ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

貴族の特性、武士の特性が引き起こすこと

もし雨を降らせることが出来るなら、何でもできるだろう。
ただし、雨を降らせるのは、あらゆるものが本当に雨を必要とする場合だけだ。
必要とする雨が降らないなら、降らないだけの理由がある。
それを解消することだ。
魔法の原理とはそんなものなのだ。

長い干ばつに苦しむ村に、優れた雨乞い師が招かれた。
雨乞い師はテントを建てると、そこに3日篭った。そして、4日目に雨が降った。
驚いた人々が尋ねた。
「何をしたのですか?」「何もしない」
「なぜこれまで雨が降らなかったのですか?」「村が神の意志に沿っていなかったからだ」
「なぜ雨が降ったのですか?」「私が神の意志に沿ったからだ」

神の意志に沿うとはどういうことだろう?
それを知るには、神を知らねばならないが、我々は神を直接知ることはできない。
しかし、ゴッホを直接知らなくても、ゴッホの絵を見れば彼を知ることは出来る。
なら、神の顕現である大自然を真摯に観察すれば、少しは神が分かるかもしれない。

大自然は完璧な秩序をもって動いている。
そこに完全な法則を見ることができる。
正確さ、調和、そして、果てない繰り返し。
あらゆるものが、どんな小さな1つのものにいたるまで完璧なハーモニーを奏でている。
だからこそ、ゆるぎのない強さ、至高の美があり、生活に疲れた者に旅愁にも似た荘厳さを感じさせるのだ。

ニーチェは、気紛れが貴族の特性と言った。
その通りだ。
貴族は神に従っていない。
日本の武士もいつもそうで、その歴史の終りには世間の範であることを目指したが、所詮は神の意志に沿っておらず、最後まで悲惨だった。
武士の特性とは差別主義でしかなかったのだ。
我々は貴族や武士になってはならない。
神は気紛れでないし、厳格に公平だ。

正確に、意義あることを、決意も熱狂もなく、ただ淡々と繰り返す。丁度、太陽や月がそうであるように。
限りなく公平に与える。太陽の光も、風も、雨も、富者、貧者、善人、悪人を区別せず恩恵を与えるように。
軌道の歪みは、欲望を捨てることで容易に修正される。
なぜなら、身の程を知る慎ましい心は神の心と溶けあい、いつもその声を聞けるからだ。

具体的に言うなら、決まった時間に決まった量の食事をすることだ。
ラマナ・マハルシだって、結局は、最上の修行とは、清らかな食事を適切なだけ食べることと言ったのだ。
自然は何も甘やかさない。満腹するまで食べて自分を甘やかすなら、神の意志に沿っていない。
神は人に自由意志を与えたけれども、それを支配し、神の意志に沿うことで、人は神と似てくるという驚くべき特権が与えられているのだ。







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病人が多過ぎる

今年の健康診断の結果が出たが、私は一昨年からは毎回、オールAの完全健康体としかならない。
別に、病院で健康診断をしていただく必要もないが、強制的に受けさせられているのである。私が、自分の用事で病院に行くことは他には全くない。
しかし、病人が多い。
家族、親戚、近所の人、学校の同窓生、職場の人など、つまり、知っている人の大半が何らかの身体の不調を抱えており、日頃から病院通いをしている人も少なくない。
むしろ、私のように完全に健康である者が稀なようである。
私と世間の人との重要な違いは食事だけである。世間の人は1日3食で、肉食が中心で満腹するまで食べる場合が多く、菓子類などの間食をするのも普通だ。私は1日1食で夕食だけであるが、肉、魚は食べず、食後でも十分な食欲が残るように食べ、間食も全くしない。
世の中には多くの健康法や健康食品があるが、それらが健康をもたらすことは決して無く、健康かどうかの違いは、食事の量だけで決まる。適切な一定量の食事を決まった時間に食べるようにすれば健康にしかならない。
世間の人は、あまりに食べ過ぎで、しかも、食事の量や食べる時間が一定していないので、健康であるはずがない。
私は食べないが、肉食自体はそう悪いものだと私は思っていない。ただ、肉類は食べ過ぎの原因になる可能性があるし、多く食べれば極めて身体に悪い。食事の量が適切なら、何でも非常に美味しいので、別に肉や魚を食べる必要がない。

今は、病院に行くと、大学病院など公立の病院の場合では特に、予約を入れていても長時間待たされることが多いようだ。
公立病院では業務効率の改善を考える必要がないということもあるのかもしれないが、とにかく病人が多過ぎるのである。いまや健康な人が珍しいほどなのだ。

私自身、長年、重度のアトピー性皮膚炎、心筋梗塞、めまい、だるさに苦しみ、発作を伴うメニエール氏病でしばしば立ち上がることも出来なかったが、食を慎むようになってから、それらの症状は自然にすみやかに消えた。当然、何の医療サポートも必要としなかったし、金がかかるどころか、食費は数分の1になり、医療や薬、あるいは、効果もない高価な健康食品で多額の金を無くすこともない。私の1日の食費は数百円である。これは、決して我慢しているわけではなく、飽食、肉食であった頃と比較にならないくらい食を楽しんでいる。本当に空腹な時に食べる食事はまさに天国の食事であり、自然に心から感謝し、食事の度に歓喜というものを感じるほどである。
「日本人は米」という思い込みも捨て、米を食べなくなってから更に身体が軽くなった。これは、米が悪いというのではなく、日本人だからといっても、必ずしも誰にも米が合う訳ではないということだ。徳川家康や水野南北は、富裕でありながら少食粗食で、米を食べなかった。彼らは当時としては異例の長寿(家康は73歳、南北は75歳まで生きた。当時の平均寿命は30数年と思われる)で、しかも、晩年まで健康だった。

また、世の中には数多くの精神修養法や自己開発法があるが、そのほとんどが単に提供側が儲ける目的のために作られた偽物であるが、稀に良いものもある。しかし、その本当に良いものも、実践し効果を上げるのは絶望的に難しい。私自身、良いと思えるものは、数百冊の本を読み、高額なセミナーに参加し、高価な教材(軽く百万円を超えるものもあった)も購入したが、熱心には取り組んだが、どれも成果はなかった。
しかし、ただ食を慎み出すと、決して他人との比較ではなく、以前の自分が精神的にも肉体的にも恐ろしく低レベルであったことが分かり、更に向上するのを感じている。ただ、そうなると世間と付き合えなくなると思う。世間で成功したいなら、世間的な愚かさも必要なのかもしれない。
おそらく、欲にまにれた現代人が、賢者の優れた教えや、論理的訓練で成果を出すことは極めて難しいだろう。それは私自身が実感した。そんな我々に残された唯一の実践可能なものが食の慎みである。それは簡単で確実である。







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子供の時の感覚が甦る私の運動

私は、毎晩欠かさず身体トレーニングをしているが、私のやり方は、畳1枚の広さがあればそれで十分で、何の道具も必要がなく、家の中で出来るので、時間もお金もかからない。そして、満足すべき成果を得ている。
やることは、腕立て伏せ、スクワット、腹筋運動、背筋運動、スワイソウ等であるが、長く続け、効果を上げるには、やり方も大切だと思う。

まず、腕立て伏せを取り上げる。誰でも知ってるポピュラーなトレーニングであるが、あまり良い印象が無いかもしれない。腕立て伏せのイメージが良くないのは学校などでの経験のためではないかと思うが、私は、これはあまりに素晴らしいので、天が誰かに教えた究極のトレーニングに違いないと思っている。
ただ、多くの人が、腕立て伏せのやり方を「床ぎりぎりまで身体を落とし、身体を上げた時には、腕をしっかり伸ばしきらないといけない」といったのが正しいと思い込んでいるのではないかと思う。
これは、学校で教師に見せるためのやり方で、トレーニングでも何でもない。いわば演技、見世物のやり方だと思う。
体操競技などでも、高得点を出すには、意図的に曲げていない部分は全部、「美しく」伸びきっていなければならないが、あれは非常に身体に悪いのである。
私も、最初の頃は、「しっかり曲げ、しっかり伸ばす」方式で腕立て伏せをやっていたが、自己満足にはなるものの、効果がなく、飽きてきてしまうので困った。
ある時、プロボクサーの方に、「自分達はそんなやり方はしない。心掛けるのは『なるべく速く』だけだ」と言われ、感じるところがあってやってみたら、充実感を感じ、効果も素晴らしかった。
とにかく高速に、形はあまり気にしない。短時間に気力を込めてやる必要がある。逆に言えば、気力が充実する。腹や太腿の筋肉への負担も大きく、それらの部位が震えてくるほどだ。また、心肺への負荷も高く、息切れも起こすが、胸にも力が入るので息がし難い。百数十回も続けると心臓が高鳴り、終わった時には息も絶え絶えとなる始末だ。しかし、短時間に力を出す充実感は爽快であり、やや苦しくても、その気分を味わうため毎日欠かせなくなる。そして、当然ながら心肺機能が高まるのも感じる。少し前に、ノロウイルス感染で倒れた時も、さすがにその日は休んだが、まだ体調の戻らないにも関わらず、翌日はいつもと同じ回数を実施した。
腹筋運動も同様で、やはり、「出来る限り速く」だけを心掛けてやっている(あまりに無茶で極端な高速化までは注意しないのでそのつもりで)。
トレーニングは見世物ではないのだから、動きの大きさや優雅さなどはどうでも良い。超一流のスポーツ選手のトレーニングを見ていると、あらゆる動きの振幅が非常に小さく、動いているのかどうか分からない場合もよくあるのに気付く。
もちろん、あまりに歪んだ姿勢、体勢や、いい加減な動きも戒められるべきで、多少の研究も必要かもしれないが、馬鹿でもない限り、「程々」とか「ものには限度」ということを忘れなければそれで良いと思う。

さすがにスクワット(しゃがんで立つ運動)は、高速でやると飛び跳ねてしまうし、それでは膝を痛めるので、こればかりは軽やかさを心掛けているが、あまり深く曲げないハーフスクワットを、そこそこの速さでやるのが良いかもしれない。そこは自分でいろいろ試して見ると良い。ただ、私は深くしゃがんだ姿勢から静かに伸ばすという方法でやっている。それでバランスを取る時に、全身が適度に鍛えられるからだ。最初は、ふらつくことも多かったが、しばらくすると、動きがぴたっと「決まる」ようになった。

これらの運動と、少食、菜食(青野菜より根菜、果物が主だが)の組み合わせにより、身体の調子が非常によく、とにかく軽く感じるようになった。歩いていたり、階段を昇る時に、まるで身体の重さを感じないことに驚く程である。それは丁度、子供の時の感覚であり、あの無限のエネルギーを取り戻したようである。子供の頃、スキップで移動するのは、まるで、空中に浮かんでいるようなもので、どこまででも行けるような気がしたものだが、まさにあの感じが甦ったのである。
運動も、学校で教わったようなやり方や、宣伝に乗せられてむしろ身体に悪いことを金と手間をかけてやるのではなく、実質重視でやるのが当然良く、私のようなOne Matアスリート(畳1枚の広さで実施できる運動)方式を考えてみてはいかがかと思う。





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年齢の幻想を打ち破る

私は、NHK衛星第1テレビ(BS1)の「きょうの世界」のキャスターを務める丁野奈都子さんが好きで、あの番組を時々見るのですが、昨夜のその番組で、自分が老人になった時の姿の映像を作成するコンピュータソフトの話題がありました。まだ製品化される前のものですが、現在の自分の顔から、30年先の自分の顔を作成するといったものです。実験によると、そのソフトで老人になった自分を見た人は貯金を始めるのだそうです。老人になった自分を映像で実感することで、将来への不安や老いの恐怖を起こさせるのであろうということです。

手塚治虫さんと並び称せられる漫画家で、現在も人気がある仮面ライダーシリーズの作者である石ノ森章太郎さんは、子供の頃は「人生50年」の時代で、石ノ森さんも、「うまくいって50年」、そして、自分は40歳くらいまで生きればいいと思っていたようです。40歳以降は老人で、老いさらばえてまで生きていたくないと思っていたようです。
日本は高齢化が進んでいると言われ、20年後は、若者2人で65歳以上の老人1人を支えないといけなくなるとよく言われます。
世間の観念というものは恐ろしいものです。
なぜ65歳を過ぎたら「支えられない」といけないのでしょうか?
石ノ森さんが子供の頃、もう老人と考えられていた40歳は、現在では老人とは程遠く、1883年生まれのナポレオンヒルすら、リンカーン大統領がそうであったように、40歳以降から本当の人生をスタートさせた人々のことをよく取り上げています。
プロレスのジャイアント馬場さんは、「若い頃は、60歳といえばすごい年寄りだと思っていたが、自分がなってみたら、全くそんなことはなかった」と言います。
ただし、大部分の人は、子供の頃や若い頃に植えつけられた観念に従って、昔なら40歳、今でも、60歳になると老人になります。

40代や50代の女性でも美しくあれるのだという美容産業の宣伝をよく見ますが、あれを見ると哀れに思えてなりません。なぜ、40代や50代の女性が性的魅力を売り物にしないといけないのでしょうか?金のために彼女達の愚かな欲望を煽る者達にも問題はありますが、彼女達自身の浅はかさのために、不安と恐怖に怯える弱い存在に留まっていることに気付き、それを超えることが、本当に年齢に打ち勝つ道です。
斎藤一人さんは、200歳まで生きると言います。現在、60歳くらいの彼が子供の頃は、80歳まで生きると言うと笑われたそうですが、今はまさかそんなことはなく、80歳を超えて単に元気なだけでなく、高い能力を持って生きる人も多くいます。そんなことから考えても、200歳まで生きるということに、なんらおかしなことは無いと斎藤さんは言います。

冒頭にあげましたように、「老人になった自分を見る」コンピュータソフトのキャッチフレーズは「30年後の自分を見る」でした。
しかし、私は300年後を考えています。
画家の足立幸子さんは、進化した星では300歳、400歳でも若く、一生老けないし、我々も100歳、200歳でも若くいられると講演でよく言われていたそうです。
世界中で大いに誤解されていますが、実は高度な哲学者であったジョージ・アダムスキーが逢った宇宙人達は、やはり数百歳でも若く、地球的に換算すれば百歳を過ぎた女性が20歳以上に見えず、驚嘆するほど美しかったことを彼は著書に書いています。
1897年に書かれて、現在も世界で愛読され、ヘンリー・フォードが自分の成功の要因と言ったことで知られる、ラルフ・ウォルドー・トラインの“In Tune with the Infinite”(邦訳2冊を最後にご紹介しておきます)には、80歳を過ぎても、25歳以上に見えない女性の話も出てきます。
私は、政木和三さんが存命の時、政木さんに「君は千年生きることも出来る」と言われました。今では、当然、可能と思っています。
私は、1日1食で、肉や魚を食べることをやめてから急速に若返り、身体は17歳の時の数倍強くなり、それまで抱えていた一切の身体の不具合(アトピーやメニエール病)を消しました。高価で、私の考えではかえって身体を損ねる世間の美容法や健康食品は不要で、ただ、食を慎めば、誰でも同じことが起きます。そして、決して、食の楽しみを諦める苦行的な生活をする必要はなく、逆に、食の楽しさは以前とは比較にならないほど大きなものになります。空腹の時には、質素な食事も天国の食物ですから。

戦前に貯金に励んでいたのが、終戦時のデフレのために貨幣価値が急激に下がり、その預金は、それを降ろすために町の銀行に行くバス代にもならなかったという話がありました。
世間の保証なんてそんなものです。世間の権威、信念、教義、価値観に従う限り、安らぎはなく、不安や恐怖は大きくなるばかりです。
本当の保証は、言ってみれば宇宙の英知のみです。私は、世間より、真の英知を上位に置くことを始めました。古い自分を終わらせ、新しい自分を始めるとはそういうことです。







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不幸な主人と幸福な下僕

世の中には、矛盾した言葉というものが沢山あるが、最も矛盾した言葉は何かと言うと、「奴隷を愛する」という言葉だと思う。
愛しているなら、奴隷にはしない。

「私はビジネスを愛する」と言う人がいるかもしれない。
しかし、「ビジネスは私に富をもたらしてくれるから」と言うなら、彼はビジネスを自分のために役立つ奴隷と見なしており、自分が主人でビジネスを下僕としているのだから、彼の言葉は矛盾している。
「ビジネスは私の能力を活かし、世界を良いものにする」と言うなら、ビジネスが主であり、自分が下僕なので、彼はビジネスを愛しているのだ。

単なるロックファン、ロックマニアと、ロックを愛する者の違いも同じだ。
ロックを、自分を楽しませてくれるものと考えるなら、やはりロックを自分のために役立つ下僕と見なしており、ロックを愛していることにはならない。ロックを愛するなら、ロックが自分や人々の意識を目覚めさせ、進化させるものと思っているのだ。
プロのシンガーでも、音楽を富をもたらすものと思うなら、やはり音楽を自分のための奴隷にしているのであり、音楽を愛することとは程遠い。いや、正反対だ。ある有名なミュージシャンは、元々は音楽を愛していたし、才能もあったので素晴らしいミュージシャンになり、人々に対して、音楽本来の役割を提供する下僕になっていたが、彼は神に試されたのだろう。彼には大きな富がもたらされ、いつしか彼は、音楽をお金の道具にしてしまい、才能が閉ざされ、そして、破滅した。大きな借金を背負った彼は、今でも音楽を金の道具にせざるを得ず、復活は不可能だろう。才能とは、道を誤る大いなる災いなのだ。弱い人間には、むしろ無い方が幸福かもしれない。
しかし、別の著名なニュージシャンは「ミュージシャンなんてのは、街角でハーモニカを吹いていたら満足なやつでないと駄目なんだ」と言ったが、それは自分が楽しむという意味ではない。ハーモニカを吹くことで閃きを得て、自分のやるべきことを知ったり、あるいは、人々に気付かせたりするということで、あくまで音楽が主で自分は従なのだ。
では、さて、「女を愛する」とか「男を愛する」とはどういう意味なのだろう?

神を愛すると言いながら、神に富や成功を祈れば、それは、神に対し、「私の役に立て」と言うようなもので、神に自分の奴隷になれと要求するようなものだ。神を愛するとは、神の下僕になるということだ。ただ、神は人間の主人のように我がままでもなければ気紛れでもない。主人にするに値するものであり、全面降伏して悔いのない相手に違いない。
ただ、アイルランドの詩聖イェイツが言ったように、「愛は神の領域であり、人に理解できるものではない。だが、憎しみは人の領域であり、これなら理解できる。我々にできるのはただ憎しみを捨てることだ」ということなのだ。全ては神の至高の力が動かすのだから、どんな運命や出来事も憎まないことだ。全ての過去と現状を肯定するよう努めるのが良いに違いない。そして、未来に関しては神に任せることだ。それが神の意志に従うということであり、神と和らぐということと思う。聖者、賢者が約束する幸福の道とはそれである。
簡単に言えば、余計なことを考えず、ぼーっとしていることだ。不要なものを求めないことだ。しかし、考えるべきことは考え、必要なものは求めても良いのだろう。しかし、それらはあまり多くはない。
そうすれば、我々には下僕や奴隷は必要がないことが分かる。「ご主人様」と言われて喜んでいるなら、その喜びが大きいほど、彼の現状は悪いものに違いない。我々は下僕である時に幸福なのである。そして、下僕であることで主人に似てくるのである。







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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
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・初音ミクさんを愛す


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