8月5日にチリのサンホセ鉱山で発生した落盤事故では、私は、鉱山作業員達の生命が絶望視されていた時の彼らの家族の気持ちには同情したし、作業員達の生存が確認された時には、彼らの家族の喜びよりも、閉じ込められた作業員達の不安や彼らが過ごしている環境の過酷さを思うと陰鬱さを感じた。しかし、救出成功のニュースには喜ばしいとは思ったが、その報道があまりに過剰と感じた。

我々が何かに心を動かされるというのは、まるでその当事者の誰かになったような気持ちになることに違いない。それはつまり、他の人の心に同調するということで、以下では、短く、「同調する」と記する。
同調には想像力が必要ではあるが、ごく自然に湧き上がる想像でなければ、真の感動、感激は得られない。つまり、人工的な、作られた想像による同調は不自然な偽物だ。
私は、鉱山事故の発生当時の家族や作業員達には強く同調したが、救出成功の時には一瞬以上に同調することはなかった。誰かに作られた同調はしなかったのだ。

それは、つまり、こういうことだ。
サッカーの試合で味方するチームが勝った時とか、オリンピックで応援する選手が金メダルを獲得した時、私は、選手達との一瞬の同調を感じるが、すぐに離れ、熱烈なファンとはほとんど同調しない。それは、チリの鉱山事故の救出成功の時と同じだ。
そして、本当は、誰もそうなのだ。
「そんな馬鹿な!サッカーで日本が勝利した時、俺はすごく感動するぞ!」と言う人は多いかもしれない。もちろん、その場だけの感動なら問題ない。しかし、なぜしつこく感動しようとするのだろう。まるでそれが義務であるかのように。
それは、何者かにそうさせられているだけなのだ。そうなるように煽動している者がいることは、ちょっと考えれば分からないでもないと思う。
私だって、例えば、浅田真央選手が優勝したら楽しいと思う。しかし、その特集番組が作られ、連日過剰な報道が行われることには、無関心だけでなく、憂鬱を感じる。
もし、そういったものに感激しているなら、本当はいったい何に同調しているのだろう?それは、作られた幻想に同調しているのである。その幻想はもはや、浅田選手から離れたものだ。
なぜ、単に、「浅田さん、良かったね。立派だと思う」ではいけないのだろう?

「タイタニック」という映画で、私は非常に感激した部分がある。
それは、102歳のローズの夢の中の光景だ。17歳のローズが、笑顔のボーイにドアを開けてもらってタイタニック号のホールに入って行くと、一等船室の客も三等船室の客も、タキシードやナイトドレスや作業服のようなものなど様々な服装の男女が完全に混じり合い、皆一緒にローズに温かい笑顔を向ける。そこの階段を上がった踊り場には、タキシード姿のジャックが待ち、2人が抱き合いキスをすると、皆が一緒に祝福する。
そんな世界であって欲しいという思いを現したに違いないキャメロン監督に、私は強く同調したのだ。

「フランダースの犬」は、物語の舞台のベルギーも含め、世界的にはあまり好評でなく、日本での人気の高さがむしろ異例と聞く。それが本当かどうかは知らないが、どこか分かる感じもする。
この物語は、同調するものが多過ぎる。著者は多分、世の中に不条理を強く感じていただろう。そして、登場人物でいえば、アロアの悲しみ、コゼツ(アロアの父)の罪悪感、ネロの祖父の無念、ネロの絵を落選させた者の後悔。ネロに関しては、アロアとの交際を禁じられ、祖父を失い、仕事もなくし、生まれた時から住んでいた小屋も追い出され、絶望しながらも、偶然に拾ったコゼツの財布を届けたことへのせめてもの見返りにパトラッシュの世話を願い、受け入れられると自分は去る。しかし、年老いたパトラッシュは与えられた食べ物に見向きもせず、ネロを探して極寒の街路に飛び出す。
誰も恨むことなく、ただ月光に照らされたルーベンスの絵をレクイエム代わりに死んでいくネロと、そばに寄り添うパトラッシュ。日本人は本来、そんな彼らやアロアに同調できる稀な民族だったかもしれない。

「マッチ売りの少女」となると、今や、日本人は想像が出来ないことから、まともな同調はできないかもしれない。しかし、アンデルセンには、あの少女のモデルがいたのだ。だが、豊かだからといって、少女の状況が想像できない訳ではないと思う。それは感性の問題だろう。

心の騒音を伴う同調は、価値のないものへの、ニセの同調だ。
しかし、静かに、何かを探すように心を見つめるような同調は、きっと、価値のあるものへの同調なのだろう。

ところで、チリの鉱山事故で考えたことがある。
それは、核兵器対策用の地下シェルターというものが滑稽なものだということだ。
核兵器攻撃に備え、地下に鋼鉄と鉛の壁で作った地下シェルターがあちこちに作られているらしい。見たことはないが、多分、本当にあるのだろう。
あなたは、あんなものの中に住みたいだろうか?
放射能が消えるまで、あんなところで暮らせるだろうか?
チリ鉱山事故で、地下の密室に多人数で過ごすことの過酷さが知られたが、シェルターに入る人は、広々とした空間を確保する計画なのだろうか?つまり、自分と家族だけ入るつもりなのだろうか?
地下シェルターに入ったからといって、どうにかなるだろうか?
多くの人が正しく同調することに目覚めれば、仮に善意であっても、地下シェルターを作ろうなんて発想はなくなるのではないだろうか?
それには、人工的な作られた想像による同調、幻想への同調を見極めることが大切だ。
映画「燃えよドラゴン(原題:ENTER THE DRAGON)」で、リーの師匠が良いことを言っていたのを思い出す(最初の5分に価値のある映画だと思う)。
「敵は幻想の裏側に意図を隠すものだ。幻想を壊せば勝てる」







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