ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

本当に給食費を払えない家

学校の給食費を払わない親のことを以前からよく聞くようになった。
そんな時に必ず話の中心になるのが、経済的に豊かであるにかかわらずに払わないというケースだ。
すると、給食をやめてお弁当にしろとか、払っていない子に給食を出さなければ良いという意見が普通に出てくる。
しかし、本当に払えないという家庭もある。
給食費を払えない家庭が今の時代、稀というなら、昭和40年代には既に稀だった。
著名な作家の太田治子さんが小学生だったのは昭和30年代だが、給食費を払わない子は彼女がクラスでただ1人だった。彼女は太宰治の娘であるが、太宰の妻の子ではなく、太宰より40歳近くも若い母親の静子が1人で育てていた。親子は貧しく、バラック(急造の粗末な建物)の2階で間借り生活をしていて、給食費を払う余裕はなかった。治子は学校でもいつも1人でいたと言い、いじめられたとまでは言わないが(言わないだけかもしれないが)、教師に露骨に無視されていたことは明かしている。孤立した子供には、これは教師による十分ないじめだろう。
今の時代にも、本当に給食費を払えない子は確実にいる。
ある小学校では、給食制度がなく、子供達はお弁当を持ってくるのだが、1人の教師が、お弁当を持って来ない子がいることに気付き、尋ねると、その子はいつも「忘れた」と言う。そうでないことは明らかで、教師は毎日自腹でその子にパンを買って与え、いつ洗濯したか分からないようなその子の服を洗濯してやったようだ。
貧しいなら行政補助をと言う人もいると思うが、いかなる補助金の申請であれ、複雑怪奇で手間がかかり、多くの母親にとってはとても手の出せるものではない。この子供の例では、母親は早朝から深夜まで働いているがゆえにお弁当を用意できないのであり、そんな手続きをする暇も気力も無いに違いない。どこで入手して良いか分からないような書類を漏れなく集めて完璧に記述し、どこにあるのか分からない指定の場所を探し当てて持参しても、いつお金が下りるか曖昧なことを言われたままひたすら待つしかないのではないかと思う。身障者手帳の手続きだって、身動き出来ない一人身の老人に、書類を自力で集めて、役所まで期限日以内に持って来いと言うくらいだ。
まあ、私も大学の学費の件で行政に脅された経験があり、その手のことには心証が悪いのは確かであるので、やや辛辣かもしれない。

できれば、給食費は無償が良い。そのために税金が上がるならやむを得ない。消費税が5パーセント上がることがなんだろうと私なら思う。
発展途上のある国では、国際的なNPO団体の活動により、子供達は学校の給食は無償で出るのだが、子供達はそれをほとんど食べずに家に持って帰る。でないと、家族が飢え死にするのだ。
また、やはりある貧しい国で、日本人の教師が、遠足の時、自腹で子供達のお弁当を用意すると、その見たこともないような素晴らしいお弁当に子供達は大喜びするが、お昼になって、「さあ、食べよう」と言っても誰も食べない。子供達は、空腹であるのに、「こんな素晴らしいお弁当を1人で食べるわけにはいかない。持って帰って家族にも食べさせたい」と言い、結局、誰も食べなかったようだ。
一方、日本では食べ物の半分以上は捨てられているらしい。
それはともかく、払えるのに給食費を払わないなら、それは仕方がないではないか。彼らは、将来、そのツケを悲惨な形で払うことを選んだだけなのだ。それはそれで意味もあるだろう。金が足りないなら、その分、全員の給食の量を減らせば、辛い部分もあるかもしれないが、結果的にはむしろ素晴らしいことになるだろう。私は、ライブドアと同期に上場したソフトブレーンの創業者の宋文洲さんに2度ほどお会いしたことがあるが、彼は小学生の時、片道十数キロの通学をしていたが、お弁当を持っていけなかったらしい。しかし、彼は健康そうだった。むしろ、日本の子供達は食べ過ぎて身体を弱くしているのかもしれない。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   

雨乞い師になりたければ

スイスの著名な精神医で心理学者のC.G.ユングは、雨乞い師(レインメーカー)の話がお気に入りだったようだ。
雨乞い師のようなものが本当に存在するだろうか?
当然、存在する。
そして、現在の人類、その中でも、特に日本人は、雨乞い師と反対のことではっきりと成果を上げているのだ。つまり、気象的な干ばつ以上に恐ろしい干ばつをもたらしているのである。
雨乞い師は、見世物商売ではない。そして、自然が雨を降らせないなら、それを妨げようなどとも思わない。しかし、人の心が招いた干ばつなら、手を差し伸べることもあるということだ。

成功とは何かは、人によってそれぞれ違う考えがあるかもしれない。
なぜ人によって成功の定義が異なるかというと、欲にまみれた人間が多いからだ。成功に色々な定義などありはしない。真の成功はただ1つだ。
しかし、食う腹しか持たぬ愚かな人間に合わせて言うなら、成功とは満足することだとでも言えよう。

だが、これだけは憶えておくべきだ。
成功をもたらすテクニックや秘密など絶対に存在しない。そんなものがあると言う者は、単に金儲けがしたいだけなのだ。その証拠に、テクニックや秘密の方法で成功した者などいない。逆に、テクニックや秘密で悲惨を味わった者は欲に駆られた者の数だけいる。つまり、数え切れない。

ユングの雨乞い師の話の中に、成功に必要な全てがある。
雨乞い師になれれば無敵であり、幸福でいられる。
抽象的に言うなら、そのために思い出すべきことは、ヨブ記にある「神と和らぎ平和でいなさい。そうすれば幸福になる」だけだ。
だが、こんな抽象的な言い方をするから宗教は嫌われるのだ。宗教者は世間知らずなので、こんな言い方しか出来ないのだろうか?

ユングのお話に出てくる雨乞い師に、誰かが雨を降らせる秘訣を聞いた。雨乞い師は当然「無し」と言った。
では、どうやって雨を降らせるのかと聞くと、雨乞い師は「何もしない」と言った。
ただ、敢えて言えば、雨乞い師は「神の意思に身を任せた」と言う。この言葉に対して、多少頭の良い学問バカが、またまた難しい抽象論を唱える。
神の意思に身を任せるとは、「何事もほどほどにやる」というだけのことだ。もっと具体的に言うなら、「ほどほどに酒を飲む」ということだ。
酒を飲むと言えば、「飲んで飲まれて飲んで」とばかりに、浴びるほど飲むか、ルドルフ・シュタイナーのように一滴も駄目と言うのが人間だ。至高の英知を持つシュタイナーすら誤ったのだ。だから彼の話は難し過ぎる(無論、本質は優れたものではあるが)。
空海や水野南北のように、1日1合(ほぼコップ1杯)と決めて飲むのが本当に賢い人だ。ただ、それは特に優れた人の場合で、凡人なら2合でも良い。だが、3合飲むなら愚か者だ。
甘いお菓子が好きなら、そこそこに食べれば良いが、みっともなく肥満するなら馬鹿だということだ。
しかし、今の日本は、人々が肥満しようがアル中になろうが、儲かりさえすれば、限度を知らずに飲み食いするよう煽ることが横行している。すなわち、神の意思を無視した国なのである。あらゆる意味で干ばつが起こるのは当然である。さて、これを整えるほどの強力な雨乞い師はいるのだろうか?
イエスは、「ソロモンよりもヨナよりも優れた者がここにいる」と救世主宣言をしたが、空海や南北、あるいは、黒住宗忠を超える救世主が日本にいるだろうか?
もしいるとすれば、彼はイエスがそうであったように、大嘘つきと呼ばれるだろう。あらゆる中傷にまみれ、罪人扱いされるに違いない。逆に言えば、世間に崇拝されるなら、彼はただのペテン師だ。
そして、世間に蔑まれ、罵倒される救世主は現代にもいるのだ。彼は偉大な雨乞い師であり、全ての雨乞い師の主人であり師匠である。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   

天使の仕事

天使が「うっかり」して、人間には「絶対に」隠しておかないといけないことを、人間に見られてしまった時、その人間は驚愕の声を上げる。
「なんと!世界とは、人とは、神とは、こんなもので、こんな風になっているのか!」
だが、神様は言うのだ。
「うっかりするのが天使の仕事」
真理は目の前に、無謀なまでに明かされているのに、天使がわざとらしく転んで大声でも上げない限り、人は意識を向けないのだ。天使も楽ではないのである。

ある優れた画家は、その時、眠かったのだろう。目がずっと半分閉じていた。
まつ毛が目にかかり、世界は薄暗くぼやけて見えた。その時、そこかしこに天使がいるのに気付いた。
それでも彼は、あまりそれを気に留めなかった。というより、忘れてしまった。誰もそうだ。天使は普通、「お得意様」じゃない。
その画家が、ある時、重病の少女を見た。青白い顔、痩せこけた腕と肩。彼女に回復の見込みはなく、死を待つだけだった。傍らには涙も嘆きも尽きた母。
画家はふと思い出し、まつ毛の下から少女を見た。すると、少女の顔は、世界への、あらゆる生命に対しての祝福で輝いていた。
画家は、自分の絵に、そっとまつ毛をかぶせて描くようになった。

The Sick Child(病める子)-ムンク作

ある詩人は深い森の中で悪魔を見る。
しかし、彼は好奇心が強かった。悪魔を見る機会なんて滅多にあるものじゃない。
近寄ってみると、木の切り株だった。
だが彼は考える。
「私は切り株を悪魔と思い込んだのか?それとも、悪魔を切り株に変えてしまったのか?」
奇妙はことに、結論は、どちらでも同じことであると彼は確信し、彼は「魔王」という詩を書き、その詩に心酔した楽聖が曲をつけた。
あなただって経験があるはずなのだ。何かとても貴いものを見つけたのに、それがただの石とか木とか、あるいは、壁のシミだったということが。ひょっとしたら、あなたはとてつもなく貴重なものを逃したのかもしれないのだ。

この2つの話は、はじめのが画家のムンク、後のがゲーテだということに気付いた人もいると思うが、おそらく、いや、確実に、正確ではない。何より、私自身がそんな話を知らない。ただ題材を借りただけで、あくまで私の経験ではあるのだけれど、それを裏付ける話が、コリン・ウィルソンの「右脳の冒険」(平河出版社)の第4章「幻視的意識への道」に書かれているのを見て驚いた。ウィルソンは天才ではあるのだが、知識が有り過ぎるのか、あまりに話にまとまりがない。だが、天使は、アインシィタインの前でそうだったように、彼の周りでも転びまくったのだ。天使の努力を買いたい。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   

憎い相手の機嫌をとる

そのまま本のタイトルになっている、映画評論家の淀川長治さんの名言に「私はまだかつて嫌いな人に逢ったことがない」というものがある。
そうであれば、どんなに素晴らしいことかと思うが、そんな人は、まずいないと思う。
誰だって嫌いな人の数人はいるし、ことによってはほとんどの人が嫌いだという者だっている。

しかし、人間が、所詮、いつかはやらないといけない修行は、「嫌いな人の機嫌を取る」ことだ。それは、普通の人にとって、ぞっとすることであるが、どうもこれだけは逃れる術はないようなのだ。
アニメ「神無月の巫女」の中で、裏社会で生きてきた兄ツバサが、16歳の弟ソウマに、お前は何も知らないガキだという意味を込め、「お前は殺したいほど憎いやつに、這いつくばって命乞いをしたことがあるか?」と問う場面がある。そこまで極端な経験は無いにしても、少なくとも、その言葉が胸に刺さるほどでないなら、おそらく、何もできない幼稚な精神の持ち主だろう。
こう言うと、「俺は嫌いな上司、先輩の機嫌を取っているさ。得だからね」と言う者もいるだろうが、その程度は当たり前過ぎる。それすら出来ないなら、幼児以下である。
そろそろシーズンかもしれない「忠臣蔵」のお話(いわゆる元禄赤穂事件)は、おそらく実際の話とはかなり違ったものが伝わっており、主君であった浅野長矩に対する赤穂四十七士の忠義心を称えるものになってしまっている。仮に、そのお話の通りであったとしても、この物語の本当の重要ポイントは、浅野長矩こと浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)が、吉良上野介(きらこうずけのすけ)のご機嫌を取れなかったことが破滅の原因であったことだ。

子供のうちなら、嫌いな人に対し、そっぽを向いたり、意地の悪いことをしたりもできるが、そんなことをしているうちは、やはり幼稚な子供だ。そんな精神のままで自己実現することなど、あるはずがない。
浅野長矩は当然ながら、自己実現を果たせなかった。
そこで思い出すのが、冒頭にあげた淀川さんの至高の名文句だ。嫌いでないなら、機嫌を取ることもそんなに難しいことではない。そして、宇宙の英知(いわゆる神)は、別に、好きな人の機嫌まで取れとは言っていない。つまり、誰の機嫌も取らなくて良い。
何かを嫌いだというのは、頭が余計なことを考えているのだ。つまり、嫌悪感というのは、妄想が生み出した錯覚だ。
発明家で、世界的な能力開発指導者・研究家であった中山正和さんは、著書に何度も「頭の無駄遣いをするな」と書いているが、これは、余計なことを考えるなということで、それは頭を悪くし、直観力も無くしてしまうのである。
中山さんの結論は、「クヨクヨするな」「考えても仕方がないことを考えるな」であったが、人間は複雑なので、それがなかなか出来ない。

余計なことを考えないということが出来れば、人生、勝ったも同然だろう。考えないと成功はしないだろうが、大きな失敗もしないし、ましてや破滅などしない。どんな馬鹿でも、余計なことを考えて身を滅ぼすのだ。
なぜ余計なことを考えるのかというと、身の程を超えた欲を持つからだ。徳川家康は、天下を取りたければ、身の程をわきまえろと言ったが、それが天下人の究極の結論のように感じる。
最も簡単な方法は、画家の足立幸子さんが教えたように、頭をからっぽにしてぼーっとしていることだ。頭を使わないと馬鹿、阿呆になると思っている人も多いと思うが、余計なことを考えるよりはマシである。実際は、ぼーっとしていると閃きが起こり、やりがいのあることで頭を使う機会に恵まれるようになる。江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、人相占い師に、「言い難いが、あなたはアホの相が出ている」と言われ、「それは嬉しい。私はアホになる修行に励んでいたが、いよいよ成果が出たか」と大喜びした。偉大な叡智を持つ聖者は尊きアホであったのだ。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   

眠りながら目覚めている

目が覚めてまもない時に、見慣れた街の風景を見ると、その異様なまでの美しさに圧倒されることがある。
普段は都会に住んでいる人が、旅先で、早朝に自然の風景を見た時、その荘厳さに感動したという人も多いだろう。
まだ暗い時に目覚めて、たまたま夜空の星を見ると、星達が本当にささやきかけてくることがある。
W.B.イェイツ(アイルランドの詩人、劇作家。「20世紀最大の詩人」と言われる。ノーベル賞受賞)のような、超感覚的な詩人であれば、昼間ですら、壁の絵画が語りかけてくるのを感じることもあったそうだ。

目覚めたばかりの時は、論理を司る脳である左脳はまだ眠ってることが多く、その左脳が、感覚を司る脳である右脳の働きを妨げないので、世界を左脳(論理)のフィルターを通さずに見ることができる。
アラビアのロレンスが、自叙伝「知恵の七柱」で、そのような経験について述べているのを、コリン・ウィルソンが「右脳の冒険」で引用しているが、ウィルソンは、ロレンスだけでなく、数多くの文豪の作品の中に、そのような話があることを指摘している。
画家で波動や宇宙意識に関して数多くの講演を行っていた足立幸子さんは、「頭はロクなことを考えないので、意識を胸に持っていってなるべくぼーっとしている。すると、素晴らしい閃きがあり、それに従うと間違いがなかった」と言う。

半分眠ったような状態が、人が超越的な存在である時だ。
アメリカの哲学者で、宇宙人とのコンタクティ(接触者)として知られるジョージ・アダムスキーは、「個人の心が意識(宇宙の英知)に従う時、心は意識と溶け合い、宇宙との合一に近付く」と言った。
宮本武蔵の肖像画を見ると、剣を持った彼の目は半眼である。彼の「五輪書」には、見ることについての記述があるが、それは、普通の人がものを見ることとはかなり異なる。「荘子」に、無限の道(タオ)と一体化するには、視線を自然にすることとあるが、それは思慮分別を通さずに、見えるがまま、あるがままに受け入れるということと思う。武蔵も荘子も、個人の心や論理でなく、深い意識で見ることについて説いているのだろう。
至道無難の言う、「生きながら死人となり、思いのままになすが良し」というのも、個人の自我としては、死んだ状態に近いのがよろしいということと思う。

眠りながら起きていることだ。
ジョセフ・マーフィーの代表的著作「潜在意識の力」を、渡部昇一さんは、その内容から「眠りながら成功する」という日本語のタイトルを付けたが、マーフィーは一般読者に分かりやすいように、就寝前の半分眠った状態について説いている。しかし、昼間に出来ないことでもない。
羽生善治さんの、対局中の脳波は眠っている時と同じであることが科学的調査で分かり話題になったことがある。

ただし、本当に寝てはだめだ。
電車の中で大イビキをかいて寝ているようなのは、単なる愚か者だ。
半分寝てはいるが、意識は目覚めていなければならない。
それどころか、真に優れた人間は、眠っていても意識は目覚めている。剣の達人の寝込みを襲っても、達人は易々と反撃してくる。意識が常に目覚めているのだ。
眠ったような状態で戦って歴史的勝利を収めた格闘家の例も多い。
ニサルガダッタ・マハラジも、「眠っている時のことも覚えているようになる」と言っていた。

私は、1日4時間半ほどの睡眠時間を長く続けているが、昼間眠く、幸い昼食を食べないので、その時間よく寝ていた。30分ほどの時間に、ぴくりとも動かず座ったまま熟睡し、ぴったり30分で起きた。
しかし、昼間の活動をしていても夢を見ることに気付き、起きていながら眠れることが分かった。
そんな中、足立幸子さんの本で、意識を胸に置いてぼーっとするのが良いという話を読み、いつも寝ていることにしたら、睡眠はあまり必要がなくなった。ほんの数日前のことだ。眠っているので余計なことを考えず、以前よりは穏やかになり、しかも、何事も以前よりうまくやれるようになった。至高の英知とも、ますます近付いていくに違いない。何より、人にとって眠ることは楽しいことであり、その楽しみが1日に渡って続く。人生が楽しくなるのである。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
最新コメント
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ
PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
人気ブログランキングへ
↑↑これと
↓↓下の3つのいずれかをクリックして応援をお願いします!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
QRコード
QRコード

  
   このエントリーをはてなブックマークに追加
  

タグクラウド
  • ライブドアブログ