我が国にも、昔、島流しとか流刑と呼ばれる刑罰があり、厳しく孤立した島に、特に悪質な犯罪者達を閉じ込めたが、これは世界的に行われたことだ。例えば、セントヘレナ島は、ナポレオン一世の流刑地であった。
また、大犯罪者を収監する刑務所が、脱獄防止のために絶海の孤島に造られることもよくあった。有名なものではアルカトラズ島がある。
流刑地に送られた囚人達の苦難は常人の想像も付かないものであったに違いない。

ところで、この地球が宇宙の流刑地なのである。なぜそんなことが言えるかというと、そう考えると、あまりに納得がいくからだ。
個人的欲望が強過ぎ、自分の快楽のためなら他人は死んでも構わないという性質の者達が、この地球に送られるのだろう。
なら、この世にいる人間も、その人間が作るグループや国もロクでもないものであるのは当然であるし、文句を言うのもおかしい。それが分かると、自分もまた、彼らと同じであるということに気付き、妙な仲間意識を感じるかもしれない。
きっと、あなたは、学校や職場、あるいは、家庭が辛く嫌な場所だと思っているだろうが、映画などで見た流刑地を想像してみれば、苦難や不都合があるのが当たり前であることが分かるだろう。地球自体が流刑地なのだから。
流刑地での囚人は、ただ、耐えるしかないのである。そして、タフにならないと生きていけない。また、楽に生きるための、知恵、力、技を修得する必要もあるだろう。それは自分でやらないといけない。でないと、やられる一方で、誰も助けてくれない。
人生訓や成功哲学などと言えば聞こえは良いが、何のことはない、それらは、流刑地で楽しく生きるための知恵とノウハウである。
この世で聖人と称えられる人も、重大な欠点を持っているのは当たり前であろう。彼らも、所詮、流刑人で、他の囚人よりわずかに進歩しているに過ぎないからだ。
ある世界的に有名なロックグループが崇拝していた聖者が、信者の女性に「邪まな」ことをしたとして、そのロックグループのメンバーは失望して離れていったという話がある。後に、その話は誤解であったということになったが、仮に本当だとしても、何の不都合があろう。たとえその聖者がロリコンの変態であっても問題ない。皆、どうしようもない囚人なのだ。際立ってマシなところがあれば崇拝に値するではないか?現在のインドのある有名な聖者は、神の力を持つと言われる一方、美少年趣味という話がある。それはデマかもしれないが、本当であっても、他のことで良いことをしていれば十分ではないか?ソクラテスだって美少年趣味であったのだ。

釈迦やイエスなんて人は、おそらく、本来は地球に生まれるべき者ではなかったが、地球の人々を教化するために、あえて地球に生まれたのであり、彼らは修行をして悟りを開いたのではなく、最初から悟っていたのだろう。前世の記憶も全部持っていたに違いない。
地球よりはるかに進歩した星の住人であった彼らの知恵と比べれば、地球人類の中のどんな大天才の知恵も猿知恵である。
これも、そう考えると、あまりにつじつまが合う。

そして、我々も、元々は進歩した星にいたのだろう。というのは、私は、幼い頃から、何かの瞬間に、突然、安らぎに満ちた、幽玄とも言える美しい世界の情景が心に浮かび、それを非常に懐かしく感じるのだ。
多くの人も同じことがあり、それが、天国とか、極楽浄土だとか考えられるようになったのだろう。
浄土系仏教の、極楽浄土の思想も、こう考えると、これもまた、実に自然に思える。そして、浄土系仏典である「無量寿教」「観無量寿教」「阿弥陀教」の内容を理解できるように思う。
我々も、進歩すれば、また、進歩した星に生まれることが出来るだろう。そのためにすべきことは、個人的欲望を無くし、いまだ内奥に隠し持つ至高の精神を感じ、心が幻想の権威を捨て、その至高の精神に従うことであると思う。至高の精神とは、宇宙に遍満する意識でもあるのだろうと思う。







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