ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2011年08月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

平安に至る仕事のやり方


我々は、仕事をする目的を間違えていることから、仕事が重荷になってしまい、日々、無力感に打ちのめされている。それで、グルメやつまらない娯楽で気を紛らわせるが、それはさらに惨めさを増すだけなのだ。

まず、仕事に関する悲劇的な誤りを示していこうと思う。
スポーツでは、アマチュアであっても、国際大会等での成績に応じて賞金が出たり、人気が高いスポーツでは、資金源豊かな協会から、様々な場面で選手やチームにボーナスが支給されることは普通になってきた。
先頃、中国女子サッカーチームに対し、中国国内のある企業から、勝利の際の賞金提供の申し出があり、選手の1人が「モチベーションが上がる」と歓迎する様子が放送されていた。
ところが、我が国の男子サッカー日本代表選手達の中には、国際マッチでの賞金が少ないのが不満で、モチベーションが上がらないことから、増額を求めているといった報道を見たことがある。

様々な言い分はあろうが、まさに、「金が全て」ということである。
これは、何もスポーツだけではない。全ての人が金のためにだけ仕事をするようになってしまっているのだ。

だが、それは正しいことだろうか?あるいは、それは仕方が無いことだろうか?
あなたは、金のためだけに診療をする医者にかかりたいだろうか?そんな医者に家族を任せたいだろうか?
金のためだけに働く教師に自分の子供を預けたいだろうか?そんな教師のいかなる命令にも自分の子供が服従していることを何とも思わないのだろうか?

多くの人が、自分を省みず、医者や教師、あるいは、政治家や警察官は金のためにだけ仕事をしてはいけないと思っている。それどころか、彼らの仕事は「聖職」であり、金のために働くという考えを持つことを許さない。その恐るべき矛盾に気付かない。
我々がそうなら、誰でもそうなのである。実際、既に、大半の医者や教師、政治家も警察官も、金のためだけに働いているのである。

何のために仕事をするのかというと、現在のアメリカ的価値観をすっかり叩き込まれた者には笑われるだろうが、内にある高度な霊性を引き出すためである。
そのためには、仕事によるしかないのである。
ただし、それには、ただ義務として仕事を行わなければならない。

医者は、患者の苦しみを除き、病んだり、傷ついたりした身体を自然で健康な状態にするのが義務だし、教師は、子供を訓練し、賢明で逞しく、誠実な人間に育てるのが義務である。
製造業者なら、人々の役に立つ製品を効率良く作るのが義務だし、セールスマンは、良い製品を人々に届けるために販売することが義務である。
主婦であれば、夫を助け、子供を正しい人間にきちんと育てるのが義務であろう。
ただ義務を果たし、結果にこだわらなければ、自己の人間性を向上させ、理想的な人格を持つようになっていくのである。そうすれば、自ずと幸福になっていく。
だが、例えば、セールスマンは結果にこだわり、とにかく売上げが多ければ多いほど良いと考える向きもあるかもしれないが、そうではない。義務として仕事を誠実に遂行していれば、売れるべき分は売れるのである。もし誠実に販売のための努力をしても売れないのであれば、売るべき製品ではないのである。
報酬を求めず、ただ義務のために仕事をすれば、成果は自然についてくる。
「仕事は義務ではない。激しい情熱がなければならない」と言う事業家も多いが、それは修羅の道である。強い風も、激しい雨も長くは続かない。人に激しいことをさせるのは欲望であり、それは災厄をもたらすのである。
誠実に義務を果たす仕事には、自然に情熱は起こるのである。しかし、過度な情熱、つまり、熱狂は必要ないし、そんなものを持って仕事をすれば、必ず悲惨を味わう。

もしサッカー選手をやるのが義務だと思うなら、立派にサッカー選手をやればいい。
もし戦争で戦うことが本当に義務であるなら、結果を恐れず、勇敢に戦うしかない。
しかし、金のため、利益や報酬のためにやるなら、人間にとって最も大切なものを失う。それに比べれば、巨万の富も、世間の栄誉も、まるで取るに足りない些細なものである。
そして、義務として誠実に仕事をし、結果は供物として神仏に捧げるだけだと思えば、必要なものは必ず手に入るのである。
また、こういった仕事のやり方に徹することが出来た者が、案外に世俗的にも成功し、しかも、それを続ける限り、長く繁栄するのである。ただ、やはり、結果は我々にどうこうできることではなく、天に任せるしかない。しかし、義務を誠実に果たした上で天に任せるのであれば、いかなる結果となっても、我々に後悔は無く、満足を得るはずである。









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むしろ片想いでないといけない

小説や映画などで、惹かれ合っている男女がいるのだが、お互いシャイであるとか、あるいは、何らかの障害があったりで、2人の関係性が進展しないなどというものがよくある。ロミオとジュリエットも最初はそうであった。
もちろん、ほとんどの創作作品では、そのままで終わることはない。しかし、現実の世界において、何もないまま終わってはいけないのだろうか?
惹かれ合った者どうしが、その後、恋人になったり夫婦になったりするかについては、そう運命付けられていれば、そうなるし、そういう運命になければ、どんなにがんばったところでそうならない。
昔の中森明菜さんの『スローモーション』という歌のように、結ばれる運命にあれば、お互いが乗っていたボートが偶然にぶつかって、女の子の帽子が落ちたりするのである。

「あの人は私に気があるに違いない」と思う時、その大半は勝手な思い込みであるかもしれない。人間とは自惚れが強いものだ。だが、逆に、思わぬ相手から慕われていたということが後で分かって驚くということもよくある。
ある事業家の本で見たことがあるが、昔、ある金持ちの地主の娘が大変な美人で、そこの小作人の1人の男は彼女を密かに想うも、身分違いも甚だしいと思い、馬鹿な願望は捨てることした。その後、その娘は嫁入りするのだが、なんと、本当はその小作人の男を慕っていたのであり、そのことを知ったその男は非常に後悔する。その男は歳を取って死ぬ時、孫に、「俺のような寂しい人生を送るな」と言い残したそうだ。映画『タイタニック』のジャックのように、ローズに対し、「身分違いは分かっているが譲れない」と積極的になるのが正しいのだということだろう。

一方、岡本太郎は、「片思いだって恋愛なのだ」と言う。太郎は、決して消極的でも、モテなかった訳でもない。フランス留学中は、世界中の美女、美少女と次々同棲し、ある有名モデルの恋人だったことが分かった時には、雑誌に、「ムッシュ岡本は、こう言ってました。『確かに付き合っていたなあ。彼女の名前は、えーと、えーと・・・』」と書かれ、実際、太郎は付き合った女性の名前をあまり憶えなかった。
そんな太郎が、必ずしも、「さっさと口説けよ」とは言わないのである。

名乗り合い、話をし、一緒に遊びに行ったり、食事をしたり、セックスしたりといったことがないと不満足だというなら、それこそつまらない結果になる。なぜなら、それは、自分が身体だと思っているからだ。
人間というのは、本来はもっと精神感受能力が高く、別に言葉を交わさなくとも思いは伝わるものである。
惹かれ合っているクラスメイトの男女が、ごく普通のクラスメイトとしてさりげなく過ごしていても、思いが伝わっていれば、十分に恋人としての自覚も楽しさもある。時によっては自然に近付いて一言二言、言葉を交わすこともあるかもしれないが、後のことは天に任せるしかない。そして、天に任せ切っていれば、心安らかである。無用なトラブルは、むしろ、執着心が起こしているのだ。

「神無月の巫女」というアニメで、姫子(16歳)を愛するソウマ(16歳)は、姫子のために命をかけて戦い抜いたが、ついに、敵であるオロチの呪いにより、石化して動けなくなる。そして、姫子は、結局、千歌音(16歳)を選び、ソウマの愛には応えず、彼女と共に行く(女同士であるが)。ソウマの前に、彼の兄ツバサが現れ、「あげくの果てがこのザマか!これで満足かソウマ?」と尋ねると、もう口は利けないソウマだが、心で「ああ」と満足そうに答える。「なぜだ?」ツバサが重ねて尋ねると、ソウマは、「姫子が生きている。それだけでいい」と答えた。
そして、結ばれた姫子と千歌音も、ソウマに後ろめたい気持ちも哀れみも持たず、むしろ、3人は愛情を持ち合うのであるが、それが自然に見えるのである。

この世界での宿命は我々にはどうにもならない。しかし、そんなことはどうでも良いではないか?
『荘子』にもあるが、銅が、「俺は名剣になりたい」と言ったところで、どうなるものでもない。我々も同じである。
しかし、それは、我々が自分を、その銅のようなものだと思っているので、思い通りにならないと「残念だ」とか「悔しい」と思ったりするのだ。
だが、我々は、銅でもこの身体でも、そして心ですらない。言ってみれば、心よりももっと高いものだ。それが分からないので、色々なものに執着するのだ。
下手に名剣になることが叶うと、もっと大切なものを失うのである。それは、自分が本当は何者であるかという秘密である。

銅を自在に扱う鋳物師のように、我々の運命を決める何者かもあるのだろう。そのようなものを、インドでは「それ」とか「彼」と言うことが多いが、それは、言葉で、例えば神と言えば、人によって意味が異なるからだ。ご存知のように、神という言葉は人間にとって、かなりの抽象概念である。老子や荘子では、「名付け得ないが、とりあえず道(タオ)と名付ける」と言ったりしている
我々は、「それ」あるいは「道」に任せ切り、心安らかでいれば、自ら「それ」であることが分かる。
そうなれば、全てを手に入れるのではなく、元々が、全て自分のものであることが自明になる。
『荘子』にある、泥棒に盗まれはしないかと心配しなくても、天下を天下の中に隠せば安心だということになるのである。









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日本人の二宮尊徳観は、アメリカが作った虚像である

第二次世界大戦後、アメリカは日本人に二宮尊徳を崇めるよう扇動したことをご存知だろうか?
小学校などによく石像がある、牧を背負って本を読む勤勉な姿が二宮尊徳のシンボル(象徴)である。
なぜか二宮尊徳のようであることが特別に奨励され、そのように学校に石像まで置かれるようになった原因はアメリカにあった。

それなら、日本人がかくも勤勉なのは、アメリカのおかげであろうか?
そうであるが、それが良いことなのか?
だいたい、牧を背負って本を読むというのは、立派というよりは滑稽であると気付かないといけない。
今の日本人はそれほど勤勉ではないと思われるかもしれないが、今でも、金次郎(尊徳の通称)的な奇妙な勤勉さから離れられない日本人は多いのだ。
過労死するまで働いたり、必要もない自動車を作って無理にでも売るという勤勉さが誰を幸福にするのか?
さらに、勤勉に儲けるためには、自然環境を最も平気で破壊する国は日本である。この理由も二宮尊徳にあるかもしれないが、それについて説明する。

二宮尊徳は、老子を批判したと言われる。
尊徳は、老子の思想を、道教の根本である「無為自然」であるとする。無為自然とは、自然にあるがままに任せ、作為をしないという意味だ。これは、どちらかというと、老子よりは荘子の思想であるが、それはまあ良いとしよう。
尊徳は、「田畑を無為自然で放置すると荒れ果て、収穫が出来ない。人が勤勉に手を加えてこそ、豊かな実りが得られる」と、老子の無為自然の思想の誤りを指摘する。あるいは、「家は、無為自然で放っておくとあばら家になる。勤勉に手入れ(メンテナンス)してこそ、長持ちし、快適に住める」とも言う。

私は、尊徳がこんなことを主張したこと自体、捏造と思っている。これでは、まるで、老子に対する程度の低い難癖である。
先程も述べた通り、無為自然は老子というより荘子の思想であるが、荘子にしたって、無為自然を、そんな馬鹿な意味で説いたりはしない。
もし、本当に尊徳がそんなことを言ったとしたら、尊徳は馬鹿だったということだが、そんなことは信じられない。

『老子』は深い思想書であり、そのような場面に持ち出すべきものでもないので、尊徳が言ったとされる老子の思想の弁明はしない。それを言葉でやると、無知な人はかえって誤解するかもしれないからだ。また、そのことこそが、これまで、尊徳の老子批判とされるものに異論が出なかった理由でもある。

とにかく、本当は尊徳はそんなことは言っていないが、これが何と日本人の思想に入り込んでしまった。
それで、「自然を征服する」という思想が日本人に強まり、経済のために自然を犠牲にするのはやむを得ないという思想が根付いてしまったのだ。
さすがに危険な薬物の混じった排水を海に流すのは自分の首を絞めると気付き、そこまでの馬鹿はしなくなったが(かつては平気でやっていたが)、自分達に不利益が無いなら、これほど平気で自然を破壊する国民も珍しいのだ。
だが、本来、日本人には、自然と争ったり、まして、征服しようなどという思想はなく、自然を崇拝し、自然と共存することを目指す民族だったのにだ。
そして、少し前までは、論理的に考えれば、絶対に自然のためにならない原発も疑わなくなってしまっていたのだ。
だが、それも、日本に原爆を投下した罪に対する罰を受け入れるつもりのないアメリカの意思が働いているのである。









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至高者が直接語った言葉

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は、仏典を求めてインドに旅立ったのだが、それは厳しい旅で、彼がインドに無事たどり着く可能性は高くはなかった。旅路自体の厳しさもあるし、山賊がうようよするような場所も沢山あったと思われる。
言い伝えによると、玄奘は、インドから来た僧に呪文を教わったという。その呪文を唱えていれば、病気や事故などの災難から逃れられると、玄奘はその僧に言われた。その呪文は、般若心経の最後の部分の呪文で、もちろん、玄奘はサンスクリット語で教わった。それは、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」というものだ。呪文であるので、特に意味はない。つまり、仏の言葉なのだろう。

呪文に限らないが、人が考えて言ったものではなく、神仏が語った言葉と言われるものがある。
世界トップクラスの形成外科医でありながら神道の勉強をして神職に転じ、1994年から2008年まで春日大社の宮司を勤められた葉室賴昭(はむろよりあき)さんは、神道の祝詞である、「大祓詞(おおはらえのことば)」は、神が直接語った言葉を、それを聞いた人間が書き写したものであると著書によく書かれていた。大祓詞には、人が解釈できるような意味は無いのだそうだ。だから、葉室さんは、ひらがなで書いて、ひたすら声に出して唱えたと言う。

ラーマクリシュナは、経典や聖典を重視しなかったというが、『バガヴァッド・ギーター』だけは別で、これは確実に神の言葉であると言っていたようだ。
我が国の有名な宗教家である五井昌久さんは『老子』に関して、そのようなことを言われていたと思う。
確かに、これらは人に書けるようなものとは思えない。『バガヴァッド・ギーター』は、分かりやすいことにも驚く。『老子』は、普通に読むと意味が分からないと思うが、考えずに一語一語ゆっくり読むと分かってきて、その美しさに惹き込まれる。『老子』は政治学のように言われることもあるが、普遍的真理なので万能であり、当然、政治の真髄にも成り得るが、別にそれに限ったものではない。

般若心経を10万回唱えたという人がおり、そのような人は、人を超えた神仏の力を備えていると言えると思う。
ただ、見返りや成果を求めて、般若心経なり、大祓詞を唱えるなら、それは我欲であり、むしろ魔道に陥る。『バガヴァッド・ギーター』には、そういったことも細かく、優しく語られている。
修行なり、良い行い、あるいは、仕事は、決して見返りを求めず、神仏への供物(ささげもの)とし、後は、神仏、天、道に任せて安心していれば良いというのが賢者達の共通の教えと思う。
玄奘も、「仏様、お守り下さい」と思いながら呪文を唱えたわけではなく、ただ唱えただけのはずである。
いくつか、神仏の直接の言葉であるものを取り上げたが、これらは確実なものと思う。人の書いた解説などにはあまりこだわらず、ただ読むなり、唱えると良いと思う。お気に入りのもの、あるいは、縁のあったもので良いだろう。









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失われた大切な記憶

我々は、幼い時のことを自分で思う以上に忘れているものだ。人は、3歳位までのことは全く憶えていないものらしい。だが、それ以降のことも、完全に記憶から消え去ったり、あるいは、事実が改変されて記憶されていることがいくらでもある。
だが、失われた記憶には大切なものもあるのだ。

天使や妖精を見た記憶のある人は少ないと思う。そういったものを見ることが出来るのは幼い時である。しかし、もし、大人になってから、目の前に天使や妖精が現れたらどうだろう?その場合、ほとんどの人は、見えなかったり、見ても一瞬で忘れてしまう。なぜかというと、自分の持っている観念と合わないので見えないし、見ても信じないのだ。
幼い頃に天使や妖精を見ても、それを大人に話すと、おかしな反応をされる。では、子供同士で話すかというと、幼い子供同士が、自分の見たことを言葉で話すことはあまり無い。そんなことは子供にとっては面倒過ぎるし、見える子にとっては別に変わったことでもないので、取り立てて話そうとは思わないのだ。

そして、そうこうしているうちに、世間の教義や信念を叩き込まれて、天使や妖精を信じなくなり、せっかくの思い出も、記憶からも消えてしまうのだ。

天使や妖精ばかりではない。大人からすれば奇跡としか言えないようなことや、自分が魔法のような力を発揮したことも忘れてしまうのだ。
だが、稀に、そんなことをいつまでも憶えている子もいる。
あまり世間に毒されずに育った子だ。あるいは、神秘的で本当のことが書かれた本を読み、深く感じた子は、世間をあまり受け入れないので、神秘を疑わずに憶えている。

人の記憶がいい加減であてにならないということをご存知の方もいると思う。
昔見たテレビドラマを見ると、セリフが記憶しているものと違っていて驚いたことが無いだろうか?
遠足に行った時、クラスのある女の子は赤いスカートをはいていたと思っていたのが、写真を見るとズボンをはいている。
あるいは、見たはずのことをなぜか完全に忘れてしまっていることもある。

私は、4つか5つだったと思うが、家に1人で留守番をしていた時、家の中で妖精をはっきりと見た記憶がある。妖精と言っても、小さな妖怪と言った方が良いような姿で、ムーミンに出てくるニョロニョロと少し似ていた。尚、当時私は、テレビでニョロニョロを見たことが無かった。私が妖精を見たことは、私は母親や姉によく言っていたことを確認している。
子供というものは、現実と想像したことの区別が付かないものらしい。しかし、それは大人も同じなのだ。ただ、想像する基盤が異なるだけだ。大人にとって、子供の想像が非現実なら、子供にとっての大人の想像は非現実なのだ。

「フィオレ、君は本当にいたんだな。子供の時に見た幻なんかじゃなくて」
「幻・・・か。僕には、つい昨日の出来事のようだ」
~劇場版「美少女戦士セーラームーンR」より。地場護と宇宙生命体フィオレの会話~

このブログでも時々書くことだが、私が小学4年生の時、何の知識も手がかりもなく天体望遠鏡で土星を見ようと思って、適当な星に望遠鏡を向けたら、いつも必ず土星だったとか、交通量の多い車道に目をつぶって飛び込んでも安全だと確信して何度もやったが(くれぐれも真似しないよう)、かすり傷一つ負わなかったようなことも、似たようなことを、他の人だってやっているに違いないのだ。ただ、憶えていないのだ。

世間の教義や信念にひれ伏すことをやめ、子供のようになれば、あなたもそんなことを思い出す。
萩尾望都さんの『ハワードさんの新聞広告』という漫画で、お金持ちのハワードさんは、世にも珍しい「飛ぶ子供」を、その子の母親に大金を払って奪い取った。だが、その子供は、なだめても、おだてても、おどしても一向に飛ばない。ハワードさんの屋敷の客が、その子に、「あなたはただの子供じゃないの?」と聞くと、その子は、「ただの子供だよ」と答え、騙されたと知ったハワードさんは激怒し、その子供に、「お前を一生閉じ込めてこき使ってやる」と言う。その時、その子は逃げようとして高い窓に飛び上がり、窓に体当たりして壊し、怪我をしながら言う。「ただの子供はみんな飛ぶんだ」
飛び去った子供を見て、ハワードさんの所有物である若いオペラ歌手の男は、急に楽しい気分になり、ハワードさんに、ここを出て行くと言う。子供の頃のことを思い出したのだ。

イエスも、子供のようにならなければ、天国に入れないと言った。だが、子供とはどのようなものなのだろう?
まず、大人との違いで言えば、子供というものは、成果のために何かしたりはしないのだ。
大人なら、がんばって勉強して受験に合格するとか、仕事に励んで昇進しようとかいうのは普通だろう。
しかし、子供にとっては、「新聞を取ってきたらお菓子をあげるよ」程度なら分かるが、「次の試験で10番以内だったら自転車を買ってあげるよ」というのは異質なのだ。そして、そんな考え方を身に付けると、子供ではなくなる。
大人でも、成果を期待せずに仕事をする人が、子供のような人だ。
人のために何かをしてあげても見返りは考えていない。人々のために何かをしても、賞賛も報酬も期待しない。勉強しても、何か得をしようと思ってのことじゃあない。

ラマナ・マハルシが言っていた。「賢者と子供はある意味で似ている。子供は遊んでいる時は夢中だが、終わってしまうと何も憶えていない」
『荘子』にも、「至人(最高の人間)の心は鏡のようなものだ。来るものはそのまま映すが、去ってしまえば何の痕跡も残さない。よって、絶対に傷つかない」とある。

子供のようになれば、本当は自分が天使や妖精と親しく、自分も魔法使いであることを思い出すだろう。







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