ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2011年06月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

観念を捨てると食欲も性欲も消える

私は最近、食欲や性欲などの本能は、単なる観念から来る幻想ではないかと疑っている。
ジクムント・フロイトは、「人間の本能は壊れているので、その本能を補うために自我(心)を作った。だが、自我は、自然に出来たものではない幻想のようなものだ」と言った。そのようなことは、フロイトが初めて言ったのだから、さすが天才と思うが、本能というものは、壊れているのではなく、本当は無いのだと思う。
なぜそう言えるかというと、私は、観念を捨てるごとに本能が無くなってきたからだ。

私は2008年8月から1日1食で菜食主義となったが、最近までは食欲と戦っていた。ところが、自分が持っていた観念全体、つまり、固定観念であるが、これを捨てていくごとに、食欲を感じなくなっていた。ただ、空腹であるということは分かるのである。つまり、これまでは、「空腹になったら食欲が強くなる」と、単に思い込んでいただけだと分かった。
同じく、性欲に関しても、これまでは抑え付ける必要があったのだが、今は、どれほど好みのタイプの美少女を見ても、単に「綺麗だな」と思うだけである。
おそらく、生存欲や名誉欲などについても同じである。
これらの欲望というのは、あらゆる場所で見聞きしたことを取り込んでしまった記憶や観念による作用でしかなく、なんら実態のない幻想である。
テレビ、雑誌、小説、漫画、インターネットの広告などには、我々の食欲や性欲を煽るもので満ち溢れている。それらが、我々の心に入り込み、心は、その驚くべき力で身体に反応を引き起こして、破滅的な欲望を生み出し、人類のあらゆる不幸や悲惨の原因を作り続けているのである。
これらの、押し付けられた記憶や観念を捨て去れば、それらの支配から逃れることが出来るのだ。

動物は、本能で生きているのかもしれないが、人間は全く違う進化したものなのである。しかし、心というものを持つがために、かえって動物に劣る振る舞いを起こす考えを持ってしまい、それが情熱と結びつくと、残虐な行いを平気で、さらには、熱狂的にやらずにいられないのである。

尚、私がやったような、固定観念、幻想を消すことは、世界の様々な場所で、秘教として伝承されているのではないかと思う。
ただ、そんな方法を教えるとか謳っている書籍は沢山あるが、ほとんど全て偽物で、かえって、観念や幻想を積み重ねるのである。
やはり、真理は、新約聖書や仏典に書かれている。仏典の中では、法句経が最も純粋な釈迦の言葉だと思う。イエスも釈迦も、庶民と気楽に話したのだ。現代で言えば、ニサルガダッタ・マハラジが、最も純粋に真理を語っているが、翻訳でしか読めないので、あまり字面にこだわって読んではいけない。







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熱中症で女子生徒達が病院に搬送されたことについて

東京の陸上競技場で、体育祭に参加していた中学生、高校生の女子16人が、熱中症と思われる症状で病院に搬送されたというニュースを見た。
全生徒が670人だったというから、2.4%であるが、全て女子のようだ。
テレビニュースでは、いかに当時のその会場が暑かったかを強調し、医学関係の人には、暑さと熱中症の関係とその対策の割と当たり前の話をさせ、学校は「配慮が足りなかった」と謝罪する様子が放送されていた。

近年は、猛暑の中での体育祭でなくても、野外での朝礼で倒れる生徒の話もよくあり、それをまた、ニュースが大仰に取り上げることもあるし、その際、倒れた子供に、朝食を食べていない子でもいれば、まるでそれが災いの元凶のように言ったりすることもある。

本当の問題は、児童、生徒に限らないが、人々の身体が弱くなっていることだろう。
今の子供たちは、生まれた時から家にエアコンがあるのが当たり前で、ほとんどの家に自動車があり、どこに行くにも、エアコンの効いた自動車で行くという子が多いと思う。これでは身体が丈夫なはずがなく、冬でも風邪を引きやすい子が多いと思う。
さっき、朝礼で倒れる子の中に、朝食を食べていない子がいた時に、それが問題にされるということを述べたが、栄養が足りなくて倒れるなんてことはないだろう。戦後の、多くの子供たちが栄養失調と言われた時代に、長時間の朝礼でも倒れる子なんていなかったらしい。今の子供の場合は、むしろ栄養過剰が問題と思う。

今は、夏の夜はクーラーを付けて寝るのが常識化しているようだ。
生活においては、40代、50代の人も、既に豊かな時代に育っており、若い人達とそう変わらない。また、甘やかされないで育った人でも、いったん、エアコンや自動車で楽を知れば、もうそれらから離れられなくなる。
私は、ある30代半ばのプロ野球のスター選手がまだ若い頃、既に黄金ルーキーとして活躍していた彼が、クーラーを付けて寝ているという話を聞いて驚いたものだ。そして、そんな選手が多いらしい。案の定、まだまだ全盛でいられるはずの彼は、1軍での出場機会もめっきり減り、すっかり色褪せた。イチロー、松井に劣らない、あるいは、勝る才能があったとも思われる選手である。クーラーを付けて寝ている選手は、体力が無いだけでなく、みんな腰が駄目になっているように思う。

私は、社会人のスタートは家庭向けセールスマンだった。数年の引きこもり生活の後で、体力があったはずもないが、真夏でもきちんとした格好で、ネクタイもして、長時間(朝から夕方まで)、外を歩いて訪問し、真っ黒に日焼けした。当然、暑くて、体力的にも苦しかったが、倒れるなんてことは想像も出来なかった。また、こまめに給水なんて考えたこともなかった(仕事中にそんな暇はない)。
私の家では、私が高校生になるまでエアコンが無かったし、また、割と最近まで、エアコンはリビングにしかなかった。だから、クーラーを付けて寝るなんてことは成長過程では全くなかった。そして、私が免許を取るまでは、家に自動車が無かったのである。それで、特にスポーツをしなくても、私にはもっと基本的な体力というか、身体の調整機能が正常なまま保たれていたのだと思う。加えて、子供の頃から、オヤツをあまり与えられたことがなかったのも幸いだった。

最近、通勤電車に乗っていると、何かの校外行事であろう、大量の男子中学生が乗ってきた。女の子ならともかく、うるさいだけで、何の良いところもないクソガキ共であるが(笑)、ただ、回りの大人の男性達に比べて顕著なのは、大半の子供たちは、ウエストが細いことで、これは実に素晴らしく、美的と思った。私は180センチでウエスト70センチくらいであるので、その点だけは親近感もあった。だが、肥満して、ウエストがダブついている子もそれなりにいた。熱中症とやらで倒れる危険性が高いのは、こちら側と思う。

暑いと言っても、日本の夏などたかが知れている。
テレビなどのマスコミが、いつも一方に偏るものであることは、もう当たり前のこととしっかり認識し、公平性や高い見識は無いときちんと理解し、表面的に見るようにしなければ馬鹿になる一方で、それが既に危機的な状況となっている。
重要なことは、我々が自分達を過剰に甘やかさなければ、もっと健康に生きられるということである。
原発事故が良いものであるはずが無いが、我々は、それを天の啓示と受け止め、膨大なエネルギーを無駄に消費する生活、社会を変えなければならない。今の生活、産業活動を維持する必要は全くない。エネルギー問題の真の解決は、表面的なことではなく、我々の内面の変性によりもたらされるのである。







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力は目に表れる

人品自ずと顔に表れるというが、実際には目で決まるのである。
目は誤魔化せない。だから、力が無いのに強いフリをしたがる人間はサングラスで目を隠すし、逆に、強い人間が力を隠す時にもサングラスをするものだ。
女性の目の周りのメイクが派手になってきたが、ちゃんと見る目のある者から見れば、そのようなものに何の意味もない。素晴らしい男性からすれば不気味なだけであり、引き付けるのはつまらない男ばかりであろう。

だが、人知れず、何かを磨き続けると、力が付き、知らず知らず自信が生まれ、そして、目が変わる。
そんなあなたの目を見た人は、あなたを軽く扱うことは出来ず、あなたに逆らうこともない。力ある人物はあなたを重用しようとし(逆に避けることもある)、あなたが男なら、心の澄んだ女性であれば、その目の力を感じ、寄って来て慕うことだろう。
逆に、あなたがいつも軽んじられ、いじめられ、あるいは、親しまれないなら、その原因は目にある。もちろん、それは、単に世間でいう、目付きが良いとか悪いといったものではない。一般的に言えば悪い目付きでも、深い慈愛や知恵を感じさせる人もいる。

江戸時代に、ある目利きの武士が、たまたま出会った町人に何かを感じ、「何者?」と尋ねるが、町人は、「ただの職人です」と答える。しかし、その武士は、「いや、その目付き、ただものとは思えない」と言う。すると、町人が言うには、彼は生来の臆病者で、それを少しでも何とかしようと、10年以上、夕暮れ時に墓地に行ってしばらく過ごすことを1日も欠かさないのだと言う。
変わった例ではあるが、この話にも重要なヒントがある。この町人は、胆力を磨く修行をしたのだ。

我々も何か1つ、毎日磨き続けるべきである。
毎日、たゆまず熱心にやれば、それに関しては誰にも負けなくなる。そのようなものが1つあると、本物の力が付き、自信が付き、人生は生きやすいものになる。自然に相応しい道に導かれ、ものごとは円滑に進むだろう。そして、あなたの目は、誰が見ても惚れこむ、素晴らしいものになっているのである。

昔、勝新太郎が、寿司店で食事をしていると、客のある見知らぬ若い男性に惹き付けられ、思わず話しかけていた。
「お前、いい目してるな!名前はなんて言うんだ?」
「はい、稲葉浩志と申します」
それは、若き日の、B'zの稲葉浩志であった。

毎日磨くものには条件がある。
その条件には、世間の価値観などは何の関係も無いばかりか、世間で価値あることは全く相応しくないことも少なくはない。
それは、まず、自分で選んだものでなければならない。
また、我欲が動機であってはならない。つまり、得をするからやるというのでは絶対にいけない。
そうでなければ、逆に力を失い、自信どころか不安や恐怖を背負うことになり、目付きも悪くなる。例えば、学問への探求を持たない単なる受験勉強や試験のための勉強や、ただ、自分が儲けるためだけにやる商売、あるいは、虚栄心や優越感、それに、性欲を満たす目的だけの美容などがそうだ。

また、「私は、目付きが良くなるようなことをやっているだろうか?」と問うのも良いだろう。
これは、「天に恥じないことをやっているか」「内なる魂に従っているか」ということと同じである。
答が「是」であれば、あなたには自信と力があるはずである。







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魚を持ってきたら成績を上げてやるのは良い教師だ

先月(2011年5月)の6日に亡くなられた、官能小説家の団鬼六さんのTwitterは、今も運営されている。私は団さんの本は読んだことがないし、Twitterで見る彼の思想もあまり好きではなかったが、時に非常に光ることが書かれていて、捨てがたくフォローし続けている。
昨日も、素晴らしいことが書かれていた。団さんは、教員をしていたこともあったらしいが、昭和30年代であろうか。彼は、生徒の親が、魚や大根やらを持ってきたら、すぐに成績を上げていたという。妻が怒ったら、「教師に品物を届けたら必ず成績があがる、それを知るのも勉強だ」と言ったらしい。半ば冗談なのだろうが、とても良い。素晴らしい教師だ。

魚や大根だから良いという面もある。これが、金や高価な品物であれば・・・まあ、団さんはこだわらずに受け取るのかもしれないが(笑)・・・勉強にならない。成績なんて、魚や大根ほどの価値もないからである。
いや、昭和30年代なら、貧しい家庭もあり、魚や大根も持っていけない親もいる。やはり賄賂は駄目だと、真面目に考える人もいるかもしれない。しかし、そんな貧しい家の子が、他の子が魚や大根で成績を上げているという悔しさを味わうことほど良いことは無い。すると、それを見返そうと、一生懸命勉強するようになるかもしれない。そうやって成績を上げることは、今のように、良い学習塾で勉強していい学校に進学し、優越感を持ったり、将来、偉くなるといった欲に塗れたことを考えるより余程良いことだ。
そして、もっと良いのは、教師に賄賂(笑)を持っていける家の子自体が、後ろめたく思ったり、貧しい家の子のことを気遣うようになることだ。滅多にはいないとは思うが、百人に1人でも、そんなことを考えるようになれば素晴らしいことだ。自分の成績の餌の大根(笑)を半分、貧しい子に分けてあげたり、自分も、親に対し、教師に品物を届けないよう頼んだりするなら、それは成績どころではない、一生の財産になるだろう。
まあ、そんな細かいことを考えずに、素直に親に感謝し、偉くなった時に、「私の親は教師に大根を持っていったので、私はそこそこの成績が取れた。感謝している」とあっけらかんと言えば、日本の教育はもっと良くなるだろう。繰り返すが、成績なんてその程度のものなのである。

ひろさちやさんは、東大を出ているが、子供たちに、「お父さんの成績はどうだった?」と聞かれたら、憶えていないと答えていたという。お父さんは、自分が一番だと思っていたので、もし試験の成績が1番じゃなかったら、それは試験問題の方が悪いと思っていたと答え、子供たちを驚かせたらしい。ただ、この話は嘘で、ひろさんがこんなことを言ったには、子供たちに成績なんか気にしないで欲しいと思ったからなのだそうだ。

今の教育を改革する第一歩は、成績より、魚や大根の方がよっぽど価値があることを認識することだ。
本当に知的な人というのは、それを学校で学んだということはまず無い。むしろ、学校で教わったことが間違ったことであると早く理解し、実践を通して自分で学んで賢くなったのだ。
また、学校で強制される、狂気と断言できる膨大なカリキュラムなどに構わず、おそらく、その2割も無い必要なことを勉強すれば十分である。むしろ、無理に学校に付き合わされて、あげく大学まで出ながら小学校の算数も分からない馬鹿なことになるよりずっと良い。何より、せっかくの若い素晴らしい日々に、もっと良いことを学ばねばならない。学校では意図的に大部分を閉ざしている上級生や下級生との交流や、地域、そして、学校の外にいる立派な大人達と交流することで、子供たちは本当に素晴らしいことを学べるのである。







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友達がいないなら霊気をまとえ

子供の時に読んだ漫画の中で、性格がねじれていて友達がいないという中学生の男子がいたのだが、彼が、学園生活を特に困難なく過ごしていたり、修学旅行に不都合なく参加しているのを見て、非常に違和感を感じた。この漫画の著者は、友達がないことが本当はどういうことか、まるで理解していないのだろう。

他の漫画やアニメでも、友達がいない美少女の寂しさ、悲しさが哀感もって描かれ、涙誘うに十分なものも多いのだが、やはりどれも現実味がない。
ところが、平坂読さんの「僕は友達が少ない」という小説は、基本的には娯楽作品なのであろうが、私が知る限りでは、友達がいないことの実際に関しては非常にリアリティーがある唯一の創作作品である。それが著者の体験でないとしても、そいういったことが本当に分かる人をしっかり取材したのだろうと思う(著者は、自分も友達が少ないことを折りに触れて書いてはいる)。それが、主人公の高2男子に起こったことであれば、「お前も大変だなあ。まあ、負けるな」といった感じで読んでいられるが、ヒロインの少女達のこととなると、とてもいたたまれなく感じる。別に女の子をひいきするというのではなく、男の場合は、そうやって鍛えられることも良い一面はあるのだし、それは、女の子の場合にも言えなくもないが、やはり、女の子の場合は、見るに耐えないと感じる。

尚、全くの創作ではなく、実話や、実話を元にした作品もあるが、それらの中には本当に深刻なものもある。たとえば、絵本の「わたしのいもうと」がそうであるが、まさに救いようのない悲惨なもので、そんなものを読むと、もう人類は滅んでもいいやと、私は本気で思うのである。
だが、いくらか軽く描いた「僕は友達が少ない」でも、それに通ずるようなところは十分にある。

例えば、友達がいないと、学校の遠足や修学旅行が楽しくないというだけでなく、いろいろな試練が降りかかる。まず、バスや電車で、座る場所があらかじめ決められていれば、隣の人の迷惑そうな視線に数時間黙って耐えればいいだけであるが、「好きなように座れ」などと言われたら、どこに座ったらいいのか分からない。「僕は友達が少ない」でも、ヒロインの1人が、遠足や修学旅行のグループ分けで困った経験を話す場面がある。彼女は、美少女で優秀で、その上、家が金持ちでプライドが高く、クラスの余り者を寄せ集めたグループに入れられるのが屈辱であったのだが、まあ、そんなことも実際にあると思う。私の場合は、自分が余り者以下だったので、そこにでも入れてもらえれば文句はなかったのであるが。
ちなみに、大人になってからの社員旅行であれば、電車やバスでは、男なら、1人で堂々と2人分の席を占有するふてぶてしさが欲しいが、実際は、なかなかそうもいくまい。これに関しては、竹村健一さんは、「嫌な思いをしてまで社員旅行なんか行くな。だが、最初からきちんと断れ」と著書に書かれていたのを憶えている。私もそうすべきと思う。ただ、私は、2座席(あるいは3座席)占有派、ホテルでも1部屋占有派である。やり方は、以下の通り。

友達がいないと、学校や集団組織は戦いの場である。いや、その考え方が間違えていると言われれば、認めざるをえいない。しかし、現実に出来る対処をしないと命を落とすこともある。
では、どうするか?
最近は聞かなくなったが、栗山天心さんという、教育関連の事業家がいた。かなり成功されていたのだが、本当にどうしたのだろう。彼の本はどれも素晴らしかった。ある本で、栗山さんは、古くからある格言を現代風に直していたが、それらがことごとに味わい深かった。
例えば、「百見は一験にしかず」「歩かぬ犬は棒にも当たらぬ」「危ない橋も走って渡れ」「棚が無ければボタモチ落ちず」「思い立たねば吉日は来ぬ」・・・ずっと昔に読んだものなのに、スラスラ出てくる。栗山さんが実践の中で導き出した人生哲学であり、本物であると思う。
その中で、「能ある鷹は爪を磨く」というものがあった。これは、あまりひねりのない、当たり前のような言葉であるが、次のような説明が実に印象的だった。
「大きな銃を持った大人より、ナイフをいつも磨いている少年の方が不気味なのだ。」

つまり、強い雰囲気、凄味、迫力、波動、オーラをまとうことだ。
なんでもいいから、自分で探し、良いと思ったものを磨きに磨くことだ。
私は、多くの強力な人物達に逢った時、彼らが、「生きるための武器を持て」と言うのをよく聞いたものだ。そして、その武器が本物になるほど磨かれた時、あなたは、強い雰囲気、迫力、オーラをまとう。

オーラ(AURA)とは、雰囲気、霊気、霊的エネルギーという意味である。
我々は、生きるための武器を自分で磨きに磨くことにより、武器そのものを超えた霊気をまとうのである。それは、人を超えるがゆえに、誰もあなたに敵しえない。
マイナスの理由にしろ、AURAをまとう決意をするなら幸いである。







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名前:Kay(ケイ)
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