ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

なり切ることの魔力

立場が人を作るなどとよく言われる。例えば、役不足と思いつつ、社長をやらせたら、案外にすぐに様になったといったものだ。一見、頼りなさそうな2代目社長なんてのは、そんなものらしい。私もいく人か実際に知っているが、ある人は、最初は社長室に鍵をかけて引きこもっていたと自分で言っていた。それでも、今や堂々たる社長振りだ。
ただ、そういった、無理矢理社長というのはよくあるらしいが、無理矢理部長というのはあまり聞かない。2代目社長というものは、子供の頃から社長たる父親を見ているので、それなりにイメージが出来ているのだろう。

周囲の状況、あるいは、世界を変えには、自分(の考え方)を変えないといけないとよく言われる。しかし、自分を変えるのが一番難しい。
だが、上に述べた、無理矢理社長というのは、良いヒントなのだ。
以前も書いたが、1億円欲しければ、1億円を既に持っていると思って、それをどう使うか考え、そのイメージを自然に感じるなら1億は入ってくる。だが、そのイメージにさっぱりリアリティがなく、想像することにも飽きるようなら、自分は1億持つ器じゃない。1億持つ器じゃない人というのは、1億の用途を自分の個人的なものの範囲内でしか考えることが出来ないのだ。その中でも最悪なのは「貯金する」である。
1億円の器じゃないという人は、仮面ライダーやプリキュアの「なりきりセット」を着た子供のようなものだ。本人は満足していても、ちっとも本物の仮面ライダーやプリキュアに見えないだろう。「億万長者なりきりセット」が似合わない大人も多いのだ。だが、それが似合うようになれば億万長者になれる。
ところで、2代目社長に、いつ自分が社長だと自覚したか聞いてみたら、なんと、子供の頃だという。それは確かに、社長である父親を見ていたからということもあるのだが、それよりも、お客さんを見ていたからだと言う。会社でも商店でも、固定客を持つことが大切であることは言うまでもないが、彼は、会社の固定客を、子供の頃から自分のものだと思っていたのだ。多分、父親がそう思わせたのだろう。お客さんを大事にすることの大切さや、具体的にどう大切にするのかについての父親の話は、たとえさりげないものであっても、熱く、リアリティ溢れるもののはずだ。何と言っても、父親が命がけでやっていることであるのだから。
フォード自動車やトヨタ自動車のように、子供に社長を継がせているところもあれば、ホンダのように、創業者が、「息子を会社に入れることだけはやらない」と堅く決意しているようなところもある。
しかし、実際は、王子が王に相応しいように、社長の息子ほど社長に相応しいものはない。よほど甘やかしたような場合は別であるが、そんな場合ですら、何かのきっかけで息子が心を入れ替えたら、案外にうまくいくかもしれない。

自分が、仮面ライダーやプリキュア(昔ならセーラームーンか)のなりきりセットを着た子供か、実感ある想像が出来る者か考えてみると良いかもしれない。
1億の使い道は想像できなくても、1千万ならそうでないなら、1千万から始めると良いし、働いたことがなければ、まずは「毎月10万入ってきたら」と思えば良いだろう。
応用については、いろいろ考えてみて欲しい。
そして、誰でも、とんでもないものになり切れる能力を持っている。極めて若いがトップクラスの歌手やエンジニアが時々いるが、それは才能というよりは、絶対に意識の問題なのだ。老人でありながら、それまで弾いたこともなかったシンセサイザーを弾きこなしてライブやってるような人や、一度も習ったことのないピアノを、世界的ピアニストも唸らせる腕前で弾いた人を、私は実際に知っている。彼らは、それだけでなく、本当に何をやっても一流だった。そして、私は彼らに言われたものだ。「あんたにも出来るよ」と。いうまでもなく、この「あんたにも」は、「誰でも」という意味である。そして、その秘訣は、「欲をかかない」ことと言われた。私も、彼らに比べると少々壮大さに欠けるが、確かに、大抵なんでも出来たものだ。







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本当の勇気の見つけ方

スポーツ選手が勝利するために努力することをやたら賞賛する風潮が、昔から、特に日本では多いかもしれない。しかし、もういい加減に、それが変なことだと気付かないといけない。
彼らが厳しい鍛錬に耐えるのは、富や名誉という個人的欲望を叶えるためだ。それ以外にも、自分の可能性や技の探究ということもあるかもしれないが、それも単なる自己満足である。彼らにとっては幸せなことかもしれないが、我々に何の関係があろうか?
だが、多くの人がそう思っていない。そう思わないようにしつけられてしまっているのだ。

スポーツ選手を美化して、それを何が何でもあなたに共感させようとするのは、それらのスポーツ選手のイメージと利益が密接に結びついた企業やマスコミ、そして、それらの親玉の国家である。
私は、一応朝日新聞を購読しているが、高校野球の結果が地方予選の時から、スポーツ欄の広い紙面を占有していることは、どう考えても異常なことなのだ。
私とて、野球は嫌いではないし、高校スポーツには良い部分もあると考える。しかし、そんな扱いをするほどのものでは絶対にない。

人々をスポーツで操るための他愛ない合言葉が「勇気を与える」だ。
しかし、これにも、いい加減、目を覚まさなければならない。
スポーツで本当の勇気なんか与えられるはずがないじゃないか?
そもそも、勇気って、与えるものでも、誰かからもらうものでもない。
もらえなければ勇気を持てないような、そんな惨めな人間の存在を私は認めない。

もちろん、面白いものを見て、ほんの一瞬、気分を紛らわせることはできる。しかし、それは所詮一瞬だ。それが過ぎると、気分はまた沈み、次の刺激が必要になる。
女子サッカーの次は水泳、そして男子サッカー。プロ野球もしっかり絡んでくる。
お決まりの「勇気を与える」という変な呪文と共にね。

勇気ってのはね、我々の中にいつでも無限にあるものなのだよ。
本当の勇気ってのは、大騒ぎもしなければ、ハイになったりもしない。
そして、本当の勇気は決して争わない。
本当の勇気とは、何も恐れないことだ。不安や恐怖に打ち勝ち、ゆるぎない勇気を持つ者は、いつも静かで公平だ。

勇気が出ないのは、何かに寄りかかっているからだ。
すがり付くのは、勇気が出なくて不安だからだ。
そんな者達がスポーツを見て、「勇気をもらいました」と言うなど滑稽でしかない。
勇気を出したいなら、不安や恐怖に怯えている自分を消すしかない。
ここが肝心なのだが、勇気が無い状態が自然なのではなく、人は、勇気があるのが当たり前なのだ。だから、不自然なものを除いてしまえば、確実に勇気があるのである。
それには、偽りの勇気を拒否することだ。まさに、「スポーツから勇気をもらう」なんて誤魔化しや嘘をきっぱり捨て去らなければならないのだ。
安っぽい刺激や楽しみで心を慰めてはならない。そんなことはやめ、今は不安で、触ると痛い心をしっかりと直視することだ。批判することも、言い訳することもなく、自分の弱さやずるさも、まっすぐに受け止めるのだ。
誰にも、何にも期待せず、「自分に勇気があれば何をするだろうか」と考えてみるのだ。
さっきも述べた通り、本当に勇気があれば、恐れず、動じず、静かで公平だ。自分がそうなれたら、何をするだろう。そして、事実として、あなたはそれなのである。それを知りさえすれば、あなたに恐れるものは何もない。そして、何もしなくても、人々はあなたに本当の勇気を見て、彼らもまた、自分の中の本当の勇気を発見するに違いない。







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英知を秘めた聖典としての神話

世界中の聖典の多くは神話や伝説で、キリスト教やユダヤ教の『旧約聖書』や、ヒンズー教の『バガヴァッド・ギーター』や『ヴェーダ』はまさにそうである。
ギリシャ神話や北欧神話、ケルト神話なども、その中の物語に基づいた信仰を持つ人々には聖典として扱われる。
『老子』はちょっと変わっていて、論文のような雰囲気もあるが、神秘的な詩で、それは『荘子』もだが、こちらは物語のようなところが多い。『列子』は多くの短い伝説を集めたもので、とても面白く感じる。
仏教の経典の中にも、神話のようなものはある。

これらを、面白いところはあるが、神秘的というよりあまりに突飛で奇想天外なお話と考える人も多い。
しかし、これらの中に至高の英知が秘められていると考える人もいる。

例えばの話であるが、これらのお話は、賢いが普通の人たちが作り上げたのではなく、霊的な存在や、他の星から来た者が書いたとか、あるいは、そのような者に教えられて、選ばれた人間が書いたと考える者もいると思う。
それらの中に、あまりに深く高度な英知を見出すと、そう考えりより他ないのであろう。

ところで、日本では、仏教の経典で10世紀、聖書も5世紀と、翻訳とはいえ、かなりの歴史があり、日本語に馴染んできたと思う。その他のものも、多くの方々の努力で、素晴らしい翻訳を読むことができる。
とはいえ、その国の言葉で書かれたものが最も良いことは間違いがない。
我が国には、『古事記』があり、確かに、日本では、その中のお話はよく知られているのであるが、あまり『古事記』を熱心に読んでいるという人は多くないのではと思う。学校や塾の、国語や日本史の先生ですら、古事記を真面目に読んだことがないという人が多いのではないだろうか。
だが、『古事記』は、『旧約聖書』や『バガヴァッド・ギーター』に劣らないばかりか、それらに優るかもしれない驚くべき英知を秘めたものであり、何より、日本人に馴染みやすいものである。
面白いことに、『古事記』と、『旧約聖書』や『ギリシャ神話』は、偶然にしては似過ぎている部分もあり、それは、昔とはいえ何らかの交流によりお話が伝わったというよりは、ある真理を同じような象徴の中に込めたと考えた方が自然なのである。
外国の方々には、『古事記』を彼らの言葉に訳したものより、やはり、『聖書』や『バガヴァッド・ギーター』、あるいは、『ギリシャ神話』や『易経』などをメインに読むことが薦められるように、我々は、『古事記』をもっとよく読んでも良いかもしれない。
そればかりを期待するのもどうかと思うが、特に、インドや中国には、そこに伝わる聖典の教えを学んだ神秘的、超人的な存在が確かにいる。日本にもいるのかもしれないが、歴史的に言っても、あまりその存在が語られることがなく、むしろ、中国などから来た仙人との交流を語る者の方が多いように思う。水野南北も、仙人から教えを受けたことを明かしているが、やはりそれは中国から来た仙人のように思う。
『古事記』を読む時は、決して、ぞんざいに読み飛ばすのではなく、ヒマラヤに住む大師(悟りを開いた偉大な存在のこと)達が、『バガヴァッド・ギーター』や『ヴェーダ』を読む時のように、あるいは、ユダヤ教のラビ(偉大な教師)達が『タルムード』を読む時のように、一度に数節、一文を一日かけて読み、行間に秘められた英知を、理屈ではなく、内的な直感で感じるのが良いと思う。







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友や恋人はなぜ別れるのか?

地球が丸いということは、知識としては知っているし、多分本当だろうとは思うが、別にそれが私の信念や教義ではない。自分で確認した訳でもないし、実際はどうだろうと別に構わない。だから、私は、地球が平たいと思っている人がいて、彼がその考えに固執しない限り、つまり、それが彼の信念や教義でない限り、彼を友人と認めることに何の問題もない。
ましてや、金星が、濃硫酸の雲に覆われた、高温高圧の地獄のような星だなどと信じる理由は何もない。ただ、一説としてそんなものがあると知っているだけだ。
そういうことを信じ合っている者達には近付くまい。彼らにとって、私は変人で異端者だ。あまり楽しい扱いは受けないはずだ。

我々が、本当に知っていることって何だろう?
多分、何もないのだ。
デカルトという人は、全てはいくらでも(本当か嘘かと)疑えるのであり、そうである以上、「これが本当だ」と言えるものは何もないと言った。彼だって、地球が丸いとうことを仮説としては受け入れても、本当には信じないだろう。
しかし、やがて彼は気付いた。「疑っている私は確かに存在している」ということだけは、本当だと。

いずれにしろ、我々は何も知らない。
「私は自分が何も知らないことだけを知っている」と言ったのはソクラテスだが、うまいことを言うものだ。

ところが、ほとんどの人は、自分は何かを、そして多くを知っていると思っている。しかし、それは、嘘か本当かさっぱり分からない幻想だ。
そして、同じ幻想を信じている人同士が、友人、恋人、夫婦になるのだし、家族というのは、親の教育によって、同じ幻想を共有しているのだ。
だから、友や恋人や夫婦が同じ幻想を信じなくなったら、友でなくなり、恋人で無くなるり、夫婦なら別れるだろう。そして、家族の中に、他の家族が信じている幻想を信じない者がいれば、その者はすでに家族ではなくなっているのだ。

世間の友達関係、恋人関係、夫婦関係、家族関係というのは、こんなものなのだ。
ただ、嘘だらけの幻想で結びついた偽りの関係だ。

しかし、共通の幻想を必要とせずに友達でいるのなら、それは本当の友だ。
そのためには、幻想ではなく、真理を知れば良い。そうしたら、真理を知る者同士、良き友になる。
では、どうすれば、真理を知ることができるのか?
それは、幻想を消し去ることによってだ。では、どうやれば幻想を消すことができるのか?
それは、真理を知ることによってだ(笑)。
しかし、ソクラテスのいう「私は何も知らない」ということを本当に知ったなら、真理を知っていると言えるのではないかね?それは真理なのだから。
真理は、目で見ることも、耳で聴くことも、指で触ることもできない。内なる直感でしか知ることはできない。
真理を内側で感じることが出来るなら、全てを知るのである。

誰かがイエスに、「真の友とはどのような人ですか?」と尋ねた。
イエスは喩えで言った。
「強盗に襲われ、金品を奪われて重症を負った男がいたが、人々は、彼を見て見ぬふりをして通り過ぎた。だが、ある人がその男を介抱し、宿に運び、朝まで看病した。そして、宿を去る時、宿の主人に金を渡し、男の看病を頼んだ。さらに、費用がかさんだら、帰りに払うと言った。さて、誰が、この男の友人であろうか?」
「男を親身に世話した者です」
「あなた達も、そうありなさい」
私は昔、この話を読んだ時は、お金を全く持っていなかったが(ニートだったので)、少なくとも、そんな気持ちだけは持とうと思った。すると、すぐに、それができるだけの金が入り、それがなくなることは無かった。







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断ち物の魔力

自分では無神論者だと思っているような人でも、願掛け(神仏に願うこと)というものをやったことのない人間はまずあるまい。「こうなって欲しいなあ」という想いが起こるというのは、それが神や仏であるかどうかはともかく、思いや意思を形にする何らかの力が存在することを心の隅にでも信じているのであり、何によって信じるかというと、直感しかないと思う。しかし、純粋な直感ほど確かなものは無い。
『老子』の21章にも、おぼろげで分かりにくいものの中に、なんらかの力があることを、私は直感によって知っていると書かれているのは興味深いものであると思う。

ところで、願掛けを効果的にするものとして「断ち物」というものが、古今東西に存在する。断ち物とは、好きな食品、嗜好品、あるいは、薬などを絶って、その代わりに、願望の成就を願うものである。断ち物の期間は、普通は、願望が叶うまでであるが、祈願の際、「一生○○を絶ちますので、願いを叶えて下さい」と祈れば、さらに成就の可能性が上がるのである。我が国でよく知られているものには、春日局が、幼少の時の徳川家光が病で瀕死の状態であった時、その回復を祈願する際、一生薬を絶つことを誓ったというものがある(家光は奇跡的に回復した)。また、上杉謙信が、戦での勝利を祈願した際、生涯の女絶ちを誓ったことも有名で、実際、彼は妻も側室も持たなかった。

断ち物は、迷信と思われることもあるが、私は、必ずしもそうではないと思う。
断ち物では、先に述べた通り、好きな食べ物や嗜好品、あるいは、薬などを絶つのであるが、好きな食べ物とか、酒、タバコ、コーヒーといった嗜好品を絶つというのは、欲望を捨てることである。現代であれば、ゲーム、漫画、アニメ、あるいは、昨今の事情では、クーラーといったものでも良いと思う。一方、春日局のように、薬を絶つというのは、生命を捧げても良いという意味になり、決意の強さを感じるのである。また、上杉謙信も、おそらく、健康で強健な若い男子であったのであるから、一生、女を求めないという決意も並々ならぬものを感じさせる。
この世には、目に見えるものだけではなく、その背後、あるいは、内部、あるいは、もっと別の形で、何かの力、エネルギーが存在することは科学的にも確実であるし、その見えないものについて、我々が知ることは極めてわずかである。だが、その存在を、自然の中で生き、迷信もあっただろうが、現代の我々より鋭い直感を持つ人々は、神、仏、あるいは、天使、妖精、精、霊などと言ってきたのだ。
欲望を捨てる、命を捧げるというのは、その神秘な力に働きかけ、動かすことが、経験的に知られており、真摯な目的で行った者なら、それが恐るべき力であることが確証されているのであると思う。
だが、上杉謙信のように、戦に勝つという、ある意味、我欲のようなものであれば(必ずしもそうではないと思うが)、女を絶つという、男にとって最も辛いことを対価にする以外に無いのかもしれない。

水野南北は、願いがあれば、食事の三分の一を神仏に捧げよと教えている。別に、本当に神棚、仏壇に捧げる必要はなく、ただ食べずに、心の中で捧げれば良いとする。それで、小さな願いで1年、ちょっと大きなもので3年、大きな願いでも10年で叶うという。なぜ叶うかというと、食は生命を育てるものであり、食物を捧げるということは、生命を捧げることであるからだと言う。
水野南北は、観相(顔や身体の相で運命を鑑定する占術)で、その名を天下に轟かせていたが、それよりも、その人の食を見れば、万に1つも、運勢を読むことを誤らないと自信を持って断言した。即ち、食多く美食であれば逆運(不運)、食少なく粗食であれば幸運である。
少食、粗食であるにこしたことはないが、すぐに始めるのが難しければ、チョコレートが大好きならそれを絶つ(女優の細川ふみえさんもこれをやった。彼女は、3食全てチョコレートで良いというほど好きだった)、大好物がカレーライスならそれを絶つといったことから始めても良いと思う。そこそこの願い事に効果は必ずあると思う。あるいは、複合技で、好きなケーキ、スパゲティ、焼肉、ステーキを絶つという風にすれば、さらに願いを叶える強力な力になる。
これを、引き寄せの法則や、潜在意識の法則などと組み合わせれば、これまで願いが叶わなかった人も、きっとうまくいくに違いない。







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