もし雨を降らせることが出来るなら、何でもできるだろう。
ただし、雨を降らせるのは、あらゆるものが本当に雨を必要とする場合だけだ。
必要とする雨が降らないなら、降らないだけの理由がある。
それを解消することだ。
魔法の原理とはそんなものなのだ。

長い干ばつに苦しむ村に、優れた雨乞い師が招かれた。
雨乞い師はテントを建てると、そこに3日篭った。そして、4日目に雨が降った。
驚いた人々が尋ねた。
「何をしたのですか?」「何もしない」
「なぜこれまで雨が降らなかったのですか?」「村が神の意志に沿っていなかったからだ」
「なぜ雨が降ったのですか?」「私が神の意志に沿ったからだ」

神の意志に沿うとはどういうことだろう?
それを知るには、神を知らねばならないが、我々は神を直接知ることはできない。
しかし、ゴッホを直接知らなくても、ゴッホの絵を見れば彼を知ることは出来る。
なら、神の顕現である大自然を真摯に観察すれば、少しは神が分かるかもしれない。

大自然は完璧な秩序をもって動いている。
そこに完全な法則を見ることができる。
正確さ、調和、そして、果てない繰り返し。
あらゆるものが、どんな小さな1つのものにいたるまで完璧なハーモニーを奏でている。
だからこそ、ゆるぎのない強さ、至高の美があり、生活に疲れた者に旅愁にも似た荘厳さを感じさせるのだ。

ニーチェは、気紛れが貴族の特性と言った。
その通りだ。
貴族は神に従っていない。
日本の武士もいつもそうで、その歴史の終りには世間の範であることを目指したが、所詮は神の意志に沿っておらず、最後まで悲惨だった。
武士の特性とは差別主義でしかなかったのだ。
我々は貴族や武士になってはならない。
神は気紛れでないし、厳格に公平だ。

正確に、意義あることを、決意も熱狂もなく、ただ淡々と繰り返す。丁度、太陽や月がそうであるように。
限りなく公平に与える。太陽の光も、風も、雨も、富者、貧者、善人、悪人を区別せず恩恵を与えるように。
軌道の歪みは、欲望を捨てることで容易に修正される。
なぜなら、身の程を知る慎ましい心は神の心と溶けあい、いつもその声を聞けるからだ。

具体的に言うなら、決まった時間に決まった量の食事をすることだ。
ラマナ・マハルシだって、結局は、最上の修行とは、清らかな食事を適切なだけ食べることと言ったのだ。
自然は何も甘やかさない。満腹するまで食べて自分を甘やかすなら、神の意志に沿っていない。
神は人に自由意志を与えたけれども、それを支配し、神の意志に沿うことで、人は神と似てくるという驚くべき特権が与えられているのだ。







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