
そして、マハルシは、我々の頭を殴る旅人になってくれているのである。

考える私、行為する私が消えた時が、悟りである。ラマナ・マハルシは、それを「真我の実現」と言う。真我とは神である。
行為する私、考える私とは自我である。
自我は決して存在しないのであるが、神である聖なる意識が人間の肉体と一体化するために、自我という幻想を生じさせるのである。
神がなぜ、そんなことをするのかは分からないので、インドではそれを、とりあえず、神のリーラ(遊び)と言うのである。
幻想である自我が消え去った時、自分が肉体や心であるという誤った束縛から解放され、我々は自分が真我(神)であると知るのである。
それは至福である。自分が神であると知る以上の至福はない。
だが、自分が神であることを楽しむ自我なんて決して存在しないのである。
それを、ラメッシ・バルセカールは、「100万ドルか悟りか、いずれか選べるのなら100万ドルにしなさい。100万ドルを楽しむあなたは存在するが、悟りを楽しむあなたなど存在しない」と冗談めかして言ったのである。

個人である私(=自我)が存在しないことを、どうやって知れば良いのだろう?
自我によって、自分が世界から分離した個人であるという思いを持ち続ける限り、あの愚かな10人の男達のように、我々は苦しみや悲しみに打ちのめされ続けるのである。
マハルシは、どうやって、我々の頭を殴ってくれるのだろうか?
マハルシは、2つのやり方を教えた。しかし、それは実際には同じものである。

個人としての私が本当は存在しないことを知るためには、1つには、その私を探求するという方法がある。
どんな想いが浮かんだ時でも、「この想いは誰に浮かんだのか?」「考えているのは誰か?」と問えば、思考は止まる。
だって、考えている源に意識をロック(固定)してしまうのだから、像のハナ先を押さえて何も掴めなくしてしまったようなものだ。
「誰が考えているのか?」「この想いは誰に起こったか?」に対し、「それは私だ」と答えるまでは良い。
「それは私だ」と浮かんだならば、すかさず、「私は誰か?」と問うのだ。すると、想いは破壊される。
必要最低限の思考である瞬間的な想い以外は、全て空想であるが、それは我々を肉体や心に縛り付ける妄想である。
「私は誰か?」と尋ね、心がそれに応じなければ、空想は消えるのである。
それを勤勉に続ければ、空想の主体である自我は弱くなり続け、やがて、真我自身により、自我は破壊されるだろう。
だが、「私は誰か?」を呪文にしてはならない。1回1回をしっかり自分に問うのだ。
しかし、ただ、心に問うだけだ。答えてはならない。
心の中に潜り込んで神を探しにいけば、神になって帰ってくることになるのである。

尚、ラマナ・マハルシとラマナ・マハリシのいずれが正しいかであるが、ラマナアシュラマム発行の季刊誌『ザ・マウンテン・バス』2006年版第1号によれば、
サンスクリット語:ラマナ・マハルシ
タミル語:ラマナン・マハリシ
ヒンドゥー語:ラマン・マハルシ
となるようだ。タミル語は、ラマナ・マハルシが使っていたインドの方言である。
ナチュラルスピリット『静寂の瞬間(とき)』序文ページより引用した。この本は、マナルシの写真集で、色々な本に書かれたマハルシの貴重な言葉が引用されている。









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聖者だって美味しいものや女は大好きである

このブログにいただいたコメントについては、大抵、丁寧に読んでいる。
その中で、気になったものがあったので取り上げたい。
そのコメントには、内なるものこそが大切なのであるから、金も名誉も男(or女)にも興味がないとあった。
非常に問題があると思う。

私は、お金は大好きで、興味がある。
名誉は、得たら面倒とは思うが、嫌いではない。
美しい女はもちろん、大好きであるし、得られるならばそれにこしたことはないと思っている。
当たり前じゃないか?

ただ、私は、これらを、自分の思うように得ることは決して出来ないと述べているだけである。
別に得られないと言っているのではない。ただし、得られるかどうかは、あなたの意思とは何の関係もなく、あなたにはどんなコントロールも出来ないと言っているのである。

少し前、『婆子焼庵(ばすしょうあん)』という禅の公案を取り上げた。
手厚く1人の青年僧の面倒を見ていたお婆さんが、美しい娘にその僧を誘惑させると、僧は、「私の心は冬の枯れ木」と言って応じない。
それを聞いたお婆さんは、「つまらないものの世話をしたものだ」と、僧を追い出し、彼に使わせていた庵(質素な住居)を焼いてしまった。
ちなみに、既に老人だった一休さんは、この話について、「そんなことがあったら、この老体も芽吹くであろう」と意欲的(?)であった。実際、一休さんは、70も過ぎて盲目の若い美女と同棲している。それだけでなく、美少年も、酒も、肉も大好きという、まさに破戒の僧だった。その甲斐あってか、88歳という当時としては驚異的な長命で天寿を全うした。
そういえば、同じく破戒の僧で、肉食、妻帯をした親鸞も89歳の長命であった。

もっとも、彼らだって、弟子達には厳しい戒律を課した。
ラマナ・マハルシに誰かが、「肉食で悟りを開くことが出来ますか?」と尋ねたところ、マハルシは、「不可能ではないが、極めて難しい。だが、悟りを開いた後であれば、何の影響もない」と答えている。
まかり間違っても、「自分も一休さんと同じようにしていい」などと勘違いしてはならない。たちまち、苦悩の世界に陥ることになるだろう。まあ、それが運命であれば避けられないが。

自我の消滅が悟りであるが、金も女も興味がないなどは、それこそ強い自我の言うことである。
聖者とて、嬉しいことがあれば、それを喜ぶのである。ただ、良いことも悪いことも同等に扱うのだ。あらゆる出来事を、自分の意思とは何の関係もなく、ただ起こったこととして観照するだけなのだ。

もう1つ。
人の運命は生まれる前に神によって、いかなる些細なことまで完全に決められている。
悪いことが起こったとしても、それは、前世までをも含む過去の悪い行いの報いなどといったものではない。
ただ、それが起こることを神が決めたというだけのことだ。
神がなぜ、そのような運命をその人間に授けたかといった意図は、決して人間には知ることができない。
それ以外のいかなることについても、神がなぜそうしたなど、人間に理解できるようなことではない。
神の意図や目的を知ろうなどというのは、まだ自分の無力や無知を少しも分かっていない証拠である。
世界は亀の背中の上だと思っている未開人を我々は笑うが、神からみれば、彼らと我々に何の違いもないことだろう。
神の意図を知ることが出来るなどと思っているうちは、平安とはほど遠いのである。
なぜなら、そのような無知と傲慢こそ、苦悩をもたらす自我の特徴であるからだ。

上にあげたようなコメントを書いてくる方については、過去にもその人のコメントを見る度、いつも、「この人、世の中で辛い思いをしているだろうなあ」という慈悲の想いが起こっていたのである。
また、何かの本で読んのだと思うが、自論を長々書かれる方についてもそうなのである。
スコットランド出身の哲学者・神学者で、ヒーラーであるマード・マクドナルド・ベインが、後に師となる聖者に初めて会った時、ベインは、それまでに学んできたことを一生懸命、その偉大な大師に話して聞かせた。師は、その話を興味深く聞いた後にいった。
「そんなことが本当かどうかは、大して重要なことではないのだよ」
その瞬間、ベインは悟りを開いたのである。









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成功者は無自覚に嘘をつくのでご注意を

ビジネスで大成功した者が、「こうすれば成功するのです」といった感じで、成功法則、成功哲学を本に書いたりしている。
何といっても成功の体現者であるし、これらの多くの本は「法則に則りさえすれば誰でも成功するのです」「努力なんて不要です」といったことが面白く書かれているので、非常によく売れる場合があり、何十万部というベストセラーもあるほどだ。

それらの本が役に立つかというと、絶対に役に立たない。実際、そんなものを読んで成功した人はいない。
一番問題な点は、書いている成功者は善意で書いていて、自分が嘘をついていることが分からないことだ。これほど始末の悪いことはない。
成功者が成功したのは、単に、それが運命だったというだけのことなのだ。
彼は、生まれる前からの成功者だった。それ以外、他の人との違いは全くない。成功に、原因も秘訣も何もない。成功する運命であれば成功は避けられないし、成功する運命でなければ、いかなる努力をしても決して成功しない。
そして、成功するかしないかなど、何の意味もない。
むしろ、成功して自我が強くなると、真の幸福である至福を逃す可能性が高くなるのであるから、成功というものは無い方が幸せなのである。
成功を選ぶことは出来ないが、至福への道なら選ぶことは出来るのだ。

ナポレオン・ヒルという人は、数多くの成功者にインタビューして、成功の要因を抽出し、成功プログラムを作った。
しかし、それを使って成功した人はない。当たり前のことだ。
成功者をいかに調べても何の意味もない。
ナポレオン・ヒルが調べるまでもなく、成功者の成功要因はただ1つだ。それは、彼は成功する運命だったということだ。他には何もない。
なるほど、成功者の多くは多大な努力をしているし、直感が冴えている。
しかし、それは、彼が多大な努力をし、素晴らしい直観を得る運命が与えられていたというだけのことである。

ラマナ・マハルシは言った。
「運命によらずして何も起こらない。働く運命に無ければ、いくら仕事を探しても、仕事は見つからないであろう。逆に、働く運命であれば、いかに嫌でも働くことは避けられない」
これが真実である。
成功して金持ちになる運命に定められていれば、いくら嫌でも、そうなることは避けられない。逆に、いかに成功を望み、金持ちになることを願っても、そうなる運命でなければ、何をしても成功し金持ちになることは絶対にない。

だが、ほぼ全ての金持ちは惨めで不幸だ。
富だって、いつまでも続く訳ではない。大半の金持ちが、短期間に富を失い、やがては借金まみれになっている。僅かな富豪は生涯富を保有するが、実は幸福でない。世界屈指の富豪ハワード・ヒューズも、何も食べられずベッドに寝たきりで、家族は離れ、友人もなく、執事だけに看取られて惨めに死んだ。
驚くべき成功を収め、「思い通りになるのが人生だ」と豪語して成功哲学を説き続けた牧師も、全く思い通りにならず、年をとって莫大な負債を抱え、家族に見捨てられて余生を送っていると聞くが、不思議なことではない。
一方、ふんどし1本以外、何も所有しなかったラマナ・マハルシは生涯を至福のうちに過ごした。
別に、貧しくなければならないと言うのではない。
金持ちになる運命であれば、金持ちになるしかない。
誰も、自分の意志で、金持ちになったり貧乏になったりは出来ない。
そんなことは神の決めることであり、我々には何のコントロールも出来ない。
金持ちか貧乏かは、何の関係もない。
確かに極端な貧乏の場合もそうかもしれないが、不要な富を持ってしまうと、幸福を逃し易いのである。
イエスが「5体満足で地獄に行くより、身体の一部を失って天国に行く方が良い」と言ったのは、「豊かで地獄の苦しみを味わうより、多少足りなくても、至福であることがどれだけ良いだろうか」という意味である。

我々は完全に無力であり、世界や人生に何の影響を与えることもできない。全ての出来事は、我々の意思と何の関係もなく起こる。
それを完全に無条件に受け入れ、荘子が言ったように、全てをなりゆきに任せることだ。
こう言うと、愚かな者は、「それなら、みんな投げやりになって、何もしなくなる」という誤解をする。
そんな馬鹿なことはない。
超人的な努力をする運命にあれば、そうするだろう。
怠惰を好む運命であれば、サミュエル・ベケットのように、ノーベル賞授賞式にも「面倒だから」という理由で、行かないだろう。
至福への第一段階は、運命を無条件に受け入れることだ。
そうすれば、自我は弱まり、欲望が少なくなって行き、妄想(空想と等しい)をしなくなる。それが至福への基本的条件となるのだ。









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人を嫌悪する者は狂っているが罪はない

他人を毛嫌いする傾向の強い者もいれば、さほどでない者もいる。
あまりにその傾向が強いと、「人間嫌い」になってしまい、世間でうまくやっていけない。

ところで、有名な映画評論家だった淀川長治さんの本に、『私はまだかつて嫌いな人に逢ったことがない』というものがあるが、この本のタイトルが本当は何を示しているのかは分からない。
私は、淀川さんは好きなのだが、もし、言葉通りの意味で、こんなセリフを言う者がいたら、私は、その人をあまり信用しない。
人間の心の構造を調べれば、人間は嫌いな人間を作らずにはいられないことが分かる。だから、他人を嫌悪するからといって自分を蔑む必要はない。
言ってみれば、神が人間を、嫌いな人間があるように創ってあるのだ。

人はなぜ、ある種の他人を毛嫌いするのだろう?
wowaka(現実逃避P)さん作詞作曲の、初音ミクと巡音ルカのデュエット曲、『ワールズエンド・ダンスホール』に、

短い言葉で繋がる意味を 顔も合わせずに毛嫌う理由を
さがしても さがしても 見つからないけど

という歌詞があるが、なるほど、その理由は見つからないものだ。
簡単に言えば、人は、考え方が自分と異なる人間が嫌いなのだ。
異なる教義や信念を持った人間を異分子として、過激な手段を使ってでも排除したがるのは、本当は、ただ嫌いだからという理由からなのだ。
だから、世間の教義や信念に反する考え方をする者は、世間の人に嫌われ、その者もまた世間の人を嫌うだろう。
この世とは、常に多数派のものであり、少数派は理不尽な目に遭わされるのは当然のことなのだ。
「いや、少数派を尊重する者だって沢山いる」と言う人がいるだろうか?
それは、あくまで、その変わった少数派の考え方が、ある程度、自分の考え方と似ている場合にのみ容認するというだけのことなのだ。

スーフィー(イスラム神秘主義)に伝わる面白いお話がある。
ある男が、いずれ村の井戸の水が恐ろしいものに変わり、飲むと気が狂ってしまうことになると聞き、その前に水を貯蔵した。
そして、ある日から、井戸の水を飲んだ村人達は、確かに狂気としか思えない行動をするようになったのを、その男は見たが、自分は貯蔵された水を飲んでいるので、難を逃れたように思え、安堵した。
だが、ある時、その男は、村人達が自分を見る目が、哀れみと嫌悪に満ちていることに気付いた。
やがて、男は、村人達のその目に耐えられなくなり、井戸の水を飲む。
そして、村人達は、狂気から回復したその男を祝福したのだ。
だが、その男は、本当に狂気から回復したのか、あるいは、正常だったのが狂ってしまったのだろうか?

精神分析学者の岸田秀さんは、人間は皆、幻想の中に生きていて、人間である限り、1人残らず、確実に狂っていると言う。
それはある意味正しい。
人間は、空想をしない限りは正常なのだが、空想しない人間はいないので、確かに、実際は、全ての人間は狂っている。
ただ、岸田さんは、フロイト説に則り、人間は本能が壊れた動物であり、本能を補完する目的で創った自我は自然に立脚しない幻想であるから、人間は狂っていると言っているのである。
だが、本当は、自我という幻想が本能を歪めているのである。
本能そのものは正常なのだ。

人類は3万年ほど前まで、自我を持たなかった。
脳自体は20万年前からさして変わらないにも関わらず(むしろ太古の時代の方が大きかった)、人類が人類らしくなったのは3万年程前のことで、それは、人類が自我を持ったことによる。
自我を人類に与えたものは、神とでも言うしかないものだ。とりあえず神と言うが、神が人間に自我を与えた理由は、別に本能が壊れたからではない。そもそも、自我なんて、ちっとも本能の代わりになどならない。
いったん与えられた自我が破壊されたら、人間は狂気から解放される。
だが、自我を与えたのが神なら、それを破壊する者もまた神なのだ。そして、神は極めて稀にしかそれを行わない。
だから、ここでは岸田さんの言う通り、全ての人間は狂っているとする。

すると、上のスーフィーの伝説の男は、1つの狂気から、別の種類の狂気に移っただけだということが分かる。これは、よくあることだ。洗脳から覚めたと言う者は、単に、違う洗脳で上書きされたというだけのことなのだ。

岸田さんも述べていたが、人間は、同じ種類の狂気を持った者同士で集団を形成し、そのグループに所属する人々は、その中では正常な人間として扱われる。しかし、そのグループの中の者が違う種類の狂気を持つ集団に行けば、たちまち狂人扱いされるのである。
それが、このスーフィーのお話の要旨である。

我々は、自分が狂っていることを棚に上げて、別の狂い方をしている者を嫌悪するのである。それが、人間がある種の人間を毛嫌いする理由である。
人は自分の狂気については全く分からない。つまり、自分は正常だと思っている。
もし、自分が狂っていることに気付いている者がいれば、その者は賢者に近い。

人は、空想する限り、狂っている。
少し前にも書いたが、想像と空想は全く違う。
想像は瞬間的だが、空想は時間のかかる思考だ。
そして、空想というものは、全て妄想であり、どこにも正常さはない。
想像と空想は全く別のものだ(当ブログ内記事)

空想するのは自我である。それはフロイトや岸田秀さんが言う狂っている。
しかし、フロイトや岸田さんは、想像と空想を混同し、自我が想像をするのだと勘違いしているのだと思う。
想像は意識の奥からやってくるものであり、頭脳がそれを受信する。
だが、空想は自我が作り出す妄想である。
自我の正体とは、私という想いだ。
これを破壊しても、悪いことが無いばかりか、それが悟りなのだ。
ニーチェもまた、自我と意識を混同し、想像を受信する頭脳そのものを破壊してしまい、狂気に陥った。
頭脳の活動は、そのまま放置すれば良いのである。

仏教では、「妄想するな」などと言うから曖昧になってしまっているが、空想は全て妄想なのだということが分かるなら、その人には希望がある。
空想する限り、我々は狂っている。
そして、どんな相手であれ、他人を嫌悪する限りは空想しているのである。
どんな理由にしろ、誰かを嫌悪するのであれば、我々は確実に狂っているのである。
だが、他人を嫌悪するななどとは決して言わない。
自我を持つ人間である限り、つまり、空想する限り、誰かを嫌悪するのは避けられない。
大事なことは空想をやめることだ。
そのために重要なことは、いつも申し上げている通り、自分は全く無力で、人生や世界に対し何の影響を与えることも出来ないことを受け入れることだ。
運命とは生まれる前に完全に決められたもので、我々にはいかなるコントロールも出来ないのだ。
だから、定められた運命を無条件に受容し、一切をなりゆきに任せるのである。
それが出来た時のみ、自我が弱まり、空想することも、他人を毛嫌いすることも少なくなるだろう。
ただ、最終的に、いつ自我が破壊されるかは(あるいは、最後まで破壊されないかは)、運命によって決められており、我々にはどうすることもできないのである。









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