ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

最上の供物(ささげもの)とは何か

お賽銭をする時の人々の顔は皆、真剣だ。

大昔は、神仏への供物(くもつ)は、穀物や魚、餅、菓子といったものだったが、現在は、自宅の神棚や仏壇でなければ、それがお金になったのは、なんといっても便利だからだろう。中国や韓国も、事情は日本と同じようだ。
日本でも無かったわけではないが、西洋では、昔は、穀物と共に、家畜を供物として捧げることが多かった。
生きた人間を生贄とする人身御供も確かに世界各地で、そして、日本でもあったが、それは荒ぶる神への恐怖感からであったり、神を祭る者の権力を示すためであったのだろうと思う。

ところで、お賽銭をする人ですら、それで願いが叶うとは、実際には信じていないと言うかもしれないが、本当は、少なからぬ望みを持っているに違いない。

西洋では、お賽銭というのはあまり聞かないが、寄付や献金の習慣が古くからある。
よく知られているものには、一割献納というものがあり、富豪の中にも、収入の1割を教会に寄付したり、貧しい人々のために献金する人々はよくいる。アメリカの石油王ジョン・ロックフェラーは、生涯に渡って1割献納を続けたと思う。潜在意識による成功法則の教師として世界的に知られるジョセフ・マーフィーも一割献納を薦めていた。
一割献納が素晴らしい行為であり、祈願成就のための良い方法であることは確かだ。しかし、これは最上のものではない。

さて、お賽銭を含め、供物の効果については、断言するが、確実にある。
ただし、思うままの願いが叶うという訳にはいかない。これは、お賽銭の額とか、供物の種類の問題ではない。
祈願の方法の中では、神仏に供物を捧げるというのは最上の方法なのである。
ただ、そのやり方を少し間違えているのである。

まず、気が付かなければならないことがある。
それは、人が神仏に祈願をすれば、神仏は必ず、お金や食べ物をくれるのである。それなのに、人の方がお金や食べ物を捧げるなんて、本当はおかしなことなのである。もちろん、無知ではあっても、神仏への崇敬を示しているのであるから、間違いというわけではない。
しかし、やはり、最上ではない。

では、霊感に優れた賢者である古代の神官が、農耕の成果である穀物や、漁の成果である魚、牧畜や狩猟の成果である家畜や獣を供物にしたのは、何のためだったのだろう?
それは、神仏がそれらを召し上がるということではないだろう?
そうではなく、「我々は、人としての義務を果たしております」という証を示したということなのだ。

だが、単に働けば良いというのでもない。
そして、物としての供物は本当は必要ないのだ。ただ、象徴としては、あった方が良いということである。

捧げるのは、収穫物や稼いだお金の一部ではない。全部でなければならない。
だが、先程も述べた通り、現物自体は本来は必要ないのだ。
大切なのは、働く動機である。
義務として誠実に働き、仕事の結果については、全て神仏に任せ切るのである。
人は、仕事をすると、大きな成果や高い報酬を期待する。その執着を捨て、天に委ねてしまわなければならないのである。
結果への執着を捨て、義務として誠実に働く。これこそが、本当の供物である。

では、主婦や、学生、あるいは、無職の場合はどうやって祈願すれば良いのか?
仕事というのは、必ずしも、農耕、狩猟、製造、商売のようなものだけではない。
言うまでも無く、主婦業は立派な仕事であり、他の仕事と同じように報酬(謝礼や感謝)を求めず義務として誠実にやれば立派な供物となる。
学生には、一応は勉学に励むという義務があるし、働くべき立場で無職なら仕事を探したり、仕事に就くための努力をする義務がある。
だが、それだけではない。
良い行いを自分の義務として誠実に行えば、それも仕事である。
例えば、事業に失敗し、借金を抱えている中で、宣教師として日本に来ていた牧師のための通訳をボランティアで1年ほどやり、その後、事業で成功した人がいた。ボランティアであるから、端(はな)から報酬はない。だが、それを義務として行えば神への供物にはなるのだ。この事業家は、その後の成功は絶対に神の導きであることを確信していると著書に書いているが、彼の感覚は正しい。

また、働いているとしても、それとは別に良いことを義務としてやり、それを供物とすることも出来る。もちろん、その報酬は求めてはならない。
例えば、毎朝、公園の掃除をすることでも良い。ただ、注意しなければならないのは、それは義務なのだから、勝手な理由で休んだり、手を抜くことはできないということだ。
こう考えれば、無職でもいろいろ出来ると思う。暇だからといって、怠惰にならず、誠実に義務を果たすのだ。そうすれば、運命は好転するだろう。
尚、ヒンズー教でも仏教でも、最上の仕事は、真理を学ぶことと、真理を伝えることであると言われている。『バガヴァッド・ギーター』や『老子』、『聖書』、あるいは、仏典を読むと良いだろう。ただし、読むなら読むで、義務として誠実に読まなくてはならない。また、真理を伝えることであるが、自分がそれを義務で行う器でないと分かれば、まずは、学ぶ義務から始める必要がある。

義務という言葉を、「嫌だがやらなくてはないらないもの」だといった風に否定的に捉えている人は多い。しかし、義務とは、人にとって、神に近付く唯一の道である。いかなる仕事も、結果への執着を捨てて義務として行うなら、優れた供物になるのである。

ところで、もう一つ、絶大な威力をもつ供物がある。
それは、自分の食事の一部を供物にすることである。
間違えてはならないのは、自分の食事とは別に、供物の食事を用意するのではなく、自分が食べるはずのものを食べずに供物とするのである。
それは、実際に、神棚や仏壇に供える必要はない。心の中で捧げれば、神仏は速やかに受け取るのである。
これは、江戸時代の観想(顔や身体の相で運命を鑑定する占術)の大家である水野南北の教えである。水野南北の食の慎みによる開運法は、万に1つの間違いもなかったことを南北は断言している。
だが、この時も、結果を求めてはならない。それは天に任せて執着しないことだ。

義務として仕事をし、結果に関しては天に任せて執着しない。その時、自分が仕事をしているとは思わず、心は安らかである。
そうすれば、仕事の成果は神仏への供物となり、神仏はそれを喜び、我々を喜ばせてくれるのである。
しかも、これを行うと、我々はいかなる仕事をする必要もなくなる。なぜなら、これこそが、神仏と一体となり、慈悲深きこの世の支配者となるからである。









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神になった凡人達の悲劇

平凡な人間が、神のような力を得れば、最高に幸福かというと、そうでないばかりか、とんでもない悲劇かもしれない。
2人の最高のSF作家が、共にそんなことを洞察した作品を書いているのが面白い。

1つは、英国のH.G.ウェルズの『奇跡をおこせる男』という短編小説だ。
平凡な店員だが、物知りで議論好きな若い男性に、キリスト並、あるいは、それ以上とも思われる力が備わるが、彼はきりきりまいさせられた挙句、その奇跡の力により、自らの奇跡の力を消滅させる。
ウェルズは、19世紀に、『タイムマシン』や『宇宙戦争』という作品を書き、同じ英国の世界的作家コリン・ウィルソンは、自らの哲学的作品ではウェルズの『ポーリー君の物語』を度々引用し、小説の形を借りた人間探求の書『賢者の石』では、登場人物の口(しかも2人)を借り、SF分野に限らず、ウェルズを最高の作家と言わせている。

もう1つは、アメリカのL.ロン.ハバートの『幻の四十八時間』という、やはり短編作品だ。
天使と悪魔が論争に決着をつけるため、ある、平凡と言うにも足りない女性に奇跡の力が与えられる。その女性は、恋愛も一切の冒険もしないまま60歳を過ぎ、そして、人生の終わりを迎えたのだった。
そして、天使により万能の力を与えられたその女性には、とんでもない結末が訪れ、天使は悪魔に屈服する。
ハバートは、新興宗教団体サイエントロジーの教祖としては、一部で悪評もあるが、自己啓発や教育の分野で世界的な評価を得ており、現在も多くの世界的人物が彼を信奉している。作家としては、アイザック・アシモフ、レイ・ブラッドベリ、スティーブン・キングらがハバートの作品を絶賛し、ある調査では、SF分野に限らず、作家として、スタインベック、ヘミングウェイ以上と評価されている。

心を磨かないまま、強大な力を得ることは危険なことであるに違いない。
それは、そこそこの財力や権力といった程度のものですらそうであろう。ましてや、神に匹敵するほどの力であれば、世界より先に、自らを滅ぼすことになるのだろう。

谷川流さんの小説『涼宮ハルヒ』シリーズ最新刊『涼宮ハルヒの驚愕』では、神の力を得ることも可能であった、佐々木という姓だけで登場する美少女は、そんな力を得ることを拒否する姿勢を貫く。高校2年生という割には、落ち着き、大人びた少女ではあるが、自分の未熟さを自覚し、そんな力を得ればロクなことにならないことを確信しているのである。大したものである。

だが、我々は、自我である自分が、真の自己たる聖霊の背後に控えるべきことを知れば、無限の力と自然に一体化するのである。
イエスが、「汝敗れたり。わが後方に退け、サタン!」と言い、「私は世間に勝ったのだ」と言ったように、我々も、自我を支配して退かせ、世間の教義や信念を打ち破れば、イエスのようにキリストとなる。イエスも、「お前たちは、私より大きなことができるだろう」と言ったのである。
新約聖書の福音書には、そのためのイエスの言葉が数多くあるのだけれど、その解釈は難しい。『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者である、アメリカの科学者、採鉱家、探検家、著述家、講演家である、ベアード.T.スポールディングは、『聖書』と『バガヴァッド・ギーター』は等価値であるが、本来は、『バガヴァッド・ギーター』を読む方が良いと述べる。ただ、子供の頃から聖書に馴染んでいる西洋人は、やはり聖書を読むべきなのだと言う。だが、日本人であれば、『バガヴァッド・ギーター』を読むのが良いかもしれない。日本人にとっては、聖書を古事記と置き換えても良いかもしれない。しかし、日本人は古事記をあまり読んでいない。だが、『バガヴァッド・ギーター』と共に古事記を読めば、得るところは大きいと思われるのである。













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恋愛とウイルスの突然変異は似ている

百匹目の猿現象の話自体は、言い出した生物学者ライアル・ワトソンの創作らしいが、ありえないことでもない。百匹目の猿現象とは、ある島(九州の幸島)で、イモを海水で洗って食べる猿が現れ、その数が増えてきた時、日本中の猿がイモを洗って食べるようになったというものだ。つまり、猿にテレパシーのような能力があるというのである。

例えば、学校の教科書で、ハエに対して有効だった殺虫剤も、次の世代のハエはDNAが変化して効かなくなるという話が載っていたのを憶えている人も多いと思う。
殺虫剤で死んだハエのDNAはどこにも伝わらないのに、次の世代のハエのDNAが変化する。しかも、その殺虫剤が全く存在しなかった場所のハエのDNAまで変化する。つまり、DNAの変化は空間を超えて伝わるのだ。
そもそも、生物の突然変異はDNAの変化であるが、それは広範囲(おそらく世界中)で、物理的接触のないまま起こる。インフルエンザウイルスは、ワクチンを作っても翌年には効かなくなるが、それも、世界的規模で一斉にそうなる。
つまり、間違いなく、DNA(あるいはRNA)は、空間を超えて影響を受けるということだ。
DNAが解明されたからといって、その働きが分かったわけではなく、依然、生命はほぼまるごと謎である。科学では一切認められていないが、人間は、肉体的な身体とは別に、何重もの霊的な身体を持つ。それは当然、目に見えないし、科学的機器に捉えられる訳でもないのだから、科学的には無いということになる。だが、有ると考えると、現実の現象を説明できることもある。DNAの空間伝播もそうで、DNAの働きにも、見ることのできない隠された部分があるのだ。

多くの人間に影響を与える人の中には、姿や発言だけではなく、むしろ、そのような部分は些細なもので、空間を超えてDNAに影響を与えているように感じる人がいる。
私は読んだことがないが、フランスのピエール博士の「宇宙人ユミットからの手紙」には、イエス・キリストがそんな能力を持っていたと記されているらしい。私も全く同意する。
恋愛においても、外見の優劣に関わらず(何を優とか劣とか言うのかはさておくが)、なぜか異性を惹きつける人というのはいるが、どうやって相手に恋愛感情を起こさせるのかは、どうやっても論理的に説明できないことがある。恋愛もDNAの作用だという説もあるが、やはり、相手のDNAに対して、空間を超えて作用を及ぼしているのだろう。これはもちろん、論理的な推論ではなく、直感的な確信だ。

意図的に都合のいいように出来るかどうかはともかく、誰にでも他人のDNAに作用を与える能力はある。そんなことが出来る装置でもあれば大変なことになるが、その働きはそれほど単純ではないので、そんな心配はあまりいらない。では、どうやって人がその力を発揮するかというと、DNAは意識からの作用を受けるのであり、他人の意識に影響を与えることによって行われる。最も強い影響を与える者とは、自分の意識と他人の意識を異なるものと見ない者である。つまり、そのような者にとって、意識的には他人は存在しないのだ。
その力を増大させる方法となると、意識の拡大、意識のエネルギーの制御といった、世間的、科学的常識の通用しない範囲の話になる。だが、理屈でそれを行う訳ではないので、知識や頭の良さとは関係がない。人間には、もともと、その力があるのであり、それを妨げる世間の教義や信念を消し、本物の意識を確立することで不思議なことも起こせるようになる。
ただ、性的欲望の強い人間であれば、他人の恋愛感情に関わるDNAに作用を与えることは難しい。何となれば、DNAにテレパシー的影響を与えるというのは、単に結果に過ぎず、それを意図的に行うことはない。時々、「崇高な恋愛といったところで、成長した下半身が相手を求めているだけだ」と言う人もいるのだが、それはそういった種類の恋愛しか知らないからそう言うのだ。全て同じ恋愛という言葉で語るのも、本来は不都合であるのだが、人間の言葉というのは貧困なものだ。高い恋愛というものは性的な欲望はほとんど感じないものである。好きな人に関する、性的魅力と異なる崇高な特質について思いを巡らせてみると良い。すると、あなたは、その力を発揮するのである。
また、『バガヴァッド・ギーター』をいつも読めば、結果としてその力を得るが、そればかりを意図して読むと、拙い結果となるだろう。









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平安に至る仕事のやり方


我々は、仕事をする目的を間違えていることから、仕事が重荷になってしまい、日々、無力感に打ちのめされている。それで、グルメやつまらない娯楽で気を紛らわせるが、それはさらに惨めさを増すだけなのだ。

まず、仕事に関する悲劇的な誤りを示していこうと思う。
スポーツでは、アマチュアであっても、国際大会等での成績に応じて賞金が出たり、人気が高いスポーツでは、資金源豊かな協会から、様々な場面で選手やチームにボーナスが支給されることは普通になってきた。
先頃、中国女子サッカーチームに対し、中国国内のある企業から、勝利の際の賞金提供の申し出があり、選手の1人が「モチベーションが上がる」と歓迎する様子が放送されていた。
ところが、我が国の男子サッカー日本代表選手達の中には、国際マッチでの賞金が少ないのが不満で、モチベーションが上がらないことから、増額を求めているといった報道を見たことがある。

様々な言い分はあろうが、まさに、「金が全て」ということである。
これは、何もスポーツだけではない。全ての人が金のためにだけ仕事をするようになってしまっているのだ。

だが、それは正しいことだろうか?あるいは、それは仕方が無いことだろうか?
あなたは、金のためだけに診療をする医者にかかりたいだろうか?そんな医者に家族を任せたいだろうか?
金のためだけに働く教師に自分の子供を預けたいだろうか?そんな教師のいかなる命令にも自分の子供が服従していることを何とも思わないのだろうか?

多くの人が、自分を省みず、医者や教師、あるいは、政治家や警察官は金のためにだけ仕事をしてはいけないと思っている。それどころか、彼らの仕事は「聖職」であり、金のために働くという考えを持つことを許さない。その恐るべき矛盾に気付かない。
我々がそうなら、誰でもそうなのである。実際、既に、大半の医者や教師、政治家も警察官も、金のためだけに働いているのである。

何のために仕事をするのかというと、現在のアメリカ的価値観をすっかり叩き込まれた者には笑われるだろうが、内にある高度な霊性を引き出すためである。
そのためには、仕事によるしかないのである。
ただし、それには、ただ義務として仕事を行わなければならない。

医者は、患者の苦しみを除き、病んだり、傷ついたりした身体を自然で健康な状態にするのが義務だし、教師は、子供を訓練し、賢明で逞しく、誠実な人間に育てるのが義務である。
製造業者なら、人々の役に立つ製品を効率良く作るのが義務だし、セールスマンは、良い製品を人々に届けるために販売することが義務である。
主婦であれば、夫を助け、子供を正しい人間にきちんと育てるのが義務であろう。
ただ義務を果たし、結果にこだわらなければ、自己の人間性を向上させ、理想的な人格を持つようになっていくのである。そうすれば、自ずと幸福になっていく。
だが、例えば、セールスマンは結果にこだわり、とにかく売上げが多ければ多いほど良いと考える向きもあるかもしれないが、そうではない。義務として仕事を誠実に遂行していれば、売れるべき分は売れるのである。もし誠実に販売のための努力をしても売れないのであれば、売るべき製品ではないのである。
報酬を求めず、ただ義務のために仕事をすれば、成果は自然についてくる。
「仕事は義務ではない。激しい情熱がなければならない」と言う事業家も多いが、それは修羅の道である。強い風も、激しい雨も長くは続かない。人に激しいことをさせるのは欲望であり、それは災厄をもたらすのである。
誠実に義務を果たす仕事には、自然に情熱は起こるのである。しかし、過度な情熱、つまり、熱狂は必要ないし、そんなものを持って仕事をすれば、必ず悲惨を味わう。

もしサッカー選手をやるのが義務だと思うなら、立派にサッカー選手をやればいい。
もし戦争で戦うことが本当に義務であるなら、結果を恐れず、勇敢に戦うしかない。
しかし、金のため、利益や報酬のためにやるなら、人間にとって最も大切なものを失う。それに比べれば、巨万の富も、世間の栄誉も、まるで取るに足りない些細なものである。
そして、義務として誠実に仕事をし、結果は供物として神仏に捧げるだけだと思えば、必要なものは必ず手に入るのである。
また、こういった仕事のやり方に徹することが出来た者が、案外に世俗的にも成功し、しかも、それを続ける限り、長く繁栄するのである。ただ、やはり、結果は我々にどうこうできることではなく、天に任せるしかない。しかし、義務を誠実に果たした上で天に任せるのであれば、いかなる結果となっても、我々に後悔は無く、満足を得るはずである。









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むしろ片想いでないといけない

小説や映画などで、惹かれ合っている男女がいるのだが、お互いシャイであるとか、あるいは、何らかの障害があったりで、2人の関係性が進展しないなどというものがよくある。ロミオとジュリエットも最初はそうであった。
もちろん、ほとんどの創作作品では、そのままで終わることはない。しかし、現実の世界において、何もないまま終わってはいけないのだろうか?
惹かれ合った者どうしが、その後、恋人になったり夫婦になったりするかについては、そう運命付けられていれば、そうなるし、そういう運命になければ、どんなにがんばったところでそうならない。
昔の中森明菜さんの『スローモーション』という歌のように、結ばれる運命にあれば、お互いが乗っていたボートが偶然にぶつかって、女の子の帽子が落ちたりするのである。

「あの人は私に気があるに違いない」と思う時、その大半は勝手な思い込みであるかもしれない。人間とは自惚れが強いものだ。だが、逆に、思わぬ相手から慕われていたということが後で分かって驚くということもよくある。
ある事業家の本で見たことがあるが、昔、ある金持ちの地主の娘が大変な美人で、そこの小作人の1人の男は彼女を密かに想うも、身分違いも甚だしいと思い、馬鹿な願望は捨てることした。その後、その娘は嫁入りするのだが、なんと、本当はその小作人の男を慕っていたのであり、そのことを知ったその男は非常に後悔する。その男は歳を取って死ぬ時、孫に、「俺のような寂しい人生を送るな」と言い残したそうだ。映画『タイタニック』のジャックのように、ローズに対し、「身分違いは分かっているが譲れない」と積極的になるのが正しいのだということだろう。

一方、岡本太郎は、「片思いだって恋愛なのだ」と言う。太郎は、決して消極的でも、モテなかった訳でもない。フランス留学中は、世界中の美女、美少女と次々同棲し、ある有名モデルの恋人だったことが分かった時には、雑誌に、「ムッシュ岡本は、こう言ってました。『確かに付き合っていたなあ。彼女の名前は、えーと、えーと・・・』」と書かれ、実際、太郎は付き合った女性の名前をあまり憶えなかった。
そんな太郎が、必ずしも、「さっさと口説けよ」とは言わないのである。

名乗り合い、話をし、一緒に遊びに行ったり、食事をしたり、セックスしたりといったことがないと不満足だというなら、それこそつまらない結果になる。なぜなら、それは、自分が身体だと思っているからだ。
人間というのは、本来はもっと精神感受能力が高く、別に言葉を交わさなくとも思いは伝わるものである。
惹かれ合っているクラスメイトの男女が、ごく普通のクラスメイトとしてさりげなく過ごしていても、思いが伝わっていれば、十分に恋人としての自覚も楽しさもある。時によっては自然に近付いて一言二言、言葉を交わすこともあるかもしれないが、後のことは天に任せるしかない。そして、天に任せ切っていれば、心安らかである。無用なトラブルは、むしろ、執着心が起こしているのだ。

「神無月の巫女」というアニメで、姫子(16歳)を愛するソウマ(16歳)は、姫子のために命をかけて戦い抜いたが、ついに、敵であるオロチの呪いにより、石化して動けなくなる。そして、姫子は、結局、千歌音(16歳)を選び、ソウマの愛には応えず、彼女と共に行く(女同士であるが)。ソウマの前に、彼の兄ツバサが現れ、「あげくの果てがこのザマか!これで満足かソウマ?」と尋ねると、もう口は利けないソウマだが、心で「ああ」と満足そうに答える。「なぜだ?」ツバサが重ねて尋ねると、ソウマは、「姫子が生きている。それだけでいい」と答えた。
そして、結ばれた姫子と千歌音も、ソウマに後ろめたい気持ちも哀れみも持たず、むしろ、3人は愛情を持ち合うのであるが、それが自然に見えるのである。

この世界での宿命は我々にはどうにもならない。しかし、そんなことはどうでも良いではないか?
『荘子』にもあるが、銅が、「俺は名剣になりたい」と言ったところで、どうなるものでもない。我々も同じである。
しかし、それは、我々が自分を、その銅のようなものだと思っているので、思い通りにならないと「残念だ」とか「悔しい」と思ったりするのだ。
だが、我々は、銅でもこの身体でも、そして心ですらない。言ってみれば、心よりももっと高いものだ。それが分からないので、色々なものに執着するのだ。
下手に名剣になることが叶うと、もっと大切なものを失うのである。それは、自分が本当は何者であるかという秘密である。

銅を自在に扱う鋳物師のように、我々の運命を決める何者かもあるのだろう。そのようなものを、インドでは「それ」とか「彼」と言うことが多いが、それは、言葉で、例えば神と言えば、人によって意味が異なるからだ。ご存知のように、神という言葉は人間にとって、かなりの抽象概念である。老子や荘子では、「名付け得ないが、とりあえず道(タオ)と名付ける」と言ったりしている
我々は、「それ」あるいは「道」に任せ切り、心安らかでいれば、自ら「それ」であることが分かる。
そうなれば、全てを手に入れるのではなく、元々が、全て自分のものであることが自明になる。
『荘子』にある、泥棒に盗まれはしないかと心配しなくても、天下を天下の中に隠せば安心だということになるのである。









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