ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

魚を持ってきたら成績を上げてやるのは良い教師だ

先月(2011年5月)の6日に亡くなられた、官能小説家の団鬼六さんのTwitterは、今も運営されている。私は団さんの本は読んだことがないし、Twitterで見る彼の思想もあまり好きではなかったが、時に非常に光ることが書かれていて、捨てがたくフォローし続けている。
昨日も、素晴らしいことが書かれていた。団さんは、教員をしていたこともあったらしいが、昭和30年代であろうか。彼は、生徒の親が、魚や大根やらを持ってきたら、すぐに成績を上げていたという。妻が怒ったら、「教師に品物を届けたら必ず成績があがる、それを知るのも勉強だ」と言ったらしい。半ば冗談なのだろうが、とても良い。素晴らしい教師だ。

魚や大根だから良いという面もある。これが、金や高価な品物であれば・・・まあ、団さんはこだわらずに受け取るのかもしれないが(笑)・・・勉強にならない。成績なんて、魚や大根ほどの価値もないからである。
いや、昭和30年代なら、貧しい家庭もあり、魚や大根も持っていけない親もいる。やはり賄賂は駄目だと、真面目に考える人もいるかもしれない。しかし、そんな貧しい家の子が、他の子が魚や大根で成績を上げているという悔しさを味わうことほど良いことは無い。すると、それを見返そうと、一生懸命勉強するようになるかもしれない。そうやって成績を上げることは、今のように、良い学習塾で勉強していい学校に進学し、優越感を持ったり、将来、偉くなるといった欲に塗れたことを考えるより余程良いことだ。
そして、もっと良いのは、教師に賄賂(笑)を持っていける家の子自体が、後ろめたく思ったり、貧しい家の子のことを気遣うようになることだ。滅多にはいないとは思うが、百人に1人でも、そんなことを考えるようになれば素晴らしいことだ。自分の成績の餌の大根(笑)を半分、貧しい子に分けてあげたり、自分も、親に対し、教師に品物を届けないよう頼んだりするなら、それは成績どころではない、一生の財産になるだろう。
まあ、そんな細かいことを考えずに、素直に親に感謝し、偉くなった時に、「私の親は教師に大根を持っていったので、私はそこそこの成績が取れた。感謝している」とあっけらかんと言えば、日本の教育はもっと良くなるだろう。繰り返すが、成績なんてその程度のものなのである。

ひろさちやさんは、東大を出ているが、子供たちに、「お父さんの成績はどうだった?」と聞かれたら、憶えていないと答えていたという。お父さんは、自分が一番だと思っていたので、もし試験の成績が1番じゃなかったら、それは試験問題の方が悪いと思っていたと答え、子供たちを驚かせたらしい。ただ、この話は嘘で、ひろさんがこんなことを言ったには、子供たちに成績なんか気にしないで欲しいと思ったからなのだそうだ。

今の教育を改革する第一歩は、成績より、魚や大根の方がよっぽど価値があることを認識することだ。
本当に知的な人というのは、それを学校で学んだということはまず無い。むしろ、学校で教わったことが間違ったことであると早く理解し、実践を通して自分で学んで賢くなったのだ。
また、学校で強制される、狂気と断言できる膨大なカリキュラムなどに構わず、おそらく、その2割も無い必要なことを勉強すれば十分である。むしろ、無理に学校に付き合わされて、あげく大学まで出ながら小学校の算数も分からない馬鹿なことになるよりずっと良い。何より、せっかくの若い素晴らしい日々に、もっと良いことを学ばねばならない。学校では意図的に大部分を閉ざしている上級生や下級生との交流や、地域、そして、学校の外にいる立派な大人達と交流することで、子供たちは本当に素晴らしいことを学べるのである。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   

友達がいないなら霊気をまとえ

子供の時に読んだ漫画の中で、性格がねじれていて友達がいないという中学生の男子がいたのだが、彼が、学園生活を特に困難なく過ごしていたり、修学旅行に不都合なく参加しているのを見て、非常に違和感を感じた。この漫画の著者は、友達がないことが本当はどういうことか、まるで理解していないのだろう。

他の漫画やアニメでも、友達がいない美少女の寂しさ、悲しさが哀感もって描かれ、涙誘うに十分なものも多いのだが、やはりどれも現実味がない。
ところが、平坂読さんの「僕は友達が少ない」という小説は、基本的には娯楽作品なのであろうが、私が知る限りでは、友達がいないことの実際に関しては非常にリアリティーがある唯一の創作作品である。それが著者の体験でないとしても、そいういったことが本当に分かる人をしっかり取材したのだろうと思う(著者は、自分も友達が少ないことを折りに触れて書いてはいる)。それが、主人公の高2男子に起こったことであれば、「お前も大変だなあ。まあ、負けるな」といった感じで読んでいられるが、ヒロインの少女達のこととなると、とてもいたたまれなく感じる。別に女の子をひいきするというのではなく、男の場合は、そうやって鍛えられることも良い一面はあるのだし、それは、女の子の場合にも言えなくもないが、やはり、女の子の場合は、見るに耐えないと感じる。

尚、全くの創作ではなく、実話や、実話を元にした作品もあるが、それらの中には本当に深刻なものもある。たとえば、絵本の「わたしのいもうと」がそうであるが、まさに救いようのない悲惨なもので、そんなものを読むと、もう人類は滅んでもいいやと、私は本気で思うのである。
だが、いくらか軽く描いた「僕は友達が少ない」でも、それに通ずるようなところは十分にある。

例えば、友達がいないと、学校の遠足や修学旅行が楽しくないというだけでなく、いろいろな試練が降りかかる。まず、バスや電車で、座る場所があらかじめ決められていれば、隣の人の迷惑そうな視線に数時間黙って耐えればいいだけであるが、「好きなように座れ」などと言われたら、どこに座ったらいいのか分からない。「僕は友達が少ない」でも、ヒロインの1人が、遠足や修学旅行のグループ分けで困った経験を話す場面がある。彼女は、美少女で優秀で、その上、家が金持ちでプライドが高く、クラスの余り者を寄せ集めたグループに入れられるのが屈辱であったのだが、まあ、そんなことも実際にあると思う。私の場合は、自分が余り者以下だったので、そこにでも入れてもらえれば文句はなかったのであるが。
ちなみに、大人になってからの社員旅行であれば、電車やバスでは、男なら、1人で堂々と2人分の席を占有するふてぶてしさが欲しいが、実際は、なかなかそうもいくまい。これに関しては、竹村健一さんは、「嫌な思いをしてまで社員旅行なんか行くな。だが、最初からきちんと断れ」と著書に書かれていたのを憶えている。私もそうすべきと思う。ただ、私は、2座席(あるいは3座席)占有派、ホテルでも1部屋占有派である。やり方は、以下の通り。

友達がいないと、学校や集団組織は戦いの場である。いや、その考え方が間違えていると言われれば、認めざるをえいない。しかし、現実に出来る対処をしないと命を落とすこともある。
では、どうするか?
最近は聞かなくなったが、栗山天心さんという、教育関連の事業家がいた。かなり成功されていたのだが、本当にどうしたのだろう。彼の本はどれも素晴らしかった。ある本で、栗山さんは、古くからある格言を現代風に直していたが、それらがことごとに味わい深かった。
例えば、「百見は一験にしかず」「歩かぬ犬は棒にも当たらぬ」「危ない橋も走って渡れ」「棚が無ければボタモチ落ちず」「思い立たねば吉日は来ぬ」・・・ずっと昔に読んだものなのに、スラスラ出てくる。栗山さんが実践の中で導き出した人生哲学であり、本物であると思う。
その中で、「能ある鷹は爪を磨く」というものがあった。これは、あまりひねりのない、当たり前のような言葉であるが、次のような説明が実に印象的だった。
「大きな銃を持った大人より、ナイフをいつも磨いている少年の方が不気味なのだ。」

つまり、強い雰囲気、凄味、迫力、波動、オーラをまとうことだ。
なんでもいいから、自分で探し、良いと思ったものを磨きに磨くことだ。
私は、多くの強力な人物達に逢った時、彼らが、「生きるための武器を持て」と言うのをよく聞いたものだ。そして、その武器が本物になるほど磨かれた時、あなたは、強い雰囲気、迫力、オーラをまとう。

オーラ(AURA)とは、雰囲気、霊気、霊的エネルギーという意味である。
我々は、生きるための武器を自分で磨きに磨くことにより、武器そのものを超えた霊気をまとうのである。それは、人を超えるがゆえに、誰もあなたに敵しえない。
マイナスの理由にしろ、AURAをまとう決意をするなら幸いである。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   

偉い人の話ほど悪いものはない

有名人の講演会は盛況なものが多い。また、さほど世間で名が通っていなくても、立派な経歴や実績のある人物が、大学や、あるいは、高校、中学などに来て講義をするといったこともある。
ところが、特に、超大物の超有名人の講演や、高校の野球選手達に対する、元プロ野球の一流選手の講義で、それらの講師を崇め過ぎることがあるが、それは問題だ。
もちろん、自然な尊敬を持って真面目に話を聞くのは良いことだが、度を過ぎた崇拝をしてはいけない。特に、1人の人間の思想、哲学に関する部分は、影響され過ぎないよう、中立の立場でいなければならない。あくまで同じ人間であり、いかなる偉大な人物であろうと、人間としての価値は自分と対等であることを忘れてはならない。その人物の全てを学ばなければならないという先入観を持ってはいけない。また、いかに偉大な実績を上げた人物であっても、必ずしも人間として優れているとは限らない。実際、偉大な人物ほど、歳を取ると人間性が平凡な人間以下に堕落していることも多いのである。
そして、本当のところは、偉大な人物に学ぶべきことは、平凡な人物から学ぶべきことと、さほどの違いはないか、あるいは、全く同じである。単に、ちょっと変わったことを学べる可能性があるというだけのことである。
むしろ、普通の人以上の致命的な欠点があることも多く、経験の浅い若い人に教えさせる場合は注意が必要かもしれない。教えてはいけないのではなく、無理に学ばせてはいけないということである。

本当に思慮ある偉大な人間であれば、自分の話を聞いてもらうにあたって、必ずこう言うのである。「私をあまり尊敬しないで下さい」「何も考えずに、私の意見を受け入れないで下さい」と。
イエスや釈迦がたとえ話をしたのは、分かりやすいからではなく、聞く者に考えさせるためだ。いかに真理であっても、何も考えずに鵜呑みにするなら、ただの洗脳である。良いたとえ話は、聞く者が自己本位の考え方をすぐに持ち出すことを止める。それをさらに発展させたのが禅の公案だ。普通に考えても答えが出るはずのない公案は、修行者に考えさせつつ、これまでの習慣化した考え方をさせない。達磨大師が編み出した、実に素晴らしいトレーニングである。

自己開発プログラムには、CD等に録音された教えを何度も繰り返し聞くというものがある。何百回、何千回と、聞けば聞くほど良いという。
しかし、それはまさに洗脳である。それはただ、固定観念を作り、条件反射で反応するだけの心になるだけのことである。解脱や悟りというのは、それらを全て取り去った後に訪れるものだ。
いかに優れた教えであろうが、ただの観念であれば、自我を肥大化させ、特定のものにすがり付いて精神の自在性を失うだけだ。それで作られるのは愚かな人間である。

偉大な人物の教えや偉大な思想、哲学、秘法を学ぶ際は、それで得をしてやろうとか、それで力を得て他人に対して優位に立とうなどといった欲を決して持ってはならない。
老子は、自分は3つの宝を持つと言い、それは、慈愛と倹約と、天下の人の前に立たないことだと言うが、この3つ目の「天下の人の前に立たない」の解釈が難しく、権威者も色々な解説をしているが、本当は、このように、「偉い人になるな」「優越感を持つな」程度の意味と思う。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   

原発問題の矛盾を超える方法

原発推進か、反原発かについて、双方、その多くの主張は真っ当である。
こんな時、弁証法なんて難しい言葉を使わなくても、これらとは別の第3の案を考え、建設的な解決をするのが賢い人間だ。しかし、第3の案、もしくは、アイディアは、斬新なだけでなく、いささか奇妙に感じるだろう。そうでなければ、何の役にも立たない。そして、第3の案を受け入れることが出来なければ滅ぶしかない。

さて、言うまでも無く、原発推進派とて、原発そのものを肯定しているわけではないことは明白である(利権に絡む連中は別だ)。ただ、必要悪(良くないが仕方ない)だと言っているのである。では、その「必要」を解決すれば良いということになる。
これに対し、反原発派は、原子力エネルギー以外で必要をまかなえると主張するのであるが、原発推進派に言わせれば、その根拠に信頼性が無いということである。
これは、「必要」の定義がはっきりしていないので、そもそも議論になっていないのである。
そして、この「必要」の共通見解、共通定義を、決して誰も作りたがらない。これを曖昧にしておきたいのだ。その理由は、1つには、早い話が、どちら側も、自信が無いのである。当たり前だ。ものごと、何でも不可視の部分があり、いくら計算し、シミュレーションしたところで、所詮、「やってみなければ分からない」のだ。偉そうに言ってる、権威者と言われる「先生」の論だって、2割当たればビックリなのだよ。専門家ほど、視野が狭いことは、今さら指摘するまでもない。
エネルギー問題というのは、単にエネルギーだけの問題ではなく、産業、経済、海外事情、気候、風習、その他、あらゆる複雑な問題が絡み合う。お釈迦様でもなければ分からないことだ。

そして、もう1つの理由は、面白いことに、第1の理由と逆に、共通の、そして、強固な固定観念があるということだ。これは分かるだろうか?
共通であるだけに、そして、強固なために、壊しようが無いものだ。それは、固定観念というより、幻想や迷信である。
それは、今の生活、今の国力(経済力)を保たねばならないという妄信で、そうでなければ、日本は惨めになるという迷信である。
日本は既に惨めであるが、それは経済力が衰退したためではない。

中国に抜かれたとはいえ、日本はGDP世界3位であり、4位のドイツとはまだ大差がある。
そのような、確固たる経済大国であるが、実際は、GDPでははるか下の、オランダ、フィンランド、スイスあたりと比べても、国民は惨めである。本当に酷い国と比べれば、悲惨ではないが、幸福でもないのである。
結論を言えば、今の生活も経済力も維持する必要は無い。いや、してはいけないのである。
今までの生活が異常だっただけである。
今のままを維持すれば、既に解消不能な負債は更に増える。これらの負債は、そもそも、今までの異常な生活や経済が生み出したものである。それでも良い生活をしたいなら、自分だけ金持ちになればいいのである。確実に不幸になるとは思うがね。

これまで、我が国は、経済力を、不幸になるためにつぎ込んできたのである。
ほとんど動かなくてよくなり、生活環境は快適な上に、飽食・美食で、過剰栄養となり、医者はそう言わなくても、慢性病と異常性欲で、もう身体も心も完全に駄目になっている。
娯楽も、自分の身体も頭も使わず、刺激を与えられるだけのものばかりで、しかも、性的欲望を煽りそれを解消するものも大っぴらになり、身体、感性、発想力、思考力、全て破壊され、失っている。
根本的に問題なのは、教育、マスコミ、医療であり、それらをいまのように在らしめているのは国家なのであるから、実際は、もう滅ぶ以外にないのだとは思う。第二次世界大戦で敗戦した時、実際は、国民はほっとしたのだ。今、国家が滅べば、やはり同じではないかと思う。

だが、可能性がある限り、諦めないのが人間の正しいあり方だ。
そして、エネルギー問題は、表面的なことだけで解決できるものではなく、我々の内面の変性を必要とするものなのである。
具体的には、大雑把に言えば、皆が、身体を使って勤勉に働くことと倹約である。消費拡大の必要など、混乱した倒錯者の妄言である。
だが、基本的には既に手遅れなのである。
もし、可能性を高めるとすれば、私が普段からお薦めするように、食を厳しく慎むしかない。
また、車をなるべく使わず、本当に必要でないなら、所有しないことだ。8割くらいの家庭では不要なはずだ。

問題は、あくまで、我々が内面的に大きな変性を果たすことで解決するのである。それ以外に方法はなく、それが出来ないなら、滅ぶしかないし、滅ぶことが望ましい。
内面の大きな変化を起こすには、自己を知らなければならない。だが、我々には、それを絶望的なまでに妨害する欲望や迷信で心が塗り固められてしまっている。それを絶つ可能性がある唯一のことが食の慎みである。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   

完全でなければ批判される

ハリウッドスターのトム・クルーズやジョン・トラボルタらが熱心に信仰することでも知られている宗教組織サイエントロジーが一部で批判されることもある原因は、それが悪いものであるからではない。あまり良くないからだ。
サイエントロジーの根本原理であり、世界で最も知られる自己啓発技術の1つであるダイアネティックスについては、私も熱心に学んだ。それは非常に優れたもので、これを批判する連中の思考よりは千倍も良いものだった。しかし、完全なものを仮に100点とするなら、30点というところだ。それでも、世の中にある他のものよりはるかに優れていた。一般の宗教ともなれば、ほとんどがせいぜい10点で、マイナスである場合も少なくはない。
サイエントロジーより優れているものとしては、アメリカのヴァーノン・ハワードの自己啓発技術や思想がある。だが、これも40点というところだ(とはいえ、他のものに比べれば素晴らしい)。
一応、こんな言い方をするが、別に、サイエントロジーを造ったL.ロン.ハバートとヴァーノン・ハワードの優劣を論じることに意味はない。彼らの名前が似ているのと同様、同じようなものなのである。
完全な教えは、釈迦やイエスらが説いたが、別に悪意あってのことでなくても、文字にする際に、主には著者の無知により、かなり歪められてしまった。だから、イエスも釈迦も、誤解により批判されるのだ。

本当の聖人は、欲を否定しない。ただ、「もっといいものがあるよ」と言うだけである。
もっといいものを知りもしないで、聖人の真似をする者の欲ほど恐ろしいものはない。
本当に良いものを知ったら、世間で価値あるものに執着しなくなる。無理をしなくても、物欲、性欲、名誉欲を充たしてくれそうなものに、さほどの興味は無くなる。
釈迦の従弟のアーナンダが、天女を見て、それまでは素晴らしい美少女だと思っていた、いいなずけの娘に関心を無くしたようなものである。

本当に良いものは確実にある。世間の報酬も楽しいものだということは認めざるを得ないが、本当に良いものと比べれば、実に他愛ないものだ。自然の絶景のテレビ映像と本物の絶景に根本的な違いがあるようなものだ。
本物を少しでも垣間見れば、世間の褒章を得ることに執着が無くなり、世間の権威に騙されることは無くなる。世間の教義や信念に疑いを持つようになり、ようやく、それらを捨てる気になるだろう。
本日は月曜で、今日から、学校や仕事が始まるという人も多いと思う。そして、そのほとんどの人が憂鬱なはずだ。ならば、それは良いことである。憂鬱でなければ、本当に良いものを知る手立ては無い。
嫌な気分、憂鬱さを冷静に観察すれば良いだけだ。感情は感情のまま放置し、批判してはならない。天使が観察するように、それを観察することだ。天使の思考なんて分からないだろうが、それを勝手に推測してはならない。任せておくことだ。そうすれば離脱する。地上の砂嵐を尻目に高く飛ぶのだ。そうすれば、権威者も金持ちもエリートも、みんな砂嵐の中でもがいていることが分かるだろう。そして、空は良いところである。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加   
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
最新コメント
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ
PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
人気ブログランキングへ
↑↑これと
↓↓下の3つのいずれかをクリックして応援をお願いします!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
QRコード
QRコード

  
   このエントリーをはてなブックマークに追加
  

タグクラウド
  • ライブドアブログ