ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

仕事の場でお客さん気分の大臣

昨日(7月3日)、松本龍震災復興担当大臣が宮城県庁を訪れた際、後から入室してきた村井宮城県知事に対し、
「お客さんが来るときは、自分が入ってきてからお客さんを呼べ」
と言ったいうニュースを見て、自分のやっていることが分からない人が大臣なのであると、とても残念に思った。

大臣は、お客さんとして訪問していたのか?
被災地を復興し、被災地の方々を救うという目的は二の次ということなのか?
もし、被災地のために役立とうという思いがあれば、その他のことなど瑣末なことのはずだ。
復興と言っても色々あるが、仮にもGDP世界3位の経済大国が、震災から4ヶ月も経とうというのに、被災者の方々に難民のような生活を強いて、世界に恥を晒しているのだ。
被災地を訪れた天皇陛下、皇后陛下すら、お客さんの雰囲気は微塵も無かった。あの方々なら、たとえお客様でも、ご訪問は有り難い。しかし、お2人は、自ら避難所の床に膝を付いて、被災者の方々を慰められたのだ。しかし、松本大臣は、自分はお客さんだと言うのだ。

さらに、「これはオフレコ(公表しないこと)、書いたら、その社は終わり」と言ったと書かれていた。
なるほど、確かに、マスコミは、良からぬ記事を出すことも多く、私も、それはそれで問題だとは思っている。それでも、民主国家では報道の自由は制限できないのだ。問題の解決は、我々が謙虚で賢くなることで解決すべきことだ。ところが、松本大臣の発言は、権力で恫喝すれば、報道の自由を奪えるという態度を平然と取ったということであり、民主主義の根本を否定したと言って間違いではないと思う。

大臣は、自分をお客さんだと思っているから怒ったと考えられるのだろう。しかし、そうだろうか?
仮にお客さんでも、まともな大人があそこまで言うとは思えないのだ。彼は、自分をただのお客さんではなく、貴賓だと主張していたと言っても、決して難癖ではないと思う。それでやっと、彼の発言は納得できるのだ。

もし、お客さんというものが存在するとすれば、それは税金で政治家を雇っている国民であるが、政治家が誠意と良心を持って仕事をしている限り、そんな風に考える必要もない。しかし、国民に奉仕する立場の政治家が、仕事での訪問を、お客さんになることと思っているのなら、君達は国民の下僕であるとはっきり言っておく必要がある。

企業取引きにおいては、金を支払う側が、一応客である。だが、いまどき、自分を王侯貴族のごとく扱わないからといって、ホストに傲慢な態度を取るクライアントは、誰からも軽蔑される。
良い取引きとは、払う金額に見合ったサービスが行われるのであり、サービス提供側と支払い側の立場は対等であってこそ、継続した良いビジネスになるのである。
確かに、ビジネスにおいては、このような理想が実現しないことも多いだろう。商売での駆け引きでは、限度はあっても、今のところ、接待や進物など事実上の個人サービスは付きものだ。しかし、それが無いはずの、政治の世界であれば、民間企業以上にクリーンであるはずだし、少なくとも、当事者がそれを否定するなど考えられないはずだ。

いや、政治であれ、ビジネスであれ、どちらが客だなんて言ってるうちは駄目なのだ。それでは時代遅れの程度の低い人間だ。
たとえ、いかに立場や力が強くても、相手を尊重し、お互い敬意を持ってこそ、何事も素晴らしい結果になると私は信じる。

かなり以前の話であるが、勤めていた会社で、当時、ソフトブレーンの会長であった宋文洲さんの訪問を受けたことがあった。初めての来社であった。
その時、当社の受付の女性が、間違えて、宋さんと同行のお二人を含む三名の方々を、普通の談話室の狭いテーブルに案内してしまった。
私は、慌てて飛んで行き、窮屈に座っておられた宋さんに、「宋先生、申し訳ありません。応接室にご案内いたします」と言って謝ると、宋さんは少しも不機嫌な様子もなく、微笑まれ、「いえいえ・・・それに先生だなんて呼ばないで下さい」と謙虚に言われたものだ。







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魂に別離はない

卒園式の意味が分かる幼稚園児っているのかなあと思う。
昨日まで、1日何時間も一緒に過ごし、夢中で一緒に遊んでいた子と、その日を境に逢うことも無くなる。地域にもよるが、もう一生逢わないという場合もあるだろう。
思い出すと、幼稚園の時の精神って、そんなに幼いものでもない。むしろ、友情なんてのは、その後のものより、よほど高貴だったかもしれない。損得など全く考えずに尽くしてあげ、尽くしてもらったし、魂の直接的な交流があったことをよく憶えている。

転校の場合は、ほとんどが、それが一生の別れとなる。その後、昔なら手紙やハガキで、今なら、便利な電子メールで対話をすることもあるだろうが、ほとんどの場合、リアルな交流の方が大事で、いつしか、連絡しなくなるものだろう。
いや、実は、手紙や電子メールでやりとりした場合ほど、魂の絆が断たれているのではないかと思う。それは、心とか記憶の問題ではない。たとえ思い出の中から消えても、何かが残っていることがある。それは、手紙や電子メールであろうと、現実的な接触が無いほど、むしろ強く残るように思える。

少し昔、ある西洋人の男性が、ヒマラヤ奥地を訪ね、そこで偉大な聖者に逢った。彼らは、この上なく親しくなり、お互いを「父」「息子」と呼び合うまでになる。魂からの絆が結ばれ、分かち難いものとなった。だが、西洋人は、大切な人生の使命を果たすため、そこを去らねばならなかった。また、その西洋人は、そこで、これほどの人はどの国にもいないと思うほどの美しい女性と出逢っていた。彼女は、美しいだけでなく、愛情、忍耐、日常の行い、さらには、芸術性においても優れ、まさに理想的な女性であり、しかも、その西洋人と深く愛し合うようになっていた。だが、彼は、その女性を連れていくこともなく、そこを去る。聖者は、「もう生きている間に我々が逢うことはないだろう」と言う。聖者は、自分はあと少しで、この世を去ることを知っていたし、それを明かしてもいた。だが、聖者は、魂に別れは無いという。それは、決して、慰めでも、単なる宗教的観念でも空想でもない。事実としてそうであることを、この聖者も、西洋人の男性も、そして、あの美しい女性も深く理解していた。

実際、多くの人は、単なるファンタジーと受け取るかもしれないが、魂に別離はないのが真実だ。
私は、幼稚園の時の友達のことは、もう、名前も顔も覚えていないが、魂ということなら、いまでも一緒にいるのである。

幼稚園の時の春だったと思う。よく晴れた日、園の庭で仰向けに寝転がっていると、上空を飛行機が、飛行機雲を引きながら飛ぶのが見えた。それをぼんやり眺めていたが、あれには人が乗っていることに思い至った。どんな人が乗っているのだろう?きっと親切な人に違いない。そう思うと、飛行機の中の乗客の様子が浮かんでくるようだった。実際、浮かんでいたのだ。そして思った。あの人達と、一生逢うことはないだろうし、僕がここでこうして見ていたことも分からないんだ。だけど、それだけではないことも分かっていた。あの人達こそ、誰よりも親しい魂の友達で、ずっと一緒にいるのだという確信があった。そして、それが事実と思う。

テレビ放送や劇場用に創られたのではない「レイアース」というアニメ作品がある。原作は、CLAMPの「魔法騎士レイアース」で、CLAMP自身の脚本でアニメ化もされたが、「レイアース」は、全くオリジナルのストーリーで創られたものだ。
中学校卒業を一週間後に控えた仲の良い、親友同士と言える3人の少女達がいた。だが、卒業後、1人は遠い他県に、そして1人は外国に引っ越すことが決まっていた。携帯電話もなかった頃だ。事実上の一生の別れである。最も敏感な心を持つ光(ひかる)という少女は、その現実に耐えられない。
そして、世界の運命が、この3人の少女に託される出来事が起こるのだが、苦難を乗り越え、それぞれ、自己を厳しく見つめ成長する。
最後に、桜の木の下で手を重ねる3人。そして、お互い、振り返らず、別々の方向に歩いていく。悲しい場面ではあったが、暗さや悲壮感はない。魂に別離はないのである。







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腹の力

昨日から、ウイルスにでも感染したような腹部の痛みやけだるさがある。
ただ、別に、私の体調の話をしようというのではなく、それで身体について気付いた、私には興味深かったことを書く。

私は、毎晩10時頃から、簡単な肉体トレーニングを行っている。
今は、腕立て伏せ240回、スクワット150回、腹筋(運動)400回、背筋(運動)200回だけだ。
腕立て伏せは、毎月1日に10回ずつ回数を増やす。6月いっぱいは230回なのだが、30日にすでに240回に増やし、この回数でも大丈夫だと確認していた。ところが、1日の金曜日は、腕立て伏せがひどく調子が悪かったが、なんとか240回こなせたので、「まあ、いいかな」と思った。その数時間後に、激しい腹痛で目が覚めたというわけだ。
昨日の土曜は1日中身体の調子が悪かったが、トレーニングは、もう3年近くも、正月であろうと休みなく毎日やっているので、やり抜くこととした。ただ、土日は、スクワット200回、腹筋は500回に増える。
最初は腕立て伏せだが、いつもはまだ楽々の150回位で身体が上がらない。「腕はまだ余力があるのを感じるのになぜだろう?」と思ったが、ああそうだ、尻が上がらないのだ。それで下半身に意識をやると、腹に力が入っていないのに気付いた。
やはり、腹部に異常があるのだ。
そして、腕立て伏せというのは、腕の運動ではもちろんあっても、腹筋を使うことに改めて気付いたが、これほどとは思わなかったので、ちょっと驚いた。そういえば、あるプロレスラーの方が、「腹筋やるなら腕立てをやれ。俺は腕立てで腹筋を割った」と言ってたように思うが、それが本当だと実感した。
苦しかったが、気力でそのまま腕立て伏せを続けるも、本当にぎくしゃくした感じで170回あたりで、どうにもならない感じになる。しかし、腕はまだ大丈夫なのだ。そして、何度か動きはとまったが、なんとか240回をクリアする。そして、予定通り、スクワット200回、腹筋500回、背筋200回と続けたが、これらは普段とそう変わらない感じだった。つまり、腹筋運動そのものより、腕立て伏せで腹筋の必要性を感じた訳である。

何度か書いたが、腕立て伏せは、誰が発明したのかは知らないが、実に素晴らしい運動だと思う。これを何百回とやるのは、スポーツ科学的には正しくないのかもしれないが、プロレス、ボクシング、マーシャルアーツのトップ選手に愛好家が多いようだ。
また、インドのプロレスラーがやるのが広まったとも言われるヒンズー・スクワットも、プロレスの定番トレーニングで、「プロレスの神様」と呼ばれたカール・ゴッチは1万回以上こなしたという。
これらにより、何の器具も場所も必要とせず、自分の体重だけで最高の鍛錬が出来るのだと思う。

ところで、腹に関しては、単に腹筋がどうというだけではなく、神秘的で偉大な力が秘められていると言われることがある。
黒住宗忠、岡田虎二郎、D.H.ロレンス、あるいは、戦時中に日本に滞在し、茶道、華道、弓道他の日本文化を学んだカールフリート・デュルクハイムらは、人間の腹には、自然、宇宙、あるいは、神の英知と感応する霊的中枢があると説いているように思う。日本には「腹が座っている」「腹を決める」「腹を割って話す」「太っ腹」など、腹の重要性を示す言葉が多い。また、気功、仙道、ヨーガなどでも、腹の力は重要視されていると思う。
私も、今回のことで、そんな理由が分かるように思ったのだ。また、腕立て伏せやスクワットのような運動も、単に筋肉運動ではなく、内的な腹を鍛える意味もあるように感じるのである。だから、これらの運動を愛好する格闘家は強いのではないかと思うし、武術に限らず、あらゆる立場の者にも大切なものであると思うのだ。













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情熱を持てることをするしかない

私は、体調が悪くなる度に思い出すことがある(そうは言っても、3年程前に1日1食の菜食者になってから、体調の悪い日はほとんどないのだが)。

1つは、夏目志郎さんという、中国出身の超一流セールスマンの本で読んだものだ。夏目さんが、寒い日に出張セールスに行っていた時のことである。夏目さんは、成果が出ればホテルに泊まり、成果が出なければ自動車の中で寝ると決めていたらしいが、その日は成果が出ず、雪が積もるほどだったが自動車の中で寝ていたらしい。昔のことで、彼の車(フォルクスワーゲン)は、停車中はヒーターが効かなかったようだ。見かねたホテルのオーナーが、料金はいいからホテルに泊まってくれと頼んだが、夏目さんは事情を話して納得してもらった。しかし、夏目さんは風邪をひき、高熱を発した。
だが、夏目さんは、アポイントメント(面会の約束)を取ってあった経営者に会いに行った。夏目さんの体調の悪さは明らかだったが、相手は「あなたの話は半分も分からない」と言いながらも、何かを感じて契約をしてくれたという。だが、それで汗をかいたら、風邪がぴたりと治ったらしい。夏目さんは、体調が悪くても、なんとかなるようなら、セールスを実施すれば、情熱が伝わるようなこともあるのではないかと書かれていた。
私も、当時セールスマンだったが、ある日、足を捻挫したことがあった。しかし、そのまま歩いて夜遅くまでセールスし、結局その日は成果がなかったが、見込み客をいくらか作った。そういえば、夏目さんも、事故で脚を折って入院していた時にある販売会社スカウトされ、治らないまま仕事を開始したらしい。
もう1つが、アントニオ猪木さんが、1975年に、インドの強豪、NWF世界ヘビー級王者タイガー・ジェット・シンに挑戦した試合で、この日、猪木さんは体調が最悪だったらしい。しかし、新日本プロレスの社長という立場もあってか、猪木さんは試合を中止せず、そのまま実施した。最高の名勝負となったこの試合(60分3本勝負)は、シンが初めて見せたアルゼンチン式バックブリーカーで2本目を取るも、3本目は、猪木さんが必殺のバックドロップを連発して勝利し、王座に返り咲いた試合だった。
格闘技でいえば、2007年に亡くなられたブラジルの柔術家ハイアン・グレイシーが、2000年の桜庭和志さんとの対戦で、練習中に右腕に大怪我をしながら試合をする前のメッセージが素晴らしかった。その内容は、「確かに事故があった。しかし、試合は予定通り行う。なぜなら、何の支障もないからだ。これはスポーツではなく、格闘技の戦いであり、怪我は無関係だ」といったようなものだったように思う。私も、体調が悪い時、戦争中の兵士なら、寝ていられるはずが無いとは、よく思ったものだ。

程度にもよるが、体調が悪くて休もうと思うなら、やっていることに情熱が無いのだろうと思う。まあ、ほとんどのサラリーマン、あるいは学生などは、仕事や学業にさほどの意義を感じておらず、当然、情熱もないだろうから、無理せず休めば良いのかなと思う。
だが、以前、保険のテレビCMだったと思うが、保育園の子供が熱を出し、「妻は仕事で無理だが、幸い、私が行ける」と言って、主人が子供を迎えに行き、そのまま帰宅してしまうというのを見て、首を傾げたものだ。いや、別にそんなことがあっても良いのだが、それはあくまで特例中の特例であり、CMにしろ、堂々と作って何度も流すようなものではとても無いと思う。
実際、世の中には、仕事が好きでも何でもなくても、どんなに体調が悪くても絶対に休めない弱い立場の人もいる。
我々が喜んで食べているチョコレートなどは、人身売買で連れてこられた子供達が危険な仕事をすることで原料が調達されており、それこそ、指数本切断するような大怪我をしても休めないのだろう。世界には、そんな状態の子供たちは驚くほど多いに違いない。
アンデルセンの「マッチ売りの少女」のモデルとも言われる子供は、冬の寒い日に、雇い主にビールを買いに行かされ、氷で滑ってビール瓶を割ってしまった時に目を負傷するが手当てを受けられず失明したと言われる。
それらに比べれば、首記にあげた、夏目志郎さんやアントニオ猪木さんらは、不屈の心は賞賛すべきであっても、幸せなんだろうと思う。
我々も、出来れば、体調の不良や何かのトラブルがあっても、多少の無理をしてでも敢行できることをやりたいものである。逆に言えば、それが出来ない人生など虚しいものに違いない。
松下幸之助さんは、それがオフィスだったか工場だったかは忘れたが、その見事な清掃振りを見て、それをやった清掃会社の社長を、新会社の社長にするよう命じたらしい。清掃会社の社長は自分の会社もあるし、未経験の分野でもあり、「とんでもない」と断ったようだが、「神様」松下幸之助の命令が実現しないはずもなく(当然、松下さんが理不尽な要求をするはずもないが)、結局、それを受けたようだ。やはり、仕事は情熱もってやるもので、竹村健一さんは、「嫌だけど家族のため」に勤めているなら、それは間違いであり、絶対、辞めて別のことをやれと著書で述べておられた。思慮も必要だが、忘れてはならないことだろう。







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接客、出来ますか?

皆さんは、接客なんてことをしたことがあるだろうか?
接客が仕事の人の多くは、自分の立場(職場、給料)を失わないことを第一と心得てやっているのではと思う。つまり、重要人物なら慇懃(礼儀正しい様)に接するが、自分の立場に影響を与えることはない軽い相手と見ればぞんざい(粗略。無作法)に扱うのである。
まあ、全ての人をVIP扱いしていたら、身体も心も持たないというのだろう。あるいは、自分の接客行為について、「これはあくまで営業用の笑顔。メシの種」と思っている人も少なくないに違いない。

だが、接客なんて、自分の心を見るために行うものなのだ。
別に、相手の態度が自分の心の投影だなんて難しいことをいう気はない。そうかもしれないが、それはどうでも良い。むしろ、忘れた方が良い。でないと、相手の良い反応を求めて親切にするという打算が働くからだ。
接客ほど意味深いものはない。相手の態度や反応に、今度は自分の心が反応する。それは、自動的な反射作用だ。それを見つめることだ。ただし、「この私の反応は嫌い」「こんな反応をしてはいけない」と感じることは良いが、評価したり、考え続けてはならない。ただ、観察するのだ。すると、自分というものが分かる。

作為的な親切は、本当の親切ではない。愛情ある人間なら、自然に親切なことをするのだ。
ハートに愛の無い人間の作為的な親切、愛情ほど、醜悪なものはない。
この人には親切だが、あの人にはぞんざいという人は、愛を持っていないのだ。その親切さは、全て打算的で卑しい。それならむしろ、全ての人に不親切な方がマシだ。いや、本当に全ての人に不親切なら、その人は本当は愛を持っているのだ。

そして、人への対応は全て、接客と同じなのだ。
さらに真理を言えば、人に対する振る舞いは、自分に対する振る舞いである。心が認識する世界を超えた本当の世界では、自分と他人に区別はない。それは科学的な事実だし、誰でも本当は知っていることだ。
人と接する時、特に苦手な相手なら、それは自分を知る大きなチャンスである。特に、引きこもりや、友達のいないような人(まさに私だ)にとっては、どんな相手でもそうである。
自分の反射的な反応を見ることだ。自分の感情的な反応には気付いても、その原因は分からない。L.ロン.ハバートという天才は、反応する心の本当の原因は、自分ではどうしようもないので、他人の手を借りてそれを解明し、解消するしかないと言ったが、そうではない。ただ、あるがままに観察し、判断や評価をしなければ、心は心自身を知る。すると、それは静かになる。ハバートはそんな状態を「クリア」と言ったのだ。

私は、社会人のスタートがセールスマンだったので、ずっと接客をしていたようなものだった。思えば最悪だった。
だが、今やっているシステムエンジニアの仕事も、半分以上接客のようなものだ。
いや、本当のことを言えば、全ての仕事は接客なのだ。セールスマンなら、全ての仕事はセールスだと言うだろう。だが、それは違う。売り込むことが仕事なのではなく、本当の自分を知ることが仕事なのだ。なるほど、最初のうちは、自分を知るほどに、仕事が上手くいくように思えるかもしれない。しかし、そんな自分は虚像だ。金を儲けることが出来るよう、心を偽ることが上手くなったというに過ぎない。本当の自分を知れば、仕事は自動的になる。必ずしも過大な成果は上げないかもしれないが、心は安らかである。

風や、雨や、鳥や猫、あるいは、幽霊や妖怪であろうと、出会うものは全て、自分を知るためのお客様だ。
そして、全ては自分なのである。これは実に面白いことだ。

「この私に接客などができるわけがないだろう!」
平坂読さんの小説『僕は友達が少ない』のヒロイン、三日月夜空のセリフだ。つまり、彼女は、自分に接することができないのであろう。
接客の出来ない人はみんなそうなのだ。自分の心の自動反応に戸惑い恐れているのである。夜空は敏感過ぎるだけで、少女なんて本当はそんなものだ。むしろ、今は鈍感な子が多い。だが、自分を知れば、心安らかになれるのである。







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