学校で、授業中、居眠りしているくせに、当てられるとちゃんと正解を言うヤツがいる。そいつは、居眠りしていても聞いたことを憶えている。
ただ、実際は、いつもではなくても、そんな経験は誰にでもあるものだと思う。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、学校時代、授業中に積極的に手を上げて発言することはなく、いつも窓の外をぼうっと見ていたが、指名されると、必ず正解を答えたようだ。

また、格闘技の試合やラグビー等の激しいスポーツで頭部に打撃を受けた後のことは全く憶えていないが、ちゃんと試合をしていたという経験を持つ人は案外に多い。
プロレスの前田日明さん、空手の大山倍達さんらの本にそんな記述があるが、自分で経験している人も割にいると思う。

ビギナーズラックという、初心者が思いがけず優れた成果を上げるという話は、統計的には否定されるかもしれないが、一瞬、負けるはずがないという不思議な感覚を得て、不思議にうまくいくということは、初心者に限ることではないが、やはりあるものだ。それを、初心者がやる場合は、本人も見ている者も印象深く憶えているので、そういった言葉も出来たのだろうが、そんな時には、初心者のように、経験とかセオリー(理論)を超えているものだ。ドストエフスキーの「賭博者」は、そんなテーマを扱っている。これらは、初心者が緊張して舞い上がっていたり、気分がひどく高揚しているような時、つまり、上にあげた、居眠りや記憶がない時のように、自意識の希薄な状態で起こるように思う。
そして、自意識がない状態、つまり、無我の状態の時の方が、普段よりずっと優秀なのである。

こういったことを見ていると、人間について、いくらかの重要なことが分かる。
まず、我々の意識は、自意識だけでないこと。そして、自意識が邪魔しない方がうまくやれるのかもしれず、無意識の方がはるかに優れているのだ。
普段は、自意識が邪魔をして失敗しているのではないかということである。

学校というところは、しっかり目を覚ましていることが強要され、無意識を徹底的に無視するようしつけられる。結果、無能というよりは、アンバランスで落ち着きのない人間になる。
ただ、こういったことは実際には昔から知られており、そんな知識を使って、著書やセミナー等で、無意識、あるいは、潜在意識の活用方法を説く者もいるが、彼らの言う方法でうまくいくことはなく、むしろ、無意識への扉を閉めることになる。なぜなら、利益を得ようとする欲望は自意識の領域であるのだから、「潜在意識の活用」なんてことを考えているうちは、自意識が無意識を邪魔するのであるから当然である。

また、インドの聖者は、自意識を消し去ることを指導するが、自意識も必要があって存在しているのだから、消してもいけない。
大切なことは、自意識が無意識に従うことである。そうすることで、自意識と無意識は溶け合う。
個人的欲望のない純粋な心の中に閃いたことを行うことが無意識に従うことだ。最初の話で言えば、居眠りをしている時に、心が純粋な状態になることが多く、普段、ちゃんと勉強していれば、無意識が助けるのである。
あなたが一滴の水であるとすれば、海に溶け込んでしまうことだ。愚かな自意識は「それでは自分が消えてしまう」と恐れる。実際、そうすることで、親や子も他人と同じに思えるようになるし、どんな美女や美男にも執着しなくなる。だが、それで実際には、親や子と以前より仲良くなり、美女や美男の本当の価値も分かる。ただ、本人にその自覚はない。自分が消えてしまうと考えるか、広大な海の中の全てを知ることが出来ると喜ぶかの違いである。海に溶け込んだ雫は、海と一体になるのだ。







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