自殺がなぜいけないのだろうか?
いろいろ聞いたし、考えもしたが、どの理屈も憶えていないところを見ると、どれも正解ではないのだろう。
正解であれば、深く記憶に刻まれるからだ。

自殺とは、身体を捨てる行為だ。
しかし、自殺する者が本当に捨てたいのは心だろう。
心を捨てる手段が身体を捨てることであると判断したのだろう。
それはなかなかの洞察だ。身体と心が同じものであることを見抜いたのだから。
しかし、自分が自分を捨てることはできない。
「日本人はみんな嘘つきだ」と日本人が言ったら、その本人も嘘つきなので、日本人は正直者ということになってしまう。

自殺する者は、身体(=心)を捨てる前に、世界を変えたいと思うはずだ。
しかし、描いてしまった絵を変えられないように、結果としての世界は変わらない。
しかし、心は変えられる。
嫌な絵だと思っていたものが、気分次第で素敵に見えるようなものだ。
そうすれば、世界に関して、新しい結果を出すこともできる。
描いてしまった古い絵は変えられない。
しかし、その絵の見方は変えられる。絵の見方が変われば、違った新しい絵が描ける。

世界の見方を変えるには、心を変えれば良い。
心を変えるには、個人的欲望に栄養を与えないことだ。
個人的欲望に栄養を与えないためには、個人的欲望を刺激するものを忘れることだ。
世間には、見境の無い営利主義、利己主義から出た、食欲、性欲、物欲を刺激するものが満ち溢れている。
そんなものを否定しても仕方がない。道徳や現代の宗教の欠点は、それらを否定することで逆に取り込まれることだ。宗教の偉い人ほど、食欲、性欲、物欲、そして、名誉欲が強く浅ましいというのは、ほぼお決まりだろう。
ただかわすことだ。避けることだ。
世間の人はかわすのが下手だ。それは、道を歩いていてすら分かる。他人をかわす能力がない。かわす気もない。
しかし、例えば性欲をかわすためにスポーツを始めても、度が過ぎて、勝利の欲望や名誉欲に取り付かれるまでになってはいけない。幸福な金メダリストなどいないし、金メダルを取り逃して執着するのは、描いた絵を変えようとするようなものだ。もし、金メダルを取れなかった結果の見方を変えられれば、それが幸福なことであることが分かり、金メダルに執着しなくなる(金メダルが取れなくなるということではない)。また、金メダルを取った絵に執着し、心を変えられない者もいるだろう。そんな者を見れば、本来は、どこかおかしいことはすぐに分かるはずだ。

世間の人は、酒を飲むといえば浴びるほど飲むか、全く飲まないかだ。適度に飲めることが良いのは分かっていてもそれが出来ない。適度に飲むことが、欲望をかわすことだ。
ただ、酒は、自分では適度なつもりでも、だんだん量が増えてくるので、水野南北のように、「1日1合」と決めたら、それを守ることが肝心だ。
私は、その意味で、「1日1食」「肉、魚を食べない」「満腹しない」「間食をしない」とだけ定め、それをずっと守っている。あまりに厳しい制限はなく、後は割りといい加減である。

かわすことが上手い者は自殺しない。
かわすことが上手くなれば、身体も心も厭うものではなくなる。
新しい世界を創れるようになる。
新しい世界を創れないことが、人生最大の罪だ。
それが、人生を無駄にすることだからだ。
なぜなら、新しい世界は、心と至高の英知の合作であるべきだからだ。







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