「自分の心を見つめる」という言い方がよくあると思う。
インドの聖者や、西洋の神秘家にも、自分の心をただひたすら観察することを、一種の訓練のように指導する者もいる。

しかし、それは無理なことだと言ったらまずいだろうか?
「マザー・テレサを尊敬する心」
「シャガールの絵に感動する心」
「クラスメイトのあいつを嫌なやつだと思う心」
「あの美少女に情欲を感じている心」
「大ヒット映画を見て面白かったなあと思う心」
どれもちゃんと観察できるじゃないか・・・・と言われるかもしれない。
だが、よく考えてみよう。
例えば、一輪の花をきれいだと感じている心がある。その心を観察している。
では、きれいだと感じている心を観察する心は何が観察するのだろう?

2004年のアメリカ映画「サンダーバード」で、国際救助隊の宇宙ステーション(サンダーバード5号)がミサイル攻撃を受け、それに乗っていたジョンの救出のためにサンダーバード3号が飛び立つ場面がある。
ミサイルを放ったフッド(テレビシリーズからの悪役。超能力者)はそれを見て、「救助隊は誰が救出するのかな」と言うのを、私は印象的に憶えている。
誰も救出できないという意味で、フッドはそう言ったのだ。
救助隊は救助隊自身で救助しなければならない。自らを助けるしかないのである。

では、花をきれいだと思う心は誰が観察するのか?
心は心自身を観察できるだろうか?
それは出来ない。もし、そんなことをするなら、合わせ鏡になってしまう。
鏡と鏡を向かい合わせれば、それぞれの鏡の中には、2つの鏡が無限に写る。
自分を含めた風景を描いている画家が、絵の中のキャンバスの中に、自分と自分が描いている絵を無限に描かないといけないようなものだ。

救助隊はなぜ自分を救助できるのだろう?
それは、身体を救出すれば終りという制限を設定するからだ。
面白いことに、国際救助隊のリーダーであるジェフは、隊員である息子達を危険な目に遭わせるという葛藤に苦しむ自分の心は救えない。制限が付けられないからだ。

心自体を観察してはいけない。
だが、心は身体と全く等しいものだ。
心が病めば身体も病む。身体を健やかにすれば心も明るくなる。心身医学という言葉があり、心身医学の父と呼ばれるゲオルク・グロデックは、一切の病気は心因性と断言した。エミール・クーエは自己暗示の力で、医者が治せない難病をわずかな時間で癒した。
身体の中には、神経的に敏感な部分がある。インドではそれをチャクラと呼ぶし、中国では経穴 (けいけつ)と言い、一般的にはツボと言う。それらは経験的な洞察であるが、人により、特に敏感な場所は異なる。
そういった神経的に敏感な部分、心の動きをよく表す部分に意識を集中すれば、心を客観的に観察できる。胸、鳩尾(みぞおち。みずおち)、下腹部(丹田)などがそんな場所として知られる。額や頭頂に集中することがその目的に適う人もいる。
手塚治虫さんは医者で、自分や他人の身体を徹底して観察する中で漫画のストーリーの発想を得たのだと思う。彼は、晩年になって腕の衰え(特にハイスピードで描く能力)を感じた時でも、「アイデアはバーゲンするほどあるんだ」と言っていた。それは本当だと思う。
あるいは、実は身体と対応した存在である宇宙を観察するのも良い。これは秘法中の秘法だ。声優で歌手の水樹奈々さんは、非常にスピリチュアルな詩を書くが、彼女が天文や宇宙に深い興味を持っていることは偶然ではないと思う。







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