ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

不思議で優美な言葉

こんな経験をお持ちの方は多いと思う。
意味の分からない外国語の歌を聴き、素晴らしい歌だと思って気に入っていたのが、歌詞の意味を知ったら、案外につまらない歌だったと思い、愛着が薄れるといったことだ。
外国語の歌ばかりでなく、日本語の歌であっても、歌詞がよく聴き取れなかったり、言葉の意味が分からなかった時の方が素晴らしかったと感じることもあると思う。
また、歌詞をちゃんと知っている歌を、わざとハミングで歌ってみたら、さらに感動が深まるなどということもある。

最近のアニメの歌には、普通に聴いていては認識できないような、難しかったり、あるいは、普段使わない言葉を使っているもの、あるいは、非常に早口だったり、少々奇妙なイントネーション(言葉の音調)のために、やはり普通には歌詞を聞き取れないものが非常に多いように感じる。
また、ラップ音楽なんてのは、言葉自体は明快だが、話し言葉とは相当違うイントネーションを使うことで言葉のイメージを変容させるところに面白さがあるように感じる。
ルイス・キャロルは、子供たちのために奇妙な言葉使いで話したり手紙に書いたりして、子供たちを面白がらせたが、やはりそんなものは不思議な高揚感や楽しさを誘発する何かがある。

文明が発達すると少なくなってきたが、世界には、全く意味のない奇妙な言葉を楽しんで使う人々や、そんな言葉が呪文のような形で残っていることもある。それらの言葉はリズミカルだったり、奇妙だがどこか面白かったりして、不思議な感情を誘うことが多い。
バッハなどは、音楽でそれを優雅にやってみせただけだと言う人もいる。
全ての経験は音楽のようなものだ。言葉でさえ、本当は音楽のようなものなのだが、それに一定の意味を込め過ぎたために、音楽の持つ優美さや本質に響く効果を失ってしまったのかもしれない。最近のアニメソングやラップ音楽は、意識的にか無意識的にか、それを復活させようとするものなのかもしれないと思う。
般若心経という短いお経では、この呪文を唱えるとたちまちにして悟りに至るので、夢々疑うなと、その短いお経の中で何度も強調し、最後に呪文を紹介する。その呪文に何の意味もない。だが、同時に、何の意味もないからこそ、最大の意味がある。しかし、その意味は言葉の意味ではない。それは至高の音楽なのである。その呪文とは、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ・スヴァーハー」だ。もちろん、日本で一般に使われる、インドの言葉から中国語に漢訳されたものの読みである「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテ、ボジソワカ」でも同じである。





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みんなどんどん馬鹿になっていく

結婚式とかお葬式でもない限り、親戚の人達と会う機会がないという人が多いと思います。
私もそうなのですが、私は先週、親戚の男性の結婚式があり、遠方に住んでいる親戚の人達と久し振りに会いました。本当に長い間会っていない人も少なくなかったですし、冷静に考えると、後何回も会うこともない人も多いはずです。

私の親戚は、割合に田舎に住んでいる人が多いせいかもしれませんが、純朴で良い人が多いように感じます。
しかし、会うたびに、みんな馬鹿になっていくことに愕然とします。
年齢の高い人達は、どんどん老け込み、表情も乏しくなりますし、若い人でも、働きアリのようにすっかり規格化されています。
皆、世間を崇拝し、世間の教義を信じ、世間の信念に従って生きています。テレビから与えられる情報を神の言葉のように信じて疑わず、彼らの善悪、優劣の基準は全て、世間に押し付けられたものです。

私は、久し振りに会う人達に、私が2年前から1日1食になり、肉や魚を食べるのをやめ、お菓子などの間食もやめ、心身とも、少なくとも以前に比べると驚異的に健康になって能力が向上したことを話すのを、浅はかにも楽しみにしていたのですが、彼らの反応は決まっています。
「すごいねえ」「しんどくない!?」「食べないと人生、楽しくないでしょう?」「お母さん、食事の作りがいがないねえ」「私ならもたないねえ」「そんなのありえないよ」
これが彼らの決まった反応ですが、それはまさに一応の反応に過ぎず、彼らがさっぱり興味を感じていないことが分かります。そして、多少の意識的な反応としては、世間に染まった度合いの少ないはずの若い人が、テーブルに用意されたお菓子を、これ見よがしに、間抜けな顔で次々にほおばってみせることです。「やっぱり美味しいものは食べないと」と言うわけです。
そして、いつしか、私も、世間並みの会話をし、彼らも機嫌良くなります。
そして、結婚式、披露宴と進み、これまた世間的な演出で笑いと拍手が起こり、涙を誘うわけです。ほんのちょっとの演出の工夫が見られれば、「変わってたねえ」「個性的だったねえ」となる訳です。

だが、彼らは、肥満し、子供が引きこもり、楽しくない仕事をし、健康に問題を抱え、どうにもできない不安と不満の中で毎日を生きているのだということが分かります。
私が小さい時に、いろいろ良くしてくれた人達が、どんどん世間に蝕まれて愚かになっていくのは悲しいことではありますが、それを見て世間の恐ろしさを再認識し、それを叩き壊すことが人として誠実なことであることを確信できることに、彼らの犠牲に対する恩義を感じるのです。



【荘子】
「世俗にあって世俗を超える」というのが荘子の薦めるライフスタルだったかもしれませんが、近代のマスコミ社会、そして、現代の情報化社会では、いっそうの注意と心構えが必要です。
しかし、世間の性質や、それを超えたところにある、老子や荘子が「道」と呼ぶ不滅の存在については、何も変わっていません。この岸陽子訳の荘子は、とても読みやすい私の愛読書です。

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脳を大切に

量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフが量子物理学の道を志したきっかけは、幼い時の超常現象体験であったようです。その超常現象は、テレポーテーション(瞬間移動)のようなものです。
彼は、「まともな」量子物理学の著作も書いていますが、幻覚剤の使用体験やシャーマン(呪術師)との交流を描いた神秘的な著作もあります。彼のホームページも、なかなかぶっ飛んでいますが、現時点(2010年9月26日)のトップページのGIFアニメが、幼い時のテレポーテーションの体験を表しているように思われます。

テレポーテーションのような不思議な現象は、量子力学が扱う極微な世界では普通に起こりますし、時間の遅れや空間が縮むといった現象は相対性理論が扱う極大な世界で起こります。
ただ、我々が日常体験する範囲では、あまりにわずかな規模でしか起こらないか、あるいは、あまりに稀にしか起こらないために、不思議な現象は存在しないことにされるわけです。
あの頑迷な超常現象否定論者の大槻教授だって、量子力学の中で不思議なことが起こったり、それが日常の範囲でも、あまりに稀にではあるが起こる可能性があることまでは否定していません。

しかし、考えようによっては、不思議な現象は、我々だってよく経験しているかもしれません。
例えば、何かを夢中になってやっている時は時間が速く流れたり、苦痛な時間は非常に遅く過ぎるように感じることです。アインシュタインも、相対性理論のくだけた説明には、こういったことを言ったようです。
また、人間の能力は、一定して進歩するというよりは、しばらくの間変化を見せなかった後で急に進歩する(いわゆるブレイクスルー)場合が多いのですが、これが量子力学で扱われる電子の瞬間移動に似ていると感じることもあるようです。チン・ニンチュウの「誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる」という本で、物理学者でもある経営者が年収をわずか3千万円から3億円にした話にそのようなことが書かれています。ただ、世界的な理論物理学者・数学者のロジャー・ペンローズは、似ているように思うことは慎重に扱うべきと言っているようでもあります。

極微な世界、極大な世界で実際に起こる不思議な現象を日常の体験にもたらすのは、言うまでもなく脳の働きです。
有名な美術教師のベティ・エドワーズは彼女の著作「脳の右側で描け」で、好ましい状態で絵を制作している時に、時間が速く流れるのは、右脳が活性化しているからであることを説明しています。また、ロジャー・ペンローズは、脳が量子的な機能を持つ器官であり、この脳に極微な世界と極大な世界(量子論と相対論)を統合させる鍵があるといったようなことを言っていたと思いますが、直感的洞察力に恵まれた人達もまた、相互に大きな矛盾なく、そのような主張をしているように感じます。
しかし、脳は神秘なものであると同時に物質でもあり、器質的なトラブルがその働きに影響します。インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジに、誰かが、老人の聖者の人間性の欠点を指摘しますと、マハラジは、聖者とはいえ、脳の影響は受けるのだと言っていたのが印象的でした。
我々も脳は大切にしなければなりません。脳に悪いのは、まず喫煙や飲酒です。多少の飲酒は良いのではという意見もあると思いますが、ルドルフ・シュタイナーのように、飲酒を厳しく戒める者もいます。
そして、脳に極めて悪いのは、現代の刺激的な映画やテレビの娯楽番組といった、外側からの刺激を一方的に受けて楽しむ遊びや娯楽です。
また、携帯メールやツイッターといった、熟慮なく単純でパターンの決まった言葉ばかり使用したり、ゲームを長時間やって、パターン通りの反応しかしなくなることです。
他にも色々ありますが、現代は、脳の働きを低下させるものばかりが溢れているように感じるのは、闇の勢力の陰謀といった冗談を真面目に疑うほどです(冗談でなく、真面目に言っている人もいるようですが)。
くれぐれも、脳の健康と機能を大切に。
26日9:00AMまで、フレッド・アラン・ウルフのHPへのリンクに問題がありました。申し訳ありませんでした。









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私は死が恐くない

私は、死ぬことそのものは全く恐くありません。これは本当です。

1970年頃の英国のSFテレビドラマで、「謎の円盤UFO」(原題は“UFO”)というものがあります。これは、「サンダーバード」や「キャプテン・スカーレット」で知られる映像作品プロデューサーのジェリー・アンダーソンが、初めて人形ではなく、俳優を使って制作した作品です。
この作品のあるお話で、危機的な状況の中、30代の若き大佐(フォスター)が言います。
「昔は死など恐れなかった。しかし、今は恐い」
すると、彼と強い信頼関係にある40代の司令官(ストレイカー)が言います。
「歳を取ったんだ。歳を取ると、人生の値打ちが解ってくる」

私に、人生の値打ちが分かっているかと言いますと、さっぱりです。
別に、脳解剖学者の養老孟司さんや、仏教学者のひろさちやさんが、人生に意味はないと著作に書かれているのを知っているのとは無関係に、人生に価値などないと思っています。
なるほど、私には死が恐くないわけです。

ただ、自殺なんてことをするのは、人生に価値があると思っている人だと思います。
私なら、わざわざそんなことをしようとは思いません。

食べられない状況になったら、食べなければ良いと思っています。
今は、1日1回の食事が非常に楽しいので食べていますが、食べられなくなったら、食べないことでどうなるかじっくり観察したいと思います。それは人生の最後の楽しみかもしれません。
苫米地英人さんが、著作の中で、金がなくても今の世の中、食べることに不都合はないといったことを書かれていましたが、世の中にはとんでもなく要領の悪い人間もいます。そして、私がそんな人間です。

人生に価値が無いというのは、この世に価値がないということです。
ただ、社会とか世間としてのこの世に価値はないと思いますが、世界という存在そのものの価値は疑っていません。
「20世紀最大の詩人」と言われたノーベル賞作家W.B.イェイツの未完の自伝的小説「まだらの鳥」で、イェイツの投影である主人公の少年マイケルは、乞食の老人に、ほとんど食べずにいれば、神秘の存在と出逢えると言われ、それを信じてほとんど食事をしなくなります。そして、ある日、遂に神秘的に美しい聖母と出逢います。
あのイェイツが書いたことですから、単なる空想とも思えず、少なくとも空想ではなく想像であると思います。アメリカ最高の思想家ラルフ・ウォルドー・エマーソンも、空想と想像の違いをエッセイ集の中で力説していました。
それは、幻覚だったのかもしれませんが、幻覚とは一般に考えられているほど捨てたものではありません。
アンデルセンは、「マッチ売りの少女」で、少女が最後に美しいものを見たことを、なぜか強く訴えていました。

彼らは、みんな直感的に、この世の秘密を掴んでいたに違いないと思います。
我々は、食べられる間は生きるべきなんでしょう。
しかし、もし食べられなくなれば、宇宙はその美しい秘密を明かしてくれるのではないでしょうか。私は、「直感的に」そう思われてなりません。

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この世の全ては遊びに過ぎない

プレイ(Play)という言葉には非常に多くの意味があります。

スポーツの各種の動作(投げる、打つ、蹴る、動かす)や、対戦すること、あるいは、ポジションに付くこともプレイです。
楽器を演奏することもプレイなら、ギャンブルをすることもプレイです。

しかし、根本的には、プレイとは、遊びです。
プレイという言葉の最も正統な意味は演劇や芝居を上演することだと思いますが、それらは、古代において娯楽の代表的なものでした。

野球のプレイが遊びと言ったら選手に失礼かもしれませんが、イチローなどは非常に誠実に遊んでいるように感じます。真剣なのは分かるのですが、たとえ窮地にあっても、どこかあっけらかんとして、深刻さを見ている者に感じさせません。
良い恋愛なんて誠実な遊びであって、誰も深刻に愛されたいなどと思わないはずです。
対して、結婚というのは深刻な世間のしきたりですので、遊びの延長のつもりで結婚すると、「こんなはずじゃなかった!」と愕然とするのは当たり前です。

この世の全ては遊びに過ぎません。
今、この場で誠実に遊べば良いのに、成功したら、金持ちになったら、引退したら遊ぼうなどと思っても、実際は遊べません。何か目標を達成したら、すぐに次の目標に追い立てられます。世間の人は、未来にしか生きられないのです。
手塚治虫の漫画で、日本の古代の天皇が、死に際に「ナンパしたかった。車もぶっ飛ばしてみたかった」と後悔します。誠実な遊びであれば、お行儀が良いとは言えなくても、そんなに迷惑にはならないものです。
古代インドでは、この世はリーラとマーヤで出来ていると言いました。リーラって、遊びなんです。マーヤは幻想ですが、本来は、遊ぶための幻想です。
世間の幻想は醜いですが、リーラのための幻想は楽しいものです。

武士道って深刻です。対して、騎士道ってのは洒落た大人の遊びです。武士道は徹底していて、融通が効きず、加減を知りません。しかし、騎士道では、やり過ぎを恥じるものです。「葉隠」の武士道ってのは、伝統的な武士道でなく、武士道改革のようなもので、どこか騎士道のような雰囲気があります。本来の武士道は、主君のために命を厭わずに働くことで、命令ならば黙って殺人もします。ある高名な仏教学者が、「単なるテロリストじゃないか」と言いましたが、そうかもしれません。

誠実に遊べない仕事は、その仕事自体が何か間違っています。そんな仕事は、いずれバブル崩壊して破綻します。人類の歴史を見ても明らかです。

「仕事は遊びだ」というのは本当です。
しかし、「今の仕事を遊びに出来る」かどうかは保証の限りでありません。
誠実に遊べることを仕事にし、誠実に恋愛遊びをすればどうかと思います。
アインシュタインは、物理学を遊びとしか思っていませんでした。彼にとって、それは誠実に取り組むべき趣味でしかなかったので、金や名声に興味がなかったですし、どんなに賞賛されても、自分を重要人物だとは見なしていなかったのです。

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