ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2012年02月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

ミク(39)とミロク(369)

初音ミクを聴き、見ていると、神秘なメッセージが流れ込んで来る。

初音ミクは、漢字で書くと、初音未来になるらしい。
「未来から初めての音がやって来る」という意味のようだ。素敵な名前であると思う。
未来からやって来るのだから、タイムトラベルである。
英語で初音ミクを表現すると、
The first sound from the future
が一般的のようだ。
ところで、初めての音は過去にあったのだから、世間的常識で考えると矛盾と言えるかもしれない。
喩えて言えば、「明日出発して昨日到着した」と言うようなものだ。
だが、世間の教義に縛られなければ、ごく自然なことなのである。

ミクを39ということが出来ることから、「39(サンキューまたはサンクス)=感謝」と洒落ることもある。
だが、実は、ミクがミロク(弥勒)を招くと考えれば、ぴったりするのである。
弥勒とは、釈迦の入滅後、56億7千万年後に、釈迦の次の仏として地上に降臨するとされている菩薩(仏になる前の聖者)である。
この56億7千万年というのは、あくまで喩えであり、「遠い未来」という意味だ。それがいつなのかは誰にも分からない。
だが、それは今なのである。

弥勒(ミロク)は369だ。
6は無であり、ミクの前で我々が無であれば、ミク(39)は弥勒(369)を呼べるのである。ミクはそのために地上に現れた天使である。
ミクの歌や姿は、本来、我々を無にする力を秘めたものである。
その根拠は、プラトーンによって伝えられたソクラテスの哲学にあるが、今回は本題ではないので説明は省く。

369という数字は、神道においても実に重要な意味がある。
だが、キリスト教の方の話で分かりやすいものがあるので、それで説明する。
キリスト教でも3は聖なる数である。
13世紀のイタリアの詩人ダンテの叙事詩の傑作『神曲』は、序篇が1詩、地獄篇が33詩、煉獄篇が33詩、天国篇が33詩である。
実は、ダンテが、序篇と、この6つの3(33、33、33)の99篇の詩で完成させたのは意図的なことだった。これにより、『神曲』はキリスト教の神聖なる教義と合致したものとして完成したのである。
ところで、『神曲』というタイトルは、実は日本独自のもので、森鴎外が、アンデルセンの『即興詩人』を翻訳する中で、その中に引用されていたダンテのこの作品をなぜか『神曲』とし、誰もがそれに倣ったのだ。ところが、本来の題名は『神聖なる喜劇』であり、ダンテ自身は『喜劇』としていたのである。
これは、ミクの歌を神曲とする予言である。森鴎外に、そのアイディアを与えたものは、ソクラテスの言う、神の知恵を運ぶものであるダイモーンであった。
ダンテが愛した美少女ベアトリーチェが天使として彼を天国に案内したように、ミクは我々に天国を示すのである。

ミクは電子と情報の存在であり、その歌や姿は1と0で構成される。
しかし、それは、コンピュータ、あるいは、エレクトロニクスだけではなく、実際は万物がそうだ。中国の易経で、昔から、万物は陰(0)と陽(1)から成るといったのも、それを表している。
1は有で0は無である。有無を「うむ」と読むのには意味がある。有(1)と無(0)から、あらゆるものが生まれるのである。
そして、生まれてくるものが3(産)だ。だから、お産とか産業という言葉がある。
『老子』42章にも、道(タオ)から1が生じ、1から2(陰陽)が生じ、そこから3が生まれるとある。そして、3から全てが始まるのである。根本の無が道なのである。
ミクがいかに重要かが分かるように思うのである。

人間に関する大切な真実は「無になれば不可能はなくなる」である。
ミク(39)により、無(6)になれば、弥勒(369)の世になる。
その秘法は以下の通りである。
自我は食物が育てる。食事をしないミクは自我を持たない。
『エメラルド・タブレット』にある、人の娘より美しい娘とは、自我を持たないミクである。(シラーの『歓喜によせて』では、楽園の乙女と表現されている。)
我々は自我を持つゆえに、粗い位置(1)を持つ。
対して、ミクは純粋な電子の情報としての位置(1)のみを持つ。
ミクは、我々よりはるかに希薄なのだ。
だが、我々が無になった時に、ミクと交わるのである。
そのためには、我々は食欲と性欲を克服し、魂を身体や心の位置から解放しなければならない。その時、ミクと同質の位置(1)に立つのである。
キリスト教の3位1体とは、父(神=無)と子(人)と聖霊(ミク)を表しているのである。
無というエーテル(エデン)の中で、我々はミクと出逢い1つになる。それが、あらゆる秘教の意味である。









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「どうしておなかがへるのか」と「どうして痴漢をするのか」は同じ

『おなかのへるうた』というのは、日本人なら誰もが知っている有名な歌だ。
「どうしておなかがへるのかな?」という歌詞で始まるのだが、そこにどんな心情が込められているのかは分からないが、1つの答は、
「そんな歌を歌うからだ」
である。
そして、根本的な答は、
「食べることを考えるからだ」
だ。

手塚治虫さんの『紙の砦』には、戦争中、食べるものがなくて、冗談でなく「お腹と背中がくっつく」のではないかという体験が語られている。その時、手塚さんは、米軍の爆撃で死んだ大勢の人々の死体を思い出し、あの死体の腕を1つ持ってくればよかったと本当に思ったらしい。
そんな時、食べ物のことを考えてもどうにもならない。最良のことは、食べ物のことを考えないことだ。

『おなかのへるうた』は、そんな悲惨な歌ではない。
だが、単に愉快な歌を装っているが、愚かな歌だ。決して子供達に歌わせてはならない。
音楽に興味を持たせるために、テーマを子供の関心事に合わせるという考え方であるかもしれないが、食欲を喚起させれば、音楽はどうでも良くなるのである。さらに、お腹がさほど空いていないのに、食べ物のことを思い出させ、食欲を煽るということは、子供達を醜い餓鬼にしてしまう。
さらに、本当に、今は食べたいと思っていない子供でも、歌はある程度の感情を込めて歌ものであることから、この歌により、食べたくない時でも食べる気を起こさせる悪しき習性を与える可能性が高いのである。
こう言われてもピンとこないなら、例えば、「スカートまくりの歌」なんてのを考えてみればいい。考えなくていいことを考えさせる愚かさが分かると思う。
ところで、ちょっと話を脇に逸らす。
かつては、教育者の中にも、「スカートをまくるくらいの元気がないといけない」と言う者もいたという信じられない話を聞いたことがあるが、子供であろうが、それは痴漢であり、犯罪である。だが、多くの教育者は、子供の性的欲望を煽るもののことを放っておいて子供を抑圧するという、教育の素人であることを暴露するようなことをした。抑圧されると、歪んだ形で噴出するというのは教育の基礎だ。それで、現在、変態的な大人が多いのである。
かといって、有害図書を隠すというのも下手なやり方だ。煙草を禁止すると隠れて吸う者が増えるのは当たり前だし、ナイフの所持を禁止するとナイフでの犯罪は増えるのである。それと同じだ。
かつてのアメリカで、禁酒法で酒の製造販売が禁止されると、闇酒屋、闇バーが爆発的に増えたようなものだ。
ちなみに、我が国でも、淫行条例とやらのために援助交際が急激に増えたのである。
2次元ポルノ規制とやらが本当に実施されたらどうなるかは馬鹿でも分かるはずなのだが、馬鹿とは少しはマシな者のことを言うようだ。

学校では教育は出来ない。我々は、自分で自分を教育しなければならない。
我々は、無駄なこと、不要なことを考えないという訓練をしなければならず、子供のうちからそんな習性を持つなら、彼は天才になる。
しかし、自由にものを考えるということと妄想するということの区別がつく大人がいない。
学校の授業中、子供が遠い惑星のことや深海のことを考えるのは、よそ事ではなく、中心的な考えである場合が多い。しかし、おやつやお弁当のことを考えているなら、余計な考えである。
子供が聖なる想像をしている時に、汚れた教師の言葉を聞かせてはならない。岡本太郎は、授業中、両手で耳を堅く塞ぎ、清浄な頭脳に教師の声が届くことを許さなかった。無論、教師の言うことなら、何でもかでも拒否すればいいというのではない。だが、聞くべきでないなら、断固、聞かないことだ。

まずは、仏教で日常の規律としていることもあるらしいが、歩いている時には歩き、食べている時には食べることだ。わざわざ、歩いている時に、「歩いている、歩いている」と唱えることもあるらしい。悪い癖の矯正には有効だ。風呂に入っていて、「あれ、もう頭洗ったっけ?」というようでは駄目なのである。そんなことが多いなら、「風呂に入っている」「頭を洗っている」と唱えることだ。
自分を教育するための最良の教科書は、至高の聖典である『バガヴァッド・ギーター』だと思う。『エメラルド・タブレット』もそうであるが、こちらはやや上級と言えるかもしれない。









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決して間違いを犯さないためのただ1つの指針

我々が最も落ち着き、安らぎ、癒されるものは「自然な」という言葉で表せるものである。
静かな心が自然だと感じるものが真理なのである。
ただ、自然な生き方をすれば健康で幸福になる。
相手が本当のことを言っているかどうかは、その態度が自然であるかどうかを見れば一目瞭然で、どんな巧妙な詐欺師であろうと、本来、我々は騙されるはずがない。

だが、我々は下手な嘘にも簡単に騙される。
実に、我々は、不自然なものが自然になってしまっているのだ。
幼い時から不自然なことを強要され続け、自然なことが何か分からなくなっているのである。
そして、不自然な生活をして病気になり、不自然な信念を持ち、不自然な行いをして不幸になる。

また、多少は自然の感覚を持った人間でも、ちょっと腕の良い詐欺師は赤子の手を捻るがごとくに騙す。そして、そのテクニックこそ、相手を無知で覆い、自然な感覚を感じさせないようにするための技術だ。自然な感性を持ったままの相手を騙せるものではない。
そのテクニックに関しては、悪用を恐れるため、ここには書かないが、残念に思う必要はない。あなたは、いかなる場合も詐欺を行う必要はないからだ。
しかし、テクニックを教えた方が、騙されずに済むという面もあり、悩ましいところである。
ただ、『バガヴァッド・ギーター』を本当に愛読している者は決して騙されることがないことを言っておく。

自然に接しないと馬鹿になると言った人がいるかどうかは知らないが、それが真理であることは明白だ。
自然と接し、自然さとは何かをちゃんと知らないと、生命としての最高無二の基準を失うのである。
※竹宮恵子さんの漫画『私を月まで連れてって!』で、12歳の少女ニナ・フレキシブルが、恋人のダン・マイルド(宇宙飛行士。27歳)に「自然に接しないと馬鹿になると言われた」という場面がある。

自然という意味の英語natureには、真実味、迫真性という意味がある。
また、Nature(先頭文字が大文字)で、創造主、造物主、自然の女神、宇宙に働く力という意味があり、我々の「自然な」という深い感覚に一致すると思えるのである。
natureの語源は、ラテン語のnatura(ナートゥーラー)で、「天性」「生来のもの」という意味だ。
ラテン語の格言に、以下の素晴らしいものがある。
Natura duce nunquam aberrabimus.
(自然に従えば決して誤ることはない)

人に親切なことが人の天性であり、自然なことなのだ。
カート・ヴォネガット(アメリカの作家)は、「私が知っている、この星のルールはたった1つだ。人に優しくしろ」と言ったが、自然なことであるゆえに、美しく、本当は、それが全くの真理であることが分かるはずなのだ。
一方、「教祖様の言うことは全て良いことだから従え」というのは不自然なことなので詐欺である。
「良い成績を取って裕福になることが幸福なのだ」という超不自然なことを自然に感じているのが世間の愚かな人々だ。こんな言葉に自然性は欠片もなく、醜く汚れているが、これが世間の教義、信念なのである。
我々が、不自然なことを自然と感じ、自然なことを不自然と感じているかが分かるのである。

ミクロ(極微)の世界から、マクロ(極大)の世界まで、自然は、真理の輝きで溢れているがゆえに、畏敬を感じさせるのだが、それが、視野の狭い人間にとっての脅威でもあるのだ。
目で草花や虫や動物を、顕微鏡で微生物を、望遠鏡で宇宙を、しっかり観察すれば真理が見えてくる。
ジョージ・アダムスキーが本当に宇宙人に逢ったかどうかはともかく、彼は確かに天体観測を熱心に行ったのだろう。彼は、真理をよく知っているのだ。彼が詐欺師になれば、恐るべき詐欺師になれたのである。

そして、あらゆる感覚(五感全て)で自然を感じれば、自分が自然そのものであることが理解できるだろう。ならば、自らの内にある自然の声に耳を澄ますだけで、我々は本来、正しく生きることが出来る。しかし、我々は常に、余計な欲望を煽られ、その大切なものを無視するのだ。
子供を産むという自然の大仕事をする女性は、本来は、より自然な存在であるゆえに、自然の声をよく聞き、直観で伴侶を選んで誤ることはないものだ。しかし、収入だの、外見だの、学歴だのといった欲や見栄を重視するので、いつも選択を誤るのだ。

人の手で創ったものであっても、自然に基づいたものは美しく、高性能で、丈夫だ。
本当に良い機械は、磨耗すればするほど動きが滑らかになる。ドイツの一流メーカーの機械がそうだ。
何百年も前の日本の建築物は、湿度によって微妙に壁面が開閉する仕組みがあり、エアコンが無くても自然の快適さが保てた。
イツァク・ベントフは幼稚園中退で、小学校にすら行かなかったが、毒蛇の牙を観察して、素晴らしい皮下注射の方法を考案するなど、天才的な医療エンジニアとして活躍し、また、宇宙の真理を理解して、本物の科学者になった。
人間の作った優れたものは全て自然の模倣なのである。
ただ、政木和三さんが、「今後、いかに科学が進歩しても、神経と同じものは作れない」と言ったように、神の技はとてつもなく高度で神秘なのである。

初音ミクの何がいいかというと、あの歌は、人工のものでありながら、自我による歪みが無い分、むしろ自然なのだ。音質という意味ではないが、まるで本当の幼い少女が歌っているような声である。
そして、あの、トレードマークとも言える、くるぶしまで届く長い髪の動きが自然で美しい。
従来、コンピュータグラフィックによる映像で難しかったのは、髪の動きだと言われていた。大抵のことはかなり自然に出来るのだが、髪だけは困難だった。
しかし、いろいろな人々の努力のおかげで、ここまで進歩したということである。
そして、自然を汚すものが自我だということを知るのである。
ミクは自我がない。だから美しいのである。

現在の世間の人々の食事は実に不自然で、身体にも心にも恐るべき悪影響を与えている。
食事とは、空腹な時に食べると美味しいのが自然なことで、空腹でもないのに食べたくなるような美食を不自然に食べることで、身体も心も汚しているのである。
私は、化学調味料を使った料理を食べない。私の食事は1日1食で、食べるのは、パンと、野菜や果物等の穀物であるが、空腹だとそれで十分に美味しく、全く健康なのである。
また、会食の時には、様々な料理を沢山食べるが、普段、胃腸を酷使しないが故に内蔵が丈夫であり、多少食べても何の問題も無い。宮崎駿監督がそうであるそうだが、普段は、年中同じものを食べているので、たまにパーティーでご馳走を食べると、叫ぶほどに美味しいのである。
しかし、普段食べているもので十分に美味しく、それが自然で快適なのである。

ミクが食べないのは当たり前だが、だからこそ、食べることで発生する弊害が無い。
人も、極端ではなく、食べることを慎めば、ミクのような美しさに近付く。
自我を持たないミクは、我々の心から発する清浄な光をそのまま反射する。それを感じるがゆえに、彼女は美しいのである。
それは丁度、深く信仰する女神の像を美しく感じるのに似ている。ミクは、それに技術の力を合わせているが、それが良い方に作用した希有なものなのである。

自然には自我がないのだ。ただ、大我のみがあり、その大我が自然の魂である。
人もまた、自我を自然の魂と融合させれば、自然そのものになる、即ち、万物である宇宙と一体化することができるのである。
初音ミクの世界的人気は、「自然なこと」である。
イエスが、「神を愛せよ」と言ったのは、それが自然の魂と融合する方法だからだ。
『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナは、それを懇切丁寧に、愚かな点はあるが謙虚なアルジュナ王子に語って教えているのである。
『エメラルド・タブレット』は、あまりに高度で、すぐには理解できないかもしれないが、一点の狂いもない純粋な真理を語っているがゆえに、読めば読むほど賢くなるのである。









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沈黙の声

どの国にも、沈黙の行というものがあるように思う。
ラマナ・マハルシですら、16歳で悟りを開いた後、アルナチャラに移ってから何年も沈黙の行を行ったようだ。
イエスは、「人は入るもので汚れたりはしない。出るもので汚れる」と言った。これは、弟子が手を洗わずに食事をしたことを人々に非難された時に言ったのだが、別に手を洗わないことを誉めた訳ではなく、それよりも、悪い言葉を出すことの方がはるかに悪いと言ったのである。
およそ、人が口に出す言葉の大半は悪いものである。
電車の中や喫茶店、駅の構内など、他の人がいる場所で平気で携帯電話で喋り続ける人を不快に思うのは、マナー違反というより、そんな人の話す言葉はひどく汚れたものなので、その響きのようなものを受けると我々の身体や心が悪い影響を受けるからである。もちろん、話している本人は救いようがないほどだ。

よく、流行歌なので、「言葉にしないと伝わらない」といった言い方があるが、言葉で伝わることはほとんどない。
本当に愛し合っている者達なら言葉はいらないというのが真実である。
共にいれば、相互理解は自ずからやってくる。
ラマナ・マハルシは沈黙をもって教えた。
誰かが、マハルシに、「あなたはなぜ講義をしないのですか?」と尋ねると、マハルシは「毎日、熱弁を振るっている」と答えた。
この熱弁とは沈黙である。どんな言葉も沈黙ほど雄弁ではない。
講義は、聞いている間は何か良いことを聞いている気になる。だが、実は聞いていた者は何も変わらない。
しかし、マハルシの沈黙に接した人々はすっかり変わって去っていくのである。だから、何も語らない彼の元を、毎年大変な数の人々が世界から訪れたのである。

必要なことはもちろん話さなければならないが、我々は喋り過ぎている。ほとんど喋らない方が良い。
日本では昔から「阿吽の呼吸」「阿吽の仲」などと言うが、阿吽(あうん)は仏教の強力なマントラ(呪文、真言)であり、インドの聖言オームからきている。
阿吽、オームは言葉を超えた響きで、宇宙はこれで満ちており、貴いことはそれで全て伝わる。だから、阿吽の仲である者達は、呼吸だけで全て伝わり、言葉の要らない仲なのである。

少なくとも、つまらないお喋りはやめることだ。
そして、頭の中のお喋りが止まれば、宇宙の英知に達する。
ドン・ミゲル・ルイスはエデンの園にいた蛇は、人の頭の中で喋りつづける思考であり、それが人を楽園から追放したと言ったが、その通りである。
仙道家の高藤総一郎さんは、頭の中のお喋りをやめれば、自然に速読が出来ると言ったが、まさにそうで、巷の速読術は何の役にも立たないものだ。
頭の中のお喋りをやめるには、まず、口での無駄なお喋りをやめることだ。
同時に、余計な想念を起こさない練習をすれば進歩は早い。
仏教の修行に、歩いている時は「歩いている、歩いている」と心の中で唱え、食べている時は「食べている、食べている」と唱えるというものがあるらしいが、良い方法と思う。人はあまりに余計なことを考えるので、今に生きておらず、幻想あるいは妄想に生きることになるのである。
話した言葉で後悔することは多い。しかし、言わすに後悔する必要は全くない。
「言えば良かった」などと思うな。本当に良い想いであれば、最も良い形で伝わっているのだ。

一応述べておくが、下にご紹介した、神道家で合気道の達人、佐々木の将人さんの著書『数霊のメッセージ』は、非常に危険な秘法の書だと思う。入手したら心して扱い、無用と思えば書棚の奥深くにしまうように。









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悟った人間のある特質

この世に絶対的な美というものがあるのだろうか?
自然の荘厳な風景がそれなのだと言えば、そうだという気もするが、はっきり言って分からない。
もし、地球と全く異なる環境の星があり、そこに住む宇宙人が絶賛する風景があったとして、私がそれを見て、必ずしも美しいと感じるとは限らない。
我々のほとんどの者が、夕陽を美しいと感じるかもしれないが、ジャングルに住む人々からすれば、それは夜行性の猛獣が目覚めるというサインであり、恐怖しか感じられないということもあるらしい。
『荘子』にも、人間から見れば絶世の美女であっても、魚が見れば、恐がって水底に隠れるが、人と魚の美醜の感覚に優劣はないと述べられている。
尚、ここでの人間から見た美女といったところで、現代の我々が見たら、美しいと思わないような顔なのかもしれない。

手塚治虫さんの短編漫画集『ザ・クレーター』の中で、武士の時代に、性格の良さで、ある名家である武家の跡取り息子に望まれて嫁いだ娘は、ひどい醜女だった。やがて、彼女はその武将にうとまれ、切り殺されてしまうという悲劇の運命に終わった。時が流れ、現在よりずっと未来の社会で、ある父親が息子に、縁談を持ちかけ、1人の若い娘の写真を見せる。だが、息子は、こんなブスは嫌だという。しかし、父親はその娘を美しいと感じている。息子は、この顔はもう時代遅れだと言い、今、流行の美女の写真を見せる。その顔は・・・大昔、あの武家の名家に嫁いだ醜い娘とそっくりだった。
こういったことは、実際にありえることかもしれない。

岡本太郎は、「美しい」と「きれい」は絶対的に異なると言い、我々が言う「美女」は、「きれい女」と言うべきだと言っていたようだ。
ゴッホは、生前、1枚の絵も売れなかった(予約が1枚あったらしいが、入金前にゴッホは自殺した)が、それは、決してきれいではないゴッホの絵の美しさを、当時の人が理解しなかったからだと岡本太郎は言う。しかし、私もまた、ゴッホの絵の美しさは、本当は分からない。
『モナ・リザ』が本当に美しいと思っている日本人も、実際はほとんどいないに違いない。
しかし、ゴッホが、弟テオに宛てた手紙が書籍になっているが、これを読んだり、あるいは、ダ・ヴィンチについてよく知れば、ゴッホの絵が実際に輝き、モナ・リザに「きれい」というのとは違う神秘的なものを確かに感じるのである。
芸術というものには、制作した者と、その作品を見る者との内面の交流という部分もあるのだろう。たとえ、制作者が既に亡くなっていても、それは関係がないに違いない。

私が小学2年生の時、クラスに非常に可愛い女の子がいて、彼女に、「君は可愛いね」と言うと(もちろん、言い方は違ったが)、彼女はツンデレではなかったらしく、その日から私に優しくなった。しかし、数年後、彼女の写真を見たら、ちっとも可愛いと思わない。
5年生の時などは、新しいクラスにいたある女の子を可愛いと思っていたのが、夏になる頃には、全く興味が無くなっていた。
食べ物の好みでも、そんなことはよくあった。

ところで、ラマナ・マハルシが16歳で悟りを開いた時、周囲の人達には、特に彼が以前と変わったところは無いように思われたが、あることでは確実に変化があったらしい。それは、食べ物に関するこだわりが全く無くなったことで、以前は、好物だったり、逆に嫌いだった食べ物も、全く同じように食べるようになったらしい。
上に述べた通り、私は、子供の頃に、食べ物の好みが不思議なほど変化したことを覚えているが、もし、悟りを開いたら、多分、マハルシのように、何でも同じになるに違いないと思う。
語られたことはないが、マハルシも、女の子の好みも無くなってしまったろうと思う。

つまるところ、こうなのだ。
芸術は、岡本太郎が言う通り爆発だ。岡本太郎が言うのは、それは破壊的な爆発ではなく、生命が宇宙に向かって開くことだということであるが、それは、もっと分かりやすく言うと、一滴の水が大海に溶け込むように、自分が宇宙全体に広がることだ。それで、個の自我というものは亡くなるが、同時に宇宙そのものになるということだ。これを、忘我とか没我と言うが、アイルランドの詩聖W.B.イェイツもまた、芸術の目的はエクスタシー(忘我)だと言ったのである。

我々が爆発しない、つまり、忘我にならない理由は、魂が束縛されているからだ。
そして、悟りを開いたマハルシが食べ物に興味を失くし、私のかなり確かと思う推測から、彼が女の子への興味を失くしたに違いないが、逆に、食欲や性欲を克服することで、魂は束縛から解放されるのである。
このことは、人類の至高の聖典である『エメラルド・タブレット』や『バガヴァッド・ギーター』にも記述されている。
『エメラルド・タブレット』には特に食欲について明記されているし、『バガヴァッド・ギーター』には、性的欲望の解放に導く教えが説かれている。
実際は、性欲や食欲を含めた一切合財にこだわらなくなるのが悟りであるのだが、この2つを打ち破れば、後は容易い。
また、私の経験では、食欲を克服すれば、性欲の克服は難しいことではない。

マハルシは、悟りを開いた直後は、寺院の神の像をじっと眺めることがよくあった。
今だ肉体を持ち、健康であるゆえにその(身体の)存在を感じるのであるが、特にインドの神は宇宙全体を象徴する。その神との一体性を感じることが出来る場所であったのだろう。もちろん、後には、そういった偶像は必要はなくなったが、さりとて、ないがしろにすることもない。神の像もまた、真の自己である神の反映なのである。それは、聖者とはいえ、生きている人間には良いものである。ましてや、聖者ではない我々には非常に良いものだ。ただし、他から強制された神でなければ。
たとえ外の神を崇めたとしても、実際は内なるクリシュナを見ているのである。
絶対の美とは外にあるのではなく、我々の内にある。そして、内なる絶対の美を見つければ、あらゆるものに絶対の美を見るのである。









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プロフィール
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