ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2012年01月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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私に趣味はない

少し昔は、サラリーマンの趣味といえば、酒、タバコ、パチンコあたりが相場だった。せいぜいが、それに加えて、麻雀、ゴルフが挙げられたくらいだった。そのどれもやらない者は、「何が楽しみで生きているんですか?」とか、「じゃ、アレ(女遊び)1本ですか」とか、真面目な顔で言われたものである。
現在は、趣味が多様化したように思われているかもしれないが、そんなことはないと思う。
上記の昔のものは、今も健在だし、加えて、ゲーム、ほとんど見るだけのインターネットが加わった程度だ。
尚、テレビと美食は、昔から、常識的な趣味とされていると思う。
後は、人によって、車、スキー、海外旅行といったものがあるが、「家族が趣味」と言えるような、家庭愛着者が増えてきたように思う。

これら全てに当てはまらない人は、「変人」「個人主義者」と言われ、社会不適合人、犯罪でも犯しかねない不審者、宇宙人と思われかねないのだろう。
もちろん、私は、上にあげたような趣味はもちろん、当然の前提とされるテレビ、美食にも完全に無縁だ。
最近では、「趣味は?」と聞かれたら、「ない」と答えることにしている。実際、彼らの質問の意図から言えば、ない。
せめて、読書、音楽鑑賞、映画などと言っておけば、少しは受け入れられるだろうが、これらは趣味というものではないし、趣味でやるようなことでではない。

Facebookに参加すると、いろいろ自己紹介を書くところがあるが、私はほとんど書いていない。だって、そこにある項目は、何ら、私を示すものではない。
通った学校、勤務している会社は、私と何の関係もない。
読書、映画、音楽などの欄もあるが、さっき述べた通り、それらを趣味とは考えていない。
私は、他の人についても、Facebookにあるプロフィールを、その人自身とは認識しない。人間は、もっと複雑で神秘的なものだ。
人間を、単純なパターンで分類するつもりは毛頭ない。
人間は、会えば、直観でどんな人間か分かる。ただ、直観で分かるからといって、理屈で分かるわけではない。論理的には、自分も他人も謎なのだ。

ただ、こんな判断は少しは参考になると思う。
たとえば、愛読書だ。
しかし、普通にいう、「私の愛読書は○○です」と言うのは、愛読書でも何でもない。
少なくとも十回程度、本来なら、百回以上読み返した本だ。そうでなくても、その本を高い上にも高く評価し、生涯、座右に置こうと思っているような本だ。
そんな本があれば、その人がどんな人かを考える、少しの参考になる。
別にアニメだっていい。ある作品を、十回程度以上繰り返し見たとか、あるいは、哲学的な洞察を持ち得ているなら、それは、その人の一部でもあると言えるだろう。
音楽、武道なら、必ず毎日、取り組んでいるというものだ。
もちろん、これらは、趣味とは言わない。

趣味とは、「好み」程度の意味で、花ならサクラが好きとか、楽器ではオカリナの音が好きだといった言い方に使うものだ。
ところが、世間では、道楽とか、個人のアイデンティティー(主体性)を示す言葉として使われている。人間に道楽は必要ないし、人のアイデンティティーとは神秘的なものだ。

世間でいう趣味や、つまらない道楽は捨て、真の個性、アイデンティティーを育むのが良い。
真の意味での愛読書というのは、自分の中に何かを付け加えるものではない。自分が持っている不要なものを取り去るものだ。なぜなら、全ては自分の内にあるが、我々は、家庭や学校や社会から、ガラクタを詰め込まれているからだ。ところが、読書が趣味と言っている者には、新しいガラクタを溜め込むために読む者が多い。あるいは、偏見や迷妄を持つためにセミナーに行き、映画を観、スポーツをする者が多い。
大事なことは、捨てることであり、溜め込むことではない。

「趣味は?」という質問に対する正しい答えは、「音楽なら、例えばマーラー、絵画なら、モネ、花ならすみれ・・・」と言ったものだ。
しかし、そんな答が要求されることはない。それなら私は、静かに、「ありません」と答えるのみである。その結果、岡本太郎流に言えば、「誤解されたって、いいじゃないか」である。「いや、誤解されないといけない」である。

捨てるための愛読書足りえる本、千回読む価値があると思われる本は、例えばだが、下記のようなものがある(いつもと変わり映えしないが)。

















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心が崩壊しかけたら

中学生とか高校生、あるいは、もっと年上でも、社会に馴染めない人間が、あらゆるものへの嫌悪、絶望といった、どろどろした思考、観念に凝り固まっているのを見ると、出来るはずのない無茶の、その千倍を要求されたような気になるのだ。
芸術家は、どんなに無残や悲惨を描いても、そこには力への志向があるものだし、何らかの救いは隠されている。
例えば、ムンクの『病める子』という絵画があるが、そこには、不治の病に取り付かれた少女と、その横に、絶望に打ちひしがれた母親の姿が描かれている。しかし、その少女の横顔が神々しいのだ。全てを奪われた哀れな娘であるはずの少女が、神的な慈愛の光を発しているように感じるのである。
しかし、はじめに述べたような人たちが、詩や絵を創っても、そこにはただ、悲惨しかない。

いかに苦しい状況にあっても、ある程度の期間、社会で働いているなら、いくらかは鍛えられており、彼らは、あと少し、何かの方法で心を静める術を得れば、自分の世界を変えることだって出来る。
しかし、ずっと引きこもって、働いたこともなければ、どこから手をつけて良いものか、全く分からない。
だが、数奇な運命を生きた、伝説的なビジネスマン、アーマンド・ハマーは、7歳の時、毎日、人々のために役に立たせて欲しいと神に祈り、エドガー・ケイシーは9歳の時から毎日聖書を読み、13歳で不思議な存在に出会い、人生が動いた。
鎌田東二さんという哲学者は、子供の時、鬼が見えたらしいが、古事記(福永武彦著『古事記物語』)を読んで、そこの鬼の世界があるのを見て安心を得、その後、ギリシャ神話を読んで救われたという。
アーマンド・ハマーだって、何かの神話(聖書だとは思うが)を読んでいたので、あんな祈りをするようになったのだろう。
そして、彼らは皆、何かの理由で心が壊れかけていたので、神話を必要としたのである。

心が弱いというのは、何らかの理由で、自我の基盤が構築されておらず、その上の心があまりに不安定だということだ。
神話というのは、古事記や旧約聖書が特にそうだが、宇宙創世の物語であり、それは、個人の心の創生と同じものだ。例えば、人間が生まれる時、母体の中で、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類の形態を次々にとりながら、短い時間で生物の歴史を実現するように、人の心は、宇宙の進化に似た成長をする。そのヒントが神話にある。
だから、子供に限らないが、意味を考えず、無心に神話を読めば、不思議に心が安定するのは、神話に沿って、自我の基盤が構築されていくからだ。

鎌田東二さんが読んだ、福永武彦さんの『古事記物語』は、分かり易いし、あの人の書く物語はリズムがあって心が調整されていくように感じる。『古事記物語』は、少年少女向けと言って良いが、大人が読んでも面白い。そして、彼は、大人向きの『古事記』も書いており、これが非常に躍動感があって面白く、ロングセラーとなっている。
そして、鎌田さん自身が、素晴らしい古事記を書いている。
ギリシャ神話なら、個人的には、ヘシオドスの『神統記』が良いと思う。
心が崩壊しかけている危機にあるなら、人類の、そして、我が国の至宝である、ギリシャ神話や古事記を読むことをお奨めする。









釈迦、イエスはセブンだった

釈迦はヒンズー教においては、ヒンズー教の聖者の1人とみなされ、イエスも、ユダヤ教においてユダヤ教の聖者の1人である。
彼らは、ヒンズー教やユダヤ教で、絶対、あるいは、特別な存在とみなされていないばかりか、釈迦は、悪意はなかったが、偽りの教えを説き、それが仏教であるとされ、ユダヤ教では、イエスの伝記である新約聖書は全く重視されない。
私は、こういったことについて、ずっと、ヒンズー教やユダヤ教は偏狭であると思って、これらに悪いイメージを持っていた。しかし、ヒンズー教もユダヤ教も、あまりに素晴らしいもので、釈迦やイエスの教えが、それらに優るということは、おそらく無いと思う。
しかし、釈迦やイエスが特別な存在として扱われていることも事実である。
それは、なぜだろう?

あなたも、いずれは悟りを開く。その時には分かることだ。
悟りを開いた者、つまり、身体や魂、あるいは、因果から解脱した者(単に解脱者ともいう)には、2つの道がある。
1つは、真理を知り、あらゆる苦悩のない至福に生きることだ。
釈迦は、悟りを開いた時は、そうするつもりだった。一説では、釈迦は悟りを開いた後、入滅、つまり、死ぬつもりだったというものがあるが、それは完全な間違いだ(私も、以前はその説に従ったことがある)。イエスもやはり、実際は、そいうしたかった、つまり、至福の生涯を送りたかったかもしれない。
そして、解脱者のもう1つの道は、敢えて至福を捨てる苦難の道だ。
伝説によれば、菩提樹の下で悟りを開き、至福に浸っている釈迦に、神々が教えを伝える者になるよう懇願し、釈迦はついに決意してそれに応じたと言われる。
イエスについては分からないが、預言に従ったのかもしれないし、元々、悟りを開いた後、人々に教える道を選ぶつもりだったのかもしれない。
いずれにしろ、2人は、人類救済の果てしない苦しみの道を選んだのだ。
そんな存在を、仏陀、あるいは、キリストと言うのではないかと思う。単に、解脱した者を、そう呼ぶことはないと思える。

だが、私は、こうも考える。
イエスが実際に悟りを開いたのは、磔になった時だ。それまでは、彼は不完全だった。
十字架上で、「主よ、なぜ我を見捨てた」と言ったのは、彼の小我だ。
そう、小我は見捨てられた。
ラマナ・マハルシは、十字架は肉体で、イエスは小我だと言う。小我が十字架に磔にされて滅び、真我であるキリストが復活したのである。
イエスは、小我を犠牲にすれば、悟りが開けることを教えたのだ。
イエスは、その後、いよいよ、人類救済の道に入ったのだと思う。

聖典によれば、人には7つの段階があり、ラマナ・マハルシは、聖者は4番目だと言う。そして、その上にさらに3つあるが、解脱という意味においては違いはないと言う。
イエスや釈迦は、4番目を超えたのだろう。だが、聖典は最上位の7番目を賞賛するが、4番目の者が無知であるとは言っていない。
変な話だが、ウルトラセブンというのは、面白い名前だ。別に、彼は、自分と関わりのない地球にやってきて苦労する必要はなかった。しかし、敢えて彼は、その苦難の道を選んだ。そして、戦い続ける中でボロボロになり、最後は瀕死の身体で宇宙に帰っていった。彼は、アンヌに、自分が星になることを示唆していた。『エメラルド・タブレット』にも書かれているが、暗闇に侵されずに輝く星こそ、人の本質、つまり、真我、魂、至高の主である。
ウルトラセブンが、ウルトラマンシリーズの中で特に異彩を放つ理由があるように思う。至高者の意志が働いた作品であったのかもしれない。









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Googleに善を為させるには

Googleの創業時からのモットー(標語)が“Don't be Evil(邪悪を為すな)”だとは、私は知らなかったのだが、今、この言葉が面白いことで使われているらしい。

Googleは、Googleアカウントにログインしている者が、Google検索を行うと、検索結果に、自分のGoogle+内にある情報が反映される機能を作ったらしい。
Google+とは、Facebookと同種のソーシャルネットワークサービスだが、現状は、ユーザー数で、Facebookにはるかに及ばない。
それなのに、Google+の情報だけというのはフェアではないとして、Facebook社は、Facebook等の他のソーシャルネットワークサービスの情報も検索結果に取り入れる働きをするブックマークレット(小さなプログラム)を作り、それに“Don't be Evil”という名前を付けたらしいのだ。
つまり、「Googleよ、邪まなことをするんじゃない」という警告を込めたというわけだ。
それで、Googleが、「そりゃ当然だ。いや、俺が悪かった」と思うか、鳩が豆鉄砲くらったような感じになったのかは、よく分からない。

ところで、この件については、ネット上でも、あちこちで書かれているし、そもそも、私は普段、Googleアカウントにログインしておらず、Google+も、開設だけはしたが、全然使っていないので、あまり興味がないし、詳しいことはよく分からない。

ただ、この“Don't be Evil”という言葉だけは、何か面白く感じるのだ。
Evilってのは、「邪悪な」という意味で、反対語はGood(善良な)である。
なら、“Don't be Evil”などと言わず、“Be Good(正しかれ)”と言っても同じだ。
中国の古い寓話に、偉いお坊様に、誰かが、「一言、教えを」と頼むと、お坊様は、「悪いことをするな、良いことをしろ」と答えた。そう言われた人は、拍子抜けして、「そんなことは子供でも知っています」と言った。すると、お坊様は、「だが、行うのは老人でも難しい」と諭した。
このお坊様は、貴い教えとして、“Don't be Evil”と“Be Good”を両方言ったのだ。

Googleに老人はいないだろうが(多分)、“Don't be Evil”を知っていたからとて、それを実行するのは極めて難しいということだ。
Googleも、ついでに、“Be Good”も座右の銘に加えれば良い。

“Be Good”と言うより、“Don't be Evil”と否定形で言った方が印象が強いというのは、どの言語でも同じと思う。
ところで、日本では、古い言い方であるが、もっと強烈な言い方がよく使われた(中国から来たものかもしれないが)。
同じ意味の言葉で言うなら、「善を為さざるべからず」だ。文語に慣れない人が見たら、善いことをしろと言っているのか、するなと言っているのかよく分からないかもしれない。
これは、口語で言うと、「善いことをしないようではいけない」という意味で、つまるところ「善いことをしろ」と言っているのだ。わざわざ2重否定にすることで、強調を通り越して、崇高ささえ感じさせるのだ。
日本語でも英語でも2重否定はあるが、「善いことをしろ」では、強調するにしても、「悪いことをするな」までで、普通は、「善を為さざるべからず」とまでは言わないだろう。
しかし、先程のお坊様も言った通り、「悪いことをするな」なんて知ってても、実行はなかなか出来ないのだ。なら、さらに強調しておくのも良いかもしれない。
英文を「せざるべからず」と訳したものはあるが、原文を見ると、単に、「するな」と書いてあるものばかりだった。おそらく、翻訳者が、「これは少々強調した方が良いだろう」と思って、「せざるべからず」などとしたようである。
ただ、Don't be より、Must not be の方が強い感じになるかもしれないし、そんな英文が、やはり、「せざるべからず」と翻訳されているように思う。

では、水野南北の教えで、私もよく言う、「食を慎め」は、今後、「食を慎まざるべからず」と書こうかと思う。決して、「食を慎んではならない」という意味ではなく、「食を慎まないようではいけない」という意味である。
以下に、私が一番気に入っている、水野南北の書をご紹介しておく。









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働きたくないサラリーマン、勉強したくない学生に

荘子の言う無為は分かり難い。表面的には、何もしないという意味だ。荘子は無為自然であることを説いた。
しかし、本当に何もしなければ、間違いなく哀れで惨めな状況になるだろう。
ゲーテなんて、「何もしないよりは、この世で最低のことでもやった方がいい」と言うくらいだ。
もちろん、つまるところ、「善いことをしろ。悪いことをするな」ということになるだろう。
しかし、学校では、「良い成績を取るために勉強しろ」と言われるが、「賢くなるために勉強しろ」とは言われない。
「先生に誉められることをやれ」と言われるが、「人に親切にしろ」とは言われない。
賢くなるための勉強をすれば、良い成績は取れない。良い成績を取るための勉強をやれば馬鹿になる。
全てとは言わないが、人に親切にしていたら先生には誉められない。先生に誉められる行いは人に不親切だ。
『バガヴァッド・ギーター』には、やるべきことと、やるべきでないことを、超論理的に詳しく述べられている。決して、世間的な意味合いの善い、悪いではなく、高次の視点からのもので、人の基準ではなく、神の基準である。それは、本心において抵抗を感じさせない、自然で、生命力を高めるものである。世間や学校の行動指針ではなく、『バガヴァッド・ギーター』の行動指針を学んでいれば、彼の世界は輝かしいものだろう。神が味方する行動指針だからだ。

ラマナ・マハルシは、行動について、自分がやっているという自覚を持たない行動が善い行動だと言う。
やらなければならない行いは避けられないというのが、『バガヴァッド・ギーター』とラマナ・マハルシの教えるところだ。マハルシは、『バガヴァッド・ギーター』をよく引用したし、読むことを奨めていた。
その仕事をする運命なら、それをすることは避けられない。だが、行為者の自覚なく、熱狂することなく、嫌がることなく、高慢になることなく行わなければならない。逆に、働く運命になければ、いくら探しても仕事は見つからない。
人は、自分の思うままに仕事についたり、辞めたりはできない。
自分が行為者であるという自覚なく行うこと、それが荘子の言う無為なのだろう。自覚がない限り、自分は何もやっていない。

だが、コリン・ウィルソンは、自覚のない自動的な行為を、人の無意識の中のロボットの行動であると言い、それが人生を無味乾燥なものにすると言う。
しかし、それはやはり無為でないからだ。そこらが、幸と不幸の分かれ目である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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