ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

良秀の娘

本日の朝、芥川龍之介の短編小説「地獄変」を引用したので、この「地獄変」に関して、もう少し書いておきたくなった。

「地獄変」に登場する良秀の15歳の娘に、私は、若い女性として理想的なものを感じるのである。彼女が、大殿の邸で、猿を若殿からかばった時の様子には惚れ惚れとしたものだ。
女性の本当の美しさや価値とは複雑で神秘的なものだ。
しかし、我々は、何も分からないようになってしまっている。なぜなら、我々はうすボケた幻を愛するようにさせられてしまっているからだ。

今、人気絶頂のアイドルも、わずかの時が過ぎれば忘れ去られ、大衆は別のアイドルに熱狂する。歴史に名を残すような大女優は、それに比べれば栄光が続くことが多いが、それだってやはり一瞬に過ぎない。
女性の外見的な美しさには時代の流行があるが、それは作られたもので、あるタイプの姿を美しいと思うのは、ただの幻想である。それは催眠術のようなものだ。だから、かつては美しいと思った人も、時を経てみればさほどでもないか、逆に醜く感じることすらある。
「モナリザ」は美人画として価値があるのではない。モデルの美しさで言うなら、今の人には、ただの太ったおばさんでしかない。
アイドルや流行のタレントに夢中にさせられる我々は、いつかは色褪せる中身のない幻を好きになるようコントロールされているようなものだ。
人の本当の価値は、平時の行いに現れるのである。

だが、「地獄変」の良秀の娘は、読む人に感性があれば、時代を超えて輝き続ける。
しかし、彼女はヒロインではない。平凡な娘と言えるかもしれない。だから、熱狂を呼ぶことはない。
理想的であると共に、誰でもなれるものでもある。彼女の美点は、非常にさり気ない処に現れていた。
ただ、彼女は、悲劇に見舞われる。しかし、悲劇とは、起こった出来事で決められることではない。それは、人の受け取り方の問題だ。小説の人物の心など知りようがなく、読者である我々が決めるしかないことである。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   

啓示となった出来事

人生観を変える出来事というものがあるらしい。
それが起こる前と、起こった後では、全く別の人間になってしまうというほどのこともあるのだろう。
誰だったか忘れたが、目の前で、愛犬が落雷に撃たれて死ぬのを見て啓示を受けたという人がいた。
ある男は、電車に乗っていてトイレに行くが、使用中だったので、別車両のトイレに行った。その時、元いた車両が爆撃され、彼は命拾いする。この体験が彼の人生観、運命観を変えたようだ。

1974年10月30日、ザイール(現在のコンゴ民主共和国)の首都キンシャサで、無敵のボクシング世界ヘビー級王者、25歳のジョージ・フォアマンは、元世界王者で32歳のモハメッド・アリの挑戦を受けた。フォアマンの圧倒的優位の予想通り、アリは防戦一方となったが、8ラウンド、突如攻撃に出たアリのパンチがフォアマンをKOする大番狂わせとなる。この試合は現在に至るも「キンシャサの奇跡」として知られている。自分の敗北が信じれないフォアマンは、控え室に引き上げた時かもしれないが、呆然とする中、本人の言うところでは「光」を目撃し、それ以来、変わってしまったという。彼は、しばらくはボクサーを続けるが、アリと再戦しないまま引退し、宣教師(宗教思想などの普及活動者)になる。38歳で福祉活動の必要から現役復帰。45歳で世界王者に返り咲いた。

「アラミス''78」という、大和和紀さんの漫画がある。アラミスの愛称で呼ばれる19歳の男子高校生は最高にイケてるクールな男であったが、元は根暗でひょろひょろの、最低にダサい勉強一筋の高校生だった。それが病気になって入院している時、UFOを目撃し、人生観が変わり、大変身したというお話だった。
芥川龍之介の「地獄変」は、高校の教科書に出てくることも多いらしいが、天才画家良秀は、車の中で縛られた自分の15歳の娘が焼け死ぬ様子を見て、おそらく、別のものになってしまったのだろう。

コリン・ウィルソンの「超越意識の探求」のあとがきの中のエピソードで、引っ込み思案の青年が、「僕は何て駄目なやつなんだ」と呟いた時、友人が言った、「君は少しも駄目じゃない。自分でそう思い込んでいるだけだ」という言葉が啓示となり、すっかり変わってしまう。偉大な賢者になったのだ。
阪神淡路大震災の時、まるで戦後の焼け野原だと言われた光景や、倒壊した巨大ビルを見て、やはり人生観を変えた人もいたかもしれないと思う。

だが、ビックリ体験を求めるのは単なる物好きだ。感性の衰えた者が楽しみのために、面白いキワモノを求める姿は浅ましく卑しい。それを本人は何か高尚なことのように思うかもしれない。
だが、澄んだ目で見れば、いたるところに奇跡が満ちている。何かの出来事をことさらに畏怖するのは、心の多くの部分が暗くなっているからだ。自分の心に灯りを点し、見通しが良くなれば、全ては神の現われであることが分かってくるだろう。
驚くべき体験は、それに導くため、内なる神である大きな心が、かたじけなくも見せてくれる導きだ。面白がって求めるようなものではなく、ただ、起こるべくして起こるものである。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   

思いやりを見なくても、思いは感じている

誰でも、騙されたという経験は沢山あると思う。
しかし、ずっと後で振り返ると、不思議と、騙されたという感覚はないものだ。
なぜかというと、本当は、相手が嘘を言ってることが、初めから分かっていたからだ。

こんな感じの話を聞いたことがあると思う。
ある男が若い時に憧れていた女性がいたが、あまりに不釣合いな高嶺(高根)の花だったので、何のアプローチもしないままで終わったが、後で、その女性も自分が好きだったと知って驚く。
これほど後悔するようなことはないだろうが、現実にそんなことは、まあ、無い。
逆に、相手はなんとも思っていないのに、自分に好意があると勘違いするということの方が極めて多い。しかし、これも、冷静になると、相手の気の無さというのは分かるものであるが、それが分かるには時間を要することが多い。しかし、時間が経てば、はっきり分かるものだ。まあ、それを認めたくないという気持ちがあるかもしれないが、それを愚かな未練と言うのだろう。
テレビで立派なことを言っている人を見て、違和感や不信感を感じる場合は、その感覚は大抵正しい。ただし、それが嫌悪感であった場合は、少し冷静になった方が良い。好き、嫌いといった感情は、単に習慣によって作られた場合が多いからだ。

人間っていうのは、気付くのが遅過ぎるのだ。
なぜ気付かないのかというと、欲望に支配されているからだ。
個人的な欲望を捨てれば、高度で純粋なテレパシー能力が備わってくる。皆がそうなれば、この世で嘘は一切通用しなくなる。
言葉にしなくても思いは伝わるようになる。
いや、本当は今でも、この世で嘘は通用しないし、思いは伝わっている。しかし、欲望が、伝わってくる思いを捻じ曲げてしまうのだ。

テレパシーが発達しているかどうかは、テレビCMを見れば簡単に分かる。
今のテレビCMはほぼ百パーセント嘘だ(昔は70パーセントだった)。だから、テレパシー能力があれば、気持ち悪くて見ていられないはずだ。
政治家だって、思慮分別を離れて思いを向ければ、彼が本当のことを言っているかどうかは分かる。マスコミに騙されることもなくなる。いや、政治家やマスコミが不要になる。
しかし、それには、個人的欲望を捨てなければならない。それは、人によっては簡単なことなのだが、人によってはほとんど不可能なのである。
だが、テレパシー能力を発達させないと、これからの世界で生きていけなくなる。そんなことは、この2千年ほどの人類の歴史ではなかったが、これからはそうなる。それは、言われなくても、少なくとも、薄々は気付いていると思う。

ある2人の女の子が、逢うたびに喧嘩していた。
片方の女の子が言う。
「ちゃんとお話しよう。言葉にしないと思いは伝わらない」
いや、思いはもうお互いに伝わっているはずだ。ただ、それに素直に従わせてくれない理由があるだけだ。
でないと、喧嘩することが分かっていて逢ったりしない。たとえそれが偶然のように見えても。
アニメの「ふたりはプリキュア」で、なぎさとほのかが仲違いした時、「魔法少女リリカルなのは」で、なのはとフェイトが最初、逢う度に戦っていた時、ほのかは「話し合いは大切よ」と言い、なぎさは、「話し合いで解決しようなんて優等生の考えること」と言う。なのはは「話をしなくちゃ分からないじゃない」と言い、フェイトは「話し合うだけでは何も解決しない」と言う。ところが、見ている者には、いずれも、2人の心がすでに通じ合っているのは明白なのだ。

私は中国で、可愛い少女とお話をした思い出があり、話の内容もよく憶えている。しかし、よく考えると、私は中国語が分からないし、彼女は日本語が分からない。
その後、政木和三さんが、ドイツに行って、ある家庭に滞在した時のことを話してくれた。政木さんは、ドイツ語は分からないし、相手は日本語が分からないが、自然に会話したという。
ジョージ・アダムスキーは、我々は共通の言語を持つことになると言う。それは、赤ん坊でも分かる簡単な言語で、動物や植物、そして、他の星でも通じる言葉だ。それがテレパシーである。

震災の影響か、無意識にテレパシーの重要性を感じる人が多くなり、下記の本は、現時点(4月12日午前6時頃)で全て売切れである。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   

宇宙開発と原子力発電

1969年に、アポロ11号により人類が始めて月に降り立ったアメリカのアポロ計画で、よく宣伝された「シックス・ナイン(69)」と呼ばれる数字がある。
成功率が99.9999パーセントであるという、9が6つ並ぶというものだ。この数字はよく知られていたが、それが、「具体的には何の成功率」で、さらに、「どんな根拠に基く」ものであるか分かる人は、おそらくほとんどいまい。しかし、それが、人々にアポロ計画に対する肯定的なイメージを与えるのに、絶大な効果を発揮したことは間違いない。
アメリカというのは、広告宣伝の国だ。科学的で、かつ、芸術的とまで言われるほどまでに磨き抜かれたその宣伝技法は、かのルーズベルト大統領をして、生まれ変わったらコピーライティング(広告文章)をやりたいと言わせたほどだ。
メディアの効果的な活用については、なんといってもヒットラーが有名で、今の時代に彼がいたら、さぞ、Facebookなどのソーシャルメディアを見事に活用したことだろう。
アメリカ政府に限らないが、、政治活動や企業活動などでも、ヒットラーの手法を研究したということは十分に考えられる。

良いとは言わないが、「シックス・ナイン」のような言葉のトリックをロケットに使うのは、まだましだ。しかし、それを原子力発電に使ってはならない。

ところで、アポロ11号で初めて人類を月に送ったアポロ計画であったが、、その次の次の、アポロ13号は早くも失敗しており、「シックス・ナイン」が宣伝でしかない空論であることが分かってしまう。飛行士の命こそ救えたが、それはほとんど奇跡であった。とてもではないが、安全に関しても「シックス・ナイン」とは言えない。

宇宙ロケットであれば、犠牲になるのは、ある程度の危険は覚悟しているであろう、勇敢な宇宙飛行士だ。言い方は悪いが、彼らにとって、成功した時の見返りも大きい。
1986年、スペースシャトル「チャレンジャー号」が打ち上げ73秒後に空中分解し、7名の飛行士が犠牲になった時、当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンは、テレビで、「皆さん、悲しかったでしょう。私も妻のナンシーと悲しみました」と、国民に語りかけた。レーガンは、元ハリウッド俳優であるだけでなく、話術の天才で、アナウンサーとしても成功している。レーガンの話には、明るく、肯定的で希望を与える力があり、この悲劇的な事故にも、「悲しみを乗り越え、さらに、スペースシャトル計画を推進しよう」という情熱を国民に訴え、説得してしまった。

そして、オバマ大統領は、演技力ではレーガンに及ばないとしても、彼はディベート(討論技術)の天才だ。
その彼が、原子力発電推進を行わざるを得ないことに、恐ろしいものを感じるのは当然である。
現実として、さきほどのスペースシャトルのチャレンジャー号、そして、コロンビア号(2003)の事故で、共に7名の飛行士の貴い命が犠牲になった時も、アメリカ国民でさえ、大多数は美味しくディナーを食べたことだろう。
宇宙ロケットに危険はつきものだという認識も、ある程度は理解できるということもあるかもしれない(実際は、あってはならないが)。
しかし、身近で、いや、極めて遠方とは言えない場所で原発事故が起きたなら、決してそうではないだろう。
日本がアメリカに追従しなければならないというような問題ではない。
アーサー・ケストラーは、西暦は古い暦であり、広島に原爆が投下された西暦1945年をPH(ポスト・ヒロシマ)元年とする新しい暦が当然と述べていた。それほどの重大事でありながら、実際は、アメリカ国民に原爆に関する理解はほとんど無かった。
では、1986年のチェルノブイリ原発事故をPC(ポスト・チェルノブイリ)元年とすべきであったかもしれない。
日本は、西暦2011年をPHのリベンジとするかのように、PF(ポスト・フクシマ)を制定しなければならないかもしれない。それとも、いまだ人類は賢くなく、次のP(X)を待つしかないのだろか?
しかし、次はあるのだろうか?

星新一さんの小説に、こんな話があった。子供の頃に読んだきりなので、詳細は憶えていないが、だいたいこんな内容だ。
未来社会では、死刑囚は、卵のような装置を1つ持たされ、火星に追放されることになる。この小説では火星に水はないが、その卵についたボタンを押すと水が出る。しかし、何度目かは分からないが、いずれ、ボタンを押すと、卵は爆発し、囚人は死ぬ。つまり、その時で死刑完了だ。
水を飲まずに渇いて死ぬもよし、何度か水を飲んで爆死するもよしという訳だ。精神的苦痛もまた、囚人への罰なのだろう。
あなたなら、この卵のボタンを押せるだろうか?
原発も、宇宙ロケットも、この卵と変わらない。
事故はいつか確実に起こるのだ。その可能性が百万に1つとしても、それが100年後か明日かは分からない。その百万に1つというのが、まさに、シックス・ナイン(99.9999%)だが、アポロ宇宙船は実質上、3回目で当たったということだ。
我々は、恐怖を味わうべき囚人という訳なのである。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   

一人は皆のために、皆は一人のために

「自信を持て。しかし、謙虚であれ」
「奢ってはならん。だが、卑屈でもいかん」
「自分らしくありなさい。だけどチームワークが大切よ」
「傑出した人物になれ。ただし、人は皆平等だ」

なんという無茶な要求だろう?
こんなことを言われ続けてきた我々が、すっかり混乱した人間になるのは仕方がない。
もちろん、これらの言葉の正当性を説明する者も多いが、どれも虚しい空論だ。
だが、ちゃんと説明した人もいるにはいるのだ。それが出来るのは、悟りを開いた賢者だけだ。
ところが、聞く者が悟りを開いていなければ、何の意味もなくなるのだ。

個と全体の両立。これは、実に人類最大のテーマだ。
「一人は皆のために。皆は一人のために」という言葉は、「三銃士」以前からあるもので、その重要さを賢い人は直観していたが、人々に守られたためしは、まあ、無い。

悟りを開いた者は、こう言わざるをえないのだ。
「一人と万人?それは何だね?」
「お前さんと私?それにどんな意味があるのかね?」

とても参考になる短くて面白い小説が、中島敦の「名人伝」だ。これは、中国の古典「列子」の中にあるお話と根本的には同じものだ。「荘子」も、同じテーマを美しく綴っている。
Amazonに大量入荷した。至宝の短編。良ければお薦めしたい。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
最新コメント
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ
PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
人気ブログランキングへ
↑↑これと
↓↓下の3つのいずれかをクリックして応援をお願いします!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
QRコード
QRコード

  
   このエントリーをはてなブックマークに追加
  

タグクラウド
  • ライブドアブログ