ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

神秘的な融合体験

自分が消え、何かと一体化してしまったような不思議な体験というものがある。
偉大な人間と、そうでない人間を分ける唯一のことは、それが有るか無いかだけである。

一昨日(2011/1/21)発売だった、声優で歌手の水樹奈々さんの自叙伝「深愛」の中に、さりげなくであったが、まるで神秘体験のようなことが書かれている。
幼い頃から演歌の修行を積んできた水樹さんは、ロック調の歌に苦労していた時、歌って身に付けるしかないと、歌って歌いまくった。その時に、それが起こった。
彼女は「自分自身が音と一体化してしまったような、身体が音楽の中に急激に吸い込まれてしまったような、おかしな感覚だった。ある種のトランス状態だったかもしれない」と記している。

マイケル・ジャクソンが言っていたが、ステージでは、自分が楽器になってしまうのだという。ベースを聴けばベースに、サックスを聴けばサックスになると言う。彼は、いつでも、いとも容易くそうなのだ。だから彼は天才であり、超一流なのだろう。

ノーベル賞作家であるロマン・ロランは、そういったことの中でも最大の体験である、自己が万物と一体化したような体験を大洋感情と言い、芸術の究極の目標であると言った。
同じくノーベル賞作家で、「20世紀最大の詩人」と言われるW.B.イェイツは、芸術の目的はエクスタシーであると言ったが、エクスタシーとは、忘我という意味で、やはり万物と一体化してしまって個としての自分が消えてしまうことだろう。
およそ、世界的な芸術家でそれを体験しなかった者はおらず、文豪達は皆、一度は作品の中でそれを語っている。

そういった体験は芸術に限らない。いや、真実を言うなら、人の行うことで芸術でないものはない。人生そのものも芸術だ。
普遍的な意味での大洋感情は、心理学者のアブラハム・マズローの言った「至高体験」であるが、この2つは異なったものではない。全く同じものだ。
我々も、大洋感情、至高体験と言われる、神秘的な融合体験を持つべきなのだ。

禅のお話にこういうものがあるそうだ。
ある男が、人生のはかなさを感じ、寺の僧に相談したら、「座って考えろ」と言う。そこで、ただ座って壁を睨みつけていたが、雑念が次々浮かんでくる。それでも座り続けると、思考が消え、壁に目玉があって自分を睨みつけている。はっと気が付くと、目玉が帰ってきた。
おかしなことがあるものだと思ったが、外に出ると、何か世界が違う。草木や風が語りかけてくるようだ。なんとも爽やかで心が安らいだ。
そこに白隠という高僧が通りかかった。白隠は男を一目見るなり、「千里先の火を消せ」と言ったら、男は、「火になる」と答えた。
このお話の中に、水樹さんやマイケルの音や楽器との融合体験、あるいは、大洋感情や至高体験の秘密の鍵があるように思う。

電波工学の世界的権威であった関英男博士は、若き日、研究室で受信器のテストをしている時、受信器が不思議な電波を捉え、彼はその音をじっと聞いていた。
そして、それが宇宙からのものであると直観した時、自分が宇宙と一体化したような不思議な感じがしたという。
この体験のために、関博士は、普通の科学者が扱うものだけではない、見えない世界の探求をすることになる。

神秘的な融合体験は、最高の情熱を持って何かをやっている時とか、強い集中を持って観察し続けた時に起こることが多い。
先にもあげたW.B.イェイツは、「憎むのをやめた時に起こるようだ」とも言っていた。
何もなければ、古から聖賢達が言い続けてきたように、自分の心を観察すれば良い。
融合の秘法を得るかどうかが、あなたの運命を決するかもしれない。







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本当にもったいないこと

「もったいない」という言葉は、日本の貴い言葉であると言われる。
しかし、今では、本当の意味と全く異なる使い方をされている。
「百万円あげる」と言われて、「要らない」と突っぱねることを、もったいないと言う人がいるが、もらういわれ(理由)のない百万円なら、もらう方がもったいないのである。

もったい(勿体)とは、本質的な価値とか、品位といった意味で、元々は仏教の言葉だ。
日本人は、古来から、見せ掛けではなく、ものの本当の価値とか、品位を大切にしてきたのだ。
だから、本当の価値を踏みにじることや、品位を穢すことを、もったいないと言って、注意し、恐れてきたのである。

例えば、テレビがあれば、本来であれば、それを見ないと、テレビ本来の価値(もったい)を生かせないのであるから、もったいないのである。
しかし、今は、テレビで放送される内容のほとんどがもったい(品位や本当の価値)が無いので、テレビをつけることの方がよほどもったいないのである。

大相撲の力士がピアスをつけたり、茶髪にすることがないのは、日本の伝統では、もったい(品位)を重んじるからだ。
しかし、それなら、力士を指導する立場の協会が品位を持たねばならない。
プロ野球でも、巨人軍はもったいを大事にし、選手の茶髪やピアスを嫌う球団であるが、やはり、球団幹部のもったいが重要になる。
ところで、茶髪やピアスはもったい(品位)が無いのであろうか?それが、外見をことさらに強調したり、異性への過分なアピールであるなら、そうであるのだろう。適度な体裁や魅力のためには、全く無用であるからだ。

日本人がなぜ、この、ものの本質や品位であるもったいを、かくも重んじるのかというと、我々は古来から自然を崇拝する中で、あらゆるものの中に神様が居ると信じているからだ。
動物や草木はもちろん、水や岩にさえ、命や魂があるということを感じてきた。
だから、日本人は、ものをとても大切にし、使い捨ての発想はなく、修復して長く使うことを美徳とした。
ただし、時々聞くが、何年も前の、食べられるはずもない食品を、もったいないと言って冷蔵庫に入れっぱなしにする人がいるが、それは逆にもったいないことだ。そんなものは、早く土に返して再生させないと、その本質の価値を生かせないからだ。そもそも、食べられるうちに食べず、まだあるのに新しいものを買ったから溜まってしまったのであり、そのもったいなさを戒めるべきなのだろう。

さて、では、最ももったいないこととは何であろう。
それは、最も貴重なものの価値を踏みにじることという意味であるが、それはどんなことだろう?
それは、生命を損なうことである。
楽しみのために動物を狩るスポーツハンティングは、動物のもったいを否定することであるが、それをする者もまたもったいを失くしているのである。快楽ほど生命を損なうことはないからだ。
個人的欲望や、恨み、妬み、憎しみ、悲しみもまた、生命を損なうもったいないことだ。
何が生命を損なうかは、分かるはずのことだ。
心が落ち着き無く動き、呼吸が乱れるなら、生命を損なっているのである。
だから、寿命は呼吸の回数に反比例するし、聖人の呼吸の数はとても少なくゆったりとしている。せわしい呼吸をする聖者はいないし、ゆったりと安定した呼吸をする愚か者もいない。
なぜ生命を損なってはいけないかというと、人の生命は神の生命と一体だからだ。
黒住宗忠は、慌てたりして心を乱した時ですら、「神様の命を傷つけてしまった」と思って反省したという。
いらいらしたり、せかせかすることもまた、生命を損なうことなのだ。
生命を大切にすれば、それは神の生命を大切にすることであり、神の力も顕現してくるだろう。
そうなれば、一切の気苦労も無くなる。そのためには、恨み、妬み、悲しみ、イライラ、せかせかの根源である個人的欲望を持たないことだ。
呼吸が乱れない程度の欲なら構わない。しかし、熱狂や興奮を伴うなら、過ぎた欲である。







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天啓は静かな呼吸に訪れる

人生を変えるような天啓は、他愛もないような出来事をきっかけとして訪れる。

昔のある高僧は、焚き木が燃えているのを見ていたら、それが「バチッ」と音を立てるのを聞いて悟ったと言われる。
電燈が点くのを見て、不意に天啓を得たという人もいる。
そもそも、お釈迦様が、一説に拠れば、たまたま聞こえてきた、「(琵琶の)弦を締め過ぎれば切れるし、緩め過ぎれば音にならない」といった意味の歌が悟りのきっかけになったといわれる。
明治、大正の偉人、岡田虎二郎は、畑のあぜ道に座ってぼうっと夕陽を眺めていた時に天啓を得たとも言われている。

これは他愛もないこととは言えないかもしれないが、目の前で犬が落雷に打たれて死ぬのを見た時に感じた荘厳な衝撃が人生を変えたという偉人もいた。
また、ある劣等感に取り付かれ、引っ込み思案で自分には何も出来ないと思っていた男が、「俺はなんて駄目なやつなんだ」と言った時、かたわらにいた人が、「君はちっとも駄目じゃない。自分でそう思い込んでいるだけだ」と言うのを聞いて感じるものがあり、数日、その言葉を思い続けることで偉大な賢者に生まれ変わった。
しがない肉体労働者として人生を送るうちに老境に達したある男は、自分と同じような年齢の男を後部座席に乗せた超高級車が通り過ぎるのを見て、「同じ人間なのに、なんて違いなんだ」と思う。しかし、なぜか、自分とその男に本質的な違いは無いという思いが起こる。その後、この肉体労働者だった男は、超高級車の後部座席に座ることになった。

ある平凡な主婦は、朝日の中、夫や子供達が朝食を食べているのを見て、不意に圧倒的な幸福感に襲われて恍惚となる。これは、コリン・ウィルソンが至高体験という状態の事例としてよく述べるものだ。
至高体験は心理学者のマズローが提唱したものだが、作家のロマン・ロランの言う大洋感情と同じものと思われ、万物と自己が一体化したような忘我の状態と言われる。忘我は英語でエクスタシーなので、その状態を簡単にエクスタシーと呼んでも構わないが、単なる興奮状態をエクスタシーと言うのではない。似たところがあるというだけのことだ。尚、W.B.イェイツは、芸術の目的はエクスタシーだと言ったようである。
マズローは、偉大な人間と平凡な人間の唯一の違いは、至高体験を持つかそうでないかだけであると言う。しかし、至高体験は偶然に起こるのを待つしか無いと考えた。
つまり、天啓は、たまたま訪れるものであるということだ。
しかし、コリン・ウィルソンは、至高体験は、誰にでもあるものだし、意図的に起こすことも間違いなく出来ると言う。

谷川流さんの小説「涼宮ハルヒの憂鬱」の中での、ハルヒに訪れたある重要な感情は、谷川さん自身の体験と深く関わるものであろうと想像出来る。
ハルヒは、小学6年生の時、家族に連れられて初めてプロ野球観戦に行き、球場に埋まった満員の観衆を見て、自分のちっぽけさを強烈に感じることになる。その時から、それまでは楽しいと思っていたはずの自分の人生が色褪せて見え、やがてそれを解消したいと考えるに至る。

天啓というのは、割によく訪れるものであるかもしれない。
ただ、それを忘れてしまうか、温め続けて孵化させるかの違いであろう。
それには、心が世俗の喧騒にかき乱されていては駄目で、静かでなければならない。
食や性の欲望、物欲、虚栄心といった、個人的欲望にとりつかれた心は落ち着きが無く、天使のささやきはとどまらない。
そして、天啓を受けた時というのは、皆、何かに驚き、息を呑んでいた、つまり、呼吸は停止していたのだ。
呼吸と心は同じ根っこから出ていると言われる。
偉大な悟りは、深い嘆きの中で、心が死にかけて静まった時に起こるが、幸福な天啓は清らかな心に当たり前に訪れる。心が晴れていれば呼吸も穏やかだからだ。
作為的な呼吸の制御は身に付かない。静かな呼吸が出来るような生き方をすることだ。そうすれば、大切な願いが叶うだろう。







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一人じゃない

アメリカでは、半数以上の人々が、ガーディアン・エンジェル(守護天使)の存在を信じていると聞いたことがある。

我が国で、守護霊というものをどのくらいの人々が信じているかは分からないが、元々が我が国の人は、あらゆるものの中に神の存在を感じていたのであり、「トイレの神様」と言われても、割合、素直に納得するのではないかと思う。
守護天使、守護霊というのも、1つの呼び名だと思うが、一人の人間に専属で付く神秘的な存在というのは確かにあると感じるのではないかと思う。
それを守護天使と言うなら、その存在が何をするのかというと、まず間違いないことは、よく見ているということだと思う。我々の言動はもちろん、心の動きの詳細まで、余すところ無く見ているのだろう。「お天道様が見ている」というのも、あらゆる国で表現の違いはあっても、似たような言い方があり、しかも、それが受け入れられているはずだ。
イエスは「お前たちは、髪の毛の1本1本まで数えられている」と言い、仏教の「観無量寿経」では、阿弥陀仏は、あらゆるものを見、あらゆる音を聞く菩薩である観自在菩薩を派遣し、常に我々に寄り添わせるとあるが、神様や仏様だって、まずは我々を知らなければ始まらないだろうが、実に完全に見ているのである。ただ、神様が直接見るというよりは、守護天使のようなものを介して見ているのだろうと思う。
さて、人々のあらゆる言動や思いを見た守護天使は、どうするかというと、神様に報告するのだろう。それも、最大漏らさずである。神様は、世界中、いや、宇宙中の人々に関する報告を聞くのであるが、その能力は無限であるので、あきれるほどに余裕十分である。一人一人に対して、この上ない心遣いをし、心配し、対処を行うのである。

私は、特に子供の頃、高熱を出して寝込んだような時に、そのようなビジョンを見ることがよくあったが、多分、誰もが、そんなことがいくらかはあるのだと思う。
無限の神が、有限の思考の中に少しだが流れ込んでくると、ある独特の馬鹿馬鹿しさのようなものを感じる。「大海で1本の針を探す」というのも馬鹿馬鹿しい話だが、その千倍の千倍も馬鹿馬鹿しい感覚であり、もはやそれが面白いのか何なのか分からないといった感じである。

ところで、神様が何処にいるのかということであるが、これが難しい。あらゆる場所におられると言う人もいて、それはそれで正しいのかもしれないが、それなら、神様が直接我々を見れば良く、守護天使の出番がなくなってしまう。いずれにしろ、我々の限られた知性で無限者の働きや構造を考えるには限度がある。
それを承知で言うなら、神様ははるか遠く彼方にいる。ただし、それは我々から見た遠く彼方であり、神様や守護天使から見れば、少しも遠くない、何でもない距離だ。
谷川流さんの小説とそのアニメ作品の「涼宮ハルヒの憂鬱」の中の「笹の葉ラプソディ」というお話で、ハルヒは16光年離れたところにいる神様に願い事が届くのに、本当に16年かかると思って気落ちするが、ハルヒも可愛いものである。一方で、キョンが「行きでそうなら、帰りにさらに16年かかって、願いが叶うのは32年後では」と突っ込みを入れると、ハルヒは「そこは神様なんだからなんとかしてくれるでしょう」と言う。
本当は、唯一の神様は何億光年、何百億光年離れたところにいるかもしれない。
しかし、守護天使が神様に知らせるのが一瞬なら、神様が答えるのも一瞬である。これは、この世的(3次元的)な説明ではあるが、この瞬時性により、「神様は何処にでも居られる」と言えるのである。

成功法則の古典であり、おそらくは、現在まである同分野のものの中で最も優れたものである「ザ・マスター・キー」は、ビル・ゲイツも愛読したと言われるものであるが、そこに描かれた宇宙や神の構造はひどく難解である。しかし、我々の知性の範囲の中で言うなら、上の説明がかなり適切であると思う。

神様(あるいは仏様)が直接我々を見るのではない意味は、これも比喩的な表現だろうが、先ほどもあげた「観無量寿経」によれば、仏様が派遣される観自在菩薩や勢至菩薩が、我々の友になるためでもあると思う。
我々は、文字通り一人ではないのである。2003年の平原綾香さんのデビュー曲「ジュピター」は、吉元由美さんが天啓を受けて作詞したもので、宇宙や神の様子を詩的に見事に表現していると感じる。

ところで、以前のブログで書いたが、上にあげた「涼宮ハルヒの憂鬱~笹の葉ラプソディ~」で実に不思議な面白いことがあった。
◆不思議な出来事が知らせること◆
画像付きで、面白いので、上をクリックして見て欲しい。







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ランプの魔人の新しいお話

「魔法のランプ」の今までの話は終り、新しいお話が始まる。

流れ流れて、魔法のランプは、ある少女の手元に来た。
ランプの精である魔人は、少女の前に、その無敵の堂々たる姿を現す。
「ご主人様、ご命令を。どんな願いも、この私が叶えて差し上げます」
だが、驚いた少女は、気を失ってしまう。
「おやおや、今度のご主人様は気が弱いお方のようだ・・・」
しかし、やがて少女も魔人のことを理解した。魔人は改めて主人に願いを尋ねた。
「宮殿でございますか?宝石をちりばめたドレス、ブランド品のバッグもいくらでも、高級車もご入用かと・・・」
長い年月の間、数多くの主人に仕え、魔人は人間の性質をよく理解していた。
だが、少女は言う。
「何もしなくていいよ。ただ一緒に居て」
少女は、魔人の新しい服を用意し、毎日食事を作って魔人と一緒に食べ、他にもいろいろ魔人に気を配り、魔人を家族として扱った。
少女は、まだ小さいのに、両親は死んでいなかった。そして、彼女は病気で、命がいつまで持つか分からず、少女もそれに気付いていた。
魔人は面食らった。
これまでの主人は、魔人を得たことを理解すると、自分の欲望を満たすために、魔人をモノか奴隷のようにこき使った。
しかし、今度の主人は、何と違っていることか!自分の身すら危ういのに、私のことを心から大切にしてくれている・・・

だが、少女の病状は悪化し、命の炎が消えようとしていた。
魔人は決心する。少女の命を救うための魔法の力を集めていった。それは、魔人といえども、厳しく苦しい戦いを強いられることだった。
「どうしたの?最近、留守にすることが多いようだけど」
少女は、そんな魔人を気遣った。
「申し訳ございません、ご主人様」
「別にいいよ。お前もやりたいことがあるだろうから、好きなようにしたらいいのよ」
何度も危機に陥り、傷付きながらも、ついに魔人は少女の命をつなぐ力を得ることが出来た。そして、少女に言う。
「ご主人様、あなたは神になって下さい。その準備は出来ました」
だが、少女は魔人に微笑んで言う。
「そんなことをしたら、お前は無事では済むまい。そんなことはしなくていい」
確かに、それは、魔界の掟を破ることで、それをすると魔人は消滅するのだった。しかし、魔人はそれでいいと思っていた。
「いえ、どうしてもそうしていただきます」
すると、少女は、初めて厳しい顔をして言った。
「主は私です。主の言うことはきかなくてはいけません」
少女は思っていた。自分はずっと一人だった。だから、自分が死ぬことは、それは仕方がないと思っていた。しかし、他の誰かが犠牲になるのだけは嫌だった。

魔人は真の主を得たのだった。
これまでの主は、欲望のために破滅し、魔人は次の主人のところに移るということを繰り返した。しかし、魔人の旅は終わった。
魔人の長く暗い呪縛は、この主によって解き放たれた。
それは、人類のアセンション(次元上昇)となった。世界は永遠を得たのだった。

ひょっとしたら、気付いた人がいるかもしれないが、このお話は、「魔法少女リリカルなのは A's(エース)」(2005)のお話を参考にしたものだ。(全く同じではない)
八神はやてという、脚が悪くて歩くこともできず、病気で余命幾ばくも無いが、明るく、この上なく優しい小学3年生の少女と、彼女の元に来た3人の魔法の騎士達と一匹の聖獣の様子が、こんな感じであったと思う。
ヒロインの一人、フェイト・テスタロッサ(我が女神だ)役の声優、水樹奈々さん自身が作詞して歌った、このアニメのOP曲「ETERNAL BLAZE」は、その世界観を見事に表現した名曲である。
尚、「魔法少女リリカルなのは A's」の映画「魔法少女リリカルなのは The MOVIE 2nd 」は、2012年公開の予定らしい。







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