ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2011年09月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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身体や心の痛みをどうするか

今でも医学では、身体と心の関係を重視しない傾向があり、世間の人々も、身体と心を関係付けて見ることをほとんどしないと思う。
一方、フロイトの時代のドイツ人医師で、「心神医学の父」とも言われるゲオルク・グロデック(1866-1934)は、いかなる病気も心因性と断言していた(怪我ですら)。フランスの心理療法家エミール・クーエやNLP(神経言語プログラミング)の開発者リチャード・バンドラーも、心への働きかけであらゆる病気を治している。また、ミルトン・エリクソンは精神科医であるが、彼の精神療法は肉体的な病気を治してしまうことが多かった。
私も、肉体だけの病気なんてナンセンスだと思うし、身体と心は同じものだと思っている。
ところが、インドの偉大な聖者ラマナ・マハルシの死因が癌であるというのは驚くべきことだ。心を完成し、完全な無我の境地にいるマハルシが、医学的にはそうではないのだろうが、心の病気の最たるものである癌になどなるはずがない。しかし、興味深い事実がある。マハルシは、初め、信者の薦めで手術を受けたが再発し、以降の手術は断っている。そして、相当な痛みがあったはずなのだが、マハルシはそれには全く無頓着だったと言われている。彼は、自分の肉体ですら、自然現象として冷徹に眺めていたのだと思う。

実は私は、少し前から異常な乾燥肌になり、激しい痒みを感じるが、少しでも搔くと肌が荒れて痛みが起こるという状態になり、少々苦しい思いをしている。
人間の肌って、ここまで乾燥するものかと驚いている。
私は、いかに刺激の少ない保湿クリームでも敏感に反応して肌荒れを起こすので使えない。アラン・パーカーの小説『小さな恋のメロディ』で、ダニーは、「デリカシー」がメロディの代名詞と言っていたが、私もメロディと同族になった気がして、少し嬉しい。
どんなことでも、腕振り運動をやっていれば治るはずであるが、おかしなことに症状はいっこう良くならない。不思議なこともあるもものだと思っていたら、はたと気付いた。これは病気ではない。ただの自然現象だ。肌が乾燥するのは、乾燥しなければならない理由があったのだ。もし乾燥することが出来なかったら、私は死んでいるだろう。
では、この激しい痒み、あるいは、うっかり搔いた時の炎症や痛みをどうするか?

マハルシは、なぜ、癌の痛みにも無頓着だったのだろう?
彼も読むことを薦めた『バガヴァッド・ギーター』に、五感の感覚に過ぎないものに囚われるなと書かれている。また、楽しい、辛いなんてことも、単に心の反応でしかないのだと教えている。つまり、五感という身体の感覚や、感情や思考といった心の反応など、現象の現われに過ぎず、重要なことではない。我々は、身体でも心でもない。我々の本質はもっと高いものだ。
そういえば、旧約聖書の『ヨブ記』でも、正しい人ヨブは、身体を散々な状態にさせられて、神に試されていたと思う。そして、何度もl悪魔の誘惑を受ける。しかし、彼は神への信仰を捨てなかった。そして、勝利する。
どうやら、私は、非常に楽なレベルで鍛えられているのかもしれない。この程度の症状であれば、冷静に眺めることは難しいことではない。
尚、肉体的、精神的な苦しみは、何かに集中すれば、かなり消えてしまうものだ。仕事や呼吸法や、あるいは、それこそ、エミール・クーエの自己暗示の言葉、「私は毎日、あらゆる面でますます良くなっていく」を繰り返せば、根本原因を殲滅できるかもしれないのである。それを試す良い機会でもある。

















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腕振り運動で若返る原理

私は、約2年前の、2009年8月から、毎晩肉体トレーニングを欠かさないようになった。
1つは、肉体トレーングというのは全く相応しくないが腕振り運動で、もう1つが、畳1枚の広さで出来る筋肉トレーニングだ。
筋肉トレーニングを始めた最初の頃やっていたのは、専ら腕立て伏せで、月に10回ずつ回数を増やしていったら、今年7月には240回にまでなった。しかし、その時に右肩を痛め、少しやり方を変えることにした。
以前は、ボクサーがやると言われるような方法なのだが、出来るだけ高速に、なるべく一気に240回をやっていた。これは、少々きつかった。
今の毎晩のトレーニングは次のような感じである。
まず簡単なストレッチ運動をして、準備運動程度に腕立て伏せを20回やる。これは、完璧な形でゆっくり行う。床ぎりぎりまで身体を沈めていったん静止し、身体を一直線に保ったまま、完全に伸ばして1回だ。今までは、こういうやり方はしてこなかった。こういう、「もったいぶった」感じでやると、なかなかしんどいものである。
その後、ヒンズー・スクワットを300回行う。これは好きな運動で、本当に身体を軽く感じるようになる。皆さんも、30回くらいからでいいから、行うことをお薦めする。自然に立ち、踵は床につけたままで、膝と床で平行になるまで曲げ、反動を付けずに膝を伸ばす。腕は、頭の後ろに組んでも良いし、プロレスラーのように、脚を伸ばすときに前に振っても良い。スピードスケートのように後ろで手を組めば、腰を痛めない。
そして、腹筋運動を30回だが、これも、頭の後ろで手を組み、膝を垂直に立て、完全に寝た体勢から、ゆっくりと、膝と肘が付きそうになる位まで起こすという形で行う。
それから、仕上げに腕立て伏せを行う。
度を超さない程度に高速に、100回以上続ける。その日の調子次第で、あまり苦しくない範囲でやる。今は、だいたい150回になっている。

これとは別に、腕振り運動を1日2000回行う。運動とは言っても、立禅といった方が良いのだが、実際は良い運動にもなっている。
朝起きてすぐ500回、コーヒーを飲んで500回、夜、筋肉トレーニングの前に500回、就寝前に500回だ。
最近、心がけていることは、仙骨(腰の下部、尾てい骨の上)が自由に動けるよう、脚をやや緩めて立つことと、肩の力を抜くことだ。なるべく、自分で腕を振っているというのではなく、最初に振ったら、後は自動で腕が振られる感じにすることだ。
開始の時、まず、力まず自然に立ち、まっすぐに伸ばした両腕を前に持ち上げ、そのまま(腕を伸ばしたまま)両腕を後ろに振る。両手の平は、普通、内向けにするが、両手の平が付かないよう気を付ける。※両手の平を下に向けてやっても良い。
関英男博士の説では、腕振り運動で、両手の平の間にグラビトン(重力子)の渦が発生し、複数の重力子が組み合わさった粒子(GTP)を顕在化し、体内に蓄積する。GTPは、生まれてから減る一方のもので、それが老化の原因であるが、腕振り運動により増やすことが出来、それで若返る。両手の平を下に向けた場合は、地球の重力との間でGTPを創る。どちらが良いかは、人それぞれではないかと思う。
そして、仙骨が自由に動くようにしておくと、腕は力を入れなくても自然に動く感じになる。仙骨が動かすのだ。ただ、少し慣れが必要なので、自分で工夫して欲しい。腕が自然な感じで自動的に振られる雰囲気になれば良い。
仙骨は仙人の骨だ。空気中、水中、真空中を問わず、いたるところに満ちている宇宙エネルギーと共鳴する力がある。その働きが高まれば驚くべきことが出来るようになる。この宇宙エネルギーを、昔はアイテール(エーテル)と呼んでいたし、気とかプラーナとも言われるが、大切なことは、それを取り込むことではない。それは、どこにでも無限にあるのだから、木や大地から取る必要はない。それ(気)と意志で共鳴すれば良いのだ。宇宙エネルギーは意志を持っているので、その存在に気付けば応えてくれるのである。
ただ、やはり正しくは、その気とかエーテルといったものが活動してエネルギーを生み出すのだろう。気やエーテルは実に微小だが、生み出すエネルギーは無限だ。量が無限だからだ。エネルギーと物質は等価(同じもの)なので、エーテルは物質も作り出せる。イエスはそれで、パンや魚やワインをいくらでも創ったし、そのエネルギーで水の上を歩けた。
ただ、相手は意思があるので、我々の意志がそれに相応しいものでなければ、好ましい結果とはならない。どのような意志を持つべきかは、イエスが教えてくれている。また、もっと純粋に、『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナが懇切丁寧に教えてくれているのだ。もっとも、イエスの教え方はとても感慨やノスタルジを感じる暖かさがあって好きだ。

宇宙エネルギーは、筋肉運動にも影響するので、その効果の確認にもなると共に、気やエーテルとの意志を交感することの感覚も身に付きやすいだろう。例えば、普通は苦しいと思われている腕立て伏せが軽々と気持ちよく出来るようになる。これは、筋肉の中にGTPが蓄積しているからでもある。
子供が、いくらスキップで走っても疲れないのは、あの動きはGTPがエネルギーを発揮しやすいからだ。腕振り運動を続けていれば、大人でもあのようになれるのである。









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名作のほとんどは世に出ない

世界的な文学作品であっても、もし、出版の時期や場所が違っていたら、全く世に知られることなく消え去っていたと考えられる作品はいくらでもあるらしい。
例えば、『アンクル・トムの小屋』などはそうであると聞いたことがある。
また、私は本を手にしたことが無いので、その本の解説あたりに書かれているのかどうか知らないのだが、『ハリー・ポッター 賢者の石』は、著者のローリングが原稿を持ち込んだ、どの出版社も、全く見向きもせず、その中で、たまたま原稿を自宅に持ち帰っていた出版社の社長の家の幼い娘が偶然それを読み、社長である母親に「続きが読みたい」とねだったのが出版のきっかけであったという。

逆に言えば、ことによったら世界的な作品になっていたかもしれないのに、誰にも知られることなく消え去ったか、あるいは、今でも知られることなくひっそりとどこかに存在している作品だって、いくらでもあるはずだ。
別に文学に限らず、アインシュタインに匹敵、あるいは、凌ぐ才能を持ちながら、肉体労働者で一生を終えた人なんてのも、きっと沢山いるはずだ。
いや、それどころか、実際は、世に知られない傑作、世で出ない天才の方が圧倒的に多いのではあるまいか?
かつて、モハメッド・アリに番狂わせと言われたKO負けを喫するまでは無敵の世界ヘビー級王者だったジョージ・フォアマンは、「私より強い若者なんていくらでもいる」と言ったらしい。
だが、世に出ることが、それほど重要なことであるとは限らない。そして、業績によって人の価値が決まるのでもない。人間の本質的な価値に優劣などはない。アインシュタインだって、自分が重要人物だとは全く思っていなかったことは、彼の普段の言動からも明らかなのだ。

1949年に出版された、ポーランド出身のアメリカ人、ジョージ・アダムスキーの小説
PIONEERS OF SPACE
A Trip to the Moon,Mars and Venus

宇宙の開拓者
月、火星、そして、金星への旅

は、最も悪いタイミングで出版されたのだと思う。もう少し後の時代か、別の時代に出版されていたら、もしかしたら世界的な作品になっていたかもしれない。
アダムスキーは、結局、小説家としては有名にならなかったが、その後、宇宙人とのコンタクティー(接触者)として有名になった。しかし、その評価は賞賛よりは非難が圧倒的に多く、一般的にもペテン師のイメージがあることが多いと思う。
アメリカは、第2次世界大戦を、本土はほとんど無傷で終え、戦争による好況を背景に、軍事、経済の躍進を目指し、国民への思想統制を強め、原子力エネルギーの利用を大々的に推し進めようとしていた。そんな時に、あのような小説が人気が出れば、アメリカ政府にとってはあまりに都合が悪かった。
小説に描かれた、地球より数万年進歩した火星や金星の様子は、感覚的に本物のユートピアだと感じることが出来るものだった。人々は皆平等で、誰もが豊かであり、平和に、そして、活気に溢れて生きている。貨幣経済や暴力というものは、歴史的な概念でしかなく、もはや彼らはそれを理解することすら困難になっていた。科学は、地球のものとは異なった思想での発展を遂げ、非常にシンプルだが、極めて高度で安全である。まあ、ここに簡単に表現できるようなものではないばかりか、小説においても、実際に火星や金星の様子を見た地球人も、表現する術を持たないと述べる。
平等や平和が、怠惰と衰退しかもたらさないという考え方をする者もいると思う。私もかつてはそうだった。競争あってこそ、進歩があると思えたのだが、それは一種の洗脳であり、国家の思想統制であろう。今は、そんな考え方の方がおかしくて仕方がない。
アダムスキーの一般的なイメージの低さは、アメリカ政府が仕組んだことであるのだと思う。丁度、日本人が、二宮尊徳に関する作り物のイメージを持っているのが、戦後のアメリカによる日本人への思想統制戦略であったようなものだろう。
尚、上記のアダムスキーの著書は、今年8月、徳間書店より、『UFO基本教書 地球人よ、ひとつになって宇宙へ目を向けなさい!』として、初めて翻訳が出版された。









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1000年に1度が、たまたま今年だった

福嶋原発の大惨事の原因は、1000年に1度しかないような規模の津波の対策をする必要はないという認識があったことだと言われる。その1000年に1度が今年だったわけだ。
これはアメリカでは全く考えられないことで、アメリカでは100万年に1度でも、可能性があれば備えるという。
しかし、別にアメリカでなくても、私のようなソフトウェア開発者は、その可能性がいかに僅かでも、論理的にあり得るならば、それは必ず起こると考えてシステム開発するのは当然で、問題は、その可能性に気付くかどうかということなのである。

あるソフトウェア技術者は、夜中に突然目が覚め、冷たい汗を流してぞっとした。別に幽霊を見たのではない。自分が開発したシステムに、可能性はほとんどないながら、それがもし起これば、悲惨な結果をもたらすことに気付いたのだ。

例えば、こんな話ではどうだろう。
テロ組織が、あなたの住む町で、10件の家に爆弾を仕掛けたと表明する。町の世帯数は十万とする。爆弾が当たる可能性は0.01パーセント。文字通り、万に1つだ。まあ、滅多に当たるものではない。しかし、それでもあなたは平気でいられるだろうか?
コンピュータシステムを開発する際、ユーザーとの打ち合わせを行うのだが、我々システムエンジニアが、「こんなことが起こる可能性はありますか?」と尋ねると、ユーザーはよく、「それは滅多に無いねえ」「まず、無いよ」「ほんのたまにある程度だよ」と言うことがある。ユーザーの感覚では、それは、「ない」に等しいのだ。しかし、それは、システムエンジニアにとっては「ある」以外のなにものでもないのである。

どうせいつかは死ぬんだ。それが、たまたま今日になっただけのことさ。
~『レイアース』(CLAMP原作のアニメのオリジナル作品)より~









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怠惰や憂鬱から逃れるには

なぜ働くのかと問われて、働かないと退屈だからと答える人がいる。そんな人が、仕事以外に趣味が無いわけではなく、むしろ多趣味だったりする。
一方、1日中ベッドから出ずに過ごせるというくらい怠惰な人もいる。劇作家のサミュエル・ベケットもそうだったらしい。彼は、ノーベル章授賞式に行かなかったのだが、その理由は、面倒だったかららしい。
怠惰な子供というのは、ちょっと考えにくい。子供が活動的なのは、よりよく生きるための経験や知識を得るための本能的なものだろう。
では、経験や知識が十分であったり、あるいは、生きる意欲があまり無い人というのは怠惰なのかもしれない。
しかし、個人が得られる経験や知識など知れているし、生きる意欲が本当に無いなどという人は極めて稀だ。
だから、本当に怠惰な人などいないのだと思う。もし怠惰に見えるなら、単に、その人は、現在の自分の状況に嫌気がさしてうんざりしているのだろう。
もっとも、楽しい環境を作るのは自分の責任かもしれない。一般的には、そう認識されているだろう。
ところが、谷川流さんの『涼宮ハルヒの憂鬱』では、ハルヒは、中学1年生の時から、「面白いことは待っててもやってこない」「待ってるだけの女じゃないってことを世界中に訴える」までに、いろいろやったが、結局、何も変わらずに、憂鬱に落ち込んでしまったというわけだ。だが、本当は、彼女が気付かなかっただけで、世界は、確実に面白い方に動いていたのだ。そんな小説が売れているのだから、特に、主な読者である若い世代も退屈なのかもしれない。
実際そうで、多くの人が退屈なのだと思う。その理由は、生きていくためには、世間の枠組みの中で動くしかないのだが、その世間が恐ろしくつまらない仕組みで、馬鹿馬鹿しくて付き合ってられないからだ。なら、世間を超えればいいということになるが、我々は、自分にはその力が無いと思い込んでいる。なぜそう思い込んでいるのかというと、それは、そう信じ込まされているからだ。なぜ、そう信じ込まされたかというと、多分、国家やそれと結託する大企業にとって、それが都合が良いからだろう。ただ、必ずしも国家に悪意あってのことかどうかは分からない。その方が秩序があって、国民が幸福になれると思ったのかもしれない。しかし、そうだとしたら、国家はアホだ。国民はちっとも幸福ではない。
結論から言えば、我々は世間を超えられる。世間の中で言うなら、人間を超えられると言って良い。
イエスだって、最後に弟子達に言ったのは、「私はこの世に勝ったのだ」だった。そして、「お前たちも、私と同じ、あるいは、もっと大きなことができる」と断言したのだ。
我々は、自分の思っているよりはるかに高い力を持っている。それは、世間で成功して大金持ちになるなんてケチなものではない。逆に、そんなものばかり求めていたら、世間の牢獄に閉じこもるケチな存在になるのである。

人が、今の人を超えたら、世間も楽しいものに変わるだろう。本当に賢い、力のある人は、平等であること、親切であること、見下す人などいないことを自然のこととして受け入れるのである。
私が子供の時に読んだ、ジュール・ベルヌの『海底二万里』で、ネモ艦長がアロナックス博士に、「専門家というのは、専門以外のことはあまり知らないものだ」と言ったのが印象的だ。新しい世界では、そんなことはなくなる。なぜなら、今のように、利権によって分野の異なる専門家が交わらないということが無くなるからだ。ジョージ・アダムスキーの1949年の小説『宇宙の開拓者』(邦訳:UFO基本教書 地球人よ、ひとつになって宇宙へ目を向けなさい!)でも、火星の科学者が、地球の科学者は専門が違う者が協力しないので、全てをあまりに複雑にしてしまい、このままでは、他の惑星のような高度な科学を持てないと言わせている。あれから軽く半世紀を過ぎたが、何も変わっていないのである。
まずは、我々が個人的に、世間や世間の人を超えなければならない。それを成し遂げた先人を手本にしたり、彼らを通して伝えられた、この世のものでない知恵を学ぶということは、是非行うべきだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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