ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

漱石を叱る

夏目漱石は、「草枕」の冒頭で、「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。 意地を通せば窮屈だ。」と述べ、この世は住み難いと言う。
「情に棹(さお)さす」とは、情も川も「流れる」ものであることから、川に流されていくために棹を川底にさすことを、情にながされることの喩えとして風流に言ったものだ。
しかし、これらは程度の問題であり、ほどほどに智を働かせ、ほどほどに情を持ち、意地も引き処を考えれば良いのである。人によって、それを上手くやれるレベルは異なるが、それは失敗で学ぶしかない。即ち、経験がモノを言う。漱石よ、そんなことでボヤかず、もっと修行せい。男らしくないぞということになる。

しかし、これでは面白くないので、宇宙の英知で解決しておこう。

智を働かせたから角が立ったんじゃない。
誰が、智を働かせれば角が立つって決めたのだ。
智を働かせたからって角なんか立たんわい。智を働かせることと、角が立つことには何の関係もない。
まるで、試験に落ちたのは、カンニングした相手の答が悪かったせいだと言うようなものだ。
(※漱石は大学予備門受験の際、隣席の友人の答をカンニングして合格したと言われている)

意地を通したから窮屈になったんじゃない。お前は元々窮屈なのだよ、漱石よ!
尚、言うまでもないが、私は単に「草枕」の冒頭の文を借りただけであり、これが漱石の本当の思想だと言うわけでもなければ、本気で漱石を愚弄する気もない。このあたり、お断りしておく。

しかし、何かピンと来ただろうか?
もう少し続けよう。
「雨の日は憂鬱」って思うかもしれない。
これも同じで、雨が降ることと、憂鬱になることは関係がない。
そんなことはない。雨の日は濡れるし、傘は邪魔になるし、やっぱり、雨のせいで憂鬱だと言うかもしれない。
しかし、その言い分は、「憂鬱だから雨が降った」と言ってるようなものだ。そんなアホなと言うのか?しかし、「雨の日は憂鬱だ」というのも、全く同じくらいアホな話だ。
そんな下らないことを言う自分を忘れることだ。すると、どうなるかと言うと、ものすごい美少女が傘を持たずにポツンと立ってたり、スカートに濡れた傘が当たったかと思うと、ものすごいイケメンが平謝りに謝ってきたりする。
なぜ、そんなことになるのか?
それが命の働きなのだ。
命というのは、本来、よりよく生きようとするものだ。植物の種は、なぜだか分からないが、的確に水のある方に根を伸ばすのだ。あなたがイケメン嫌いの場合はいざ知らず、イケメンと仲良くしたら命が燃えるなら、命はそんなこともやってみせるのだ。
もちろん、たとえ話であるので、あまり本気にしてもらってもいけないが、それもあなた次第だ。つまり、美少女と仲良くなったら、命に良いなら、やっぱりそうなるだろう(命にとても悪い場合も多いが)。
私なんて、子供の頃、車がびゅんびゅん走る車道に目をつぶって何度も飛び込んだことがある。自己を忘れていれば、命は生きるためのことを、どんな手を使っても実現する。ただ、自己を本当に忘れていないと、その日が命日だ。イエスも「神を試すな」って言っただろう。神を試すなんて、自我をしっかり持っている証拠なのだ。
尚、「雨が降る。ゆえに、憂鬱」というのは、自我らしい言い分だ。自我は、時間という幻想を持っているので、雨が先で、憂鬱が後と思い込んでいる。自己を忘れていれば、時間は無いので、そんなことは思わないはずである。

命を大切にすることが自己(自我)を忘れることになる。
ただ、命を大切にすることを、自己を大切にすることと勘違いする人が多い。
自己を忘れるということを、命を失うことと間違えて自殺をしたりする。自己を犠牲にして命を守ることとは、どんなことかを見出さねばならない。
自己が満足することではなく、命が安らかなことを優先するのだ。命は飽食を望まない。飽食を望むのは自己だ。
命は、大した金を欲しない。大金を欲するのは自己だ。酒、タバコ、麻薬は、命を傷つけて、自己を守るものだ。
命は、あらゆる命と呼応する。自己を忘れれば、草木が語りかけてくる。
自己を忘れ、命を尊ぶ者はいつまでも若い。命とは常に若いのである。

命を守るためであれば願っても良いが、命はあなたより賢い。あなたの欲望の自我が欲しいと思っても、それが命を損なうものであれば、決して手に入らない。それどころか、願えば、かえって命を損なう。普通は、特に何も祈らなくても、必要なものはやって来る。
およそ、この世にある優れた修行の一切は、自己を忘れるためにある。それは、命を知るための修行だ。
一方、学校というのは、自己を増長させるためのことを行う。子供達は、命を損なうために学校に行かされるのだ。学習塾は、さらにそれに加担する。一生、取り返しのつかない習性を植えつけてしまうのだ。学校の優等生が、幸福に生きることは、ラクダが針の穴を通るより難しいのである。







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H.G.ウェルズが予言した未来の世界

H.G(ハーバート・ジョージ).ウェルズ(1866-1946)は英国のSF作家であるが、科学者、哲学者で通用する知識、思想の持ち主で、実際に、科学、歴史分野の名著もある。彼のSF作品は数多く映画化され、特に、「宇宙戦争」「タイムマシン」は、それぞれ、1953年、1960年に、現在でも十分に鑑賞に値する傑作が作られているが、2002年に「タイムマシン」が、2005年に「宇宙戦争」が、最新のSFX、VFXを駆使したリメイク作品が制作されている。
ところで、どれがウェルズの最高傑作かというのは、当然ながら決めようもないが、一部では「世界はこうなる」(THE SHAPE OF THINGS TO COME)ではないかとも言われている。この作品は、1936年に、ウェルズ自らの脚本で90分の長編映画「来るべき世界」が制作されている。時代が時代だけに、当然モノクロで、映像技術もまだ未発達な面はあるが、素晴らしい作品である。
「世界はこうなる」あるいは「来るべき世界」は、ウェルズの預言書のような作品だ。
映画の話で言えば、1940年の英国のクリスマス・イヴに、家族、親戚で平和なクリスマス・パーティーを楽しんでいると、突然ラジオから「我が国は戦争状態に入った」というニュースが流れる。英国連合軍の勝利のうちに早期に決着することが期待されたが、戦争は数十年に及び、国々は荒れ、人々は疲弊し、もう何のために戦っているのか分からなくなる。資源も尽き、飛べる飛行機もなくなっていた。そんな時、どこからともなく一機の超高性能の飛行機が飛来する。戦争を離れ、精神と科学を発達させた国からの使者だった。戦争を続けたい独裁者は抵抗するが、進歩した国は、可能な限り平和的に戦争を終結させる。
世界政府が成立し、その指導の下に、人類は進歩の道を突き進む。科学は発達し、生活は快適となって、人類は栄華を極め、かつて戦争があったことも、人々は歴史でしか知らない。そして、いよいよ、人類は宇宙に進出しようとしていた。しかし、ここにきて、人々の中には、そのような進歩に異議を唱える者が出てくる。我々は科学の奴隷になってしまう。自然のあるべき姿に戻るべきだと。
世界の最高指導者は、その地位に相応しい精神性と知恵を備えていた。早急な判断をせず、成り行きを見守った。進むべきか、元に戻るべきか・・・

ウェルズの英知は恐るべきもので、現代の問題を1930年代以前に予測していた。
現代の我々も、科学技術の弊害を感じてはいるが、先進国では、指導者達は物質的な進歩を何よりも優先し、彼らのメディア戦力は、それが人類の当然の総意であると国民に思い込ませようとしている。
進むべきか、元に戻るべきか?
科学技術が悪いものではないだろう。ただ、重要なことは、それよりももっと大切なものがあるということだ。科学や物質より大切なものがあることを人類は忘れてしまい、人々は知りもしないようになってしまっている。そんな状態で物質科学を進歩させれば、確実に世界は滅ぶだろう。
物質的な科学や文明より大切なもの。それが何か、ほとんど誰も分からない。神とか仏と言うと誤解する者も多いので、それをとりあえず宇宙の英知と呼ぶが、それは、自然や生命と一体のものだ。それを第一に置くなら、科学は人々の平和に貢献するだろうが、物質的なものを第一とするなら、人類は悲惨のうちに終焉せざるをえないだろう。そして、今、人類は滅びの道を突っ走っているのであるとしか思えないのだ。
余談だが、ウェルズと同じく英国の世界的作家であるコリン・ウィルソンはウェルズを最高の作家と認識し、おそらく崇拝していたが、ウェルズは異常性欲で破綻したとも述べている。彼は女性のスカートの中にしか興味がなく見境無かったと辛辣だ。写真で見ると、晩年のウェルズは、特に腹がでっぷりと太っている。実は、ゲーテも晩年はそうだったようだ。かくも偉大な人物でも、食の慎みを持たないとそうなるのだろうと思う。







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探し物は探すのをやめれば見つかる

探し物は不要になった時に見つかるとよく言われる。だが、心理学者はそれを、そう感じるだけの錯覚だと言う。
心理学者の言う根拠は、探して見つからなかった全てのものが、不要になった時に出てくる訳ではないということだ。ただ、いらなくなった時に出てきた時の印象が強い、つまり、「あの時、あんなに探したのに、こんなに簡単にひょっこり出てくるなんて可笑しいわね」と思うから、「探し物は不要になった時に見つかる」という迷信が出来るそうだ。
しかし、心理学者の論も迷信なのだ。

ある中学生の女の子が、何の気無しに棚の中を見ていたら、小さい頃に大切にしていた着せ替え人形を見つけてひどく感激する。
彼女は、別にその人形を探していた訳ではなかった。しかし、心はそれほどまでに湧き上がったのだ。
では、彼女は、今、その人形を必要としていなかったのだろうか?
肝心なのは、本当はここなのさ。
世間の論理では必要なかったことになるだろう。
しかし、自然の英知はこう言う。「最も必要だったのだ」と。

画家の横尾忠則さんが、以前、ご自分のWebサイトの掲示板で、「読むべき本なら、本の方からやって来ます」と書いておられた。その頃、掲示板で、「私は何を読むべきか」とか、「私はこの本を読むべきか」などという質問がよくあり、また、それに丁寧に答える馬鹿が沢山いたので、横尾さんも呆れて、そう書かれたような感じだった。
探し物もね、本当に必要なものなら、あっちから勝手に出てくる。
私は、小学4年生の時、大学生だった従兄に反射式天体望遠鏡を譲り受けた。そして、何の天文知識も無かったが、土星を見たいと思った。世間的に考えれば、何の手がかりもなく土星を見つけられるはずがない。しかし、私はいつも、土星を一発で見つけた。見つけたというより、土星の方から、「I'm here」って教えてくれたのさ。
そして、真似しちゃいけないが、こんなこともした。私が7つかそこらの時、住んでいた団地の前は、交通量の多い車道で、向こうに渡るには、遠くの信号までいかなければならなかった。そこで私は、目をつぶって、車道に飛び込んだ(!)。姉は、何度も肝を冷やしたらしいが、それでも、当時の姉は私に注意する気もなかったのだろう。姉にも、安全だって分かってたんだ。今では、姉はそんなことを忘れている。世間の人になってしまったのだねえ。私には、車が来ている時は、「止まれ!」って声が聞こえていたのだ(本当の声ではなく、気持ちのようなもの)。
そういえば、「涼宮ハルヒの憂鬱」の第2期のアニメのエンディング・テーマ曲は「止マレ!」だが、イェイツが書いたんじゃないかと思うくらい凄い、そして、神秘的な詩だ。詩を書いたのは、「アニソン界の黒い天使」畑亜貴様だ。世間の人には、あの詩の意味はさっぱり分からないだろう。彼女の歌はそんなのが多い。故に電波ソングとか言われるのだが、あれほど分かりやすい詩もないと思う。

探し物なんてね、一人鬼ごっこのようなものだ。
探している者と、探されている物は、本当は一つだ。探す必要はないと気付けば、見つけるも失うも自在なのだ。
探しものとは、アイディアとか、真理といったものもある。それは既に我が内にある。
今日の深夜に放送されていた「灼眼のシャナ セカンド」で、坂井悠二(高1男子)の母、千草が、吉田一美(高1女子)とシャナ(年齢不詳)の二人の少女に、恋愛について、「どうすればいいか、気持ちが教えてくれる」と言ったが、この気持ちとは、あくまで、「自己を忘れた時」の気持ちだ。個人のエゴ、つまり、欲望の心に囚われた時の気持ちではない。一美とシャナには、私が手取り足取り教えてあげることとしよう。







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本物の肉食獣は草食系に近い

世間に肉食系、草食系という言葉があるが、これは、異性を獲得するための積極性、あるいは、強引さの度合いを言うのだろうと思う。
ところが、皆、肉食獣を大いに誤解しているように思う。本物の肉食獣は、むしろ我々の言う草食系に近いのである。
そして、肉食獣というのは、必ずしも狩が上手い訳ではないが、余程のことがない限り、必要な獲物は確実に仕留める。だが、そのやり方は決して強引ではなく、実に神秘的なものだ。
肉食獣の真の狩の秘訣は、恋愛でも同じであるし、どんなことでも同じだ。そして絶対的だ。

肉食獣の狩の秘訣は、動物生態学ではほとんど分からない。もちろん、表面的で些細なことは分かるだろう。そして、我々の知識はそんなもので、本当のことは分からない。
真実を知るにはどうすれば良いかというと、肉食獣になってみるしかない。当たり前過ぎて笑えないだろうが、肉食獣になるなんてことが出来るはずがないので笑うしかないとも言えるだろう。
ところが、今では信じる人はほとんどいないが、インディアン(主にアメリカ先住民)には、そんなことをやる人たちがいたのである。肉食獣とは限らないが、自然の様々なものと一体化することで、自然と意思を通じ合い、自然を理解することで、調和のとれた優れた生き方を知ることが出来た。そんな秘術を信じないとしても、インディアン達が偉大な知恵を持っていることに気付いた人たちは沢山いるはずだ。彼らの知恵は、自然から教わった、あるいは、自然そのものになって知ったものなのだ。

では、ちょっと肉食獣になり、その狩の神秘を見てみよう。
やはり、インディアンであるが、今でも、探せば、そんなことをさせてくれる人はいるにはいる。ただ、滅多なことで見つけることはできないし、偽者に騙されてひどい目に遭うのが落ちである。
だが、世界的な量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフは、そんなものに非常に興味を持ってしまって、本当に自分でやってしまったらしい。
簡単に言うと、こんな感じだ。
彼は、鷲になったのだ。空を飛んでる鷲は、餌がどこにあるかなんて分からない。
ところで、鷲と鷹というのは、正確には区別は無い。そして、鷹の目は凄いと言われるが、そりゃ飛ぶ都合のためであって、別に獲物を探すのに向いている訳じゃない。鷲や鷹が、本当はどうやって獲物を見つけているかは推測しか出来ない。
そこは、実際に体験したウルフさんが言うには、「獲物の方が教えてくれる」ということなのだ。
そう言われてピンと来る人はいると思う。
我々はチャンスを望む。しかし、必死にチャンスを探しても無駄だ。しかし、チャンスのことを忘れると、チャンスの方が教えてくれる。
昔、モハメッド・アリがジョージ・フォアマンと戦った時、圧倒的不利が予想されたアリは、フォアマンの猛攻を受けながらじっと耐えて待ったのだ。スキをだ。でないと、力で圧倒的に勝るフォアマンに勝てない。しかし、アリはスキを探したりしなかった。スキの方で教えてくれるのだ。「ほら、スキだよ」「OK. Thankyou」。アリは一気に攻撃に出る。そして、あっという間にフォアマンをマットに沈めた。見事なハンティングの秘訣ではないか?

好きなコがいても、ガツガツしてはいけない。本物の肉食獣のように、つまり、我々言うところの草食系に徹するのだ。
あみんの「待つわ」とか、石川ひとみさんの(ユーミンの)「まちぶせ」の女の子が、その後どうなったかというと、おそらく落胆に終わっただろう。彼女達にも、正しい道を知る直感はあったのだろうが、あれでは、ちっとも待ってることにならない。悲しいかな、ガツガツしているのだ。
本当に待っていれば、チャンスの方で教えてくれる。「GO!」ってね。そして、「なんであんな美少女に、あんなサエないヤツが・・・」となるのだ。







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モテる男はなぜ女に関心を示さないのか

強盗や乞食を、それぞれ、紳士の職業、高貴な職業と心から信じている人々がいる場所が世界には本当にある。
別に驚くことではない。我々が、彼らと比べてマシとすら言えない。
確かに、彼らは、強盗や乞食というものに賞賛されるべきところがあるという迷信を持っているのだろうし、それは愚かなことであるとしても、我々だって、ほんの少し前までは、教師や警官は、どこか尊ばれるべきところがあるという迷信を持っていたではないか?今は、あまりそうは言えないが、それは、単に別の迷信に変わったというだけのことだ。
バートラント・ラッセルのような賢い人ですら、世界は亀の背中の上にあるという迷信を持っていた老人を哀れんでいたようであるが、ステーヴン・ホーキングは、両者に優劣は無いと理解していた。しかし、そのホーキングすら、自分の心が構築した神という概念を自分で否定し、「神はいない」という迷信を持ってしまっている。

ある聖者に、「人が迷信を全て捨てることが出来るか?」と尋ねると、聖者は「出来ない」と答えた。しかし、別の時に同じ質問を受けた聖者は「出来る」と答えた。
この聖者に矛盾はない。全くないと分かる。
分からないとしたら、家庭や学校、そして、国家に、とんでもなく精神を歪めさせられてしまったのだ。
「1たす1は2」というのは正しいだろうか?
正しいとも言えるし、正しくないとも言える。そう答えて、どんな矛盾があるだろう?
3進法以上の立場からは正しいが、2進法の立場からは正しくない。2進法では、1たす1は10だ。
「1たす1は2」という立場からは正しいのであり、「1たす1は10」という立場からは間違いなのだ。
迷信も同じだと気付かないといけない。
迷信を持つ者が「迷信はなくせるか?」と問うても「出来ない」としか答えようがないし、迷信を持たない者が尋ねるなら「出来る」と答えるしかないではないか?
質問者と解答に分離があると思うことが最大の矛盾である。
質問の中には解答がある。質問者は既に解答を持っている。解答と質問者に違いは無い。
質問した後に解答が来ると思うのが矛盾だと言うことも出来る。解答が先でも一向構わないのだ。
「1たす1は10」という解答が先にあれば、「1たす1は2で正しいか?」という質問が成立しない。
我々は、時間という深い迷信の中に沈み込んでしまっているのだ。

ZARDの「突然」という歌の歌詞に、

僕は君の大事な存在(ひと)になれるのだろうか
この仕事(ゆめ)はどんな状況(とき)も笑っているよ

というところがある(詩は坂井泉水さん)。
多くの、主に若い人の関心事項かもしれない。
夢ってのは、諦めた瞬間に叶うのだ。その時、疑問が消えるからだ。
彼女をゲットできるだろうかと思うのは、そうでない未来が確定しているからだ。
実際、モテる男と言うのは、女のことなんて考えていないものだ。別に女が嫌いな訳ではない。考えても仕方がないし、考える必要がないのだ。なぜなら、手に入る女は手に入るし、手に入らない女は手に入らないという当たり前のことが分かっているからだ。
日本は平和になるかって?
そんな疑問があるなら、望み薄、いや、望みは無いということだ。
私は失業しますかだって?自分で答えているじゃないか?
私は志望校に合格しますかだって?明日のアラスカの天気のことを、あなたは気にするだろうか?







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名前:Kay(ケイ)
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・サイコパス
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