ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

世界最強のパパ

子供というものは、自分の父親は世界で一番偉く、強い人だと思っている。
しかし、やがて、さほどでないことに気付く。それだけなら良いが、さらに時が経ち、自分の父親がおそろしくつまらない男であることを知り、愕然とすることすらある。
一方、ずっと父親のことが嫌いだったのが、父親が80歳になった時から好きになり始めたという者もいる。
また、父親が死んで、ずっと経ってから好きになることもあるのだ。
とりあえず、男(父親)を例にした方が単純で分かりやすいのでそうするが、女(母親)の場合はもっと深くて広いのだけれども、基本的には同じと思って欲しい。

あなたは、ずっと、子供にとって世界最強でいられる。いや、いなければならない。
確かに、あなたは身体も小さく、体力も無いかもしれない。学歴は無いかもしれない。世間での地位は高くないかもしれないし、高収入でないかもしれない。
しかし、そんなものを拠り所としているなら、確実に弱い男だ。
だから、そんなものは無くて良い。無くて良いが、必要なら何でも、いつでも造作もなく得られるのだ。そして、得ても誇らないばかりか、気付きもしない風で、無用になれば惜しげもなく手放す。その豪放さ、爽やかさに、子供は、あなたの中に理想の人間の姿を見るのだ。

あなたが世界最強でなければ、子供は、自分も世界最強であると信じなくなる。
世界最強の男とは、外に力を求める者ではなく、自らの内に力があることを知る者だ。
自分の中に無限の力と知恵があることを知っているので、穏やかで、ゆるぎない勇気があり、不屈だ。
これはつまり、家庭の中に、キリスト、あるいは、仏陀が居るということだ。
それは子供にとって最大の安心である。そして、いずれは、子供も、自分自身がキリストや仏陀であることに気付き、その信念の中に自己を確立し、人々のためになることをするようになる。

父親が嫌いだというのは、彼が傲慢で自己中心的であるからではなく、彼が自分の中にキリストがいることを知らず、弱いからだ。
だが、彼が老いると、たとえ表に現れていなくても、彼がキリストであることが分かるようになる。
マザー・テレサは、貧困者や病人の中にキリストを「本当に」見ていたのだ。
父親が死んで長く経つと、彼の中のキリストを感じるようになる。記憶は些細なものをそぎ落とす。すると、キリストとしての父親が見えてくるのだ。
いずれにしろ、これらのことが示す真理は、我々の中にキリストや仏陀がいるということだ。
ならば、すぐに、外の世界の幻想を振り捨て、自分の中に意識を向けないといけない。自分の心はキリストの心の一部だし、キリストの心全体に広がることもできる。身体はキリストの神殿だ。いくらでも自由に建て直すことも造作もなく出来るのだ。
宗教的というなら、古代の高度な宗教は、確かにこういった真理を教えたが、今の宗教では、こんな話はむしろ異端に属する。この状況を、コリン・ウィルソンは、人類は2千年も騙され続けてきたと言い、W.B.イェイツは「The second coming(再来、あるいは、再臨)」という詩で、人類は2千年の悪夢を見ていると言った。
ひろさちやさんは、空海は、自己を仏陀とみなし、仏陀として話し、考え、行動したと「空海入門」の中で述べている。自分が仏陀であることを疑わなかった。
イエスも、弟子たちに、彼らが自分と同じであることを繰り返し教え、それを信じない時には叱り、嘆いた。
自分の中にキリストや仏陀がおり、それと手を結び、親しみ、融合し、やがて、自分自身がキリストや仏陀であることを知る。
キリスト、仏陀とは、無限の英知であり、宇宙に遍満する無限の力だ。キリストとは支配者という意味で、宇宙を動かす者であり、仏陀とは目覚めたる者という意味で、真理そのものである至高の存在だ。
はじめのうちは、それが、あなたをこの上なく気遣い、心配してくれるだろう。だから、あなたは心配しなくて良いのだ。いや、決して心配してはならない。そうすれば、あなたは内なるキリスト、仏陀と溶け合い、1つになる。自分自身がキリスト、仏陀であれば、愛する人はあなたの最強を疑わず、やがては、彼もまた、自分が無敵であると知るだろう。







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生肉を食べるということについて

日本人が生肉を食べる場合は、空腹を満たすとか、必要な栄養を補給するためではなく、快楽のためである場合が多いと思う。
エスキモーのような寒冷な地域に住む民族は、特に昔は、アザラシやクジラ等の海洋動物の生肉を食してきたが、それは、かつては他の食料を入手する手段がなかったのと、また、それを火で調理することが難しいかったからと思われる。野菜を食べない分、生肉に含まれる栄養素が必要であるという理由があったという話もあるが、別にそんな理由で生肉を食べていた訳ではないだろう。実際、科学的には栄養は偏っていたが、病気も少なく健康であったようだ。世界には、トウモロコシしか食べないとか、1つの種類の芋しか食べない民族もあるが、健康で長寿の場合も多い。しかし、エスキモーの住む地域で生活した白人は、なまじ栄養学の知識があったために病気になったということもあると思う。

もちろん、交流や親睦を円滑にするための趣味的な食事というものもあり、それには、お茶とお菓子といったものが出されたり、酒が出る場合には、ナッツやチーズといったものが出されることも多い。
だが、趣味や快楽のために動物の生命を犠牲にするのはどんなものだろう。
食料を得る目的ではない、趣味やスポーツとしてのハンティングが良いものではないと認識するまでには人間も進歩してきたと思いたいところである。

衛生面では、過去のどの時代より格段に進歩しているとしても、人間が食する肉に付着した病原菌やウイルスが突然変異を起こすことで猛威を振るうことが多くなってきたように思う。O-157やO-111、狂牛病(これの原因であるプリオンは現在はウイルスと考えられていない場合が多い)、鳥インフルエンザなどがよく知られている。
病原菌や病原体を人間の想念が作り出しているという考え方は、現在の科学では容認されないばかりか、一考すらされないだろう。
これらのウイルス等に対するワクチンを開発しても、いずれは、突然変異によってワクチンは効かなくなる。そこで、現在は、これらのウイルスに感染しないためには、ウイルスを遠ざけることで対応するしかないが、それが百パーセント確実に出来るとも思えない。
感染しないための最良の方法とは、肉食をしないことだ。
これらの突然変異した病原菌は、食べるべきでないものを食べたがる人間への警告だと直観するのは、私だけではないと思う。
全ての肉食を禁じればいいとまでは思わない。他の食料が入手できない場合、そして、食べる動物を自分の手で殺せる場合、そうでないとしても、少量であるなら、おそらく、危険な病気に犯されることもないと感じるのである。ただし、生肉、動く海老や魚、あるいは、もっと残酷な食を楽しむ風習も世界にはあるが、人類が高貴な意識を得るならば、それは過去のことになると私は信じる。







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1人じゃないという本当の意味

独房というのはよく考えたもので、人にとって孤独ほど辛いものは無い。ただ、W.B.イェイツも言ったように、人は孤独でしか真に鍛えられない。
独房で生き延びられるなら、真に強い人間である。

「あなたは1人じゃない」「我らは共にいる」という言葉をよく聞くだろう。
それが本当に愛を持って言われたものであれば、人をとても勇気付ける。
スポーツしてる姿などで人は勇気付けられない。なぜなら、それには、あなたの孤独を癒すことも、孤独に打ち勝つ姿がある訳でもないからだ。あなたと関係ない場所で元気に走り回っている肉のかたまりを見て、どんな勇気が出るというのだ?

私は、社会人としてのスタートの仕事が家庭相手のセールスマンだったが、これが何とも厳しい仕事だった。行く先々で、全く人間として扱われない孤独で辛い立場に置かれ続けるのである。10人入社すれば、1ヵ月後に1人残っているかどうかだった。
ところが、ある本で、アメリカの行商人の話を読んだ。広いアメリカを1人で車を運転しながら売り歩くその孤独は、会社のセールスマンの比ではない。
しかし、彼は明るかった。彼は、「キリストが一緒なのですから、何の不安もありません」と言って、毎日たくましく商売をし、とても豊かだった。
聖書の中でイエスは、「私は必ずあなたと共にいる」と言っている。
それが単に、言葉の慰めでも、何かのたとえでもなく、事実であることを知らないなら人は不安に苛まれる。
共にいるのは、個人としてのイエスではなく、キリスト(神我)である。イエスの中にいるキリストは、確実にあなたの中にもいる。これは宗教ではなく、単なる真理であり、科学と言って差し支えない。
イエスはそれを知っていたが、あなたは知らないというだけのことだ。
また、イエス個人があなたと共にいると言っても良いのである。なぜなら、イエスはキリストと一体であるからだ。
そして、あなたもキリストと一体である。
キリストという言い方が宗教臭くて抵抗があるなら、宇宙に遍満する情報エネルギーとでも言っても良いが、それは制限のある言葉にするのはもったいないほど強力なものだ。
キリストというのは、本来は、王とか支配者という意味で、この世を動かす全能の力を現しているのだと思う。もちろん、神と同じものだ。
イエスの教えでは、一応は、神と人と、神と一体になった人であるキリストの3つに分けているが、それらは本来1つである。

人とペットは似てくるという。これは、ペットが人に似てくるのだ。
偉大な男が、美しいがずっと若い女と結婚すると、うまくやっている限り、女が男の方に似てくる。
逆に、偉大な女と結婚した若い男は、お互いに敬っている限り、女の持つ優れた性質を帯び始めて、やはり似てくる。
このように、偉大な人の側にいれば、偉大な人に似てくる。
共にいると、高い方に、低い方が似てくるのだ。
キリストと共にいると、あなたという自我はキリストに似てくる。そして溶け合う。これが、キリストと一体になるということだ。
そのためには、あなたの中にキリストがいることを認めるだけで良い。
これは、全ての子供に教えないといけないことだ。自分の中に、完全な存在であるキリスト、神、原理が存在するということを。
そうであれば、劣等感や自信の欠如の表れでしかない自己中心主義や傲慢、差別意識など、持ち得ようはずがない。
人種差別やカースト制度は、実に、個人の無力感や孤独感とそれが引き起こす不安感や恐怖から生まれ、維持されたものに過ぎない。
聖書の教えが権威化、形骸化したために、イエスの言葉を見ながら、自分の中に神がいることを知ることができなかったのだ。

最初に述べたが、イェイツは、人は孤独でしか鍛えられないと書いたが、これは、孤独に耐えたことが無いと、自分の中のキリストを求めるようにならないという意味だ。
いったん、自分の身体と心の中にキリストを見出すと、孤独や無力感は消える。不可能はなくなるし、豊富そのものになる。
聖書に中に、「もし神が味方なら、誰があなたに敵対出来るだろうか?」という言葉があるが、神は共にいる完全な味方である。よって、あなたは無敵である。







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Excelでのソフト開発者という道

これからコンピュータの仕事をしようと思っている人へ、ちょっとアドバイスする。
特技があると、いい立場で仕事ができることが多いからだ。

今は、多くの企業で、販売管理や生産管理業務等をコンピュータ化している。財務や経理関係は、数多くある優秀なパッケージソフトを使う場合が多いし、それで良い。
ところで、開発会社に依頼して、業務システムをまるごと開発した会社を見ると、大半はロクな目に遭っていない。
大変な苦労をして業務をコンピュータ化したのに、そのシステムと業務がさっぱり合ってなくて、業務効率が落ちたり、システムのせいで多くの問題が発生したりしている。
その理由は分かっているが、それを論じるのは趣旨と異なるのでここでは触れない。

私は、大掛かりで全自動的なコンピュータシステムなんか入れずに、マイクロソフトオフィスの中に入っている表計算ソフトのExcel(エクセル)を賢く使えと言いたい。
それで、業務の半分を処理し、残りを専門家が自動化すれば良いが、その専門家は、その気になればあなたにもなれる。具体的には、VBAというBASIC言語の開発ツールがExcelにも付いているので、それに熟練すればいい。
大規模な処理が必要な大手では、それなりの自動システムも必要なのだが、それでも、本格システムの部分は馬鹿みたいに単純にすべきで、現場の細々したことはExcelでやれば良い。逆に言えば、細々したことを本格システムの方でやろうとしたら、間違いなく悲惨を味わうことを保障する。いろんな意味でだが、これも専門的で複雑なので触れないでおくが、時代遅れと言われるCOBOL(1959年から使われているプログラミング言語)あたりで作るシステムがよく合っていると思う。

そんなわけで、幸せな技術者になりたいなら、Excelを勉強することをお奨めする。
開発技術者といったら、やれ、ジャバ(Java)だ、ビジュアルスタジオ(Visual Studio)だ、ルビー(Ruby)だパイソン(Python)だと言い、そういうのが出来ないとまともな開発者で無いと言う者がいるし、それはそれで本当かもしれないが、コンピュータの奴隷になりたくなければ、別の方向を選んだ方が良いと思う。それらは、複雑過ぎて、よほどの適正が無いと、面白いものではない。

尚、高度な専門家でも、システムというものをよく理解している人は、それが分かっているものだと思う。
以下に、参考になる情報をご紹介しておく。

システム開発生産性が最も高い言語
[識者の一言]「“Excelの達人”の後継者を育成せよ」

また、余裕が出来れば、同じマイクロソフトオフィスのProバージョンにあるAccessに手を伸ばせば、大量のデータを扱うものが作れる。







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世間での狂い方をマスターする

本日でGWも終わり、明日から学校や会社に「行かなければならない」人が多いだろう。
この憂鬱で惨めな気分を一言で表現するなら、「閉塞感」と言えるのではないだろうか?
つまり、閉じ込められて、行き場がなく、広い外が見えない。何か大切なものとの交流が絶たれてしまった・・・そんな感じだ。
英語の地獄(Hell)ってのは、覆い隠されたとか閉じ込められたって意味だから、まさに、世間とは地獄だ。
閑吟集(かんぎんしゅう)という、室町時代の歌謡集に、「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」なんて唄があり、大体の意味は、「人生なんて夢なんだから、深刻にならずにメチャメチャにやんなさい」という意味だが、仏教学者のひろさちやさんは、この唄がお好きらしく、真意を言えば、「世間が狂っているのだから、自分も狂えばいい」となるらしい。私も全くそう思う。
岡本太郎流に言えば、「狂ってていい、いや、狂わなければならない!」とでもなろうか。
閉塞感に満ちたところが世間で、それは地獄なのだから、真面目に地獄の亡者してないで、「狂った亡者」になれば良いのだ。
しかし、よく考えると、「狂った世間で狂った者」「地獄の不真面目な亡者」とは、「まともな者」「天使」なのだ。

地獄が「覆い隠されること」「閉じ込められた場所」なら、覆いを取って明らかにし、壁を壊して出て行ってしまうことが狂うことだ。
殺人や暴力、いじめをやる者は、この世で狂ってるんじゃなく、この世という地獄の中では真面目な亡者なんだ。だってそうだろ?彼らは、最大の閉塞感を持った連中ばかりじゃないか?そんな連中をいくら糾弾してみたところで、明日は自分がそんなことをするかもしれないのだ。私は、凶悪な犯罪者を見ていると、それが自分だと感じたものだ。本当は、皆同じではないだろうか?だからこそ、かえって、みんな彼らを罵倒するんだ。自分が彼らに全く似ていないなら、憎しみより哀れみを感じるはずなのだ。

「涼宮ハルヒの憂鬱」で、憂鬱な美少女ハルヒさんが、閉鎖空間を発生させるなんて、著者の谷川流さんの素敵な冗談だ。
ハルヒは、中学時代、ずっと狂ってたのだから、もっと大いに狂いなさいと言いたいところだが、高校生になる頃には、地獄に馴染んできたようだった。小説の感じとは違うかもしれないが、キョンに出会って、またまた派手に狂いだしたのだからいいじゃないかと言いたいところだ。そういえば、今月、2年振りに新刊が出るようだ。さて、どうなるのか。

さて、あなたも真面目な亡者していないで狂えば良い。いや、狂わねばならない。
良い表現が無いのでこう言うが、決して視聴覚障害者を愚弄する意図はないが、「盲人の国では目明きは盲人」だ。我々は、それになることが必要だ。
そして、この世で最高の目明きは、実に、肉体的には見えず、聴こえなかったヘレン・ケラーだった。彼女は、「五感は幻想。純粋観念のみが真理」と言ったのだ。

地獄での正しい狂い方は、殺人や暴力を振るったり、快楽に耽ることではない。それでは、単に「まとも」で、地獄で表彰されちまう。
世間で、美食を広めて人々の心身を損なわせ、自動車を売りまくっていろんな問題を起こし、子供を良い学校に入れるよう煽りまくると、やっぱり狂った世間で賞賛される。
地獄や世間で最高に狂うとは、英知を賞賛し、それに従うことだ。そうすれば、間違いなく、世間では狂人にされる。英知に従えば、飽食、美食にならないし、必要がなければ車に乗らないし(ほとんど無いさ)、学校の成績なんて気にしない。
そして、英知は本当は我々の中にある。
英知を覆い隠すこと、それが本当の地獄だったんだ。
神である本当の自分を閉じ込めてしまうことが地獄だ。
「吾神なり」って、地獄や世間での最高の狂い方で、地獄では逮捕され、世間では呆れられる。
イエスさんみたく、海の上を歩き、嵐を叱って静め、水をワインに変え、食べ物を空間から無限に出したら、やっぱり彼と同じように犯罪者扱いされちまう。イエスさんは「吾キリスト(神人)なり」って言ったのだから。
だから、「吾神なり」と自分に言い聞かせることだ。だが、「だから俺は偉い」なんて思ったら、それでは地獄の亡者と同じだ。
衣食住を意思で出現させられるようになっても、偉くもないともない。そんなの、当たり前でしかない。
閑吟集では、狂い方まで教えていない。壁を壊して飛んでいってしまう方法を教えていない。
それは、自己を神と見ることだ。そこまで自信が持てないとしても、まずは、不可能はないと考えることだ。神に不可能はないのだからね。







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