ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

世界はいつも新しい

「世界5分前仮説」という、英国のバートラント・ラッセルが提唱した、少々奇妙だが、面白い主張がある。
バートラント・ラッセルというのは、アリストテレス以来の最大の論理学者の1人とも言われる天才で、また、数学・論理学の分野で素晴らしい業績をあげつつ、哲学の分野でもノーベル文学賞を受賞したという大変な人だ。また、人道主義者であり、アインシュタインと共に核兵器廃絶運動に熱心に取り組んだことで知られる(ラッセル=アインシュタイン宣言)。
世界5分前仮説というのは、実は世界は5分前に出来たのかもしれないというものだ。この5分というのは、もちろん、たとえであり、「ほんのちょっと前」程度に考えれば良いと思う。
「いや、俺は幼稚園の時依頼の記憶があるぞ」と言っても、その記憶は5分前に出来たものかもしれないのだ。
なんともおかしな話であるが、論理的に否定することは、どうしても出来ないのである。

ところで、世界がほんの少し前に始まったかもしれないと言いながら矛盾したことを述べるのをお許しいただきたいが、私は、小学校に入る前だったかもしれないが、世界は5分前どころか、つい今出来たのであることを、「確信」していたことをはっきり憶えている。
私は、部屋のドアノブをじっと見ていたのだが、一瞬でも前のドアノブなど全く知らないことに気が付いた。憶えていないのではなく、今の前の時間には、ドアノブが存在していたとは思えないのだ。いや、ドアノブどころか、世界そのものが無かったに違いないのだ。
この感覚は、その後もいつでも思い出せたし、今でも同じなのである。そして、今なら思うのだが、世界が無いと言うよりは、時間というものがないのである。世界が存在するためには、時間を認識することが必要なのだ。時間がなければ、我々にとって世界は存在できないのだろう。
おそらくだが、9歳くらいまでの子供に、「世界は今できたばかりなのだ」と言ったら、案外、簡単に納得してもらえると思う。人間は、9歳くらいまでは、時間経過というものがよく理解できないらしい。原因が先で、結果が後だというのが分からない。言い換えれば、9歳くらいまでの子供には時間というものがあまり現実ではないのだ。
そして、私は、実はそれが正常なのだと思っている。
時間というものは本来なく、それはただ、心が作り出した幻想である。
心を消滅させてしまえば、時間も消える。
9歳までの子供は、心がそれほど固まっておらず、かなり希薄なのだろう。
時間と関わりのない世界というものが無数存在し、我々はただ、世界から世界へと飛び移っているようなものではないかと思う。だが、なぜか、心は時間というものを作り出し、それぞれの世界の間に、前後とか因果関係を作ってしまったのだろう。
なぜそう言えるかというと、論理とかではなく、単なる直観である。

神秘思想家や、霊的な宗教家、そして、量子物理学者も時間が存在しないと言う人もいるが、同じような意味なのかどうかは分からない。
ただ、世界というのは、一瞬で変わることがある。いや、本当は一瞬でしか変われない。時間をかけて変化するとしたら、それは心がそのように感じるだけに違いない。

こういったことがまさにそうだが、心や知性には理解できないようなことがある。
だが、直接には理解できなくても、何らかの間接的な反応や影響を糸口に、何かを感じることなら出来るのではないかと思う。
アイシュタインが言った、「美女と一緒に過ごす1時間は短いが、暑いストーブの上に座っている10分は長い」という感覚も、その手がかりだろう。
瞬間から瞬間に移動する世界を我々が創造することも出来るだろう。ただし、時間を感じる心にはそれは出来ないのだ。心の無い意識がどのようなものかは、やはり心には分からないのだけれど、現実を創造するものは、その何かであるに違いない。
魔法とは、思うままに意識の中に変革を起こす技術である(ダイアン・フォーチュンによる)。その技術を操る者に不可能があるはずはないのだろう。







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キリスト教は本来、金持ちを拒否している

キリスト教は決してお金持ちを受け入れていなかったということに注目すれば、世界について分かってくることがある。
キリスト教は、本来は、思想や哲学をはるかに超えた英知であり、最高の修行体系でもあった。ただ問題があるとすれば、たった1種類のタイプの人間しか認めていないところだ。それは、謙虚で慈悲深く、犠牲的精神を持ち、個人的欲望の一切を抑えることの出来る人間だ。富を得るなんてことは絶対に認めていないのだ。新約聖書では、弟子入りを希望したお金持ちに、イエスは、全財産を処分することを命じるが、お金持ちはそれが出来ず、弟子入りを断念しているのだ。
ところが、やがて、キリスト教会は、教会に寄付すればOKということにしてしまったのだ。これで、お金持ちは地獄の恐怖を逃れ、偉い聖職者は豪華な宮殿で贅沢な暮らしが出来るようになった。どこの国でもそうなのだが、人々が宗教を信仰する大きな目的というのは、地獄の恐怖であり、どんな宗教にも地獄が必ずあるのはそのためだ。宗教は、地獄の恐怖を人々に説いて寄付を募るのである。寄付すれば地獄には落ちないことにしているのだ。ただ、それにも良い面が無い訳ではないと少し言っておく。地獄というものの恐怖により、最低限の道徳は守られるからだ。多くの国では、道徳は宗教で教えるのが常識なのである。
ちなみに、神道や道教は宗教ではないので、本来、寄付は募らないはずだが、寄付のために宗教化していることも多い。そのためには、神道や道教の教えをかなり捻じ曲げている。
西洋のお金持ちにはユダヤ教徒が多い。ただ、宗教は個人の都合で決められない部分は絶対にある。また、巨大な悪の組織だって、キリスト教会には逆らえないことも多い。
簡単に言うと、旧約聖書を新約聖書で理解しようとするのがキリスト教で、タルムードで理解しようとするのがユダヤ教だ。キリスト教では、上に述べた通り、本来、お金持ちは認めていないが、ユダヤ教ではそんなことはない。ユダヤ教は知恵と力の宗教で、非常に現実的だ。
だが、キリスト教にも、そのような状況に問題を感じ、聖書に新しい解釈を導入した教会が発生する。それが、いわゆるニューソートだ。そこでは、個人的幸福や、富を求めることが肯定されるが、19世紀以降の物質文明の発達に適合したものだった。ジョセフ・マーフィーが牧師をしていたディヴァイン・サイエンス教会もニューソートの1つである。
ジョセフ・マーフィーは成功哲学の教師と考えても良いが、本質はキリスト教の牧師であり、霊的英知を説く宗教家だ。ただ、伝統的なキリスト教が求めるタイプ以外の人間も受け入れるし、従来のキリスト教会のように、「金持ちは駄目だが、寄付すればOK」と言って、教会の偉い人が贅沢三昧するという矛盾もなく、地獄の思想も持たない、実に爽やかなものだった。
ただし、マーフィーの教えが合わず、伝統的なキリスト教を好む人も多いということには注意しないといけない。

宗教というのものは悪いものでなく、本来、非常に良いものであるのだが、それが自分と合っているかどうかは、本来、とても重要なのである。ところが、自分で宗教を選べず、家の宗教に合わせないといけない場合があるのが問題なのだ。
プロレスのジャイアント馬場さんは、家とは関係が無かったと思うが、訳があったのだろう。敬虔なクリスチャンになった。しかし、あれほど世俗に関わった人には、どうしても合わないところは必ずある。それは、多くの真面目な事業家やスポーツ選手にも言える。しかも、熱心にキリスト教を信仰すればするほどそうなのだ。馬場さんはじめ、多くの敬虔なキリスト教徒である事業家が家庭や健康に問題が多いのはそのためであると私には思える。
私は、ジョセフ・マーフィーの本を熱心に読んだおかげで、ニートを脱出し、普通の社会人にはなれたが、金持ちには抵抗がある。マーフィーは、金を愛さないといけないと言うが、その教えに合わない人も実際は多いことを忘れてはならない。

ところで、旧約聖書を新約聖書、つまり、イエスの教えで理解するのがキリスト教、タルムードで理解するのがユダヤ教と述べたが、実はもう1つあるのだ。それは、カバラーである。だが、カバラーは、あまりに強力な力のために恐れられ、闇に隠れてしまった。そして、その真の教えは消えてしまったように思われた。だが、何百年前からかは分からないが、その時の強大な知恵者達により研究され、復活してきてはいる。カバラーは、その恐るべき力から魔法と同一視され、様々な伝説と結びつき、現代の魔法物語の起源になっている。しかし、正確なところはほとんど知られていない。
おそらく、ニューソートも、カバラーの一端から出てきたもののように思う。一端とはいえ、やはり力はあるのだ。それなら、本体の力は想像も出来ないものに違いない。







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薬を飲まなくていい喜びを

風邪薬、頭痛薬、胃腸薬などには、多くの製薬会社の多くの製品があり、テレビCMでも盛んに宣伝されている。
これらは、一切必要の無いものである。いや、本当はあるべきでないものだ。
私は、以前は、風邪をひきやすく、風邪薬は月に一箱では済まなかったし、頭痛薬も、大箱で用意してもすぐ無くなり、胃腸薬も手放せなかった。
しかし、2008年8月に、それまで、肉食中心の飽食で、間食もかなりしていたのが、1日1食の菜食で間食をしなくなってから、風邪、頭痛、腹痛などとは全く無縁になり、当然、薬も不要になった。3年近く、本当に、それらの症状が一度も無いのだ。
職業上(システムエンジニア、プログラマ)、眼精疲労から来ると思われる肩こりは時々ある。しかし、以前は、肩や背中が痛くて眠れないことがあったが、今はそこまでになることはない。

稀に、ノロ・ウイルスかピロリ菌かは知らないが(病院に行かないので不明)、胃腸がおかしく、体調が著しく悪い時も、医者や薬は全く不要で、大抵は放っておくが、どうしても具合が悪ければ、以前も書いたが、マザー・タッチという洗剤を水で百倍程度に薄めて飲む。洗剤とはいえ、天然食品の素材で作られており、原液で1リットル飲んでも問題ないことが確認されているようだ。これの、抗酸化作用や善玉菌活性化作用で良くなるようだ。調子が戻るのに2日かかることはまずない。

以前は、健康診断の結果は「要精密検査」「要注意」「異常」だらけであったが、今はオールAで完璧だ。それは、ただ、適切な量の食事と、菜食のためである。
健康になっただけでなく、幼い頃から苦しめられ、医者には手も足も出なかったアトピー性皮膚炎や、発作で倒れるほどであったメニエール氏病も、何もせずに消えた。

食事は夕食だけで、食べるものは、パン、野菜、果物、ナッツで、他には、チーズと卵を食べるくらいだ。毎日同じだし、同じが良いと感じている。別に多品種を食べて悪い訳ではないが、食べる必要は無いと私は思う。量が適切なら、飽きるなんてことは考えられず、毎日、美味しく食べている。ただ、必要によって、朝に甘いものを少し食べるのは良いと思う。オバマ米国大統領や宮崎駿監督も似たような食生活だし、世界には、トウモロコシの粉だけとか、1種類の芋しか食べないが、健康で長寿の民族もある。私のメニューは、「ヒマラヤ聖者の生活探求」(下記にご紹介する)に登場する、超人的な大師(霊的解脱を果たした偉大な人間)の食事に倣った。

飽食だった頃は、疲れやすく、運動は嫌いであった。
特に筋肉運動をする必要があるかどうかは分からないが、私は、単に気分が良いという理由で、腕立て伏せとスクワットをやっているが、腕立て伏せは10回から始め23ヶ月連続で月に10回ずつ増やしたので、今は毎日必ず240回連続で行っている。スクワットは時間がかかることもあり、200回しか出来ないのが残念だ。これらは1年365日、1日も欠かさない。
ただ、M.マクドナルド.ベインの本を読むと、彼は、突風が吹き、氷と雪に閉ざされたチベットの険しい山道を毎日数十キロ歩いて旅したのであるから、そういったものに比べると、私のなど、まるで動いているうちに入らないと思う。そして、それほど動いている彼であるから、ヤク(牛に似た動物)の肉や乳、コールド・チキンを好んで食べても問題ないのであろう。また、当時のチベットでは、そういった食べ物しか手に入らない場所もあったのだと思う。
車を使わずによく歩くなら、特に運動しなくても、私がいつも勧める腕振り運動を1日最低5百回以上やれば良いだろう。病気を治したいとか神秘力の獲得を目指すなら2千回以上やるべきだ。ただし、毎日、確実に行うことが大切だ。「今日は時間が無かったからやらなかった」というのが、何も為しえない人間の特徴なのだ。この運動の普及の要因を作った、電波工学の世界的権威であった関英男博士は、自分の胃癌を1日2千回の腕振り運動で治し、90歳を超えても元気で世界を飛び回り、研究を続けた。
腕振り運動のやり方と、病気に対する成果の事例は次のリンク先の記事をご参照願いたい。
腕振り運動の効果、最新レポート
下記にご紹介する本の1冊目は、関英男博士と、中村天風の高弟で合気道の達人、神道家の佐々木の将人さんの共著による名著だ。













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「よかったね」の一言だけでいいじゃないか?

ワールドカップ女子サッカーで日本が優勝したらしい。非常に喜ばしいことだ。
だけど、「よかったね」で終わり。それでいいじゃないか?
よく、「スポーツで勇気や元気を与える」なんてことを言う人がいるけれど、そんなことはあり得ないし、あったとしても、ほんの一瞬だ。そして、それは真実のものではなく、言って見れば幻のようなものだ。そんなものにすがっていると、すぐに次の刺激が欲しくなる。それが得られたらまた次と際限が無いし、結局、虚しいのさ。だって、勇気や元気って、与えられるもんじゃなくて、自分の内側にあるもので、サッカーの優勝と何の関係もないのだよ。内側のエネルギーは無限なのだけれど、それは、自分を忘れることで現れるものなのだ。

私は、スポーツで大変な努力をする人に対しては、強靭な精神力の持ち主だとは思うが、賞賛するつもりは全くないし、その必要もないし、それどころか、してはいけないと思う。だって、彼らは自分のためにやってるのだから。全てとは言わないが、ほとんどが我欲だ。子供たちが彼らに憧れるのは微笑ましいが、彼らを尊敬させるように仕向けるのは罪悪だよ。企業や国家はマスコミを使ってそう誘導するのだが、そんなことを放っておくと、子供たちは、金や名誉といった報奨が無いことに価値が無いと思い込み、得にならないことをしなくなる。そして、真に偉大な人、偉大なものが見えなくなるのだよ。
また、運良く勝利や栄光を得た人達だって、周りに踊らされてしまって身を慎まないでいると、すぐに喪失感に襲われる。そして、行き着く先は惨めなものだ。よく分からないけど、中田英寿がハイエナのような連中と手を切ったのは、彼が賢いからだと思うね。
私は、見事金メダルを取った人より、その時は気の毒に見えるが、思うようにいかなった人の方がはるかに幸運だと確信するのだ。

夏が近付くほどに、学習塾や学習教材のTVCMも盛んだが、首尾よく希望の学校に合格したら、一言、「良かったね」と言ってあげればそれでいい。ただ自分のためにやったことだ。単に、自分のことは自分でするという、立派ではあるが、当たり前のことをやっただけじゃないか?しかも、その分、いろんなことが免除され、それを家族に押し付けていたのだし、その環境は親が、自分たちが楽しめたはずのお金を回してくれたのだ。それを、自分が褒められようとするなど、勘違いもいいところだ。もちろん、親や家族も、そんなことを言わず、全部込みで、一言、「良かったね」と言えば、それが一番良いに違いない。
ただ、勉強も本当にやりたいのなら良いのだけれど、せっかくの若い時に、もっとやるべきことがあるかもしれない。いい学校に入ったり、世間で言ういい仕事に就くことにさほどの価値はないし、本当の幸福とも何の関係もない。不自然に得たものは、失うものも多いことを、みんな見栄もあってなかなか明かそうとしないのだけど、最近は、割に言われるようになったかなと思う。

私だって、イチローの200本安打は期待しているし、松井の500号が早く出ないかと思っている。しかし、そうなれば単に嬉しいだけだ。それで終わり。それで十分じゃないか?
我々は、自分のエネルギーは自分で掘り起こさなくてはならない。それは自己を忘れることで。つまり、利益や名誉を忘れ、自分を虚しくできることをやることによってだ。







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気圧(けお)す力

私にはそうなのだが、あなたにとっても、人としての理想の姿の1つではないかと思うものを示そう。

こんな情景のお話から始める。
月明かり以外に光のない広間の窓際に、若き美女シルヴァーナは静かに立っていた。そこに夜風のように侵入してきた美貌のパリジェンヌ、ミレイユは愛用の拳銃ワルサーP99を両手で構え、シルヴァーナに狙いを付ける。ミレイユは若いながら、裏社会で最も信用のある殺し屋だった。そして、彼女はシルヴァーナを殺しに来た。
シルヴァーナは何も武器を持っていない。しかし、震えているのはミレイユだった。シルヴァーナは微かにも動じず、微笑んでさえいる。ミレイユは動けない。
~アニメ『NOIR』第8話「イントッカービレ acte I」より~

このような状況をどう言うのかというと、ミレイユは「気圧(けお)されていた」と言うのだろう。
以前も書いたが、私は「けおされる」を「気圧される」と書くのだとも、どんな意味かも知らずにいたが、たまたま同時期に読んだ全く別の2つの小説の、実に同じ46ページに「気圧(けお)される」と書かれてあったことから意味を知った。

チャールトン・ヘストン主演の長編の名作映画「ベン・ハー」にも、こんなシーンがある。
主人公ユダは、罪人に仕立て上げられ、鎖につながれて、炎天下の砂漠を歩いて移動させられていた。今の日本の猛暑どころではないはずだ。その中を、護送兵に追い立てられて歩き、死ぬ囚人もいた。鍛え上げられたユダも、乾きに気を失いそうになったが、やっと中継地点の村に着く。慈悲深い村人達は囚人達に水を差し出すが、護送兵の隊長は、ユダに水をやることを赦さない。ユダは苦痛と絶望の中、ついに気を失う。だが、一人の白いローブを着た男が、手桶に汲んだ水でユダの後頭部から首に水をかけて冷やし、かすかに意識を取り戻したユダに水を飲ませる。それを見た護送隊長は挑みかかって来た。だが、白いローブの男が立ち上がり、ただ隊長に対峙すると、隊長はなぜかひるみ何もできない。
隊長は気圧されていたのだ。
数年の後、ユダは、この白いローブの男の姿を見る。茨の冠を頭にかぶせられて、重い大きな木の十字架を背負わされ、よろめき歩くナザレのイエスだった。

彼らは、なぜ気圧す(精神的に圧倒する)ことが出来るのだろう?
そんな人間が本当にいるのだろうか?
それは存在する。もちろん、必然性があればだが、人は誰でもそうなれる。
機関銃を構えた一個師団が相手でも何でもない。ましてや、たかのしれたチンピラやいじめっ子など、とるに足りない。
いかなる相手もあなたには逆らえない。鬼神すら道を譲る。

そのような存在が、「荘子」の闘鶏の話にある。
その鶏は、他の鶏がいくら鳴いても挑んでも、いっこう動ずる気配もなく、まるで木彫りの鶏だ。どんな鶏も、姿を見ただけで逃げ出す。
そのようであれば、どんな鶏もかなうはずがなく、無敵である。
これは鶏に例えたものであるが、人であれば、自己を忘れ、自我を消し去った者である。
それを成し遂げるのに時間は必要ではない。時間をかけて成し遂げることは本物ではない。なぜなら、時間をかけて得たものであれば、時間が経てば失われるからだ。それは永遠ではない。ただし、無限の対価は、有限全てである。全てを差し出せば、すでにそれは手の内にあることが分かる。

日常の一切に動じないなら、日常の一切はあなたに手出しできない。
もし、心が動いたら、その心を地平線の彼方にあるもののように、ただ見ていることだ。つまり、全てを目に見えるまま、耳に聞こえるままに受け入れ、思慮、分別をしないことだ。
怒ったら怒ったで、恨んだら恨んだで、批判も評価もせず、ただ自分の心を観察することだ。
いつも同じことしか述べないが、それだけである。
参考程度に言うなら、「荘子」や「歎異抄」では、そのようなことを優しく説いている。







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