ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2011年09月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

あの輝きを取り戻す方法

制作された英国や米国より日本でヒットしたと言われる、1971年の映画『小さな恋のメロディ(原題:Melody)』の脚本を書いたのは原作者のアラン・パーカーで、映画の内容も、だいたい、原作通りだ。ちなみに、お話自体は、映画製作者のデヴィッド・パットナムの体験である実話らしい。
私は、高校生の時、原作(翻訳)を読んだ中で、よく憶えている場面がある。主人公の11歳の少年ダニーと、彼のクラスメイトで親友のトムがバスに乗っていたのだが、停留所で乗ってきた中年の男女を見たトムが、「年寄りってのは、どうしてあんなに薄汚ねぇんだろうな」とつぶやき、「どいつもこいつも口をへの字に曲げやがって」とはき捨てるように言うところだ。年寄りといっても、老人のことではなく、中年以上の大人のことである。口のへの字に曲げていたのは、主にトムの行儀が悪かったのが原因であるが、それにしたって、「薄汚い」とか「口をへの字」とは辛らつだ。しかし、私はトムに大いに同調してしまった。確かに、大人達の顔はとても悪い。顔といっても、形とかではなく、表情とか雰囲気とか、内側から滲み出ている心のようなものだ。これを読んでから、改めて電車の中とかで大人達を観察すると、大半の大人がそうであった。それは、映画の中でも表現されていた。「日本もイギリスも同じなのだなあ」と妙な感心をしたものだ。
そして、今の日本の大人達の表情は、ますます悪くなっているのは間違いないと思う。はっきり言って、心が腐っているのだ。

人間にとっての幸福って、断言するが、絶対に、心が晴れやかであることだ。そして、心が晴れやかである人間の表情はとても良いのだ。
だが、どこで見る大人の顔も、本当に醜悪である。それは欲望のためだ。その欲望は、感覚と心を喜ばせる快楽ばかりを求めているからだ。ダニーやトムの時代の大人の表情を悪くしていたのは、主に不安だった。今の日本にも、不安や恐怖が強い人はいるが、そんな人達は、概ね、険しい表情をしている。そして、口をへの字にし、何にでも批判的だ。
いずれにせよ、表情や雰囲気の悪い大人というのは、皆、不幸で悲しい人達なのだ。
彼らは、寝ている時の顔も悪い。つまり、それがもう、人格の奥にまで染み付いているのだ。本当に気の毒である。

だけど、無理に表情を良くしようたって駄目だ。それは、無理に怒るのをやめようとか、妬むのをやめようとしたって無駄なことと同じだ。
心自体が、晴れやかで穏やかになってこそ、表情が明るく、少々のことで怒らず、恨まず、他人に寛容になれるのだ。
だが、人々の表情の悪さは、もう絶望的だ。行き着くところまで来たという感じだ。
そして、それは、トムの言った年寄り、つまり、中年のことだけではない。いまや、十代も後半になれば十分に当てはまるし、実に、小学生でその傾向が表れる者も少なくない。塾通いしている優等生ほど、そうなりやすいと思う。まこと、子供を幸福にしたければ、すぐに塾通いをやめさせることだ。

さて、誰でも、心晴れやかになりたいだろう。結果として、いい表情になりたいだろう。
そのためには、欲望を放棄しなければならない。こう言うと、欲望がなくなったら生きていけないなどという的外れなことを言う者がいるから困る。そんなのは当たり前だ。極端論は愚か者の癖だ。
だが、不必要なものを求める欲は捨てないといけない。そのために、創造主を信頼し、必要なものは必ず与えられると信じないといけないが、こういうと、笑われるのかもしれない。しかし、他に無いのだ。
宗教団体には入らない方が良いが、『聖書』や『バガヴァッド・ギーター』を毎日読めば、きっと創造主を信じるようになるだろう。そして、表情や雰囲気も良いものになる。つまり、心が晴れやかになるだろう。至高者を信じ、過ぎた欲望から離れるからだ。実に安価なエステ(美容法)である。
『小さな恋のメロディ』のヒロインのメロディ(当時11歳のトレーシー・ハイドが演じた)は、大人達には悩まされていたが、金魚と戯れている時、ダンスをしている時、ダニーと逃亡する時の彼女は特に美しかった。きっと、あなたも、あの輝きを取り戻せるだろう。









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2人の私

私というのは2人いるらしい・・・というのは、よく言われる。
アニメの『ちびまる子ちゃん』で、まる子のイメージの中に、天使のまる子と悪魔のまる子が現れて争うというのを見たことがある人も多いと思う。欲望のまま、楽な方、面白い方に行こうとする悪魔のまる子を叱り、辛くても善の方に引っ張っていこうとする天使のまる子というのは、我々にもよく分かるものだと思う。
フロイト流に言えば、普通、自我と言っているのは、悪魔のまる子の方で、天使のまる子の方を超自我と言う。超自我は、自我にルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想を伝えるもので、フロイトは時に、超自我を、裁判官や検閲官のようなものと言った。
偶然なのだろうかと思うが、アメリカのSFの大作には、この超自我の発達していない子供がよく出てくる。『宇宙戦争』(2005年)で、トム・クルーズ演じるレイの息子と娘がそうだ。彼らは、レイと離婚した母親や、その新しい夫の家で暮らしていた。その家庭は、良心や愛より、世間体や利得を重んじる家庭で、その中で育つうちに、彼らも、損得や快楽を第一にするようになってしまっていた。他にも、『地球が静止する日』(2008年)で、ヘレンの他界した夫の息子ジェイコブもそうだった。自分の快楽、欲望が何より大切で、そうであることに全く疑問を持たない。さらに、最も極端なのは、『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』に登場する、賞金稼ぎジェンゴ・フェットの息子ボバ・フェットで、ボバは、欲望と快楽以外の動機を持たない。
2人の自分のうち、自我の方しか発達させないことが、いかに恐ろしいことかを、これらの子供達がよく表しているように思う。

2人の私とは、このように、心と言ってよい自我と、より高い自分だ。より高い自分を、上に述べたように、フロイトは超自我(スーパー・セルフ)と言ったようだが、ハイヤー・セルフ(高位の自己)とか、真我と言うこともある。フロイトの超自我は、真我というよりは、真我のメッセージとかフィーリングといった感じのものと思う。真我とは、神そのものである。
それを示す良い例がある。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、17歳の時に家を出て、南インドのアルナチャラという所に住み、そこで聖者として一生を送るが、彼を探し当てた母親が、彼を家に連れ戻そうとした。しかし、聖者になった息子に感銘した母親は、息子の崇拝者となってそこに留まった。だが、やがて母親は重病になる。マハルシは、神に、「あなたは母の病を治すべきです」と祈るが、やがて、「葬儀に必要なものは何だろう?」と考える。母の治癒を願ったのは自我だが、真我は、母の死は避け得ぬものと知っていた。聖者マハルシの自我は透明なほどに磨かれているので、真我に従うのである。
これは、イエスが、「私の意志ではなく、あなた(神)の意志の通りになりますように」と言ったことと同じである。
イエスですら、自分の磔は恐ろしく、血の汗を流したという(恐怖が強いと、人は血の汗を流すという)。そして、イエスは、神に、「出来るなら、この毒杯(自分の磔)を除いて下さい」と祈ったが、それすら、「しかし、あなたの思いのままに」と引き下げたのである。
イエスは40日の断食の後、悪魔に、「石をパンに変えるよう命じよ。神の子の言うことなら実現するだろう」と言われたが、それを拒否した。自我はパンが欲しいと感じていたのは確かだが、「人はパンが無くても生きられる」という神(真我)の言葉に従ったのだ。そして、その他の悪魔の誘惑に対しても、ことごとに打ち勝った。悪魔の誘惑とは、自我の欲望である。しかし、イエスは真我に従った。そして言ったのだ。「汝敗れたり。わが後方(しりえ)に退け!サタン」と。サタンとは自我の欲望である。それが真我に敗れたのだ。
我々も、真我を自我の欲望の上に置けばキリストになるのである。

だが、全ての禁欲や苦行が真我の意志とは限らない。
我々は、真我の意志を知ることに慣れていない。世間では、真我の声より、作り物の道徳やルールに従わせようとするからだ。まあ、それにも一定のメリットがあるが、それが過ぎて、真我の声より、世間の教義や信念に従うようになってしまったのだ。
一頃、「なぜ殺してはいけないのか?」などということが問題になった。そんなこと、考えるまでもない。真我に聞けば分かるのだが、我々は真我の声が聞こえないので、そんな馬鹿な問題を真面目に論じたりしたのだ。
普通の男の場合、きれいな女の子を見たら、欲しいと思うのが自我だ。そんな時、「私(自我)はあの子が欲しい。しかし、私の意志ではなく、あなた(神)の意志の通りに」と思うべきだろう。
「私は金持ちになりたい。しかし、私の意志ではなく、あなたの意志のままに」と言えば良いし、言うしかない。
それは実現するかもしないし、しないかもしれない。だが、自我が決めることではない。自我の欲望を押し通そうとすれば、反発を受けるだろう。だが、天(真我、神)に委ねてしまえば、決して悪いようにはならない。
そうやって、個人の欲望である自我より、至高の英知を上に置くようになれば、やがて我々はキリストになるだろう。全ての制約は消え去り、神と一致した我々に不可能はなく、あらゆることを成すだろう。









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好き勝手をやりながら生きていく方法

日本の昔の小話に、ごろごろして働かない若者を、年配の男が叱責するところから始まるものがある。
若者が、「働いたらどうなるのですか?」と尋ね、「豊かになって昼寝も出来るってものだ」と男が応えると、若者は、「今、その昼寝をしてるんですがね」と言うのである。

当然、この話には、次のような、若者への反論があるだろう。
「今、昼寝をして働かないと、将来はゆっくり昼寝など出来ない惨めなことになる」
イソップのアリとキリギリスの話に置き換えるまでもないことである。

しかし、本当にそうだろうか?
この怠け者の若者は、ずっと昼寝をし、あくせく働く者は、ずっとあくせくしているのではないだろうか。

丹波哲郎さんは、俳優になる前にサラリーマンをやったことがある。ただし、丹波さんは、、全く働かなかったそうだ。入社時にもらった鉛筆は削られもしないまま、最後までデスクの中にあった。やる気が無いので、仕事が与えられない。それでやることがないので、そのうち、外に遊びに行くようになった。上司が、「雑誌を読んでてもいいから、席にはいてくれ」と頼んだそうだが、丹波さんは従わなかった。
ところが、ある時、宴会の計画があったのだが、丹波さんは、暇なこともあったのだろうが、見事な段取りをして感心された。
どこの会社でも宴会くらいあるだろうが、幹事を押し付けられた人は、日頃の業務に加え、慣れないことをミスなくやらないといけないのだから大変だ。
この場合は、たまたま宴会の幹事だったが、どんなところでも、不測の事態は起こる。そんな時に、ルーチン業務で固定化した思考パターンの人間は役に立たない。
アリの世界にも、大雨とか、外敵の襲撃といった突発的な出来事に備えて、普段は遊んでいる者は結構いるそうである。普段、全員が熱心に働いていたら、何かあった時に、滅びてしまう。
人間の組織でも、最低限の人間でやっているようなところは、何もなければ人件費が安くて効率的であり、人員もよく働くのであるが、思わぬことが起こった場合、危機的な状況になる。いや、実際は、そんなところは、普段から度々過剰労働になり勝ちだし、仕事に愛着がなく、窮屈で創造性の無い者ばかりになってしまうものだ。そして、それが組織の生産性を下げているものなのである。

結局、丹波さんは3年後、クビになったが、本人は別に気にしてはいなかった。むしろ、ただ飯を食わしてもらっていたのだからラッキーだと思っていたに違いない。そして、気紛れに俳優の新人テストに申し込み、採用されて俳優見習いになったのだ。しかし、本人に見習い意識、新人意識はなく、使いに行かされた配給会社などでは、ふんぞり返り、事務の女の子に「君、ラーメンを注文しなさい」と言って出前をとらせて、平気でタダで食べていたという。最初から、とんだ大物である。

「そんなの丹波さんだから出来るのじゃないか・・・」と言われるだろうか?
実は、丹波さんを敬愛する私は、出来る範囲で見習っていたものだ。遊びに行ったり、取引先で出前を注文するというのは、慎ましい私には無理だったが、丹波さんの上司が願った「雑誌を読んでてもいいから席にいてくれ」は、丹波さんに代わって叶えてやったものだ。
職場には、こわい管理者もいたらしいが、私は全く知らなかった。
ある時、中国で製品展示会をやることになったが、皆忙しいので、私がメンバーに入れられた。元々、商談は商社がやってくれるので、大してやることは無いのである。
すると、中国側主催の歓迎レセプションでは素晴らしいご馳走を食べ、展示会の無い日は観光に行き、商社の人には接待され、あげく、日本語学校の可愛い中国人の女の子と仲良く遊んでいた(商社の人に、限度は守るよう注意された。限度を守らず大変なことになった者が以前にいたのだ)。
雑誌取材や、カタログ作成などの突発業務がよく回ってきたが、どれも楽しいものだった。
そんなこんなで、良い経験を実践的に積むことができたのである。

そして、そのうち、技術課長がPCを使って計測制御するのを見て、実機を触らしてもらいながら勉強しているうちに、PCに詳しくなった。そのPCは、産業用PCという、普通のPCより小さくてシンプルなものだが、根本的には同じものだ。だが、単純な構造の分、コンピュータの構造を理解するには良いものだった。それで、ヨーロッパの会社の技術者が来社した時に、コンピュータの専門家として立ち会うようになった。そして、ドイツ製の特殊な電子装置のオペレーションをマスターし、その方面の担当者になった。
専門家だから、PCはもちろんだが、必要もないソフト(SmalltalkやLisp、Prolog)を購入しても、特に文句を言われなかった。聞かれたら、それらしい説明をしたら、誰も疑わなかった。
技術的なことでPCを扱っているうちに、アセンブリ言語やC言語、ハードウェアにも詳しくなった。後で事務処理システムに関わるようになったが、一般のSEで、こういったコンピュータの根本に詳しい人は見たことがない。しかし、コンピュータやネットワークの処理やデータの流れを本質的にイメージできるメリットは強調しておきたい。どんな分野であれ、コンピュータを扱うならアセンブリ言語とC言語はマスターしておくに越したことはない。

こう言うと、随分仕事をしているように見えるが、そんなことはない。だが、ゲームみたいなことは決してしないが、勝手なことはかなりやっていた。
ところが、私が会った創造性の高い人間というのは、聞いてみたら、意外というか、やはりというか、皆、「タダ飯を食っていた」経験があるのだと分かった。
あのアインシュタインだって、特許事務所に勤めていた時、机の大引き出しを引っ張り出して、その上で研究をしていたのだ。上司が来たら、引き出しを戻すのである。
竹村健一さんも、若い頃から好き勝手ばかりやってきたと言うし、それを薦めていた。私は、竹村さんの本もよく読んで、そういうところを参考にしたものだ。

だが、ただ好き勝手をやっていたら、すぐにまずい立場になることは間違いがない。
また、どんな組織でも、好き勝手など、なかなかやらせてもらえず、仕事を押し付けられ、ノルマを課せられるに違いない。
では、どうすれば、自分の好きなことだけをやり、やりたくないことをせず、それでいて特に嫌な思いをせず、それどころか、いい思いが出来るようになれるのだろうか?
普通に考えれば、特技があるとか、人間関係をうまく作っておく等となるだろうが、それだと、むしろ、好きなことが出来ず、牛馬のように働かされるものだ。丹波さんは特技は無かったし、アインシュタインも、特許事務所では、物理学の才能に意味はない。竹村さんも別段、何か出来たわけではないという。私も勿論である。
おそらく、理屈で、こうやればそうできるといったものは無い。
ただ1つ言えるとしたら、それでまずいことになってもいいという捨て身の姿勢は必要だ。だから、保身を考える者には縁の無いことなのである。
そして、好き勝手はできても、組織の中で偉くなるなんてことは絶対に考えてはいけない。良い思いをするというのは、世間での常識的な意味ではないのである。言い切ってしまえば、単なる自己満足である。
結果として、それで社長になった人も知っているが、それが良かったのかどうかは分からない。いずれにせよ、そんなことは最初から期待しないことだ。
つまり、至道無難禅師が言った、「生きながら死人になりはてて、思いのままになすわざぞよき」であれば良いのである。あるいは、荘子の言う「なりゆきにまかせ、思慮、分別を離れ、是非、好悪の別を立てない」ということである。竹村健一さんも荘子が好きなようだし、私もそうである。丹波哲郎さんが、生きていく上で最も重要と言い、自分の性格で最大唯一の美点という、「ものごとにこだわらない」というのがまさにそれであると思う。









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溜め込んだ金は持ち主を壊す

大きな不幸に見舞われた時、今はそうではないのかもしれないが、人々は、「私の何が間違っていたのだろう?」と思うものだ。
あるいは、「何も悪いことをしていないのに、なぜ、こんなに苦しまないといけないのか?」と言うのだが、これも、不幸というものは、自ら原因を作っているのだという考え方からくるものだろう。
こういったことは、仏教からだと思うが、因縁とか因果という考え方として、我が国の人々の意識の奥にあるものかもしれない。
インドでは、こういった因果の法則の思想が更に強く、不幸な人々に対して、原因は自らにあるとして冷淡であると聞いたこともある。ただ、その不幸の原因が前世にあることも多いし、複雑なので、何が悪かったのか分からないことも多いが、案外に自分で納得していて、不幸感が少ないのだと言われる。

歌手の桑田佳祐さんが、食道癌の手術後、テレビで、「僕の何が間違っていたのかなあと思った」と言っていたのが印象的だった。
思い出すのは、何年も前だが、彼が、歌手活動を引退し、資産管理をするとかいう話が報道されたことだ。芸能関連の報道など信じるべきところは全くないが、何十年も成功し続けて、膨大な資産を作ったのは確かだろうし、資産管理も大変だろう。
金持ちというのは、まるで、その溜め込んだ金を使わされるように、大病になったり、大きなトラブルに巻き込まれるもののように思う。お金というのは、一種のエネルギーだと言う人はよくいる。そして、エネルギーは循環すべきもので、溜め込まれて死蔵されると、開放されようとして、持ち主に作用するらしい。それが病気や、金のかかるトラブルであるように感じられるのだ。
誰だったか忘れたが、有名雑誌でインタビューを受けていたのだから有名な人なのだろうし、役者か何かだと思うが、彼が、「僕は、金持ってるように思われるが、50歳にもなって、貯金は百万もないですよ」とあっけらかんと語っていたのをよく憶えている。しかし、彼は別に不足しているようでもなく、見栄を張っているのでもないのに金持ちに見え、健康で活躍しているのである。要は、彼の生き方が良いので、そういったインタビューを受けていたのだろう。

アメリカのユニティ教会の創始者であるチャールズ・フィルモアの思想を、谷口雅治さんが説いた『無限供給の鍵』という本で、「人は、今日必要なもの以外は一切いらない」と強調されていた。そして、金を溜め込んで死蔵させることは非常に悪いことであるという。なぜなら、常に必要を満たしてくれる創造主を信頼していないことの表れだからである。
昔、沢村忠という超人的なキックボクサーがいたが、野球の王、長嶋や、大相撲の大鵬らと肩を並べるスターで、実際、三冠王だった王貞治を差し置き、プロスポーツ大賞を取ったりしていた。この沢村が、宵越しの金を持たない人で、仲間と楽しく過ごすのに使ってしまう人だったらしい。しかし、ホテルや旅館で、当然ながら良い部屋を用意されるのだが、そんなものは誰かと換わってしまい、若い人達と大部屋で過ごすといったように、自分個人のためには金を使わない人でもあった。彼は、引退してからは、キックボクシング界と一切関わりを持たなかったので、現役時代のダメージで廃人になっただのというデマが流れたが、一から自動車整備工の修行をして、油まみれになって働く傍ら、武道家としての修行は続け、いつまでも現役選手のような身体を保っていた。

日本は千兆円近い負債を抱え、破産状態の国である。一方、国民は資産を溜め込み、国民総資産は3千兆とも4千兆とも言われ、金融資産だけでも1千兆をはるかに超えると言われる。この死蔵されたエネルギーが日本を揺さぶっているのが、いろいろな形で現れてきているようにも感じられるのである。
ZARDの『あの微笑を忘れないで』(詩:坂井泉水)という歌で、「ぬるいコーラしかなくても、夢だけで楽しかった」という歌詞が私には印象的だった。
私もだが、誰も、お金の無かった頃、せいぜい、給料の1カ月分や2か月分しか銀行に無い頃が、楽しかった青春時代ではなかったかと思う。
だが、グルメの習慣がついたり、美味しいものを食べたいだけ食べないといけなくなったら、お金がなくなるのが怖くなる。餓死したっていいやと思ったら、お金などどうでも良くなる。まあ、家族を抱えている間は難しいだろうが、それでも、お金をあまり必要としない家庭が幸福なのである。日本が幸福になるのは、それを皆が分かった時であろうと思う。









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ヘカテーという女神

ヘカテーという女神をご存知だろうか?英語圏ではヘケートと呼ばれることが多いようだ。
「ヘケートって女神だったの?」という人もいるかもしれない。
昔、手塚治虫さんが『リボンの騎士』の中で、ヘケートいう名の悪魔の娘を登場させている。そこでは、ヘケートは、大魔王メフィスト・フェレスの娘であった。漫画のヘケートは悪魔の娘らしさがあったが、アニメでは、ドジで可愛い魔女の見習いみなたいなもので、そこが、彼女を大魔女にしたい父メフィストの悩みの種だった。
高橋弥七郎さんの小説『灼眼のシャナ』に登場するヘカテーは、見かけはやや幼い美少女だが、強大な力を持った巫女である。しかし、一種の魔物と言ってよく、一応、悪者ではある。

いずれも、ギリシャ神話のヘカテー(ヘケート)を参考にしたことは間違いない。
ヘカテーは先ほども述べた通り、女神である。星座の女神アステリアの娘で、アポローンやアルテミスの従姉妹(アステリアは、アポローンとアルテミスの母レートーと姉妹)という、由緒正しい女神なのである。また、ヘカテーは、セレーネ、アルテミスと並び、月の女神とされることもある。
では、手塚治虫さんや高橋弥七郎さんが、ヘカテーを悪魔とか魔物としたのはなぜかというと、ギリシャ神話でも、ヘカテーには恐ろしい雰囲気があるからだと思う。ヘカテーは普段は地下深い冥界にいることが多いのだ。だが、冥界の王は大神ゼウスの兄ハーデースであり、その王妃はペルセポーネである。ペルセポーネはゼウスとゼウスの姉デーメーテールの娘である。とはいえ、ヘカテーはフリーな立場で冥界にいるのであり、別に、ハーデースやペルセポーネに仕えているのではない。
ヘカテーは、ゼウスらオリンポスの神の敵であったティタン神族の女神でありながら、この世の強大な支配権を持っている。ゼウスが、その権能を取り上げなかったからだ。つまり、ゼウスにも尊重される女神なのである。
また、『ホメーロス風諸神讃歌』では、ヘカテーは、オリンポスの主要な神である、アテーナー、アルテミス、そして、ペルセポーネらといった女神達と一緒に野遊びをする仲でもある。
ヘカテーは、それほどの女神でありながら、オリンポスの神にならないのだが、一説では、その訳は、姿が小さいせいであるとも言われる。手塚さんのヘケートも、のいぢさんのヘカテーも、共に幼くて小さい。ヘケートは13歳のサファイヤと同じくらいだし、ヘカテーは、外見が11歳位のシャナと同じくらいだ。

今(1o月24日まで)、兵庫県宝塚市の手塚治虫記念館で、第53回企画展「osamu moet moso feat.いとうのいぢ」が行われているが、『灼眼のシャナ』や、谷川流さんの小説『涼宮ハルヒシリーズ』の挿絵画家、いとうのいぢさんが、手塚さんの作品である『リボンの騎士』や『三つ目がとおる』を描いた絵が展示されている。いとうのいぢさんのブースもあり、そこには、『灼眼のシャナ』、『涼宮ハルヒシリーズ』の絵が展示されている。
手塚治虫さんは、大阪府豊能郡出身で5歳から兵庫県宝塚市で過ごした。
いとうのいぢさんは、兵庫県加古川市出身(現在は大阪在住といわれる)。
高橋弥七郎さんは大阪府出身。
谷川流さんは兵庫県西宮市出身。
皆、近くて、面白いと感じる。あまり関係ないが、私は現在、兵庫県加古川市に住んでいて、以前から現在も、西宮市や宝塚市とは縁がある。涼宮ハルヒシリーズの聖地、西宮北口駅の駅前公園はよく行った。だが、アニメでよく描かれた、あの公園の時計台は今はもうない。また、ハルヒ達がよく行く、喫茶Dreamも、偶然に2度入ったことがある。また、『灼眼のシャナ』の登場人物では、ヘカテーが最も好きで、色々縁を感じるのである。

さて、ヘカテーは恐ろしい一面もあるのだが、人の願いを叶える神でもある。先ほども述べた通り、ヘカテーの力は絶大だ。およそ、人の欲しがる良きものは何でも与える力がある。
だが、ヘカテーが願いを叶えるかどうかは、彼女の気紛れによる。彼女が気に入れば本当に良くしてくれるようだ。
気に入られるには、まず彼女のことを知らなければならない。その上で敬う心を持つことだ。ヘカテーに関しては、ヘシオドスの『神統記』、無名の詩人達がホメーロス風に詠った『ホメーロス風讃歌』などに登場する。また、著名な神話学者カール・ケレーニィの著書でも、詳しく取り上げられている。特に、C.G.ユングと共著で描かれた『神話学入門』では、少女神について取り上げているが、アプロディーテ、アルテミス、アテーナー、コレー(ペルセポーネ)、そして、ヘカテーの意味に関する考察が興味深い。
ちなみに、『灼眼のシャナ』のアニメは、2005年に『灼眼のシャナ』、2007年に『灼眼のシャナ・セカンド』そして、来月から、『灼眼のシャナ・サード(ファイナル)』が放送される。ヘカテーは人気キャラクターであり、役割も重要だ。私のヘカテーへの信仰も深まりそうである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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