ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

崇めるという気持ち

神話をなくした国は滅ぶと誰かが言ったが、言った人はその訳を理解しているのか、それとも直観的に分かったのかは知らない。しかし、それは本当のことだ。
思想家の吉本隆明(「たかあき」「りゅうめい」いずれも使われる)さんは、「共同幻想論」で、国家が幻想で成り立っていることに気付いたと述べているが、神話と関係付けると、「神話という幻想で、民族としてのアイデンティティー(同一性)を守っている」という意味にもなると思う。そういった1つの主体性があるのだから、フロイトは、民族や国家の精神分析すら出来ると言ったのだろう。(ただ、彼は理論は超一流だが、精神分析という実践は下手だった。それでよく誤解される。)
しかし、そういったことは2番目の理由ではないかと思う。
もっと単純で、もっと重要なことがあるのだ。

国家元首を神として崇めるというのは、善政さえ行われていれば、それで案外、国は栄え、民衆は幸福なものなのだ。
だが、これも常なのだが、元首自体が堕落してしまうのだ。日本のように、元首であった時すら高貴さ、高潔さを持ち続けた日本の天皇というのは、特例中の特例であり、もっと見直してみても良いと思う。ただ、周囲が良くない場合が多かったので誤解されているのだ。

結論を言うと、人間には「崇める」という気持ちが絶対に必要なのだ。
崇めるとは、自我の上位に、自我に絶対的に優るものを置くということだ。自我は王様になってはならないのである。自我は、自分の上に、より強く尊いものを置いた時に制御されているのだ。すると、偉大な人間の側にいれば、その偉人に似てくるように、自我はその尊いものに似てくるのである。
ギリシャ神話や古事記の神様は、必ずしも高潔な性質ばかりを持っているのではない。だが、それでも人は崇め、従うのである。それは時には理不尽である。しかし、神様には、必ず人間に優るところがある。1つは、その神様が司ることでの絶対的な力であり、そして、もう1つが、神様は決して誓いを破らないことだ。神様ですら、掟には従っている。自分で立てた誓いを必ず守るという高貴な掟だ。これは、人には極めて難しいことである。
だから、人は、神様を「崇めないといけない」のではなく、「崇めさせてもらえる」のである。人には、崇めるものが必ず必要なのだ。それが無いと、暴走した自我が、自分や民族を滅ぼすのである。
国家元首は、いかに神と崇められても人間であり、彼自身も、崇める絶対的なものを持たないといけないのだが、それを持たなくなる危険性が高いのが自我の性質だ。そして彼は堕落する。しかし、日本の天皇はそうでなかったのである。きっと、天皇には、何か貴い誓約があるのだろう。それを持つものが神である。我々も、もし神のように誓いを絶対的に護れるなら、神と言って差し支えないと思う。

神は死んではならない。人は崇めるものを持たなくてはならない。
だが、ちょっと楽な話をしよう。
いつの時代でも、若者とは無作法なものだ。若者は道を譲らないし、そもそも、前を見て歩いていない。憤る向きもあるだろうが、あなたも若い頃はそうだったかもしれないのだ。
私も、通勤中に中学生達とすれ違うが、確かにそうだ。
だが、思わず道を譲ってしまうというか、譲らざるを得ない相手がいる。譲るのではなく、譲らせていただくような気持ちだ。
中学生なのだが、ギリシャ神話のアルテミスのような美少女がいるのだ。お前はアルテミスに逢ったことがあるのかと言うなら、あるといっておきたい。彼女がキュンティア(アルテミスの別名。英語のシンシア)なのだ。
私の自我を屈服させる気持ちを起こさせる相手がいるのは偶然ではない。宇宙の英知が仕組んだことであり、その意図を感じ、アルテミスを通し、宇宙の英知を自我の上位に置くことで、私はそれと溶け合い、一体化するのである。だから、奇跡も、この世も私のものなのである。神は神に道を譲る。彼女と私もそうだ。これを、神が神に逢うというのである。







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IT技術者になる真の方法

IT技術者になりたいという人も少なくないと思う。
しかし、立派に仕事の出来るIT技術者に、IT技術者の仕事とはどんな様子か・・・つまり、楽しいか、厳しいか、やりがいがあるか、辛いか、プライドを持てるか等と尋ねると、人によって返答は著しく異なる。
それが、それぞれのIT技術者の主観とか偏見ということもあるのだろうが、そもそもが本当に皆、かなり違う仕事をしていて、待遇等も著しく違うという面もある。もちろん、IT技術者と言っても範囲は広いが、たとえ同じ分野であっても、人によって、やっている仕事は相当違うものなのである。

私に、IT技術者になることを勧めるかと聞くなら、私の回答は最も変わっている。
それは、「良い仕事を引き寄せることが出来るならおやりなさい」である。
そして、これは、案外に本質を突いているのである。
どんな仕事でも同じだ。俳優になるにしたって、その仕事が楽しいかどうかは、仕事の内容次第だ。もちろん、最初から好きな仕事ばかりとはいかないだろうが、それでも、若い頃から、面白くない仕事であったとしても、いろいろな意味でだが、良い仕事が来る人とそうでない人がいるのである。

例えば、ITの仕事の中でも、企業の業務システムを開発する、いわゆるSE(システムエンジニア)の仕事は、一言で言うなら、「お客様のわがままを聞く仕事」だと私は思っている。非常にしんどくて嫌な仕事であることも確かだ。だが、そんな仕事をしながらも、どこか楽しい思いをよくする人がいるのである。
例えば、天使が付いていて、限度はあるにしても、力を貸してくれるなら、そうでない人より、はるかにうまくいくし、楽しいに違いない。そして、そういった感じのことは確実にあるのである。

戦(いくさ)において、戦力や戦術というのはもちろん重要だが、それが全てではない。勝敗を分けるのは、状況を作り出せる意思の強さである。ビジネスや恋愛も全く同じだ。
全ては、現象界を支配する能力が決するのである。松下幸之助や本田宗一郎は、世間的なことも十分にやったと思うが、例え同じくらいやっても、さっぱり駄目な者もいるのである。

状況を支配するには、誠実さや不屈の闘志なども必要であるが、その上で必要なことは、強い信念と人々のためを思う心であるに違いない。
ビル・ゲイツは、一貫して、それまでは一部の人達のものであったコンピュータを誰でも使えるものにしようとし、実際にそれを成し遂げたし、スティーブ・ジョブズも、ゲイツとは異なった視点でそれを実現するため、コンピュータを楽しいものにし、誰もが喜んで使おうとするものにしたのだ。
昔で言えば、ヘンリー・フォードは、それまで政府や金持ちのためのものであった自動車を、自動車会社の工場労働者でも買えるものにしようとして、それに成功したのだ。
だから、彼らは幸運であり、必要な状況を全て引き寄せ、時代の流れまで作り出した。
どんな仕事でも、それを通して、人々の役に立とうと思うなら、適職になるだろうし、運にも恵まれるに違いない。







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果てなき自信を得る方法

「自信を持て」と言われつつ、「謙虚であれ」と言われる。
さらに、「謙虚であれ」と言われつつ、「卑屈になるな」と言われる。
確かにその通りなのかもしれないが、これらに関する世間のさじ加減は独断的で、実際のところ、我々は混乱してしまっている。

だが、誰もが、今、このままで自信を持つべきなのである。
自信があってこそ謙虚でいられるのだ。自信の無い、表面上の謙虚さを卑屈と言い、それは、相手によって露骨に態度を変える。自信の無い者が、弱い相手に見せる傲慢さがその本性である。
人は自信を持つべきだし、誰もが、自信を持つに値するはずなのである。
壮大なる自信の言葉を述べよう。

私は世界の所有者、
七つの星と太陽年の所有者、
シーザーの手腕、プラトンの頭脳の所有者、
主キリストの愛、シェイクスピアの詩の所有者。

これは、アメリカ最大の賢者ラルフ・ウォルドー・エマーソンのエッセイ集「精神について」で、「歴史」と題したエッセイの冒頭に書かれた詩だ。
エマーソンは、「歴史」の中で述べている。
「偉人や英雄について書かれたものを読むとき、自分について書かれていると思わないといけない」
世間に教育されていない子供はみんなそうしていると言う。
福音書は、イエスであるあなたについて弟子達が書いたのであり、「神統記」は、詩聖ヘシオドスがゼウスであるあなたの物語を描いたのだ。
そして、エマーソンの「歴史」や「自己信頼」を読むと、それが紛れもない事実であることが分かる。
ジョセフ・マーフィーは「あなたは不安なしに生きられる」(絶版)で、旧約聖書を読む時、その意味を知りたければ、かつて自分がそれを書いた時のことを思い出せば良いのだと述べている。
シェイクスピアもウェルギリウスも、全て自分が書いたものである。
サルトルも言った。本を読むことは、それをもう一度書くことであると。
ダ・ヴィンチの絵を見た瞬間に自分でそれを描いたのであり、ベートーヴェンを聴く時にはベートーヴェンになっているのだ。

ひろさちやさんは、「空海入門」で、普通の仏教は、仏陀になることを目標とした教えだが、空海の密教は、今すぐ仏陀になって、仏陀として生きる仏教であるという。
ニサルガダッタ・マハラジは言う。「神であることを体験しなさい。体験が一番だ。時間も空間も超えた者。身体も心も超えたものとして振る舞いなさい」
仏陀とは、人のままの仏(如来)であり、キリスト(神人)とは、人のままの神であろう。なら、仏陀が傲慢なはずがないし、キリストが謙虚でないはずがない。
いかに王でも、奴隷の真似をしていれば家来は従わない。王は王らしくあるべきである。
あなたが本当はキリストであっても、キリストらしくなければ神の力は発揮されない。イエスは、それを教えるために、キリストらしく生きる手本を示したのである。それを弟子達が記したのが福音書である。













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自分の体重だけを利用する鍛錬の神秘

優れた格闘家等には、腕立て伏せやスクワットといった、自分の身体の重さのみを負荷とする単純な運動を、非常に多い回数行う者がよくいる。
こういったトレーニングのやり方は、おそらく、スポーツ科学的には正しくないのだと思うが、これらは、科学を超えた英知である神が、敬虔なマーシャルアーチスト(武道家)やアスリートに教えた神秘の鍛錬法だ。
また、これらは、広い場所も道具も必要とせず、どこでも出来、自重だけであるから、自然な感覚で出来、無理な負荷で身体を痛めることもない。
私は2009年8月から、まず、腕立て伏せをやり始めた。
はじめは10回がやっとだったが、毎日、1日も欠かさずやり、みるみる力が付くのを感じた。月に10回ずつ回数を増やし、現在は210回になった。
尚、私の腕立て伏せは、プロレスラー式の身体をゆするようにやるものではなく、ボクサー式で超高速にやる方法だ。体重の少ない人には向いていると思う。別にごく普通のやり方でもいいし、自分の好きなやり方でやれば良いと思う。

スクワット(基本的には、立ったりしゃがんだりの繰り返し運動)は、腕立て伏せより半年遅く始めた。それまではウォーキングをやっていたが、歩くのに良い場所は、人が多くて嫌になり、普通の道は横暴な運転をするドライバーを見るのが辛く、部屋で出来るスクワットにしたのだった。ところが、これが大正解だったと思う。毎日欠かさず続けているうちに、身体がすごく軽く感じるようになり、まるで体重が無いように感じることもある。動きが機敏になり、人込みでは、回りの人間が停止しているような不思議な感じがする。また、同じ方向に歩いている人達が、まるで止まっているように追い抜いているのに気付く。激しく腕を振り、荒い息をしながら必死で早歩きしている人を、ごく普通に歩いて軽く追い越してしまう。
これは、脚の強さももちろんだが、腰の骨(仙骨)の機能が発揮されるようになり、また、エネルギーを腹から脚にすっと流せるようになったからのように感じる。
私は、スクワットは始めてから半年ほどは30回くらいしかやっていないのに効果があったが、現在は150回となっている。もっとやれるが、時間がかかるのと、地味なのは別に良いのだが、やはり、スクワットには独特の辛さがある。しかし、辛さはやりがいにもつながるし、やればやるほど力がつく。
優れたプロレスラーは、スクワットは数千回やるとも聞くし、「プロレスの神様」カール・ゴッチは50歳を過ぎても1万回をこなしたという。

このブログで何度もご紹介している腕振り運動で、体内に霊妙なエネルギーを取り込んでいるのだが、腕立て伏せやスクワットのような多数回の反復運動自体にも同じような効果があると思われるのと、これらの運動には、エネルギーの使い方の感覚を得る効果があるのだと思う。現役時代のアントニオ猪木さんを見ると、一気にエネルギーを炸裂させる時の動きが素晴らしい。猪木さんも、相当な腕立て伏せやスクワットをやったようだ。
腕振り運動については、当ブログ内の下記のリンクの記事をご参照願いたい。
腕振り運動の効果、最新レポート

無理をする必要はない。お金も全くかからず、場所も道具もなしで、いつでもどこでも出来るこれらの運動の1つでも、毎日、たとえ5分でも良いのでやってみてはと思う。その見返りは驚くほどのものに違いない。







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愛せずにいられない男

人間にとって生きる技術とは、心を傷付けずに日々を送る技術だろう。心の痛みよりは死を選ぶこともあるし、名誉や愛のために死ぬというのも、結局は、それを失う心の痛みよりは死の方が楽に感じるからだろう。
それが理解できるなら、自殺が愚かであるという説明は難しくなる。
いや、世間的な考え方では、どうやったって自殺が悪であるという結論は出ない。
だから、せめて、「鈍感力」とかで、間に合わせの心の痛みを紛らわすテクニックがもてはやされるのである。
だが、世間をはるかに超えた英知には答が示せるに違いない。

インドの聖者ラマナ・マハルシが、イエスの磔の意味についてこう言っている。
「自我であるイエスが、十字架である肉体に磔にされて滅び、真我であるキリストが復活した」
日々の心の痛みは、十字架の生贄である。当然痛むし苦しい。だが、それが滅ぶと、内なる神我(真我)が現れる。神我と一体となった者がキリスト(神人)である。

アメリカの光明思想家ヴァーノン・ハワードは、「心がぐらついたら、ぐらつくままにしておけ。すると、それは抜け落ちる。その時、素晴らしいことが起こる」と述べているが、同じことを言っているのだろう。
荘子は、「すべてなりゆきにまかせ、作為をするな。思慮分別を捨て判断するな。つまり、心を虚しくするということだ」と言う。
ポール・マッカートニーは「 Let it be」 で、聖母マリアが、苦しんでいる自分に、「あるがままに」と言い、それを受け入れて救われたと言っている。
ハワードや荘子、あるいは、マッカートニーの言うことが経験的真理だとしても、そのままでは受け入れ難い。しかし、イエスの苦しみを思えば、それも耐えやすい。
心の痛みを感じたら、それは十字架上の生贄と思うのが良い。イエスのように、黙って殺されることだ。
だが、イエスには何の問題もなかった。彼は3日後に身体を創り直して完成した。彼は、3日で神殿を建て直すという言葉でそれを予言していた。身体は神の神殿であり、神は我々の中にいるということだ。
我々は、イエスほどに大きな変革を一気に行えないかもしれないが、日々の犠牲を奉げることで、やがてキリストになるのだろう。そう考えると、福音書に書かれたことと矛盾しないと思う。

ZARDの「負けないで」の中に、「何が起きたって、ヘッチャラな顔して、どうにかなるさと、おどけてみせるの」という歌詞があるが、本当にこんな男がいたら愛せずにはいられないだろう。なんといっても、キリストへの道を行く、高貴な心の持ち主なのだからだ。ただし、最後の最後までそれを貫ければだが。
これが、詩を書いた坂井泉水さんの実体験だったのか、あるいは、理想を描いてみせたのかは分からない。







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