ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

病気を消す

病が偶然にかかるふりかかるものであれば、人間は不安から逃れられないかもしれない。
大半の人々は、病を完全に防いだり、確実に病を治す方法は無いと思い込まされているからだ。
だが、病気というものについて、世間的権威とは異なるものに目を向ければ、嘘もあるかもしれないが、知る努力をするなら、これまで知らなかったことを発見できるかもしれない。
それは自分でやらなけばならない。

NLP(神経言語学的計画※)の創始者リチャード・パンドラーは、全ての病気は心因性(心が原因であること)であると決め付けているらしい。
※関英男博士の訳。一般には、神経言語プログラミングと訳される場合が多い。
「心身医学の父」と呼ばれるドイツ人医師ゲオルク・グロデックも、やはり、どんな病気でも心因性であると断言する。
つまり、彼らによれば、いかなる病気でも、基本的に心理的な治療で治してしまうことができるということなのだ。
暗示療法で知られるフランスのエミール・クーエは医者ではなかったが、暗示の力で数多くの奇跡的な治療を成し遂げた。例えば、脚の疾患で歩くことも出来ずに担ぎ込まれた患者が、クーエに自己暗示を指導され、10分後には走り回っていたという。

また、心理療法ではないが、医学的には全く認知されない治療機器や飲み物が奇跡的な治療効果を上げたとされるものもある。
私自身が直接知るものでも、政木和三さんの発明した神経波磁力線発生器で末期の癌を短期間で消滅させた実例が2件あるが、この装置での癌をはじめとする難病の治癒の話はいくらでもある。この装置は、現在では入手が困難であるが、私はこの装置の役割が終わったのではないかと思っている。
農学者の比嘉照夫さんによって、元々は土壌改良用に開発されたEM(有用な微生物が群棲する液体)は、EM-Xという飲料に応用されているが、これが癌などあらゆる病気の治療に驚くべき効果を上げたことは、数多くの医師の報告がある。

私自身、他にも様々なことを知っているし、私の知らないことでも、優れたものがまだまだあるに違いない。
ただ、私は、病気になれば、これらのものを使えばすぐに治ってしまうというのではなく、病気の根本的な原因を消さない限り、病気は治らないか、治ってもまた再発すると考えている。
私自身、幼い頃から苦しみ、医学的治療が何の効果も無かったアトピー性皮膚炎や、ある時期にかかった、強度の発作を伴うメニエール病も医学的治療を避け、いずれも、少食だけで治した。どちらも、自然治癒は考えられないものとされている。これは、少食による身体的な効果はもちろんだが、精神的な病因が消えた成果であると思う。ただ、アトピーに関しては、まだ、時々、少しだが症状が出ることから、今はまだ完全な精神的因子の消滅には成功していないのだと考えている。
私は、毎年の健康診断で、多くの項目で「警告」「要精密検査」などと出ていて、ほとんど病人のような扱いであったが、病院での治療を受けることはなかった。そして、食事を1日1食とし、最初は極端な少食で、肉、魚、菓子を食べるのをやめたら、わずか3ヶ月で、全項目オールAの超健康体になった。以降、2年半、多少は緩くしながらも、1日1食の菜食を続けているが、健康なだけでなく、強い身体になり、現在は、毎日欠かさず、腕立て伏せ180回、腹筋600回、その他を軽々こなし、日々、強靭な肉体を育てている。

医療を信じるかどうかは、それぞれ個人の自由であるが、私個人に関しては、全く信用しておらず、医療が人類を病気にし、健康を奪っている面も大きいと思っている。もちろん、医療だけの問題ではなく、食や性、その他の、あらゆる個人的欲望を煽り、あるいは、不安に付け込むことで儲けるビジネスが人々の精神性を貶め、それもまた病気の原因になっているに違いないと思う。

何が本当に正しいかは、国家も学校も、世間の権威も、マスコミや大企業も教えてくれないばかりか、それらの大半は、真理と正反対のことをあなたに信じ込ませようとしているのかもしれない。
また、聖人賢者を装うが、正体は悪鬼のような欲望にまみれた者も多いので注意が必要だ。騙されないためには、欲望を持たないことしかない。
真理を得たいなら、自分の責任でやらなければならないのである。













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優先事項は何か

我々は、「優先事項」という言葉をよく使う。
人気者の野球選手やゴルフ選手を見るために遠方から訪れ、入場チケットを得るため、早朝、あるいは、前日から並ぶ。しかし、彼らには、もっと優先すべきことがあるはずである。
個人的感情、個人的欲望を優先させることを続けると、それは簡単に習慣になる。
洋服、バッグ、アクセサリーに金を使ってしまい、家賃や電気代、水道代を払えないという人も少なくない。
美食、飽食を我慢できない者は、心や身体の健康より、愚かな欲望を優先させているのである。
クラスメイトの一人に精神的、肉体的苦痛を与える者達は、人としての尊厳よりも、個人の感情や欲望を優先したのである。部下や生徒にセクハラをする上司や教師も同じで、それは即ち、人間の持つ貴いものを、価値の無いものと見なし、ゴミとして捨てたということだ。

人として、何を優先させるべきか分からないこともあるかもしれない。
あるいは、未熟で知恵に欠けていたり、心が弱くて欲望に操られていることに気付きすらしないかもしれない。
昔、竹村健一さんが、著書の中で、26歳の男性の恋愛相談のようなものに答えているものがあった。内容は、その26歳の男性が18歳の女性に恋したことで、色々な悩み事に苦しんでいるがどうしたら良いでしょうといったようなものだった。竹村さんは、「1週間メシを抜け」と答えた。なるほど、それが最善の答だと私も思う。

優先すべきことより別のことを安易に出来る立場というのも不幸なものかもしれない。
食事を1日1回にして、その食事も出来る限り少食にし、食事以外に何も食べないようにすれば、個人的なことに関しては、食べることが最も重要なことであることが嫌でも分かる。
それでやっと、正常な判断力を取り戻し、優先順位を間違えないようになっていく。
食うに困らないというのは、良いことのようだが、優先順位の判断を恐ろしく狂わせる困ったことになりかねない。だから、日本の神様は、この国でも食うに困る状況を作り始めたのかもしれないし、このままだと、それは爆発的に増えていくに違いない。食べ物の価格は急上昇し、それどころか、スーパーに行っても食料品が無いということになる日もそう遠くない。我々が、自主的に、「本当に大切なもの、大切なことは何か」を知ろうとしない限りそうなるだろう。

食や性に関する欲望に飲み込まれそうな時には、息を止めてみると良い。息を止め続けると、呼吸が最優先すべきことであることが分かる。すると、快楽より優先すべきことがあることに気付くはずだ。もしそうでなければ、強制的に息が出来ない状況に追い込まれるかもしれない。
水野南北は、「食が全て」と言い、食を厳しく慎むなら人生に間違いはないと断言した。だが、今は当時と比較にならないほどの欲望に満ちた世の中になってしまった。南北の言葉は今も有効であるけれども、当時より30年ばかりの余分な修行が必要だ。それを避けるためにも呼吸の秘法を活用するのが良いと思う。単に吸って、しばらく息を止め、静かに吐く・・・それだけである。呼吸は鼻ですること。息を止める時は、荘厳なものを見て息を呑んだ時のようにやること。即ち、気管を閉じるのではなく、肺の収縮を止めて息の流れを停止することだ。私は1日中、それをやるつもりだ。







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食の量と呼吸の数

人は外見ではないと言う。
しかし、それは美醜のことを言っているのだろう。ある程度は、人の外見は中身を示している。
確かに、凡人は人の美醜に目を奪われ、さらに、演技に騙される。欲望のために心が濁っているからだ。
いわゆる「目利き」と言って、一瞬で人物を見抜ける人がいるが、そんな人というのは、自分の個人的感情を信用せず、それを平然と無視できるのだ。

江戸時代の観相家、水野南北は、半生を懸けた壮絶な探求の末、確信を持って「食が全て」と断言した。
即ち、美食を避け、食べる量が少ないほど優れた人物であると断定する。その自信については、「万に一つの誤り無し」とした。
南北自身、みすぼらしく醜い容姿な上、牢屋敷(刑務所)に入れられるチンピラだったのが、厳しく食を慎むことで高名かつ大長者となり、千人の弟子を持ち、天皇から貴族に叙せられ、当時では異例の75歳まで健康に生きた。悪妻とはいえ、妻も8人いたが、妾扱いせず、全て正妻として立派に面倒をみたという。

ところで、もう1つ、極めて正確に人間のレベルを示すものがある。
聞き慣れないことと思うが、不思議に意外には感じないと思う。それは、呼吸の数、あるいは、呼吸の長さだ。
分かりやすく言うなら、例えば、1分間の呼吸の数が、30回より20回、20回より10回の人間が優れた人間だ。

水野南北は、一生の間に決められた食の分量があり、それを食べ尽くすと命は無くなると言ったが、呼吸の数も同じだ。
いずれも、意志の力でコントロールが出来るのだが、実際には、食の慎みの方だけが現実的だ。
そして、食を慎むことができれば、呼吸の数も自然に少なくなる。
また、食を慎むなら、呼吸に対する支配力が増し、さらに少なく出来る。聖人や仙人のような存在であれば、呼吸の数は極めて少なく、1分に数回とか、1~2回ということもある。そんな者は、その気になれば数百歳でも若々しくいられる。
逆に言うなら、呼吸の数が少なく安定しているなら、限度以上に食事の量を減らしたり、粗末な食事にしなくて良い。天からの使命を持つ選ばれた人間の場合は知らないが、凡人たる我々に、食の楽しみが無い訳ではない。水野南北すら、1日1合ではあったが、大好きな酒も楽しんでいた。
ただ、食に関しては、自分を甘やかすと、簡単に慎みを無くすものだ。例えば、飴などを「少しなら」と舐めだすと、数がどんどん増えていくのを、私も経験した。だから、意識をして、食を厳しく慎む必要がある。
人は食の誘惑に弱い。利益のために美食、飽食を煽る者は悪魔と言って差し支えないだろう。
だが、普通は、満腹するまで食べて自分を甘やかすことがないなら、普通に食事して良い。とはいえ、世間の妄信とは異なり、朝食か昼食は抜かないといけない。間食は構わないが、1日1回とし、適度に楽しむ程度にする。その程度が出来ないなら大人とは言えない。
後は、私が時々説明する呼吸の秘法を実践すれば、過ぎた欲を持たない限り、幸福でいられるはずである。







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屈折した愛すべき作品「タイガーマスク」

最近話題の「タイガーマスク運動」に関心を持ち、「ターガーマスク」の漫画を購入して読んでみた。
原作者の梶原一騎は、主人公のタイガーマスクこと伊達直人に自己を投影していたのだろう。そこには、確かに、梶原一騎の屈折した人間性を感じるのだが、その歪み具合は、人間として共感してしまうところもある。
私は、梶原一騎の伝記「梶原一騎伝~夕やけを見ていた男~」を熱心に読んだことがある。もしこれに書かれていることが事実とすれば、梶原一騎は最低最悪の人間である。現実に服役もしているのだが、その極悪非道さは桁外れだ。もちろん、書かれたことをそのまま鵜呑みにする訳ではないが、一部に純心な部分も感じるにせよ、問題の多い人物であったかもしれない。しかし、今は梶原一騎本人のことには深入りしないでおこう。

私は、この「タイガーマスク」の最初のあたりを読み、不覚にも感動を覚えてしまった。
タイガーマスクは、初めは決して正義のヒーローではなく、極悪非道な悪役レスラーで、アメリカでも日本でも、レスラー、あらゆるプロレス関係者、そしてファンに徹底的に嫌われる。しかし、当のタイガーマスクはふてぶてしく、平然とした態度を貫く。
ある時も、タイガーマスクは、ジャイアント馬場をはじめとする日本のレスラーやファンの前で強い非難と罵倒を浴びていた。そして、ついに馬場から、日本マットからの追放を言い渡される。しかし、それにも動揺せず、悠然と立ち去ろうとするタイガーに大人の男性ファン達が恐れを感じて後ずさりする中で、一人の幼い男の子がタイガーにサインを求める。これには、平静を装いながらも、タイガーは衝撃を感じていた。大人達に、「恐くないのか?」と聞かれた男の子は、「どうして?」と不思議がる。その様子を見たジャイアント馬場は何かを感じ、タイガーの追放をいったん取り消す。

この話に、私は、アップルコンピュータのCEO、スティーブ・ジョブズの昔のことを思い出した。
ある会社が、ジョブズに製品のプレゼン(プレゼンテーション。会議での説明のこと)をするために彼を招待したが、ジョブズは製品を一目見るなり、「下らない!」と言って即刻立ち去る・・・ジョブズのこんな奇行はよく知られていた。
だが、ジョブズは親しい人しかいない場所で、「僕だって普通の人間なんだ。みんなどうしてそれが分からないんだ」と言っていたという。ジョブズもまた屈折した人間であり、その成長過程には様々な複雑な事情があった。

またある時、タイガーは、自分をリングで殺すために送り込まれてきた刺客である凶悪な強豪レスラーと戦う中、敵の殺人技に絶体絶命となる。死の苦悶にのたうつ中でも、満員の観衆の罵倒が容赦なくタイガーに浴びせられる。
その中で、ただ一人、タイガーを応援する少年の声がタイガーの耳に届く。タイガーは最後の力を奮い起こし、奇跡の反撃に転じる。
タイガーは、少年の声援を、荒れ狂う海で船乗りが見つけた灯台の燈のようだと感じた。

確かに、子供向きにセンチメンタルに過ぎる描写であったが、並みの人間には無い衝撃的で悲惨な体験を多く積み重ね、なおかつ間違いなく天才であった梶原一騎は、人間を深く洞察していた。
人に力を与える何かを探すということが、あらゆる作家、芸術家、求道者の共通する目的ではないだろうか?
サルバドル・ダリなども、人間的には非常に問題が多かったようだが、その点では同じであったろうし、岡本太郎もまた、芸術や祭りの目的を人間が根源的エネルギーに触れてそれを得ることと考えていたことは確実と思う。
英国の天才作家で、哲学者と言って差し支えないコリン・ウィルソンがまさにそうだった。彼は、表現の是非はともかく「すっかり打ちひしがれた中でも、好みのタイプの女性が全裸で部屋に入ってきたなら、たちまちエネルギーの充足が起こるのを感じるはずだ。私が探求するものは、その効果をもたらす秘訣である」と昔から言っていた。

「タイガーマスク」や「あしたのジョー」など、梶原一騎作品の魅力はそこにあるのではないかと思う。
彼もまた、狂気に陥り生命も危ういほどに苦しかったのだろう。その中で、自己を支え、解放する強力なエネルギーを求めていたに違いない。そのほとんどは彼自身の失望に終わったにしろ、その願望を天才的な知覚で探求したものが彼の作品なのだろう。
だが、歳と共に、梶原の作品は、ますます濁り、歪んでいった。だが、「タイガーマスク」あたりであれば、良い部分だけ見るなら、貴重なものが無いとも言えない。

ところで、私が購入した「タイガーマスク」の600頁のオリジナル版「覆面ワールド・リーグ戦の巻」はAmazonでは売り切れのようだ。物語の最初から、覆面ワールド・リーグ戦の完結まで描いてあり、1冊を読むなら丁度良いもので、2010年出版の最新本である。すぐに重版が出ると思う。







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恋と愛は全くの別物

日本で蛾と蝶と言えば大変な違いがあるが、フランス語やドイツ語などでは、蛾と蝶を区別しない。実を言うと、昔は日本語でもそうだったらしい。
ところで、この蛾と蝶を日本語同様、明確に区別する英語でも、恋と愛を共にLoveで表す。日本語では、一応は愛と恋という別の言葉があるが、その違いは曖昧だ。
もしかしたら、英語では、恋は Love to で、愛は Love for になるのだろうという気がするが、それなら、日本語ではどう異なるのか分かり難いこの不可思議な2つの言葉の違いが少し分かるように思う。

愛という言葉は、非常に抽象的で曖昧だが、その実質は大切にすることだ。
そして、愛も恋も共に本質は愛なのであるが、自分を大切にするのが恋で、相手を大切にするのが愛だ。言い換えれば、本当は自分を愛しているのか、相手を愛しているのかの違いだ。
恋している同士の男女が付き合うと、お互い、大切にしているのは自分なので、いずれは利害の違いで破綻する。恋のレベルで結婚すれば確実に離婚する。それぞれ、本当に大切に思っているのは自分であり、夢から覚めて相手のそんな気持ちに気付けば、すぐに熱も冷めてしまう。よく、「付き合うと、相手の嫌なところが見えて別れる」と言うのを聞くが、そんな者は、要するに、自分だけを大切にしているのであり、この私を一番大切にしないその相手が嫌なだけだ。それは、お互い様のはずだ。表面的には相手を大切にしていても、実は、自分の心や身体が何より大切なのだ。
「恋している自分が好き」などと言うが、これは、「相手を大切にする演技をしている自分が好き」と言うことである。それを愛の練習と考えれば悪いものではないが、所詮、幼く、自分勝手な子供の言うことである。

親子で言えば、本来は、親は子を愛している、つまり、子供を大切に思っているのであるが、子は親に恋しているのであり、子供にとって大切なのは自分だ。それは別に不自然なことではない。子供も、いつかは親を大切に思うようになるかもしれない。
ところが、今は、子供に恋している親が非常に多い。子供を虐待したり、殺したりする親には、子供を非常に可愛がっていたという親も多い。そんな親は、子供を「可愛い」と感じて、ペットやオモチャのように楽しんでいたのが、本当に大切なのは自分なので、子供が気に入らないことをしたり、負担になってくるともう嫌になるのである。ペットのようにと書いたが、やはり、ペットを愛しておらず恋している場合、一時的には可愛がっても、飽きてしまえば、簡単に捨ててしまうのである。
男女でも、片方が愛しているが、相手は恋でしかない場合、愛している方は辛い目に遭うことも多い。ただし、本当に愛してるなら、苦しくても心変わりすることはない。

ウラジミール・ナボコフの世界的な小説「ロリータ」では、11歳の少女ロリータに対する中年男ハンバートの気持ちは恋でしかなく、彼が大切に思うのは自分の心や快楽である。一方、ロリータは、恋すら自分にだけ向けられた精神的幼児である。これは、彼女が、全く愛を知らない未熟な母親に育てられた悲劇である。そう考えてこの小説を読むと、この作品の本質が見えてくる。

尚、恋とは自分を大切にすることと述べたが、それは、自分の本質を大切にするのではなく、自分の個人的な心や身体の部分を大切にしているのである。
本当に自分を愛する、つまり、自分の深い本質を大切にするなら、他者をも大切にする、つまり、愛するだろう。本当に大切にする心には、自分と他人の区別はない。さらに言うなら、自分以外のものなどこの世に無い。それが、宇宙と一体になるということであり、自分が宇宙であるという意味である。







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