ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2011年12月

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

そんなことはどうでもいいことだ

学校や会社で、1年の目標なんてものを立てさせられることもあるかもしれない。しかし、そんなものは忘れてしまうものではないだろうか。私はいつもそうだ。
だが、自分の本当の目標を1年単位で持つことは良いことと思う。前にも書いたが、1年は、目標を持つのに、とても良い期間だからだ。

私の、今年ではなく、昨年(2010年)の元旦の目標は、「無批判」だった。善いものだろうが、悪いものだろうが関係なく、一切の批判を差し控えることを目指したのだ。
幸福に至る最良の道は、広い心を持ち、ものにこだわらないことで、そのためには、批判は少ないのが良い。
だが、ただ無批判でいようと思っても、できることではないと分かった。
そこで、これからは、1つの言葉を忘れないようにし、何かある度に呪文のように唱えようと思ってる。その言葉は、「どうでもいいことだ」だ。

良い口癖を持つことを薦める者はいるが、持つべき口癖とは、魂を解放するものでなければならない。魂が解放され、自由に輝くなら、あなたは無敵だからだ。
そのための言葉が、「どうでもいいことだ」であると思う。
スコットランド出身の神学者・哲学者であるマード・マクドナルド・ベインが、チベットで偉大な師に初めて逢った時、ベインは、命を懸けて学んできた知恵を、師に語って聞かせた。自分がそれなりのものであることを分かって欲しかったのだろう。しかし、最後に、師が穏やかに言った言葉は、「そんなことが本当かどうかは大した問題じゃないんだよ」だった。ベインは衝撃を受け、一瞬で悟りを開く。
それを読んでいた私も、ベインほどではないにしろ、やはり、深い感銘を得たのだ。

我々は、日常、本当にどうでもいい、つまらないことを、さも大事であるかのように扱い、そんなもののために、怒り、悲しみ、意気消沈し、妬んだり、やきもちをやいたりする。しかし、本当に、1つ残らず、どうでもいいことなのである。心が動揺する度、「どうでもいいことじゃないか」と言い聞かせれば、全ては霧のように消え去るのだ。

自分だけの問題であれば、どんなことでも、それは、「どうでもいいこと」だ。自分だけの問題とは、心が恨み言を言うようなものだ。
私が貧しかろうが、悲しかろうが、悔しかろうが、誰に関係があるのだ?そして、それは、私にすら関係のないことなのだ。
どうでもいいことを除いていけば、最後に、真に大切なものが、蒸留物として、あるいは、結晶として残る。だが、どうでもいいことにこだわっていると、結晶は得られない。
「どうでもいいことだ」
この言葉を忘れない限り、私が不幸になることはないだろう。









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引きこもり聖者と反復転職聖者の教え

同時代(20世紀半ば)のインドに、ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジと呼ばれた二人の聖者がいたが、マハルシは「引きこもり聖者」と言えるかもしれないし、マハラジは事実上、「反復転職聖者」だった。

マハルシは17歳で解脱、つまり、悟りを開いた。それまでは平凡な高校生で、スポーツは万能だったが、学校の勉強の方は熱心でなかったようだ。ある日、突然に偉大な聖者となったマハルシは、家を出て、遠いアルナチャラという場所に行き、数年の沈黙の行の後、人々を教えたが、言葉で語ることは滅多になく、いつも沈黙を持って導いた。よって、マハルシは沈黙の聖者とも言われる。彼は、生涯、アルナチャラを離れなかった。つまり、マハルシは社会に出たことは一度もなく、結婚もしなかった。
一方、ニサルガダッタ・マハラジは、貧しい農家に生まれ、学校教育はほとんど受けず、農夫になったが、ひどく貧しかった。やがて町に出て、事務員の仕事などをしたが、どれも長続きしなかったようだ。だが、小売業を始めてからは熱心に商売に励んだ。儲かりはしなかったらしいが。33歳位の時、師に、「あなたは至高の実在である」と言われ、その言葉を忘れなかっただけで、特に瞑想などの修行をすることもなかったが、37歳で悟りを開いた。だが、小売業の店主のまま一生を過ごした。結婚し、子供もいた。

マハルシは世間知らずのはずだが、雑誌などは取り寄せて見ていた。インドの有名な聖者パラマハンサ・ヨガナンダが訪ねてきた時は、ヨガナンダに、「あなたのことは知っている」と言ったが、雑誌で見ていたのだった。マハルシ自身は聖典を所有していなかったが、持っている人のところに行って、見せてもらい、その内容を適切に引用することもあった。だが、やはり、会話をすることは稀だった。
一方、マハラジはよく語った。彼は無学なはずであったが、科学技術のことも含め、何でもよく知っていた。新聞も毎日読んでいたようだ。そして、一応はヒンズー教の教団に属していたようである。

私は、聖者とはいっても、ある時期までは社会で鍛えられる必要はあると思っている。だが、ラマナ・マハルシはそうではなかった。彼は、世界に対してできる最大の奉仕、貢献は、真我の実現であると言うが、それは、解脱(悟りを開くこと)ということであろう。
そのために、マハルシは2つの道を示した。1つは、神に自分を全て明け渡すこと。これは、日本の黒住宗忠の言う、神に全て任せるということと同じと思うが、マハルシも、「神に全て任せて安心しなさい」と教えた。
もう1つの道が、世界ではよく知られているものだ。それは、常に、「私は誰か?」と自分に問う方法だ。
方や、マハラジは、相手によって、いろいろな教えを説いた。だが、彼の最も特徴的な教えは、「存在の感覚に常にしがみついていなさい」だ。これは、いきなり言われても、なかなかピンとこないかもしれない。マハラジは、「あなたが確信できることは、自分が存在するということだけだ」と言い、それに徹せよと教えたのである。「我思う、ゆえに我あり」で知られるデカルトも、この世で確実なことは、「考えている(疑っている)我」の存在だけと言ったが、考えていようがいまいが存在しているというのが事実だ。デカルトの場合は、あくまで理性を導くことを主体としていたので、そういう言い方になったのだと思う。彼もまた偉大な賢者であると思う。

「私は誰か?」と問い続けることは、退屈だし、忍耐がいる。
だが、スコットランド出身の神学者マード・マクドナルド・ベインの身体を借り、イエスもこう言ったのだ。

『自分は一体何なのか?』
この質問を十分に納得がいくまで自分自身に課するがよい。
※『心身の神癒-主、再び語り給う-』(霞ヶ関書房)より

一方、マハラジが言った、「存在の感覚にしがみつく」だが、マハラジは、座して、存在の感覚にひたり、何時間も喜びに満ちて過ごしたと言う。
私もやってみたが、少し慣れると、確かに楽しく、その後で歩くと、身体をひどく軽く感じるのに驚いたことがある。心が荒れた時も、存在の感覚に集中すると、すぐに嫌なことを忘れることができる。最初は、身体の存在の感覚で良いし、それから、心の存在の感覚と広げれば良いのだと思う。終局的には、心も消え、宇宙全体に遍満する魂の存在に達するのだろう。









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食の慎みと沈黙があなたを自由にする

学校で傲慢な教師や、たちの悪い級友に耐えたり、社会で頭を叩かれるのは、皆、魂を解放するための修行でしかないのだろう。魂を何から解放するのかというと、暗闇のベールとでもいうものだ。だが、我々の魂は、漆黒の夜空に輝く星のように、闇に消されるようなものではない。
多くの人の魂は、世間という闇に覆われて、輝きを失くしてしまっている。
だが、魂を解放して輝きを夜闇に放てるようになれば、我々は自由だ。
ベートーヴェンの第九の中の歌『歓喜の歌』で、歓喜とは、神の美しい火花(あるいは霊感)、楽園の乙女と表現されているが、それは、解放された魂の輝きのことだ。そして、魂そのものは、神あるいは楽園と一体のものである。

では、魂を確実に解放する良い方法とは何だろう。
最も重要なことは、食欲を克服することだ。食欲は魂を縛るのである。だから、飽食が蔓延っている世間の中の人々の魂は、牢獄にいる。牢獄は個室だ。本来、分離されていないものが分離されているのだ。
もう1つ重要なことを言えば、無駄なおしゃべりをしないことだ。沈黙は金というが、これはお金のことではない。魂を輝かせるということだ。
ラマナ・マハルシは、実相である神を知った後も、何年もの沈黙の行をしたが、口でも心でも、なるべく沈黙を守ることは優れた行である。

食を慎むのは楽しいことだ。それだけで魂が解放されていくのだ。これほど嬉しいことがあろうか?
沈黙もまたしかりである。話すときは、必要なことだけを端的に言うのだ。人の想念というものは、話さなくても照射されるのである。「大切なことは、言わなくても伝わる」のだ。

「ありがとうございました」
「何もしていない」
「はい。ずっとそばに居て下さいました」
~『BLOOD-C』より。小夜(さや)が、話す犬に言った言葉~

言葉では人を慰められない。心を癒すことはできない。沈黙が人の心を溶かすのである。

私は、食事を1日1回にし、肉食を絶って4年以上になるが、半年くらい前から、ようやく、食欲を克服できた。だが、そうなるまでも、食の慎みは楽しいものであった。魂が現れてくるのを感じるからだ。また、最近では、ほとんどの会話もやめてしまった。もちろん、話すべき時は話すが、私自身は何も話していない。口が話しているだけだ。
無愛想になれというのではない。むしろ、沈黙を守るなら、芝居の愛想良さよりずっと親切かもしれない。

好機が来ても私は打たない。拳自らが打つ。
~『燃えよ!ドラゴン』より。リーが師に言った言葉。~

魂を解放すればするほど、我々は自由になり自在になる。世界は意のままになる。
我々の魂から放出される光は、神の光、楽園の乙女・・・つまり、この上なく美しいものだ。
それが、ベートーヴェンの第九、天啓を得て書かれたシラーの詩『歓喜に寄せて』の意味するものだ。日本人だけの習慣かもしれぬが、年末に第九を聴くのは良いことだ。









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外見は全く気にする必要はない

日本人の体格・体形も欧米人並になってきた・・・なんて言われるようになってから何十年も経つのではないかと思う。しかし、街で人々を見る限り、それが若者であっても、「まだまだ」という印象だし、ひょっとしたら、今の若者は、一昔前の若者よりスタイルが悪いと感じられてならない。運動不足のせいで、身体に締りがない上、動作や姿勢が悪いというより美しくない。
また、欧米にいる知り合いから、「こっちの14歳は日本の14歳とぜんぜん違う。女の子なんかものすごく色っぽい。男の子も男っぽい」といったことを聞くことがあるが、これは、肉体的な理由ではなく、精神的な問題と思う。つまり、自立性という面だ。日本では14歳は全くの子供だが、それはおかしなことであるはずだ。日本だって、昔の13歳、14歳の少女は、とても女らしく、大人っぽかったに違いない。そして、単にセクシーさの問題ではなく、人間としての力が今の若者はなくなっているのであり、世界学力コンテストみたいなものは、本当にどうでも良いことと思う。試験の成績や受験にうつつを抜かすような教育は、悪いというより、子供から力や、力の芽を奪い取っていることは間違いないと思う。

手塚治虫さんは、元々は欧米人にコンプレックスを持っていたらしいが、初めてニューヨークに行った時に、それが全部吹っ飛んだと言う。
みんな自分より背が低いし、彼らにとっては母国語のはずの英語もデタラメなのだ。
ただ、教育という面では感心したという。子供達は礼儀正しいし、夜8時を過ぎたらテレビを消し、勉強を始めるのだそうである。これは、親が強要してできることではなく、ちゃんと手本を示しているのであろう。
手塚治虫さんは、日本人としては良い体格だったらしいが、昔の日本人の典型的な体格体形の男性が、長身イケメン揃いのデンマークに行ったところ、別になにか特別なところがある訳でもないのに、女の子達にモテまくり、ディスコでは、彼と踊るための女の子達の列ができたという。だが、日本に帰ったら、また、女の子達に全く顧みられない日々に戻ったという。

つまり、外見の問題ではないのだ。心の問題なのである。
以前も書いたが、私が知っている、最もモテる男は、身長157cmだった。別にイケメンでもない。人間的にも、良いところはあるのだが、時々、殴ってやろうと思わずにいられない、いい加減なやつだった。しかし、彼なら、後10cm低くても問題はなかっただろう。
『荘子』に登場する、中国一モテる男となると、部類の醜男だが、これが女だけでなく、男にも、変な意味でなく、大変に慕われる。醜男でも何か特別なところがあるのかというと、全てにおいて取り得が無いのである。エマーソンは、想像と空想ははっきり異なると言ったが、荘子が書くくらいであるから、この醜男の話も、単に面白い空想ではなく、理のあることなのである。
日本人としても背の低い岡本太郎も、パリにいた頃は、次から次と、世界中の美女、美少女と同棲し、中には有名なモデルもいたらしい。ある雑誌の表紙になっていた人気モデルのことについてインタビューされた時の、「ああ、確かに以前、一緒に住んでいたなあ。名前はえーと、えーと・・・」という返事を、そのまま掲載されてしまったことがあったようだ。

「獣の分際で何を言うか!」
「ジルコニア様、大切なのは形ではなく・・・心です」
~セーラームーンミュージカルより。タイガースアイのセリフ~

身長、顔形、成績、金メダルやトロフィーなどといった形は、全く下らないものとは言わないが、あくまで2次的なもので、どうでもいいものである。
ゲーテは、人格が第一と言ったが、いきなり人格者や賢者にはなれない。しかし、心を明るいところ、高いところ、輝くところに向けることが大切である。
黒住宗忠も、病で死を覚悟した時、その病の原因が、心の暗さであることに気付き、心を明るい方向に向けることで奇跡的な回復を見せ、以降、生涯に渡って偉丈夫であったばかりか、人の病気までイエスのように治せるようになってしまった。
形ばかりを求める学校や世間の教義や信念など捨ててしまうことだ。心は自分で養うしかないのである。









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年の暮れを安らかに過ごすことが夢だった

1年という期間を1つの節目と考えることは良いことだと思う。
地球は1年で太陽の周りを1回りする。木が1年で年輪を1つ加えるように、植物は特にそうだが、虫や魚や鳥、その他の多くの動物も、1年をサイクルとして生きているのである。人間だってそうではないかと感じる。何をやるにしても、たゆまず努力すれば、しっかりとした進歩が感じられる最低の期間が1年ではないかと思う。

私の子供の頃からの夢の1つが、年の暮れを心安らかに過ごすことだった。大晦日という季節も、昨今の商業主義の世間の風習はいただけないながら、1年の締めくくりとして悪い時期ではないと思う。
だが、その夢はいまだ叶わないし、それを夢見たということは、年の暮れに、特に心が苦しかったのだろう。

江戸末期の神道家、黒住宗忠に、彼の弟子の1人が、「神に全て任せれば、年の暮れは安らかだ」という意味の歌を示したところ、宗忠は、「神に全てを任せれば、毎日の暮れが安らかである」という意味の歌に書き直したという。
年の暮れが心安らかでないなら、常日頃が心安らかでないのであり、それは、常日頃、神に任せ切ることができず、我の力でものごとを為そうとしているということだろう。

地球は1年で太陽を回る。だが、我々の身体もまた惑星なのである。そして、我々の太陽は魂だ。肉体は魂の周囲を回転している。太陽が惑星に、惜しみなく、恐ろしいまでに与えながら請求書を寄こさないように、魂も、肉体や、それと同一のものである心に光を与えているのである。我々の心が魂と一致するなら、我々も太陽になるのであるに違いない。人々の光として輝き、安らぎを与える太陽であることが、人の真の安らぎなのだろう。









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