最近、つくづくと思うのが、「利己的な人間というのは、まだマシだ」ということだ。
利己的な人間とは、自分さえ良ければ他人がどうなろうと知ったことではないという考え方で生きている者のことである。それだけなら、まだ良い方だということだ。
それどころか、積極的に人を苦しめ、困らせて喜びを得ようとする者が明らかに多くなってきている。

例えば、人が2人通れる幅の道があり、もし対向して同じ側を歩いている場合は、どちらかがよけないと衝突する。
そんな時、最も良いのが、道を譲りたいと思うことだ。
次が、相手によけて欲しいと思うこと。
最も悪いのが、相手がよけるべきだと思うこと。
もうかなり昔、道を譲らない若者が多いことが指摘されたが、彼らが大人になったせいかどうかは知らないが、ほとんどの者が「相手がよけるべき」と考えているように思う。
しかし、それは、いまやマシなのである。
今は、異なる側を対向して歩いていても、相手の側にわざわざコースを変え、相手によけさせようとする人間が多くなってきた。おそらく、それは無意識になされていおり、本人に自覚はない。

その家の住人に恨みがあって放火するというのは、良いはずがないまでも、理解できる部分はあるとしよう。
しかし、火事になると、みんなが大騒ぎして面白いから火を付ける者が、これからますます増えるだろう。
前者は、「恨みがあるからやった」で、後者は「面白いからやった」であり、いずれの場合も「いったい、何が悪いのか」と思っているのである。
女性をレイプして、「気持ちいいからやった。いったい、何が悪いの?」という人間は、今も多いし、これからはもっと増える。一般的に、これは、女性の人格を無視したことと言われるが、今後はさらに、無視ではなく、女性の人格を破壊するようなことを行わずにおれない者が増えてくる。「ただのレイプじゃつまらん。もっと刺激的に、もっと女を痛めつけ、屈辱を与えるべきだ」とする者である。

さて、なぜこのような者が増えてきたのだろう。
(個人の)心を優先させたからだ。
心は、面白いこと、楽しいこと、楽なこと、気持ちよいことを求める。
美味しいものを沢山食べたい。自分の安全を第一に守りたい。他人より上の立場に立ちたい。お金持ちになりたい。格好の良い、美人の恋人が欲しい。
心はそう思う。
しかし、心より上のものが存在する。それは、
「質素な食事をしろ」「食べ過ぎるな」「弱い者を守れ」「見下すな」「余分な金を持つな」「自分を磨けば相応しい相手が見つかる」
と言っている。そう言う存在を、神、より高い自己などと言ってきた。フロイトは超自我と言い、ある哲学では、それをただ意識(意識と心は異なる)と言う。
最も抵抗が少なく、意味が分かりやすいという理由で、高位の自己と言うが、我々は、身体と一体化した心を優先し、高位の自己を無視し続け、いまや、高位の自己の存在を忘れてしまった。
心に支配権を与えると、心の性質上、楽な方、楽しい方、快楽を求める方向にのみ突き進むことになる。なら、現在の状況になるのは当然である。
だが、いくら楽しい状況、楽な状況、快楽に溺れる状況を得たとしても、心が支配権を持つ限り、快楽の欲求は増え続けるばかりだし、同時に、不安も増大し続ける。
高位の自己に支配権を渡し、心がそれに従うことで、平和が得られる。
現状を続ける限り、他から滅ぼされるのではなく、我々は自滅するのである。その前に、我々を滅ぼしてくれる者がいるなら、むしろ幸いである。
破滅を避けたいなら、少しでも、心を高位の自己に従わせることだ。心の欲求ではなく、高い意識で良いと感じることをやってみることだ。その中で最も良いのが食を慎むことだ。簡単で分かりやすい。空腹でもないのに食べないことだ。満腹するまで食べないことである。今は、「こんなところでまで食べないといけないのか?」と思わせる者が多くなってきた。電車の中、駅のホーム等のベンチ、路上でバリバリと袋を開けて貪り喰う連中の醜さ、おぞましさをよく見ることだ。それが、高位の自己を捨て去り、個人の心を王様にしてしまった者のなれの果てである。





↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ