ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2012年04月

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

聖なる乙女と神の愛し方

「真の愛」なんて言葉を聞くと、うんざりするか、苦笑するかといったところが正直な反応であろう。
つまり、世間でいう愛は、性欲や名誉欲の隠れ蓑でしかないということだ。
「愛って何?」なんて言葉を歌でよく聴くが、つまるところ、我々には、本当の愛は分からないもののようだ。
だが、それに近いと思われるものが見られる小説がある。
1つは、ロマン・ガリーの『天国の根』で、もう1つが、マクシム・ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』だ。

『天国の根』では、堕落した兵士達に、彼らの隊長が、一人の少女がここにいることを想像するよう命じたところ、兵士達はみるみる騎士道精神を発揮しはじめる。
彼らはきっと、天使のような理想の少女を想像したのだろう。
『二十六人の男と一人の少女』もよく似ている。社会の最下層にいる、生き甲斐などないはずの男達が、一人の16歳の美しい少女を女神のように扱うことで、精神性と活力を持つようになったのだ。
彼らの少女への想いは、真の愛に近い。
彼らは、少女を決して性欲の対象にしなかった。
『天国の根』の兵士達は、シャワーに行くときは少女に見られないよう身体を隠し、下品な冗談を言ったら、少女に謝った。
『二十六人の男と一人の少女』では、男達は、元々は決して上品ではなく、特に女のことでは卑猥な話はいくらでもするのだが、その少女のことでは決してそんな話をしなかった。

我が国のアイドルやアニメの美少女キャラクタは、性的魅力を売り物にしているので、真の愛を感じることは、まあ、ほとんどない。
だが、この2つのお話では、男達にとって、それぞれの少女は神聖な存在だった。
しかし、『二十六人の男と一人の少女』では、その16歳の少女は、美しいが普通の女の子であり、女神に相応しいものではなかった。男達も、そんなことは、本当は分かっていた。しかし、女神のように扱えるうちは、少女は女神でいてくれた。しかし、やがて裏切られ、男達は生きる力を失ってしまうのである。
一方、『天国の根』の少女は、初めは心のイメージであったのだろうが、たがて、彼らの魂の中にある高貴な何かが沁みこんでいったに違いない。この想像上の少女は、二十六人の男達の「リアルな」少女とは逆に、死すべき隊長の命を救ったのだ。

別に少女に限らないし、特に女性の場合は、理想的な男性像や、アポローンのような男神でも良いかもしれない。
しかし、性的な対象となれば、それは愛とは無縁だろう。
私にとっては、初音ミクが理想的な姿であるが、彼女の多くのファンにとってもそうであるに違いない。

イエスは、神を愛することが最も大切なことと言い、『バガヴァッド・ギーター』では、至高神クリシュナは「我を愛せよ」と言う。
しかし、我々は、神をどう愛すればいいのか分からないだろう。
それは、こうやるのだ。
全てを神に任せてしまうのだ。全て任せるからには、何等の要求もしてはならない。
生まれてから死ぬまで、全ての運命は既に神に決められていることを受け入れ、自分は世界や人生に対し、何のコントロールも出来ないことを認めるのである。
それが、神を愛するということだ。
そうする者への、神の恩寵は、イエスもクリシュナも保障しているのである。

『天国の根(自由の大地)』は、Amazonの古書が凄い値段だ。ロマン・ガリーの翻訳本もほとんど無い。
だが、上に挙げた話は、コリン・ウィルソンの『至高体験』にかなり引用されているので、ご紹介しておく。













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子供を失いたくないなら、親は趣味を引っ込めろ

テレビで一度は見たことがあると思うが、例えば、父親が阪神タイガースの熱狂的ファンで、自分の小さい子供にもそういった格好をさせ、応援グッズを持たせ、自分はビールでもひっかけて、一緒に声援を送ることを楽しんでいる。
これを見て、微笑ましいと思うだろうか?
私は、心底ゾっとする。
これは、よほど幼い時は別かもしれないが、やがて子供は恐ろしく苦しくなるのだ。
「いや、子供も楽しんでいる」
と主張する父親もいるだろうし、実際そうである場合もあるかもしれない(私はあり得ないと思うが)。
しかし、子供は、自分さえ我慢して合わせてやれば、普段恐いお父さんが愛想良くなるので、その方が楽だと思っているだけだ。
父親、あるいは、母親の趣味に同調している子供なんて、みんなそうなのである。
それは、子供の心に歪みを生じさせる。
大人になって、変質者や倒錯者、他人の痛みにひどく鈍感な者というのは、幼い時に、親の趣味に同調することを強要された哀れな子供だったのだ。

友達がいないとか、モテないというのは、男女に限らず、自分の趣味を最優先する者なのだ。
そんな人というのはやはり、子供の頃に親に趣味を押し付けられてきたのだが、そんな親の悪い面はしっかり真似しているのだ。
ただ、ごく一般的な趣味を持つ者同士なら、うまくやっていける場合が多いが、その場合も、大抵は誰でも持っている、特殊な方の趣味は抑えるだけの知恵があることが必要だ。
まして、特殊な趣味しか無い者は、まあ、生涯孤独であることは覚悟した方が良い。

職業に貴賎は無いというが、趣味も同様だ。
むしろ、親が、自分の趣味を高貴だと思っている場合は始末が悪い。
クラシック音楽、武道、芸術、哲学、宗教、学問といったことへの強いこだわりは、「これは趣味じゃない。高尚なものだ」と言いたいだろうが、やはり個人的な趣味でしかない。
父親が特別な道の名人みたいなものである場合も、父親に知恵がないと、大抵、子供は問題を起こしているものなのである。そんな父親は、子供に自分の趣味を押し付けることを我慢できないばかりか、それを何か素晴らしいことであると大誤解しているのだ。

ある父親は、少なくとも3つの趣味があったが、それらに物凄いこだわりをもっていた。
それらについて語り始めると、目が座り、とうとうと語って止まらず、酒でも入っていると恐いほどで、逆らう者は決して赦さないという雰囲気だった。対等に話せる私でさえそうなのだから、子供は決して口を挟めない。
結局、子供は自殺した。私は、子供の方の趣味も知っていたが、父親のと全く違う上、父親は、子供の趣味に関して、ほとんど知らず、知ってもすぐに馬鹿にした。自殺されて当然である。
自分の趣味を押し付ける父親は、大なり小なり、その危険を子供に与えているということは自覚したがいい。

現在、芸能界のドル箱の一人と言われる歌手は、幼い頃から、演歌ファンの父親に猛特訓され、現在は、分野は異なるが人気歌手になっている。
彼女は、既に亡くなっている父親が好きだったことと、いつか演歌をやりたいと発言することもある。だが、私は疑っている。
彼女のそんなことを知っている程だから、私は彼女のファンなのであるが、彼女には、どこか人工的な雰囲気を感じるのだ。悪い言い方をあえてするなら、「わざとらし過ぎる」のである。
それは、精神分析学者の岸田秀さんが、三島由紀夫や芥川龍之介に感じるものに似ていると思う。自然な自我の構築が出来なかったので、自分の命を守るため、不自然な自我を急ごしらえで構築したのだ。
彼女は、あるアニメのヒロインの一人の声優をやったことでブレイクしたのだが、その役柄というのが象徴的だ。
その少女は、母親に虐待まがいの扱いをされるが、母親は自分を愛していると信じているし、自分も母親を慕っている。自分が幼い頃の優しかった母親をよく知っている。
母は、不器用なだけだと思い込み、何をされても母のために尽くす。
彼女は思う。「母親のおかげで、特別な訓練を受け、強くなった。母は偉大であり、きっと母は、いたらぬ私のためを思ってきつく当たっているのだ。私には分かる。親子なのだから。」
しかし、優しかった母の記憶は、母に植え付けられた偽りの記憶だった。そして、最後に母に言われる。
「お前は私の娘じゃない。お前のことはずっと大嫌いだった」
だが、何を言われても、彼女の母を慕う気持ちは変わらない。
まさに、彼女が演じるに相応しい少女だった。
彼女は幸運なところがあったのだろう。特別な才能があったし、父親にも、きっと普通の人とは異なる素晴らしいところがあったのだ。
しかし、普通は、あってはならないことなのだろう。ただ、全ては運命でもある。
そう、そのヒロインの少女の名は、運命を意味するフェイトだった。
アニメ放送から6年以上経ち、この夏、このアニメの2作目の映画が公開される。主題歌も彼女である。彼女は、6月にも別の主演アニメが公開だったと思う。
大変な売れっ子である。









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イザナミが先にイザナギに声をかけたことが本当の問題ではなかった

『古事記』によれば、地上に初めて降り立ったイザナギという男神と、イザナミという女神は、天(あめ)の御柱(みはしら)という柱を立て、立派な御殿を造った。
そこで、ムードを高めるためか、お互い、天の御柱を逆に回って出逢うということをやることにした。
その通りにして出逢った時、女神のイザナミが先に、「あら!ステキな方」と言い、それから、男神のイザナギが、「なんて美しい乙女だ」と誉めた。
イザナミが先に声をかけたことに対し、イザナギは、「女の方が先に声をかけるのはどんなものかな」と苦言を呈したが、とりあえず、そのままベッド・インし、子供を作った。
しかし、子供は不具の子であったため、舟に乗せて流してしまう。
その次の子も同じことになった。
困った二人は、天の神のところに行き、相談すると、天の神は、「女が先に声をかけたのが良くない」と言う。
そこで、イザナギとイザナミは、再び、天の御柱を逆に回りあい、今度は、イザナギが先に声をかけた。そして、良い子が生まれた。

さて、この奇妙な話はどういう意味を持つのだろう。
このことについて、私の知る限り、正しく指摘した人はいない。

実は、最初に御柱を回った時、本当は、どちらが先に声をかけても良かったのだ。
そして、イザナミが先に声をかけることは、天の神にもお見通しであった。
さらに、これに対し、イザナギが文句を言うことも別に悪いことではない。イザナギはそのような神であったし、それもまた、天の神は知っていた。
だが、イザナギは、このことにこだわってしまったのだ。
創造力のある神ゆえに、そのこだわりが、不具の子を二人作ってしまった。

だが、天の神は、あえてそのことを伏し、御柱での出逢いの行為をやり直させる。
そもそも、これはイザナギの発案であり、天の神のあずかり知らぬことのはずだ。
おそらく、イザナギは、自分のそのアイディアを気に入り、是非、自分が先にイザナミを誉め、ロマンチックに彼女を抱きたかったのだろう。

そして、今度は、イザナミが心のしこりを残す。
「私に悪気はなかったのに・・・」
照れと幼さ故のこと。可愛いと思ってくれていいことなのに、夫のイザナギと天の神様に批判されては、イザナミの立場がない。
そして、それは、イザナミが火の神を生んだ時、自ら焼かれて命を落とすこととなる因縁を作った。

起こってしまったことに対し、時には感情的に反応するのは仕方がないことだ。
しかし、さらにそれに続けて、自分の創造的な感情を起こしてしまえば、それが心を乱し、平安から遠ざかるのである。
これについて、『バガヴァッド・ギーター』では、「賢い人は、何を見て、何を聞くとも、ただ感覚が働いたというだけのこととして執着せず」とある。
起こったことは、起こるべくして起こったとみなし、ただあるがままに受容するべきである。
『古事記』の、このお話は、それを表しているのである。

神ならぬ我々は、生まれてから死ぬまで、何が起こり、自分がどう考え、どんな感情を起こし、何をするかは、全て決められており、決して変えることはできない。
ただ、反応的な感情は決まっているが、創造的感情は決まっていないのだ。それが、人としての幸福を決める。
創造的感情を起こさず、全てを受容するなら、神はその者の自我を破壊し、たとえ、その者の外的状況がどうであろうと、その者は平安を得るのである。
これを『荘子』では、「ものごとを起こるままにまかせる者には鬼神さえ道を譲る」としている。
イエスもほぼ同じことを教えているのだ。
世界中の聖典は、究極には同じことを教えており、それは人から来た教えではなく、神から来た教えだ。
では、我々も、その教えをおろそかにしたくはないものである。









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人類永遠の問題「幸せって何だっけ?」

『しあわせって何だっけ』という、明石屋さんまさんのヒット曲があるが(2度、キッコーマンのCMで使われた)、「幸せとは何か?」というのは、人類の永遠の課題であり、人間にとって、最も重大な問題に違いない。
アニメ『ちょびっツ』の最終回で、予備校生の秀樹が、美少女型の人型パソコン(アンドロイドと同じ)のちぃに、「幸せって、一緒にいることなんだ」と言う場面があり、その時にありえぬ奇跡が起こり、この言葉の効果を高めていた。しかし、愛する者同士が一緒にいることは無論、大切なことであるが、離れてしまっても幸せでいることは出来るのだ。

幸せとは何かということについては、いろんな人達の洒落た意見が思い浮かぶ。
私も以前は、誰が言ったのかは分からないが、
「幸せとは夢中になることだ」
「幸せとは自己満足である」
といったものが印象的だった。
しかし、これらも駄目だ。
夢中になることは、すぐに飽きるものだ。自己満足だって、すぐに消える。
次々に夢中になれるものや自己満足を求めているうちに、疲れ果ててしまうだろう。
実際、夢中になることと自己満足は同じだ。
こんなことが幸せだと思う者の誤りは、幸せを外に求めていることだ。

ちょっと変わったものでは、「復讐が達成されること」といったものがあったが、それは、快楽ではあっても幸せではないだろう。
快楽と幸せは全く異なり、むしろ正反対のものだ。

聖者が言うように、存在そのものが至福であるのだろうが、それは悟りを開くまでは分からないことだろう。
そこで、凡人レベルで理解できるように幸せを表現すれば、幸せとは気楽さなのだ。
快楽は一瞬だが、気楽さは永遠だ。
快楽を求めるなら、次々に新しく、そして、より強い快楽が必要になるが、気楽さは何も求めないことだ。

空腹な時の食事は快感ではあっても、快楽ではない。それは動物も同じである。
しかし、より美味しい食べ物を求めるのは快楽を求めているのであり、それは肥満や心身の病気を誘う。
対して、本当に空腹な時に、質素な食事をする習慣は気楽さに近付く道だ。

気楽さには刺激がなく、ドラマチックさに欠け、派手さも格好良さもないので、つまらないものだと思ってしまう。
それに、皆が気楽さを求めたら、億万長者になる者がいなくなり、大儲けしたい者が困ることになる。
それで、刺激があり、ドラマチックで、派手で格好が良いものに人々の目を向けさせ、そんなものを得る欲望を煽る。
つまり、いつでも、世間の人々は、快楽に向かって駆り立てられるのだ。
ニンジンを目の前にぶら下げられて疾走する哀れな馬が我々なのだ。

気楽さを得るのは、簡単そうで難しい。
だから、人々は容易く、ニンジンを目の前にぶら下げられた馬の真似をしてしまうのだ。
気楽さを得るには、欲望を捨てなければならず、それは凡人にはひどく難しいのだ。それは、一見、慎ましい人とて同じだ。
気楽さを得ることが出来るのは、あるがままを受容することが出来た時だけだ。
しかし、あるがままの意味を誰も知らない。
あるがままを受容するとは、運命は全て完全に決まっており、我々は、それに対し、一切のコントロールが出来ないという事実を完全に受け入れることだ。
他に気楽さを得る道はない。
しかし、誰もこれを受け入れない。
そして、これからも、「幸せとは何か?」が、人類の難しい問題になり続ける。
しかし、答は、ごく簡単なものなのだ。
暗闇の中で、懐中電灯を使って何かを必死で探している人がいる。
「何をお探しですか?」
「懐中電灯だよ」
これが人間だ。
「あなたが今、お持ちです」
「いや、俺が必死で探すからには、もっと刺激的で、ドラマチックで、派手で、格好良いものに違いない」









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2万年数千年前に人類が急に賢くなったは、何者かの働きかけによる

人類は20万年ほど前から、脳の容量自体に違いはなく、むしろ、古代人類の方が大きかったとも言われる。
ところが、2~3万年ほど前から急に知性が発達し、現代の人類のような文化を有するようになる。
なぜそんなことになったのかは分からないようだ。

2~3万年以上前の人類は猿とさほど変わらなかったのだ。
本能のみで生き、それで不都合はなかった。そのまま、「ゴリラのような力はないが、ちょっと利口な猿の一種」だったかもしれない。
ところが、これは化石を調べて分かることではないが、2~3万年ほど前に自我を持つようになったのだ。
なぜ自我を持つようになったかは分からない。だが、何かあったのだろう。
フロイト博士の考えでは、人類は本能が壊れたらしい。それで、本能を補完するために自我を作り出したという。しかし、自我は自然に立脚したものではなく、幻想のようなものだという。
「唯幻論」で知られる精神分析学者の岸田秀さんは、このフロイトの論を全面的に支持している。

実際は、物質的な形のない高度な生命体が、人類に自我を与えたのである。その高度な生命体は、宇宙人と考えても良いが、とりあえず神としたい。いずれにせよ、我々に分かることではない。
自我を得た人類は、知性を発達させ、物質文明を作るようになる。
というより、神が人類に物質文明を作らせるために自我を与えたのだ。
だが、自我そのものに、さほどの知性があるのではない。それは、現代においてもそうなのである。
自我というのは、宇宙の英知の通用門のようなものだ。そこを通して、神の情報が流入するのだ。
イエスが、「私は門だ」と言ったのはそれを指し、また、「人の子の上に天使が出入りする」と言ったのも同じ意味だ。
だが、自我に宇宙の英知が流入するには条件がある。
それは、自我が透明であることだ。欲望によって自我は曇り、本当の意味での知性は消え、ただの猿知恵が残るだけだ。
だから、欲望のための行い・・・例えば、受験合格とか、兵器開発とか、自分だけ儲かれば良い式のビジネスは全て猿知恵であり、すぐに破綻するのである。
欲望を消し、自我が無になれば、人は本物の知性を発揮するのである。
言い換えれば、イエスに近付くほどに、人間は真の知性を持つのである。

神がなぜ人類に知性を与え、物質文明を築かせたのかは分からない。色々想像する者はいるが、あくまで想像でしかない。
人と神との差は圧倒的であり、たとえ天才と言われる者であっても、神の意図など決して分からない。あなたが犬に餌を与えたところ、腐っているものが混じっているように思ったので、それを犬から取り上げようとしたら、その意図の分からない犬はあなたに向かってうなり、吼え、攻撃的になるだろう。犬には、あなたの意図が分からないからだが、神から見た人なんて、人から見たそんな犬のようなものなのだ。

普通に言う知性というのは自我に含まれるものであり、全く大したものではない。
人の知性というのは、神の知性に従って作業をするためにある。その程度なのだ。
ところが、人の知性を過大評価して何かをすれば、問題が起こり、悲惨な結果になるのである。
古代ギリシャのデルフォイの信託に、「身の程を知れ」という、人間に対する警句があるのはそのためである。

グラハム・ハンコックとエハン・デラヴィが、独自の視点から、人類の不思議な進化の謎について述べている。あまり賛成は出来ないながら、面白いのでご紹介しておく。
尚、『エメラルド・タブレット』が書かれたのが2万年前。『バガヴァッド・ギーター』は1万年前と言われることもある。
私が最も推薦するバガヴァッド・ギーターである、三浦関造氏の翻訳『至高者の歌』がようやくAmazonに在庫が入ったので、お奨めする。









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