私は、人の死を全く悲しいと思わない。
自分の父親が死んだ時も、悲しい気持ちはなかった。
我々は、幼い頃から、死が辛く悲しいことであると教わる。私がその影響を完全に脱したのは割と最近だ。

人を木の葉に喩えよう。
葉は落ちないと、新しい葉が出て来れない。先に出た葉が枯れて落ちるのは当然のことだし、動物や虫や風に食われたりちぎられたりするのも悲劇ではない。
とはいえ、葉に個体性が無いわけでもない。同じ葉は2枚と無い。だが、葉が落ちたからと言って、何かが消滅するわけではない。葉の細胞は土に帰るし、生命は木の中に残る。
もちろん、これは例えであり、我々が本当に木の葉だと言うのではないが、このように、肉体の死は悲しむようなことではない。

たが、我々は死にまつわることを、煩わしいものにしてしまっている。
死の原因が癌等の重病であれば高額の医療費の請求が待っている。病院では死んだ直後に夜中であろうと死体の引取りを要求され、葬式のしきたりで遺族と親族が対立する。死と同時に配偶者や扶養家族の保険資格が喪失してケガも出来ない。
死んだ人が、社会的手続きをきちんとしておかないと、残された者は大変な目に遭う。
社会が営利的、利己的で複雑過ぎるのだ。

財産など持たないことだ。
私は病気になることはないし、事故に遭うこともないが、もし、心にスキがあって重い病気にとりつかれたら、食を絶つ。それで苦しまずに、動けるまま余裕を持って死ねるということもあるが、経験と直観で言うなら、老衰の時期でもなければ、それで病気も治ってしまうだろう。そして、別に、治らなくても構わない。私は死など少しも恐くは無い。
普段から、食を厳しく慎んでいると、病気にならないし、事故にも遭わない。心を前向きに明るく保ちやすいからだ。そして、万一重病になっても、死に備えて食を断つことも容易い。しかし、その時、美味しい饅頭の1つでも食べたら、「こんな美味いものが食えるなら、生きていることにしよう」と生命力がムクムク盛り返して元気になってしまう可能性も高い。なら、時々死にそうになることにも意味がある。古事記の天照大神の天の岩戸のお話は、案外にそんな意味があるのではとも思う。

死は恐くもなければ、悲しくもない。
死んだら千の風になると聞いたなら、いつまでも世間の信念に従わず、泣いたり悲しんだりしないことだ。
千の風とは、千の生まれ変わりだ。我々は死の直後に新しい身体に生まれ変わる。生きている間に、個人の心が至高の英知に従うよう訓練していれば、生まれる前のことも憶えているし、その生は幸福になる。仏教で言う極楽浄土、現代的に言えば他の進化した星に生まれるかもしれない。いや、心が至高の英知と溶け合っていれば、どこでも天国である。
個人的な欲望を持たず、心が宇宙の意識である至高の英知と溶け合えば、死がなんら恐ろしいものでないことが分かるだろう。
私には葬式も墓も無用だ。そもそも、この世の者ではない私の葬式に好きで来るものなどいない。
私は、年配の人に言われたことがある。「人の価値は、葬式の時に進んで来てくれる人の数で決まる」と。それは世間の価値であり、私には関心がない。
だが、今は、大半の人が世間の信念の泥沼の中にいる。彼らを刺激しないためにだけ、私も葬式には行く。結婚式も同様だ。「荘子」にも、一応の世間のしきたりに従う賢者の話がある。しかし、全く従わない賢者も登場する。そして、今は、当時から2400年も経つのである。私は賢者ではないが、愚かでもないというだけのことである。







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