ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2011年09月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

苦しみに耐えること

風邪をひくと風邪薬を飲んで、熱を下げたり、咳を止めたりする。頭が痛いと頭痛薬を飲み、腹の調子が悪いと胃腸薬を飲む。
そんなことが当たり前になっている。
しかし、我々の身体は進化の極みに達した超高性能システムであり、いかなるコンピュータもバイオテクノロジも足元にも及ばない。
その身体が熱を出したのなら、熱が必要な理由があったのに違いない。例えば、殺菌の必要だとか、代謝速度の高速化を促すためとか、汗を出して不要なものを排出するためである。実際、重い風邪をひいた人が、特に治療もしなかったのに、汗をかいたら治ってしまったという話はよくある。私も、少し前、何かのウイルスのせいだと思うが、ひどく胃腸の調子が悪いとき、不意に高熱を発し、汗が滝のように流れたら、次の瞬間にすっかり治ってしまったことがある。

身体が、必要があって出した熱を、薬で無理に下げてしまったら、身体が調整しよとしたことが行われず、困ったことになるのではないだろうか?
特に、今は、発熱は点滴でほとんど確実に下げられるので、熱があっても、点滴をうって会社や学校に来る人も多い。
しかし、熱が出れば休むしかない。こう言えば、「何を甘いことを言うのだ。熱ごときで休んでいては、ライバルに勝って志望校に受からない。社会人ならそもそも失格だ」と言う者は多いだろう。しかし、それで言えば、熱を出す原因を作るのが悪いのである。そして、熱が出てしまったら、その原因に気付かないといけない。そのためには、休んだ方が良い。
私は、この3年ほどは、ウイルス感染のような場合は別として、一度も平常以上の熱を出していない。今はどんな薬も飲まないが、薬を飲んでいた頃は、1ヶ月に1瓶の風邪薬を消費するほど風邪をひいていたが、やはりこの3年は一度もひいていない。腹痛も同様だ。

だが、少し前から、少々苦しい目に遭っている。
肌が異常に乾燥し、激しい痒みがあるが、掻くと肌が荒れて痛む。
アトピーはずっと前に克服したし、症状からいえば、乾癬(かんせん)という肌の病気と思う。
ところで、乾癬でネット検索しても、有効な対処法は得られない。例えば、食事では、納豆が改善に有効と言う人もいれば、納豆は厳禁だと言う人もいる。
そして、もしかしたら、有効な治療法を知っている人もいるかもしれないが、無料では教えないようだ。
とにかく、カサカサに乾燥し、表面が白くなるほどだ。風呂は駄目だ。上がってしばらくしたら、肌はコンクリートのようになり、なんとも言えない痛痒さに苦しめられる。そこで、まずシャワーを最初はぬるい湯で、そして、冷水にと変えて浴びるのだが、それでも、やはり硬く乾燥してしまう。
掻いてはいけないと思っても、おそろしいまでの痒みに、ついつい掻いてしまい、肌はボロボロだ。
あまりに苦しいので、ついつい、家にあった痒み止めの軟膏薬を塗ったら、これが良い感じだった。保湿成分が入っているらしく、肌が潤うし、痒みもある程度止まる。つい喜んで、全身に塗って眠り、朝、また縫った。そして、会社に行って帰宅する頃には、最悪の状態になっていた。シャワーでぬるま湯をかけただけでヒリヒリする。しかし、なんとか軟膏薬を洗い流した。
だが、しばらくすると、また、乾燥と痒み、そして、痛みが襲ってきた。
私は決意した。どんなに苦しかろうと、耐えてみせようと。地獄に落ちたら、どうせ逃れようが無いのだ。良い訓練である。

昔、アントニオ猪木さんとラッシャー木村さんとの試合で、怪我をしていた猪木さんの脚を、木村さんが執拗に攻めてきた。これは卑怯ではなく、プロレスでは当然の戦法で、むしろ、それをやらないと相手をなめていることになる。
苦悶してのたうちながらも、猪木さんは、「もっとやれ」と木村さんを煽る。これは凄かった。超人的な精神力だ。石川五右衛門は、かまゆでになりながら、「ぬるいぞ!もっと熱くしろ!」と大見得を切ったという話があるが、やはり男はこうでなくてはならぬ。
私の痒みに対する態度もこれでいこう。
いずれにしろ、原因は私にあるのだ。
近藤真彦さんのミリオンヒット『ミッドナイト・シャッフル』(作詞は沢ちひろさん)の中に、「罪もないのに苦しんでいる。その心切なく、俺を呼び続ける」という歌詞があるが、原因もないのに苦痛があったりしない。まあ、私に関しては、思い当たることだらけである。しかし、現象として現れたからには、もう終わりである。ならば、二度と同じことが起きないよう、学ぶべきことは学んでおこう。そのためには苦しみも必要だ。

頭痛や腹痛になったり、風邪をひくと、すぐに薬や医者に頼る者が多い。
早く苦しみから逃れたいのだろう。だが、自分が原因を作っているのだから、苦しんでおいた方が良い。それで原因を絶つと、もう二度と同じことは起こらない。
逆に、いつも苦しみを逃れていると、次はもっと強い苦しみになるだろう。そして、最後のものは、あまりに過酷なことになるだろう。
もちろん、薬や治療が全部悪い訳ではない。しかし、耐えられるものなら耐えた方が良い。まして、たかが学校や会社など、休んでしまえば良い。それで困ったことになるなら、遅かれ早かれ、あなたはそこに居られなくなるだろう。なら、早めに脱出するのも手ではないだろうか?
そして、我々には究極の秘法、腕振り運動がある。
私も、一昨日から、普段より多い3000回を励行している。症状ほど辛くはなく、気分はいたって明るいのである。10年以上経っても治らないことが珍しくない乾癬もすぐに克服するだろう。
また、苦しい時にこそ、念仏や呪文を使えば良いし、祈る気にもなるだろう。どうにもならない時、思わず口をついて出る念仏、あるいは、祈りこそが本物なのだ。









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瞑想の危険性

私は、以前、インドのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーが普及させた瞑想法であるTM(超越瞑想)を熱心に行っていたことがある。
TMは、当時で、世界中で450万人が実践していたと言われ、我が国でも、経済界や芸能界、スポーツ界の大物達が行っていることが知られていた。
海外では、ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、デビット・リンチらは、自身が実践するだけでなく、普及活動も熱心に行っている。クリント・イーストウッドも熱心な実践者であることが知られている。

TMは、朝と夜、食事前に20分行うのが正統な方法らしい。私もそうしていた。
ただ、当時、私は猛烈に働くソフトウェア開発者で、朝は7時にオフィスに入り(他には誰もいない)、夜は深夜0時まで働いていた。実に、土日祝日も関係なく同じようにやり、休みは1日も取らなかった。別に誰かがそうしろと言った訳でもなかった。もちろん、そのままの勤務が事実とされれば労働法に触れるのだが、私は、8時に出勤して5時に帰っていることにしていた。仕事は個人的な知り合いの開発会社の社長に回してもらっていた。

そんな訳もあり、私はTMを朝も夜もオフィスで行っていた。
朝は7時過ぎ、夜は午後10時半くらいにやっていた。午後9時まで他の社員がいることはなかったので、誰にも邪魔されなかった。

そんな生活を続けていた時のことである。
いつものように、誰もいないオフィスで、朝、TMを行っていたら、不意に激しい恐怖に襲われた。
疲れている訳ではなく、意識ははっきりとしていた。
確信は持てないが、楕円形に回転するエネルギー体の存在を感じた。大きさはよく分からなかった。随分小さい感じもしたが、それが実体ではないだろうと思う。そんなものが、私の中に入ろうとしていたのである。
私は恐ろしくはあったが、TMを続けた。気のせいだと思ったのだ。
しかし、エネルギー体のさらなる接近を感じ、TMを中止した。汗をかいていたかどうかは憶えていない。
その後、特に変調は感じなかったので、エネルギー体に取り憑かれたのでは無いと思っていた。それで、仕事は相変わらず、その調子で続け、TMも時間を短くして行ったりしていた。
それから一月も経たない頃と思うが、私は倒れた。それは、エネルギー体の影響ではなく、単なる過労と思う。

あのエネルギー体に取り憑かれていたら、どうなっていただろうか?
あれは、私が恐怖を感じたように、邪悪なものだったのかもしれない。それで、取り憑かれていたら、私は強欲な事業家にでもなって成功し、大金を掴み、その後、破滅したのではないかと思う。
私の当時の異常なハードワーク振りは、何か高貴な志あってのことではなかった。

TMは、専門の教師から教わった、自分だけのマントラ(短い言葉)を、目を閉じて心の中で唱えるだけである。
私は、TMの教師に、マントラがどうやって決まるのか尋ねたが、知りたければTMの教師になるしかないと言われたし、それは科学であるとも言われた。
だが、それは多分、本当ではない。割と最近、あくまで、私個人の場合に関してのみだが、マントラは、TM教師に教わるまでもなく、知ることが出来かもしれない証拠を確認した。

TMに効果があるのかどうかは知らないが、ある程度の精神の統一は出来る。TMを教える者によれば、意識的に精神を統一したりする必要はなく、マントラを唱えていれば、自動的に統一に導かれるらしい。
だが、そうであれば、霊的な感受性が上がっているのに、防御の方法を知らないという危険な状態なのかもしれない。
自己流で瞑想をやって、邪悪な霊に取り憑かれておかしくなったような人もいるかもしれない。
イツァク・ベントフの『ベントフ氏の超意識の物理学入門』という本に、TMを何年もやっている人が、身体に激しい症状が起こった様子が書かれていたと思うが、それを肯定的に考えて良いのかどうか分からない。
我が国の著名な宗教家の谷口雅春氏によれば、そういった、統一中の反応は低級な霊による良くないものである場合が多いようである。
日本の有名な政治家にも、TMを熱心に行っている者がいることを知っているが、どうも見ていて、他人の非難ばかりで、建設的でない人のように感じるのである。

海外の著名人がTMを行っていることが宣伝になっていることも多いが、そういった大物達は、本当に良い状態にあるのだろうか?
やたらと離婚し、裁判沙汰になっているのではないだろうか?経済的には巨万の富を得ていても、それが重荷になっているのではないだろうか?
瞑想は、指導者の下で行わないと危険だと言われることもあるが、指導者自体がおかしな場合が多くはないだろうか?
アインシュタインが瞑想をしていたと言われることもあるが、彼は無念無想の状態で瞑想していたのではなく、また、常に論理的に考えていた訳ではないが、自分の意志を持ち続けていたのだと思う。
聖者の中には、自我を悪いものとして全否定する者が多いが、たとえ自我が悪いものになり易くても、それを磨くことが大切なのだと思う。そのためには、真の英知というものの存在を認め、自我をその下に置くことである。真の英知というものは、疑いもなく、自然の中に存在していることが分かると思う。我々にとって最も重要なことは、部屋の中で瞑想するようなことではなく、自然と接することである。自然を観察することだ。ゲームをしたり学習塾の通っている子供は、皆、心が歪み、それが身体の変調として訴えているのだろう。特に皮膚に異常のある子供は早く生活を変えた方が良い。アトピー、乾癬、花粉症、その他、アレルギーの者は、子供に限らず増え続けている。それをもっと疑問に思わないといけない。決して放置してはいけない。でないと、それ(悪因)はもっと大きな災害として現れるかもしれない。









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砂場で作られたお城は誰のものか

成功して膨大な資産を築いたとしたら、その資産は誰のものだろう?
もちろん、法律上の持ち主は決まっているのだが、その持ち主が、本当の所有者なのだろうか?
あるいは、小説や漫画、あるいは、コンピュータ・ソフトウェア等の所有権も、制作者が独占出来るものだろうか?
本当は自分のものではないかもしれないものを自分のものだと主張し過ぎて、おかしなことになっていないだろうか?
こう言うと、奇妙に思う人が多いのはよく分かる。しかし、もし人類に未来があれば、未来の人から見れば、現在のこれらのあり様は非常におかしなものに違いない。

こんなお話を思い出した。
手塚治虫さんの『マグマ大使』という漫画作品は、地球を侵略しようとするゴアという強大な宇宙の怪人に、地球の創造者であるアースと、アースが創ったロケット人(ロケットと人の形態が取れる)であるマグマが立ち向かうお話で、正義の見方がマグマ大使、悪役がゴアということになる。
アースは、ゴアとの、いつ果てるとも知れない戦いの中で決意する。宇宙の創造主にして最高神カオスに裁いてもらい、戦いを終結させる。もちろん、正義である自分達の勝利を持って。
そして、アースとゴアは、カオスの前で裁きを受けることになる。
アースは、自分が造った美しい地球を、暴力や謀略で無理矢理に奪おうとするゴアの悪行をカオスに訴えた。
カオスはゴアに、「ゴア、何か言い分があるか?」と尋ねる。
ゴアは落ち着いて答える。
「あります、カオス様。地球はアースのものではありません。なのに、それを独り占めしようとするアースが悪いのです」
ゴアは、読者向けであろうが、喩えで続けた。
「子供が砂場で遊んでいて、お城を作ったとします。しかし、そのお城は、作ったその子のものでしょうか?砂は皆のものです。私とて、アースが地球を造ったことは認めております。しかし、だからといって、アースだけのものではない。それが分からないアースに地球を治める資格はないと思います」
「詭弁だ!」アースは怒るが、カオスに、「宇宙にある全てのものは、このカオスが作り出した原料である粒子で出来ている。お前はそれを使っただけだ。全ては、このカオスのものではないのか?」とたしなめられ、恐れ入って平伏した。
そして、裁定が言い渡される。
「ゴアが正しい。地球は誰のものでも無い。2人で仲良く治めよ」
アースはもちろん、アースの地球追放を期待したゴアも納得せずに、異議を唱える。
すると、怒ったカオスは、「こんなちっぽけな星のことで争うなら、私が地球を元の無に戻してやる」と言い、慌てたアースとゴアはそれをしないよう懇願する。
結局、カオスは、アースのマグマと、ゴアのガロンを戦わせて、勝った方が地球を治めるということにした。カオスにすれば、「じゃんけんで決めろ」程度のことなのだろう。
※内容は、私が大昔に読んだ時のうろ覚えで、正確なものではない

漫画の読者にすれば、神様がゴアを支持したことに驚いたと思う。
このお話は、非常に深いものなので、テレビ放送(特撮)では採用されなかった。
テレビでは、あくまで正義のマグマと悪のゴアの対決であった。しかし、漫画では、ゴアの哀しい本質が明かされ、ゴアは最後にマモル少年に頼みごとをし、マオルはそれを果たすことを誓うのである。

このカオスのお話はとても良い。さすが手塚さんだと思う。
宇宙にある全てのものは、神が作ったあるもので出来ている。それは物質ではない。宇宙エネルギーと言う人もいるし、古代ではエーテル(アイテール)と言い、根源物質とか根源粒子、気とか、幽子とか、様々な名で呼ばれた。あるいは、「名付け得ぬもの」という言い方もされた。それは、宇宙のいたるところ・・・大気中、水中、地中や岩や鉱物の中、どこにでも満ちている。
それは全て神のものだ、従って、この世にある全てのものは神のものである。
ただし、それは同時に人のものでもある。
宇宙に満ちたそれは意志を持ち、人の思い描いたものを物質化する。ただし、人の心が神の心と一致した時にそうなるのだ。すなわち、人の心が無になった時だ。それは、人の思いがとても強い時や、揺ぎ無い信念に満ちている時などに、しばしば自然にそうなる。
思っただけでも、高次の世界では形になっている。しかし、それを物質化するためには、振動を下げないといけない。丁度、飛行中の飛行機のプロペラは見えないが、着陸してエンジンが停止した時に見えるようなものだ。
そして、あなたがそうやって生み出したものでも、それはあなたのものではない。
優れた芸術作品や工芸作品だって、神から与えられた閃きで生まれたはずだ。『歓喜の歌』にある、「神の火花、楽園の乙女」が神から与えられる霊感であるそれを示している。
しかし、昨今、あらゆるものに、版権表示がされ、所有権を強固に主張する有様は、あまり気持ちの良いものではない。
『マグマ大使』でも、アースはまるで地球に「Copyright アース」と書き込みたいように思われたから、カオスの支持が得られなかったのだと考えられる。
権利を独占しようとする思いが無くならない限り、この世では、醜い争いが続く。
特に権利を主張しなくても、神と協力してそれを造った者に、皆が自然に、心からの敬意を払うようになれば良い。しかし、そのためには、まずは制作者が権利を手放すことから始めないといけないのだ。

銀行があったら、その中にあるお金は、預金者や銀行のものであると同時にあなたのものでもある。だから、あなたにはお金なんてふんだんにあるのである。そうであるなら、自分の持っているものもまた、あなただけのものではなく、誰のものでもあるのだ。たまたま自分のところにきたものを有難がり、大切にするが、必要なら未練なく手放すようになれば、あらゆるものがあなたの元にやってくることになるだろう。天才の才能すら、あなたのものになる。
ニュートンもまた、「私の才能は神からの預かりもの」と言ったのである。









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青春の終わりと歓喜への道

人は青春時代が終わってから、本当の人生が始まる。
1898年生まれのアーマンド・ハマーは、医学生として学ぶ傍らビジネスで財を成した。そして、医師の資格を得ると、その財力で船に医療器具や薬品を満載し、十分な医療サービスを受けられない、貧しい旧ソ連の人々を治療するためにアメリカを出発するが、その時に「青春は終わった」と宣言した。アーマンド、26歳の時だった。
それは、同じことを先に実践した、アーマンドより23歳年長のアルベルト・シュヴァイツァーを思い出させるが、シュヴァイツァーは20歳の時、「30歳までは好きなように生きよう。しかし、30歳になったら人々のために生きよう」と決意した。彼は、神学者、音楽家として成功を収め、富と栄誉を得たが、20歳の時の決意を忘れず、30歳で全てを捨て、医大に入学し、38歳で医学博士となると、医療器具や薬品を調達してアフリアに渡り、以降、戦争などで中断はあったが、おそらく90歳で亡くなる頃までアフリカ原住民の治療のために尽くした。シュヴァイツァーの青春は30歳までだったということだろう。
彼らの魂が高貴であるだけでなく、彼らの並外れた能力や運についても、その理由が分かるように思うが、それはまた後で述べよう。

アインシュタインは、「人は自分以外のもののために生きるようになった時に、本当に生きることを始める」と言ったようだ。
W.B.イェイツは、「人生が悲劇であると認識して初めて人は本当の人生を始める」と言った。人生が自分を楽しませてくれるように思える間は、世の中のお荷物でしかない。
自分のために生きているうちは青春時代であり、まだ人になっていない段階だ。他者のために生きるようになって初めて、本当の人になるということと思う。本当の人になってこそ、人生の値打ちが分かり、自分らしい生き方が出来る。
青春を楽しんでいる者に、自分の生き方など無い。

だが、現代の日本には、いつまでも自分のために生きる、永遠の21歳といった人が溢れている。
だが、それは楽しいことではなく、愚かで辛いことである。なぜなら、人として生まれてきた本当の目的を失うことになるからだ。それは、我々が持つべき真の歓喜を捨てることなのだろう。ベートーヴェンがシラーの詩「歓喜に寄せて」を引用して創った「歓喜の歌」は、青春を捨て、本物の人生を送る人にしか分からない。青春に生きる者に、歓喜など訪れるはずがないからだ。

さあ、青春はもう終わりだ。感覚や心を楽しませることなどしていても何にもならない。それでは本当の喜びを知ることはない。
では、どうすれば他者のために奉仕できるか、それは、他人に尋ねても意味がない。
自分を信頼し、自分に尋ねるのだ。「私はどうすれば他者のために役立てるのか?」と。直観と閃きで教えてくれるだろうし、潜在意識に与えられた答は、自然にあなたを導くだろう。
アーマンド・ハマーは7歳の時、毎日、神に、人々のために役に立たせて欲しいと祈った。それで、真の自己は彼を導き、並外れた能力と運を彼に与えたのだ。
シュヴァイツァーも、30歳になったら青春を捨てると宣言していたから、神は彼に能力を発揮させて富を得させ、真の歓喜へ続く道を与えたのだろう。

青春時代にロックスターを目指して奮闘しても、その音は人々の心を打たない。本物のロックシンガーは、10代の頃には、無意識であっても青春を諦めていたのだ。
子供の願望が実現しないのも、このためである。我々の願いが叶わないなら、それが自分だけの願いであるからだ。









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この世に別れなど無い

親の転勤などで、子供の頃、家を引っ越した経験のある人もかなりいるだろう。そして、大抵の場合、学校も転校するのだろう。
ところで、転校をテーマにした小説や何かは結構あると思う。つまり、大人とは違う、子供のピュア(純粋)な感性では、別れや出会いというものがどんな意味を持つのかということが、とても感動的で、芸術的なものであるからだろう。

実際、子供にとっての出会いと別れというものは、大人とはまるで違う。ところが、あまり気付かないかもしれないが、それはとても神秘的なのである。つまり、大人にとっては予想も付かないものなのだ。

別れについていうと、子供の別れというのは、不思議なほどあっさりとしているのだ。
例えば、幼稚園の卒園式で泣く子なんていない。昨日まで、仲良く一緒に過ごした子と、もう一生会えなくなるかもしれないに関わらずだ。まあ、それを理屈で理解している子はいないとしても、子供は観が鋭い。だから、みんなとはもう肉体では会えないということを、案外と分かっているのだ。それでも、ほとんどの場合、さほど感情的にはならないのだ。

私も、小学4年生の時、引っ越したことがあるが、2年間親友だった子と最後に会った時のことを憶えているが、本当に普通だった。親友とは言わないまでも、仲良くしていた子達のほとんどには、挨拶もしなかったし、しようとも思わなかったのだ。
いよいよ、引越し先へ車で出発する時、近所の遊び友達が何人か見に来たが、別に愛惜も嘆きもない。今思えば、本当に、ちょっとお出かけする時と変わらない。そして、そのまま二度と会っていないし、おそらく、もう一生会わないだろう。

子供とはそんなものだと言えばそれで終わりだが、実は、重要なことを見逃している。それは、子供は、大人ほどには、英知というものから離れていないということなのだ。
どういうことだろうか?
それは、たかだか、卒園だの、引越しなどで、別れるなんてことはあり得ないことを、子供は知っているのだ。もっと端的に言えば、物理的な距離など重要でなく、真理を言えば、時間や空間なんてものが本当にある訳ではないことを、子供は知っているのだ。

子供の脳は、9歳頃までは、時間的な因果関係を理解しないと言われる。それは、脳が未発達だからだと理解されている。しかし、そうではない。子供の脳に足りないところがあるのではなく、逆に、大人の脳が、時間的な因果関係という幻想を持つようになっただけだ。子供にとっては、現在しかないのだ。過去も未来も、現在として体験している。そして、これは、悟りを開いた聖者が言うことと同じなのだ。道元の『正法眼蔵』にもそう書かれてあるのである。

子供が異常に記憶力が良いのに気付くことがあるかもしれない。彼らはどんな細かいことでも思い出すことがある。そして、トランプの神経衰弱で競うと、大人が余計な支配をしない限り、まるで敵わない。
子供は、記憶しているわけじゃあない。簡単に過去に戻ってしまうのだ。大人が言うところの過去を、そのまま何度でも見ることが出来るのである。これを驚異的と思うかもしれないが、別に大人でも出来る。例えば、催眠術を使えば、どんな過去のことも鮮明に再体験できることはよく知られている。子供はそれを何の苦もなく、単独でやってのけるだけだ。場合によっては、前世のことまで知ってるような子供もいるが、それに関しては、本当の前世かどうかは分からない。自分の前世でないことも知ることが出来るからだ。

「別れても心は共にいる」といった言葉を聞いたことがあるかもしれない。
これは、慰めでも、空想でもない。ごく当たり前の真実だ。
私は、誰かと別れたことなど一度もない。相手が死んだとされる場合も同じである。
たかだか、空間や時間、そして、生死など、何の意味もない。
世俗に住むインドの聖者ニサルガダッタ・マハラジに、ある人が、「誰かが、あなたの首を鋭利な刃物で切りつけたらどうなりますか?」と尋ねたら、マハラジは、「胴体が頭部を失う。それだけのことだ。私には何の関係もない」と答えたらしい。ここまで肉体への執着を無くすのは少し難しいが、言っていることは正しい。

だから、アンデルセンの『もみの木』のように、未来への望みに生きることも、本当は幸福だった過去を懐かしむ必要もない。
すっかり老いた男性が、力に溢れていた二十歳の頃を思い出したり、老婆が、男達が皆いいなりだった17歳の頃を思い出して嘆く必要は無いのだ。
イェイツの詩で、彼の本心なのかもしれないが、「老人になっても、分別や安らぎなんてもんじゃなく、もう一度若くなってあの娘を抱きたいのだ」というものがあるが、それならそうすればいい。現象世界など、意識の影、幻想に過ぎず、そうと分かれば、どうでも良いことではあるのだけれど、200歳になっても二十歳にしか見えない女性などもいる。それは今の世では特異なことであるかもしれないが、ある進化した星では、地球で言うところの800歳くらいで老化が始まるが、それはさほど顕著でもなく、自分より900歳若い娘達との区別などは付かないらしい。地球も、今のままでは望みは薄いが、進歩が叶うなら、それに近付くことだろう。









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