ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2011年11月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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論語は孔子のウンコでしかない

人間は、「最低だ」という意味で、よく、クソと言う。下品ではあるが、最低であることを最も効果的に言うにはそれが一番なのだろう。
『僕は友達が少ない』という小説・アニメで、10歳の銀髪の美少女マリアが、彼女からみれば、世の中の大半のことは最低なのか、やたら「ウンコみたいだ」と言う。せっかく可愛いのに勿体無いと思う。

ところで、『荘子』にもこんなお話がある。
ある偉い人が本を読んでいたら、庭で仕事をした大工が上がってきて、「旦那様、何を読んでおいでですか?」と尋ねた。
偉い人は、「昔のとっても偉い人の教えが書いてあるのだよ」と大工に言う。
すると大工は、「なんだ、それじゃ、その本はウンコみたいなものですな」と言った。
2千数百年前の中国であるが、大工が簡単に書斎に入ってこれるのだから、良い旦那様ではあると思うが、そう言われて彼は、「大工ふぜいに何が分かる!たたではすまさんぞ」と激怒して言った。
だが、大工には、自分が言ったことは当たり前のことなので平気だ。大工は言う。「あたしゃ、息子もせいぜい仕込んだが、それでも、70もとおに過ぎた今になっても、私にしか出来ないことがあります。その経験からも、言葉で教えることなんか、たかが知れてると分かるのです」。
※これは、荘子の外編のお話で、荘子直筆ではないかもしれない。内編の本には基本的に載っていないが、下記に紹介する書籍には載っている。

『論語』を有難がって読んでいる人もいるが、それは、せいぜいが孔子のウンコである。
そりゃ、孔子は賢い人なので、教えがよく伝わるよう、最高の表現で書いたのだろうが、所詮、言葉である。
だが、ウンコからでも、それを理解する方法はある。それは、千回くらい読むことだ。そうやって、文字の間に潜む霊のようなものを感じることだ。
また、論語を偉そうに講釈している人より、それを一度も読まず、「孔子様、どうか知恵をおさずけ下さい」とずっと祈っている人の方が賢いことが多いのである。

そんなことをよく分かっていたのが釈迦だった。
自分が生きている間や、直接指導した弟子達が教えている間はまだいい。しかし、いずれ、自分の教えは何の効果もなくなることをよく知っていたのだ。
そこで、人間を理解し尽していた釈迦は、難しい教えなど無用の、英知を得る最高の方法を残し、「これだけで良い」と言ったのだ。それは、「仏様を褒め称え、いつも想え」ということだった。そのためには、仏様の国や仏様のお姿をイメージしろということだが、名前を呼ぶだけでもいいとした。それが、念仏という教えになった。
万巻の経典を読むより、「南無阿弥陀仏」を唱える方が良いということで、法然はそれを教え続けた。
念仏はウンコではなく、美味しい食べ物である。
一方、道元は座禅という形で、親鸞は、信心という心で、宇宙一体化の道を説いた。それらも、理屈無用の優れたものである。
至高の聖典『バガヴァッド・ギーター』でも、至高神クリシュナは、最終的には、ただ自分を拝めと教えているのだ。それで万事OKである。
尚、キリスト教では、詩篇という形で、それをしたと思う。詩篇は、繰り返し読むことで、言葉を超えた霊と感応し、至高の英知である神と1つになるためのものである。そして、間違うことのない方法である。
人間など、所詮、愚かなものだ。難しいことをやると、ろくなことにならないものだ。









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全て諦めた時に奇跡は起こる

戦争で死ぬというのは、自分に責任がないということでは、天災や不慮の事故と同じだが、国家の都合で無理に将来を閉ざされてしまうのであるから、本当はただ無念なことでしかない。
何らかの事情で、自分のやりたいことがやれない状況に置かれているなら、戦争で死んだ若い兵隊達のそんな無念を強く感じるもかもしれない。精神分析学者の岸田秀さんは、若い頃、そんな日本の兵隊達の資料を見ると、自分でも不思議なくらいの激しいやるせなさを感じたのは、自分では気付かなかったが、エゴの塊の母親によって完全に支配されていたことを、フロイトを学んで後に分かったからだという。

戦争中の日本の兵隊達は、国家を守る使命に燃えていたと言う者もいるが、そんなことは真っ赤な嘘である。そう言わされていたかもしれないが、本当は、彼らは、ただただ無念だったのだ。そこのところは、はっきりしておかないといけない。国家によって作られた馬鹿げた話を決して信じてはいけない。

だが、自分に責任のある死の場合はどうだろう?
私は、昔から、無縁仏というものに並々ならぬ想いを持っていた。どこのだれか分からない者が、野や山の中で一人、骨をさらしているようなものだ。殺害されたようなこともあると思うが、昔なら、一人、誰にも顧みられず、飢えや寒さ、あるいは、病気や怪我で、苦しみながら死んだ者は沢山いたはずだ。
食べ物や住むところを自分で得られないという、自分の非力さ、運の無さで、苦痛の中で惨めに死んでいく無念さはいかほどのものだろう。
人間は、美味しいものを食べ、快適な衣服を着て、暖かい家で、親しい人達と仲良く暮らすのが当たり前なのである。それを自分で得られないということは、人としての徳が無いということなのだ。それは最悪の生涯である。そんな者は、いったい、何のために生まれてきたのだろう。
そして、我々ですら、明日はそんなことにならないとも限らないのだ。その恐怖があるから、やりたくもない仕事をし、人を蹴落とし、ケチケチと溜め込み、人間らしさを捨てて自分のことだけを考えるのである。

それなら私は、そういう最悪の死が自分のものであると決めておこう。能力も徳もないのであるから、それがお似合いと諦めよう。
そうであれば、何も恐れないし、私は自由だ。餓死の練習はせいぜいしておこう。毎日、食べたいだけ食べていたら、食べるものが得られないと辛いことになるだろう。
そして、さっき述べたが、明日の我が国が、そうならないとも限らないのだ。
今の私は、その気になれば、このまま食べずに餓死することも、さして辛くはない。私のような覚悟があれば、あなたにも難しいことではない。
我々には、他人はおろか、自分を救う力もない。
だが、そう悟れば、目に見えるあらゆるものをはるかに超えた大きな力に全て委ねる気になるだろう。
黒住宗忠が、何年も病気で寝込み、いよいよ死を覚悟して、せめて姿を整えようと、入浴し、正装した時に、天照大神が彼の中に溶け込み、一瞬で病気が治ったように、全て諦めて、自分を至高の存在に全て明け渡した時に、あなたは、それと1つになるのだ。
私がいつも言う、聖書の詩篇23編や詩篇91編は、そんなつもりで祈るためのものである。
また、「南無阿弥陀仏」の念仏も、阿弥陀如来という、至高の存在に全てを任せるという意志表示なのである。さらに、親鸞は、この念仏は、全て委ねた結果、救われたという感謝の言葉であると言った。

ところで、『荘子』の中に、こんなお話がある。荘子が、野ざらしの骸骨を見つけ、「どんな訳で、こんなみっともないことになったのだい?」と言いながら、それを枕に寝ていたら、夢の中で、「おまえさんは、俺をみっともないと言うが、なぜそんなことが分かる?俺から見たら、お前たちの方が、よほどみっともない」と言う声を聞き、自分の浅はかさを恥じる。
私にも分かる。死とは、それほど悪いことではないのである。

尚、詩篇91編と23編は、当ブログ内の下記の記事に掲載している。
詩篇91編掲載:誰でも奇跡を起こせる2つの言葉(全文掲載)
詩篇23編掲載:賢い人はある意味で子供に似ている









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大したことのない偉大な男達

最近の人気のあるアニメ、小説、漫画の傾向として、大したことのない男の主人公が、沢山の美少女達に慕われるということがあるらしい。
私は、それほど多くは知らないが、確かにことごとくそうだ。
『To LOVEる -とらぶる』、『涼宮ハルヒ』シリーズ(アニメでは一貫して『涼宮ハルヒの憂鬱』)、『灼眼のシャナ』、『僕は友達が少ない』などが、すぐに浮かぶ。
平凡でサエない少年達が、なぜか、外見はもちろん、中身においても素晴らしい少女達に本気の好意を寄せられるのである。
これは、男性の大半の視聴者、読み手である、サエない、平凡な男に共感を持たせるためだという予測をすることもあるだろうが、その程度の仕掛けでヒット作品を創れたりはしないだろう。
その「サエない」「大したことない」というのは世間的評価だ。
実は、私は、上にあげた作品の、サエないはずの少年達は、ことごとく、大したやつだと感動しているのである。
中でも、『灼眼のシャナ』の坂井悠二という高校1年生の男子には、ほとんど惚れ込んでしまった。彼も、最初は、ヒロインの、あらゆる面で極めて大した少女であるシャナや、彼女と共にある異界の神アラストールにひどく蔑まれた扱いをされる。「これ」と物扱いされたり、「器が知れる」と貶され、全くケチョンケチョンである。ところが、やがて、表立っては示さなれないが、シャナに深く想われ(こういうのをツンデレというようだ)、アラストールも敬服させるほどになる。
悠二に限らず、他の「美少女達に慕われるサエない男達」が、皆、素晴らしい。だが、どこが素晴らしいかとなると、言葉にしにくい面もある。普通に言えば、「ものにこだわらない」「公平である」「親切」となる。しかし、これらの徳目を備えているだけでも、本当に「大したもの」ではないだろうか?

『まほろまてぃっく』というガイナックスのアニメで、優(すぐる)という名の14歳の中学生の少年がいて、やはり、ヒロイン達はもちろん、幼馴染の美少女達や女教師にまで慕われる。真面目な話ではあるのだが、進化した宇宙人が、優を調査する。確かに、頭脳や運動能力などでも優秀な少年だが、天才的というわけでも、超人的というわけでもない。調査を依頼された宇宙人(男性アンドロイドだが)は、なぜこんな平凡な少年を調査させられたのか、上の意志が理解できず、いぶかる。
だが、この無敵の宇宙人製アンドロイドは、優に驚愕させられる。そして、本当の強さというものを思い知らされる。彼に指令を与えた至高の存在マシューは、彼にそれを教えたかったのだ。

サエないモテるヒーロー達にも、やはり、秘めた特別なものがあるに違いない。ただ、それは、世間的なものではなく、やはり、世間的には大したことのない我々にも得られる何かだ。それは、ある意味、簡単に得られるが、逆に、得ることが最も難しいものであるとも言える。

CLAMPは、大人気作品を多く持つ女性4人組の漫画家ユニットで、アニメ制作にも深く関わることが多い。さすが、女性作者だけあって、彼女達の描くヒーロー達は、世間的にも大したものである場合が多い。だから、まだ男を見る目の無い少女読者達も、CLAMPのヒーローには入れ込みやすい。
『ツバサ・クロニクル』(原作漫画は『ツバサ』)のヒーローの少年、小狼(シャオラン)は、格好も良く、ある意味、可愛いとも言え、少年とはいえ男らしい性格で、武術に秀でる。だが、私も彼には惚れ込んだが、その理由は、そういった表向きの素晴らしさではない。自分が正しいと思うことのためなら、勝ち目がない戦いでも、全くひるまず、特に気合を入れることもなく、当然のように立ち向かう。その、ある種の静かさがたまらないと思う。

『To LOVEる -とらぶる』で、ヒロインの、宇宙的に大した美少女であるララが愛するのは、やはり、サエない少年リトだった。クラスメイトの普通の少女達は、ララに、リトはサエないし頼りないので、ララに相応しい、もっと上のランクの男を狙うよう忠言する。まさに、「上のランク」という言葉が、世間的価値を示している。
だが、ララは言う。「リトは宇宙で一番頼りになる男だよ」。これは、恋のために盲目的になったララの妄想だろうか?そうではないと思うし、世の女性達も、いや、女性に限らず、全ての人に、いくらかは、ララのようなハートを持って欲しいと思う。

見えないものを信じたら 向こう側へと抜けるカギが見えるわ
~『こっちをお向きよソフィア』より。作詞:康珍化、作曲:大沢誉志幸、歌:山下久美子~

本当に大切なものは目に見えない
~『星の王子様』(サン・テグジュペリ)より~









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心の深奥に誘う至高の詩

時々、聖書の詩篇の話をするが、その中で、私が最も美しい詩だと思うのは19篇だ。
私が中学生の時に、萩尾望都さんの漫画『ポーの一族』を読んでいたのだが、その中で、アランという名の14歳の少年が、恐怖心にかられて、不思議な言葉を唱える場面があった。その時は、私は、それが何なのか分からなかった。
ところが、少し前に、聖書の詩篇をぱらぱらと見ている時、たまたま目に留まった言葉を見て、それが、あの懐かしいアランが言ったものだとすぐに分かった。アランが言った言葉自体は全くと言って良いほど憶えていなかったが、それでも、これだと分かったのである。顕在意識では一度も記憶しなかったが、潜在意識ははっきりと憶えていたのだ。

詩篇19編は、非常にシンボリック(象徴的)な詩で、言葉を表面的に捉えても意味を成さないものだ。だが、自分の内にある英知は、当然、その意味を知っている。だから、美しいと感じるのだ。
すなわち、この詩を読むことで、内なる英知を感じることができるのである。それにどんどん馴染んでいけば、宇宙の真理に目覚めてくるが、それは、頭で理解するのではなく、自分の魂の中に、神の魂が流れ込んでくるといった言い方をしても良いのではないかと思う。内なる英知は宇宙に通じるものであり、実際は、宇宙に遍満する至高の力でもある。
詩篇の23編は、主に恵みをもたらす力があり、詩篇の91編は、「防御の詩篇」と言われるように、あらゆる危難からあなたを守る。
これらの詩の驚くべき力については、これまで、何度も具体的に述べた。そして、詩篇19編は、潜在意識の深奥に潜む無限の存在としっかりと意志を通じ合わせる道を開くのである。
ジョセフ・マーフィーは、その無限の存在と交信する能力こそ本物の超能力であると述べているが、それは、スプーン曲げやESPカードを当てるようなちっぽけな超能力と全く異なり、この超能力(テレサイキック)で、至高の英知にアクセスし、それに全て委ねることができれば、あらゆることが可能なのである。
詩篇19編の全文を以下に掲載する。口語訳聖書からのもので、著作権は2005年に切れているようだ。

もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。
日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。
主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。
主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。
これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。
あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。
だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。
また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。
わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。









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人は聖者になど成れない

『方丈記』の著者である鴨長明(かものちょうめい)は、法然上人と親鸞聖人の中間くらいの年齢だろう。長明が13歳の時、平清盛は太政大臣になっている。そんな時代だ。
長明は、神官の名家の出身で、文芸の才能に恵まれ、世間での誉れも高かったが、50歳を過ぎて、山の中に隠遁した。理由は、思うように出世できなかったことをきっかけに、世間が嫌になったのだろう。十分に偉くなっていたと思うが、それも自己評価と釣り合わなかったのだろう。
それで、聖者を目指し、自給自足で修行する清らかな生活を送った。学のある彼のこと。いろいろ、立派なことを考え、それを書いたりもした。
ところがある朝、気付いてしまう。
聖人ぶっていても、所詮、自分はただの俗物だと。
彼は、悟りでも開きたかったのだろう。しかし、そんなものと程遠い。せっかく俗世を離れ、がんばったのに・・・という思いでもあっただろう。彼は激しく落胆し、憂鬱に落ち込んだのかもしれない。
いったい、なぜ、こんなにうまくいかないのだろう?
彼が自分に尋ねた時、自然に、「南無阿弥陀仏」の念仏が出てきたのだ。

私の知る範囲でだが、これほど美しい文学のラストは無い。
これを、偉い学者先生たちは、えらく難しい解釈をする(それが学者の仕事なのだろうが)。
『方丈記』が書かれた年とされるのが、法然上人が亡くなった年というのも、偶然としては出来過ぎと思う。
ところが、あの聖人と誉れ高い法然も、自己評価としては、最初から、この時の鴨長明と変わらなかった、あるいは、もっと低かったかもしれない。さらに、有名なその弟子、親鸞となると、さらに低い。法然は、自分は念仏以外に何も出来ない俗物だ。だから、ひたすら念仏だけやった、それだけだと言ったのだ。

「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀如来に帰依します」、つまり、「阿弥陀如来様を心から信じ、全てお任せします」という意味で、自分の力を全く頼まない、絶対他力の意志だ。
長明は、自分の力で悟りを開こうとしたのだろう。そんなことが出来るとでも思ったのだろうか?
阿弥陀如来というのは、もちろん、本当に大仏のような姿の存在ではなく、宇宙の英知とでもいうべきものだろう。
人は聖人になることは出来ない。そんなことは諦めて、絶対的な存在に頼りきってしまうことだ。長明の深い心はそれを知っていたのだろう。だが、長明の愚かな表の心はそれが分からなかったのだ。一度、栄誉を得た人間はそんなものなのだろうか?
法然は、自分の愚かさを嫌というほど思い知っていたのだろう。そのあたりが、法然と長明の違いかもしれない。
釈迦が念仏の教えを説いたと言われる、『観無量寿経』は、釈迦がインドの王妃に説いたものだが、ある人の解釈では、その王妃が、自分の愚かさを思い知った時、釈迦は、彼女がそれを悟ったことを喜んで、この教えを説いたものとしている。
仏教でも、キリスト教でも、道教でも同じで、自分の愚かさを本当に知った時が救いなのだと思う。
アダムスキーは、自分はキリスト教徒ではないが、イエスは崇拝すると言っていた。彼は、個人の自我が、宇宙の英知に従うことを決意し、それをすれば、自我と宇宙の英知が融合して1つになると言った。そのためには、自我は、自分の愚かさを認めるしかないだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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