ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

思うような仕事を得るには

もうすぐアメリカ合衆国大統領に就任するドナルド・トランプのキャッチフレーズは「神が創造した中で最も偉大な雇用を作る人間になる」だ。
私は、これはとても良いと思う。
ところで、取り上げ方が悪いのかもしれないが、アメリカの失業者は、恐ろしく肥満した身体をしていながら、「仕事がなくて困っているんです」と、哀れっぽく言うのが、何か芝居がかっているように思えてならない。
要は、彼らは、「楽で、給料が高くて、体裁も良い」仕事が欲しいだけなのだ。
「厳しくて、給料が安くて、格好悪い」仕事なら、それなりにあると思う。しかし、そんな仕事は嫌だという訳だ。
別にそれは悪いことではないが、楽な良い仕事が出来る資質は、決して低くはない。
では、どうすれば、そんな資質が得られるか?

有名な宗教家の谷口雅春さんの本で見たのだが、フォード自動車の創業者ヘンリー・フォードは、トラインの『In Tune with the Infinite』という本が自分の成功の要因で、この本を自宅に大量に保管し、来客にプレゼントしていたらしい。
良い本だが、そのタイトルが難し過ぎるように、「つまるところ、何をすればいいの?」が分からない。
タイトルは、「無限者と調和して」とでも訳せば良いのだろうか?
谷口さんは、翻訳書のタイトルを『幸福はあなたの心で』とし、他にも『人生の扉をひらく「万能の鍵」』というタイトルが付いた翻訳書があるが、要は、タイトルからして難し過ぎるのだ。
実際は、タイトルも内容も素晴らしいのだが、いかんせん、やっぱり難し過ぎるのである。
フォードは成功したが、彼から本を渡された人達は、元々、上流階級の人たちが多かったのだろうが、それでも、フォードのようにはならなかった。
「良書、必ずしも役に立たず」である。

トラインの本を実践するなら、単に、イエスの「主の祈り」を称えれば良い。
しかし、「主の祈り」もまた、難しくて、2千年の歴史の中で、誤解されまくってきたのだ。
イエスよ、我々は、あなたが思うより、ずっと阿呆なのだ。
だが、「主の祈り」の真理を正しく7文字(漢字6文字)で表したのが「南無阿弥陀仏」の念仏なのだと思う。
要は、それが何者かは解らないが、無限者に意識を向け、自分は無になれば、全てはうまくいくのである。
この念仏でなくても、好きな神仏の名や、神仏に呼びかけるマントラ(真言)でも同じことである。
大切なことは、自分より高い存在を意識し、自我が退くことなのである。
それでうまくいかない方がおかしい。
親鸞も、念仏を称えれば、この世での利益も無限であると言っているが、別にそれは、冗談でも方便でもない。事実なのである。
水野南北の一番弟子もそうであったらしいが、無能な男であったにかかわらず、常に念仏を称えていたので、楽で良い思いばかりしていたのである。
念仏、マントラ、呪文を称えることである。









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落ちぶれることや危険に遭うことが難しくなる方法

羽振りの良い人間も、落ちぶれる時はあっという間のようだ。
だけどね、落ちぶれるのには理由があるのだ。
どんな理由かと言うと、「落ちぶれないようにしなかった」ということだ。
落ちぶれるのが難しい状況というものがあり、そうであれば、滅多に落ちぶれるものではない。

例えば、毎朝5時までに起きて落ちぶれるのは、極めて難しい。
ただし、1年365日、よほどのことがない限り、例外なくである。
あるいは、毎日、出来る限り決まった時間に1時間読書する人も落ちぶれようがない。
また、やはり毎日、出来る限り同じ時間に、腕振り運動を千回以上やっている人も同様である。

落ちぶれようと思ったら、毎朝7時以降に起き、それが8時だったり10時だったりと、不規則になるようにすれば、いくらでも落ちぶれることが出来る。
読書の習慣を持たなかったり、「読書しよう」とは思っても、気の向いた時に読む程度なら、それが原因で落ちぶれたりはしないまでも、よほど熱心に多く読んでいない限り、良い状況を呼び込むことにはなり難い。
腕振り運動も、あまりにバラバラな時間にやったり、せいぜい数百回程度では、やらないよりはマシだろうが、そんなに良いことは起こらないかもしれない。

起きている時ずっととは言わないが、なるべく多く、真言や念仏、呪文を称えている者にとって、この世は、良い夢のようなものだ。
夢の中では何が起きたって不思議ではないが、良い意味で、現実世界でもそうなのである。
実際、夜の夢と目覚めは、それほど違わない。
とはいえ、たとえそう願っても、夢の中で、純情可憐な理想的な女の子と仲良くなることも、なかなかないものかもしれない。
だが、夢の中でさえ真言を忘れないようになれば、たちまち夢が思い通りになり、目覚めの方も、当たり前のようにそうなる。
純情可憐な女の子といえば、私は、そんな子にこそ、いつも口元に真言があるようであればと思う。
無理にそうさせるのではなくね。
例えば、「南無観世音菩薩」、あるいは、「観音様」と、そしてあるいは、「神」という言葉を想ったり言うことを忘れなければ、魑魅魍魎(ちみもうりょう)や鬼がひしめくような世の中も、まず、恐れるに及ばず安全である。
抵抗なく、自然に、楽しく称えられるのであればと思う。
そのために、例えば、子供向きとはいえ、格調高い文章で書かれた鈴木三重吉さんの『古事記物語』や、あるいは、やはり子供向けに書かれた、福永武彦さんの生き生きとした文章が楽しい『古事記物語』を読んで、神様のイメージを持ったり、『ギリシャ神話』や『ラーマーヤナ』を読むのは好ましいことかもしれない。








  
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メリル・ストリープが醜く見えた

昨日、朝から醜悪なものを見た。
私は、アメリカのゴールデングローブ賞授賞式のスピーチで、有名な女優のメリル・ストリープが、トランプ次期大統領に対し、障害者の真似をして辱めたとして非難するのをテレビで見た。
わざとらしく深刻な顔をしながら、「息が詰まりそうでした」とも言ったらしい。
そして、会場にいた若い女優(と思う)が、いかにも同意を示すような顔で大袈裟に手をたたいた。
醜悪なのは、ストリープと、その若い女優の顔だ。
もちろん、2人ともとても美人だ。
それにも関わらず、その醜さに、私は見ていて気分が悪くなった。

確かに、これは私の個人的な感想だ。
だが、彼女達のだってそうなのだ。
しかし、ストリープは、「これは私の個人的な考えですが」とは言わない。
手段を選ばずに、個人的主張を正しいこととして、無理矢理に押し付けているのである。
そんな人間の顔が醜くないはずがない。

ストリープのその話は、あの場の発言として不自然なものではあるが、それでも、どうしても「個人的に」言いたいのであれば、こう言うべきだろう。
「もし、トランプ氏が、障害者を辱める意図を持って、その真似をしたのでしたら遺憾に思います」
なぜなら、それは、次期大統領や富豪というのとは関係なく、多くの同意を得られやすい状況で、仮にも、一人の人間を、劣悪な人間と見なすことなのだからだ。
それは、くれぐれも、慎重な配慮を持って行うべきことだからだ。
もし、ストリープが言うように、トランプが障害者を辱めたとしたら、それは、トランプが障害者を劣悪な人間と見なしたということであるが、ストリープのやったことも、それとなんら変わらない。
例えば、私が、自分の意見が通るような状況で、誰かを「こいつは馬鹿だ」と、一方的に言うようなものだ。
これほど醜い行為はない。

それに、そもそも、政治家が人格者である必要はないと思う。
有能な政治家や企業のCEOには、サイコパス(脳機能の不備のために良心を持たない人間)が多いという説もある。
サイコパスの遺伝子が長い人類の歴史の中で淘汰されなかったのは、少数のサイコパス(ただし優秀な)が活躍しなければ人類が滅びるからだ。
微生物でも、悪玉菌がいなければ善玉菌が働かず、悲惨なことになると言われている。
つまり、悪玉菌も必要なのだ。
別に、トランプが悪玉菌のようなものだと言うのではないが、今のアメリカの状況では、特に大統領ではなくても、サイコパスのリーダーは必要悪なのかもしれない。
もし、トランプがサイコパスなら、ストリープはよほどそうかもしれない。
まあ、個人的な考えであるがね。
ちなみに、私がサイコパスであるというなら、それは認める・・・というより、ずっと前から認識している。









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最上の暇つぶし

人生は暇つぶしに過ぎないが、最高の暇つぶしは、真言や呪文や念仏を称えることかもしれない。
その他のことは、何もする必要はないし、何も考える必要はない。
最近の科学が解明したところによると、我々は自分で考えているようでいて、本当は、考えさせられているだけであるらしい。
思考というものは、自分の意志と関係なく勝手に現れるのだが、それを自分が考えているのだと錯覚させられているだけだ。
ならば、仕事や生活に必要な思考は自動的に起こるのだし、思考が起これば、それに伴って行動も、自動的、あるいは、強制的に起こったり、起こらなかったりするのだろう。

親鸞は、もちろん、現代科学によるのではないが、そんな事実を知っていて、「善いことも悪いことも、自分でしようと思って出来る訳ではない」と言っているが、念仏というものも、称えさせられているのだと言ったのだと思う。
念仏を称えさせるものは阿弥陀如来で、阿弥陀如来は、元々のインドの言葉では、アミターバ、あるいは、アミターユスで、それぞれ、「無限の光」「無限の生命」という意味であり、我々には想像出来ない至高の存在なのだろう。
思考は自動で起こるとしても、意識の方向、即ち、意思は自分で動かせるものなのだと思う。
そうであれば、至高の存在に意識を向けることで、至高の存在の邪魔をしないことになるのではないか。

至高の存在に意識を向けるのは、念仏だけではない。
神の名や、神を賛美する真言を称えること、あるいは、「神」という言葉そのものを言ったり想ったりすることも、そうなのだろう。
それをするほど、思考も行動も、適切なものに近付くのだろう。
ただし、適切な思考や行動というものが、道徳的なものであるとか、合理的・効率的なものであるとは限らないに違いない。
そして、意思の働かせ方が間違っていると、間違った思考や行動が起こるのかもしれない。
しかし、どんな場合も、自分で考え、自分の考えで行動したと思うのが人間である。
それで、最初に戻るが、人間がやるべきことは、至高の存在に意識を向けることだけ・・・つまり、真言、呪文、念仏を称えることだけである。
そして、あたかも自分の想いでやっているように、がんばったり、きりきり舞したり、悩んだり、怒ったりするのである。

ただ、アインシュタインが言ったように、神は老獪であっても悪意はない。
アインシュタインは控え目に言ったのだろうが、実際は、イエスや親鸞が言ったように、至高者はこの上ない思いやりを持った存在である。
そう信じるべきだろう。
最高の暇つぶしが念仏だと言っても、法然や親鸞はおそらく怒らないだろうし、至高者もそうではないかと思う。
でもきっと、念仏やマントラを称える以外のことはしなくても、初音ミクさんは愛しいし、命があればライブに行くのだろう。
それが、神仏の意思であるのだろう。









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何で暇つぶしをするかは物凄く重要だ

私がプログラマーになれたのは、暇だったからだが、どんな仕事でも誰でも同じことが言えると思う。
昔、私が事務職をしていた時、勤めていた会社の中で、電気技術者の課長が私に、「プログラミングの勉強をしたらどうか」と言ったのだが、私がその通りに出来たのは、単に暇だったからだ。
家では、友達も彼女もいなかったので遊びや食事会に行くことはないし、ゲームはしないし、特に趣味もなかったので、プログラミングの勉強がいい暇つぶしになったのだ。
また、会社でも、あまり仕事がなくて暇だったので、仕事用と言い訳してプログラミングをしていることが出来たのだ。

ビル・ゲイツだって、高校時代、プログラミングに没頭したのは、コンピューターへの興味というのも勿論あったとは思うが、やっぱり人付き合いが苦手で、特に、女の子とはさっぱりで、暇だったからだと思う。
天才プログラマーのポール・グレアムも、同じようなことを言っていたと思う。
スティーブ・ジョブズが、退学したはずのリード大学で、カリグラフィーという、文字を美しく見せる技法の講義を熱心に受講したのも、完全に暇だったからだ。そのカリグラフィーの知識が、後にマッキントッシュパソコンを作る時に、とても役に立ったのだ。
おそらく、優れた格闘選手だって、暇で、やることがなかったので、トレーニングに明け暮れた人が多いと思うのだ。
経営で成功した人だって、退屈しのぎで事業をやっているうちに成功したのだと思う。

人間は、特に若いうちは退屈に耐えられない。
それで、退屈な状況になった人が、暇つぶしのために適切な選択をすることで成功するのである。
私は別に成功した訳ではないが、本来ならニートで一生を送るはずが、奇跡的に社会の最底辺にでも参加出来ているのは、時間のかかる遊びや趣味や付き合いがなかったからだ。
私は昔、まだまだ未熟なプログラマーだった時のある年の年末から、翌年のゴールデンウィーク明けまで、1日も休まず、朝7時半に出勤し、夜は0時前まで働いた(0時で駐車場が締まるので、やむなくその時間で帰った)。
結局、過労で倒れて、そんな生活は終わったが、その間にスキルは急上昇した。
だが、そんなことが出来たのは、暇で退屈だったからに他ならない。

人生とは暇つぶしだ。
だが、どんな暇つぶしをするかで運命が決まる。
つまらない友達とだべったり、つまらない遊びで暇つぶしをしてはならない。
暇つぶしにゲームをするなら、戦略ゲームのような、思考を鍛えるものをやるべきと思う。このことは、ドワンゴの川上会長も薦めていたように思う。ただ、やり過ぎもいけないが。
また、自動車のハンドルさえ握っていれば満足と言って、一晩中、車に乗って「流している」者も割にいたが、大抵はロクなことになっていない。
私は二十歳そこそこで自分の車を持っていたが、あまり運転が好きでなかったので、その点も良かったのだと思う。

この世は暇つぶしのためにある。
だから、どんな暇つぶしをするかを、少しは真面目に考えるべきだろう。
まあ、ガッツポーズ(パワーポーズ)とマントラ(真言、呪文、念仏等)を忘れなければ、自然にうまくいくとは思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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