ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

学校や会社が嫌になったら

会社などの職場であれば、やめたければ、「やめさせていただきます」と言って、辞表1枚出せば良いのだが、学校の場合はそうもいかない。別の学校への転校は、不可能な訳ではないが、非常に面倒な場合が多い。
それに、学校をやめたら、人生が狂ってしまうような先入観があるかもしれない。実際には、小学校も出ていなくても立派にやっている人もいるのだが、多くの人が学校を過大視する妄信を持っており、やはり、学校をやめた人には、それなりの苦難がある場合が多いだろう。

会社の場合は簡単だと書いたが、そう思わない人も多いだろう。
なんといっても、世間では、現在、大変な就職難だと言われているので、今の会社をやめたら、次の職場が見付かるかどうか分からないし、次の職場があったとしても、待遇や環境、人間関係が今より悪くなるかもしれない。いや、悪くなるどころか、とんでもなくひどい状況になり、後悔する自分の姿が思い浮かんで強い不安を感じることもあるだろう。そうでないとしても、新しい環境や仕事、そして、人間関係に1から馴染んでいくことは、なかなか大変なことだ。
それで、本当はやめたくて仕方がないのに、我慢して勤め続けている人も多いと思う。この点では、学校の場合と同じようなものだと言えるかもしれない。

ちなみに、私は大学をやめ、会社も何度も変わった。しかし、それで損をしたことは一度もないし、それどころか、いつも非常に良い思いをした。
大学に関しては、入学前に決めていたが、アインシュタインを見習って、講義には一切出席せず、図書館に引きこもる予定であった。加藤諦三さんの「大学で何を学ぶか」という1979年初版の本は、いまだロングセラーを続けているが、その本の中に、ある大学教授が、「私の講義が嫌なら来なくていい。だが、代わりに何か身に付くことをやれ」と言ったことや、そこの大学の学生でないことが分かっていても、講義を聞きに来れば黙って受講させた先生などの素晴らしい話があった。それで、私も勘違いした。しかし、それは大昔の話なのだろう。それこそ、竹村健一さんなどは、ほとんど通学せずに京大を卒業したらしい。現在では、そういったことが、不可能であると分かった時は、まさに、詐欺にあったような気分だった。

ここで、本題だが、どうすれば平和な状態で学校や会社をやめられるだろうか?
それは、学校や会社をそのまま続けるのが、嫌でなくなることである。そうなった時、あなたは不安なく、堂々と会社や学校を去ることができる。これは、なんとも矛盾したことのように思われるだろう。嫌じゃないなら、もうやめる必要は無いじゃないかと思うかもしれない。だが、そう思うなら、良いやめ方は出来ない。
学校も会社も、嫌だからとか、損だからという理由でやめてはいけない。そこに入ったのは偶然ではない。入るべくして入ったのだ。なら、去るなら去るで、去るべくして去らなければならない。
もし、学校や会社にいるのが辛いのであれば、その感情を他人事のように冷静に観察することだ。ただし、分析や評価は、一切してはならない。種の発芽や、空の星を望遠鏡で観察するように、ただ静かに観察するのだ。感情が高ぶっても、それに同調してはならない。心がぐらつくなら、ぐらつかせておけ。すると、心がすっと抜け落ちる。あるいは、溶けて無くなる感じかもしれない。そうなると、不思議なことに、いままで嫌だったものが、それほどでもなくなる。その時、既に状況は変わっている。
だが、言うほど簡単ではない。どうしても、感情に取りつかれてそれと一体化してしまい、冷静に観察できなくなる。知らず知らず善悪、優劣、好悪を断定し、観察するより、勝手な思い込みを作り上げたり、良いことが起こることを願ってしまう。
だが、練習次第だ。これが魔法なのだ。我々は、魔法を使ったことが無いので、慣れていないだけなのだ。
ところが、C.G.ユングは、荘子を読んで、この魔法を発見したに関わらず、彼は観念にとりつかれた。それで、結局失敗したのだ。まあ、彼の場合は、アカデミーに論文を出す必要があったので、分析的に考えてしまったのだろう。オツムの良い人は不幸なものだ。あなたも頭が良いだろうが、そんな愚を犯してはならない。

上に書いたことは、もちろん、学校や会社に限らず、あらゆることに使える万能魔法だ。話を限定した方が分かりやすいからという理由より、私に経験があって、本当に分かるからという理由で取り上げた。
学校や会社が嫌でなくなったら、留まるか去るかは自由だが、去る場合が多いだろう。すると、電話が掛かってくる。「今の3倍の給料でどうか」とね。すまん、欲張ってはいけない。無欲な時にうまくいくのである。そもそも、金なんてあまり無い方が良いのである。







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真の友は力尽きるまで喧嘩する

妖精って、どんな数え方をすれば良いのだろうって考えたことがあるかもしれない。
そんな時に、我々の習慣的な考え方のクセが分かる。外見で判断しようとするクセだ。人に似た妖精なら、1人、2人、小さな妖精は、動物のように1匹、2匹とかね。
しかし、人を数える時、その肉体で数えているのだろうか?もしそうなら、人も動物や虫と変わらない。そうではなく、心とか魂を単位として数えているのではないのかね?
例えば、姿は無いが、愛を持った生命がいたらどう数えるだろう?
私は、星を、1人、2人と数えたって構わないと思うのだよ。

それはともかく、CLAMPの漫画「魔法騎士レイアース」で、小型の妖精、モコナとプリメーラは、会う度に喧嘩をする。それを見て、14歳の大人びた賢い美少女、風(ふう)が、「仲良しさんにしか見えませんわね」と言って微笑んだのが、見ていて楽しかった。
「あしたのジョー」で、力石徹が死んだ時、丈は、自分まで魂が抜けたような状態になったことが理解できずにいたが、やがて気付く。「あいつだけが友達だった」と。少年院で出会って以来、会う度に、どちらかが挑発し、喧嘩をおっぱじめるしかなかったやつが、本当の友達だった。
笑いあって過ごすような相手は、本当の友達ではない。特に若い間は、お互いの心の中にたまったガラクタを叩き出すために、豊かなエネルギーを出し惜しみ無く使ってあげることが喧嘩になるだけのことなのだろう。
平坂読さんの「僕は友達が少ない」では、2人のヒロイン、夜空と星奈は、それこそ、会う度に、呆れるばかりの大喧嘩を始め、容赦なく罵詈雑言を浴びせ、意地を張り合う。しかし、作中には決して書かれていないが、私は読んでいて、やはり、どう見ても、彼女達が仲良しさんにしか見えないのだ。

「親しき仲にも礼儀あり」とか言うが、そんな間柄なら友達ではない。中国の古典「荘子」に、ある4人の真の友人があったが、そのうちの1人が死の間際にある時、訪ねて来た友は平然とし、「がんばれ」とも「死ぬな」とも言わない。普段通りの会話をして、友は安らかに息を引き取る。
喧嘩というのは、人が真の自分になるため、世間の迷信を一緒に叩き壊そうとする行為だ。だから、世間にひれ伏す者同士は喧嘩をしたりはしない。にこにこ笑い合いながら、共に世間の奴隷で満足しようとしているのだ。
そして、世間を超え、真の自分である者同士は、すでに死を超え、自他の区別もないので、どんな時でも自然に接することが出来る。相手が世間の人なら、お悔やみを言ったり、形ばかり泣いたりするのも良いかもしれない。しかし、真理を知るなら、そのような必要は全くないことが分かるに違いない。







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観念を捨てると食欲も性欲も消える

私は最近、食欲や性欲などの本能は、単なる観念から来る幻想ではないかと疑っている。
ジクムント・フロイトは、「人間の本能は壊れているので、その本能を補うために自我(心)を作った。だが、自我は、自然に出来たものではない幻想のようなものだ」と言った。そのようなことは、フロイトが初めて言ったのだから、さすが天才と思うが、本能というものは、壊れているのではなく、本当は無いのだと思う。
なぜそう言えるかというと、私は、観念を捨てるごとに本能が無くなってきたからだ。

私は2008年8月から1日1食で菜食主義となったが、最近までは食欲と戦っていた。ところが、自分が持っていた観念全体、つまり、固定観念であるが、これを捨てていくごとに、食欲を感じなくなっていた。ただ、空腹であるということは分かるのである。つまり、これまでは、「空腹になったら食欲が強くなる」と、単に思い込んでいただけだと分かった。
同じく、性欲に関しても、これまでは抑え付ける必要があったのだが、今は、どれほど好みのタイプの美少女を見ても、単に「綺麗だな」と思うだけである。
おそらく、生存欲や名誉欲などについても同じである。
これらの欲望というのは、あらゆる場所で見聞きしたことを取り込んでしまった記憶や観念による作用でしかなく、なんら実態のない幻想である。
テレビ、雑誌、小説、漫画、インターネットの広告などには、我々の食欲や性欲を煽るもので満ち溢れている。それらが、我々の心に入り込み、心は、その驚くべき力で身体に反応を引き起こして、破滅的な欲望を生み出し、人類のあらゆる不幸や悲惨の原因を作り続けているのである。
これらの、押し付けられた記憶や観念を捨て去れば、それらの支配から逃れることが出来るのだ。

動物は、本能で生きているのかもしれないが、人間は全く違う進化したものなのである。しかし、心というものを持つがために、かえって動物に劣る振る舞いを起こす考えを持ってしまい、それが情熱と結びつくと、残虐な行いを平気で、さらには、熱狂的にやらずにいられないのである。

尚、私がやったような、固定観念、幻想を消すことは、世界の様々な場所で、秘教として伝承されているのではないかと思う。
ただ、そんな方法を教えるとか謳っている書籍は沢山あるが、ほとんど全て偽物で、かえって、観念や幻想を積み重ねるのである。
やはり、真理は、新約聖書や仏典に書かれている。仏典の中では、法句経が最も純粋な釈迦の言葉だと思う。イエスも釈迦も、庶民と気楽に話したのだ。現代で言えば、ニサルガダッタ・マハラジが、最も純粋に真理を語っているが、翻訳でしか読めないので、あまり字面にこだわって読んではいけない。







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熱中症で女子生徒達が病院に搬送されたことについて

東京の陸上競技場で、体育祭に参加していた中学生、高校生の女子16人が、熱中症と思われる症状で病院に搬送されたというニュースを見た。
全生徒が670人だったというから、2.4%であるが、全て女子のようだ。
テレビニュースでは、いかに当時のその会場が暑かったかを強調し、医学関係の人には、暑さと熱中症の関係とその対策の割と当たり前の話をさせ、学校は「配慮が足りなかった」と謝罪する様子が放送されていた。

近年は、猛暑の中での体育祭でなくても、野外での朝礼で倒れる生徒の話もよくあり、それをまた、ニュースが大仰に取り上げることもあるし、その際、倒れた子供に、朝食を食べていない子でもいれば、まるでそれが災いの元凶のように言ったりすることもある。

本当の問題は、児童、生徒に限らないが、人々の身体が弱くなっていることだろう。
今の子供たちは、生まれた時から家にエアコンがあるのが当たり前で、ほとんどの家に自動車があり、どこに行くにも、エアコンの効いた自動車で行くという子が多いと思う。これでは身体が丈夫なはずがなく、冬でも風邪を引きやすい子が多いと思う。
さっき、朝礼で倒れる子の中に、朝食を食べていない子がいた時に、それが問題にされるということを述べたが、栄養が足りなくて倒れるなんてことはないだろう。戦後の、多くの子供たちが栄養失調と言われた時代に、長時間の朝礼でも倒れる子なんていなかったらしい。今の子供の場合は、むしろ栄養過剰が問題と思う。

今は、夏の夜はクーラーを付けて寝るのが常識化しているようだ。
生活においては、40代、50代の人も、既に豊かな時代に育っており、若い人達とそう変わらない。また、甘やかされないで育った人でも、いったん、エアコンや自動車で楽を知れば、もうそれらから離れられなくなる。
私は、ある30代半ばのプロ野球のスター選手がまだ若い頃、既に黄金ルーキーとして活躍していた彼が、クーラーを付けて寝ているという話を聞いて驚いたものだ。そして、そんな選手が多いらしい。案の定、まだまだ全盛でいられるはずの彼は、1軍での出場機会もめっきり減り、すっかり色褪せた。イチロー、松井に劣らない、あるいは、勝る才能があったとも思われる選手である。クーラーを付けて寝ている選手は、体力が無いだけでなく、みんな腰が駄目になっているように思う。

私は、社会人のスタートは家庭向けセールスマンだった。数年の引きこもり生活の後で、体力があったはずもないが、真夏でもきちんとした格好で、ネクタイもして、長時間(朝から夕方まで)、外を歩いて訪問し、真っ黒に日焼けした。当然、暑くて、体力的にも苦しかったが、倒れるなんてことは想像も出来なかった。また、こまめに給水なんて考えたこともなかった(仕事中にそんな暇はない)。
私の家では、私が高校生になるまでエアコンが無かったし、また、割と最近まで、エアコンはリビングにしかなかった。だから、クーラーを付けて寝るなんてことは成長過程では全くなかった。そして、私が免許を取るまでは、家に自動車が無かったのである。それで、特にスポーツをしなくても、私にはもっと基本的な体力というか、身体の調整機能が正常なまま保たれていたのだと思う。加えて、子供の頃から、オヤツをあまり与えられたことがなかったのも幸いだった。

最近、通勤電車に乗っていると、何かの校外行事であろう、大量の男子中学生が乗ってきた。女の子ならともかく、うるさいだけで、何の良いところもないクソガキ共であるが(笑)、ただ、回りの大人の男性達に比べて顕著なのは、大半の子供たちは、ウエストが細いことで、これは実に素晴らしく、美的と思った。私は180センチでウエスト70センチくらいであるので、その点だけは親近感もあった。だが、肥満して、ウエストがダブついている子もそれなりにいた。熱中症とやらで倒れる危険性が高いのは、こちら側と思う。

暑いと言っても、日本の夏などたかが知れている。
テレビなどのマスコミが、いつも一方に偏るものであることは、もう当たり前のこととしっかり認識し、公平性や高い見識は無いときちんと理解し、表面的に見るようにしなければ馬鹿になる一方で、それが既に危機的な状況となっている。
重要なことは、我々が自分達を過剰に甘やかさなければ、もっと健康に生きられるということである。
原発事故が良いものであるはずが無いが、我々は、それを天の啓示と受け止め、膨大なエネルギーを無駄に消費する生活、社会を変えなければならない。今の生活、産業活動を維持する必要は全くない。エネルギー問題の真の解決は、表面的なことではなく、我々の内面の変性によりもたらされるのである。







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力は目に表れる

人品自ずと顔に表れるというが、実際には目で決まるのである。
目は誤魔化せない。だから、力が無いのに強いフリをしたがる人間はサングラスで目を隠すし、逆に、強い人間が力を隠す時にもサングラスをするものだ。
女性の目の周りのメイクが派手になってきたが、ちゃんと見る目のある者から見れば、そのようなものに何の意味もない。素晴らしい男性からすれば不気味なだけであり、引き付けるのはつまらない男ばかりであろう。

だが、人知れず、何かを磨き続けると、力が付き、知らず知らず自信が生まれ、そして、目が変わる。
そんなあなたの目を見た人は、あなたを軽く扱うことは出来ず、あなたに逆らうこともない。力ある人物はあなたを重用しようとし(逆に避けることもある)、あなたが男なら、心の澄んだ女性であれば、その目の力を感じ、寄って来て慕うことだろう。
逆に、あなたがいつも軽んじられ、いじめられ、あるいは、親しまれないなら、その原因は目にある。もちろん、それは、単に世間でいう、目付きが良いとか悪いといったものではない。一般的に言えば悪い目付きでも、深い慈愛や知恵を感じさせる人もいる。

江戸時代に、ある目利きの武士が、たまたま出会った町人に何かを感じ、「何者?」と尋ねるが、町人は、「ただの職人です」と答える。しかし、その武士は、「いや、その目付き、ただものとは思えない」と言う。すると、町人が言うには、彼は生来の臆病者で、それを少しでも何とかしようと、10年以上、夕暮れ時に墓地に行ってしばらく過ごすことを1日も欠かさないのだと言う。
変わった例ではあるが、この話にも重要なヒントがある。この町人は、胆力を磨く修行をしたのだ。

我々も何か1つ、毎日磨き続けるべきである。
毎日、たゆまず熱心にやれば、それに関しては誰にも負けなくなる。そのようなものが1つあると、本物の力が付き、自信が付き、人生は生きやすいものになる。自然に相応しい道に導かれ、ものごとは円滑に進むだろう。そして、あなたの目は、誰が見ても惚れこむ、素晴らしいものになっているのである。

昔、勝新太郎が、寿司店で食事をしていると、客のある見知らぬ若い男性に惹き付けられ、思わず話しかけていた。
「お前、いい目してるな!名前はなんて言うんだ?」
「はい、稲葉浩志と申します」
それは、若き日の、B'zの稲葉浩志であった。

毎日磨くものには条件がある。
その条件には、世間の価値観などは何の関係も無いばかりか、世間で価値あることは全く相応しくないことも少なくはない。
それは、まず、自分で選んだものでなければならない。
また、我欲が動機であってはならない。つまり、得をするからやるというのでは絶対にいけない。
そうでなければ、逆に力を失い、自信どころか不安や恐怖を背負うことになり、目付きも悪くなる。例えば、学問への探求を持たない単なる受験勉強や試験のための勉強や、ただ、自分が儲けるためだけにやる商売、あるいは、虚栄心や優越感、それに、性欲を満たす目的だけの美容などがそうだ。

また、「私は、目付きが良くなるようなことをやっているだろうか?」と問うのも良いだろう。
これは、「天に恥じないことをやっているか」「内なる魂に従っているか」ということと同じである。
答が「是」であれば、あなたには自信と力があるはずである。







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