ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

試験の極意

ほとんどの人が、数え切れないほどの試験を受けた経験があるだろう。
入学試験、学校の試験、就職試験、資格試験、昇格試験・・・世間は試験だらけである。
だが、こんな言葉がある。
「普通の人は能力で選ばれ、深い人は人物で選ばれる」
真に優れた人の態度や振舞いは、高貴な芸術品のようなものだ。
一方、選ばれる能力は、単に選ぶ側の都合だ。高級牛肉と言われても、牛は有り難くはないだろう。

セザンヌはサロン(サロン・ド・パリ)というパリ芸術アカデミーの公式展覧会に合格したこともなかった。一度コネで合格したところ、コネを働いた者は「あんなひどい絵を合格させるとは何事」と言われ、ひどい目に遭ったという。
試験というものは、主催者の定めた基準があり、受験者はそれに合わせないといけない。そうでなければ、セザンヌやマネだって合格しない。
池田満寿夫さんは、東京芸大の試験に3年連続落ち、東京国際版画ビエンナーレ展でも、ほとんどの審査員は評価しなかったが、ドイツ美術界の権威であったグローマン博士が一貫して支持し、賞を受けたといわれる。
アインシュタインはチューリッヒ工科大学の試験に合格出来なかったが、制度を利用して無試験で入学したのである。だが、卒業試験では、「1年は創造的思考ができなくなった」程の苦痛を味わったという。

「あしたのジョー」で、矢吹丈がボクシングのプロライセンス試験を受けた時、筆記試験の「防御法を3つあげよ」という問題に、「3つも必要ない。必要なのはたった1つ。即ち攻撃だ」と解答する。
似た話が、1993年のテレビドラマ「チャンス」にある。国際的なミュージカルの主演者がオーディションで決められることになり、主人公の本城裕二がなりゆきで応募させられる。試験は、課題曲、演技、そして、オリジナル曲の歌唱を1日ずつ実施し、それぞれで合否が決められてふるいにかけられていく。だが、本城は、最初の日の課題曲も歌わず、「オリジナル曲の日に来る」と言って去る。だが、なぜか本城に合格通知が届き、さらに、次の演技試験にも行かなかったが、これにも合格通知が来た。結局、本城は採用されなかったが、主催者の大物ディレクターは、本城に最も心惹かれていたのだった。本城の口癖は「小さくまとまんなよ」だった。

昨今、就職活動は厳しいと言われる。
都市伝説かもしれないが、今でもよく知られる、株式会社サッポロビールの就職試験の逸話がある。
1970年代のことだが、サッポロビールには、「男は黙ってサッポロビール」という有名なキャッチコピーがあり、ハリウッド俳優の三船敏郎さんがイメージキャラクターをしていた。その頃のことだ。面接試験に訪れた男子学生は、どんな質問をされても何も答えず、退室を指示された時に一言、「男は黙ってサッポロビール」と言い残して去って行き、それで彼は採用されたという。
中島敦の「名人伝」を読むと、弓の究極の極意は「不射の射」、即ち、矢を射ないことだと分かる。試験の極意もまた、試験を受けないことである。

我々も本当は、矢吹丈や本城裕二、そして、サッポロビールの男子学生のように、規格を超越した者のように振舞いたいはずだ。
彼らを見ると、試験にちんまり受かる者がちっぽけに思われ、試験の主催者が決めた基準に平伏して人格を捨てたような自分が惨めになってくる。
そして、実際、他人の決めた優劣に必死に合せて合格した者は、一生、他者に操られ、本当の自分を殺し、偽りの自分のまま死ぬことになる。

「ホメーロス讃歌」という、詩聖ホメーロスの詩風を真似て、ギリシャ神話の神々の物語を語った多くの詩がある。
豊穣の女神デーメーテールの物語は、その中でも長いものだが、こんな一節がある。
デーメーテールは、愛娘コレーを、自分の兄弟である冥界の王ハーデスに奪われ、失意の中、老婆に身をやつし、ある国にいた。人々は、きたならしい風のデーメーテールに冷淡だったが、この国の王女達は彼女を哀れんで城に連れて行く。ところが、娘たちが連れてきた老婆を見た王妃は、老婆から滲み出る気品に驚き、自分の席を譲る。デーメーテールは席に着かず、王女が別の席を用意することでなんとか収まった。
中国の古典にも、こんな話がある。
1日に千里を駆ける能力を持つ名馬がいたが、この馬は石運びをやらされ、脚の太い駄馬に叶わない。だが、優れた伯楽(馬を見分ける名人)がその馬の力を見抜き、馬の汗をぬぐってやると、馬は喜びにいなないた。
下らない世間の者に評価される必要はない。見る者が見れば分かれば良いではないか?

大山倍達に空手の手ほどきをした、韓国武道、借力の達人は、「男なんてのは、鞘の中の刀さえピカピカに磨いておけばいい。その刀を抜くのは、一生に一度あるかないか・・・。無いにこしたことはないんですよ」と言ったという。
(あくまで梶原一騎さん原作の漫画「空手バカ一代」のお話であり、事実かどうかは不明だが)
だが、別に男に限らないが、この世の深い法則は、自分の中の貴重なものを磨いている者を放ってはおかない。
そんな人であれば、仮に、世間的には何も良いことがなくても、世間の試験に平伏した者ほど惨めには死なず、永遠を得るだろう。なぜなら、「エゴ・スム」(I AM-吾在り)、即ち、神であることを捨てなかったからだ。







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幻想の母性

「母をたずねて」あるいは「母をたずねて三千里」という独立した小説があると思っている人も多いかもしれないが、これは、イタリア王国の作家エドモンド・デ・アミーチスの「クオーレ」という小説の、9つのお話の中の1つだ。
いまだよく知られる、1976年のアニメ「母をたずねて三千里」の登場人物のフィオリーナ・ペッピーノは、綾波レイや長門有希とも通じそうな、陰のある感情を表さない少女で、今でも人気が出そうだが、彼女も原作には登場しない、アニメのために創作された人物だ。

ところで、精神分析学者の岸田秀さんの本で読んだが、自分の本当の母親を知らない人が、その実の母親を探そうとする情熱や執念は凄いものらしい。
人間の自我の土台は母親との関係性であって、それがきちんと確立されないと、自我が安定せず不安なものだという。
岸田さんによると、三島由紀夫、芥川龍之介らは、母親との関係性が極めて希少で、彼らは自然な自我が構築されておらず、作り物の自我を持っていたという。本当かどうかはともかく、興味深い話だし、人間を考えるヒントになると思う。
ところが、実の母親を必死で探し当てたという人は、かなりいるらしいが、その後、彼らが母親と一緒に住むとか、極めて親密になるということも案外無いという。「分かればいい」程度のものらしいが、これも面白い。

手塚治虫さんは、医学博士とはいえ、別に精神医ではなかったが、偉大な作家であるだけに人間性への洞察は深く、それが医学と関連付いた面はあったと思う。だから、性教育的な漫画も何作かあるが、その中でも、あきらかな性教育の意図を持って描かれたと言える「アポロの歌」に母親に関する印象的なお話がある。およそ母親としては失格で、男にだらしなく、母としての情愛のかけらも持たない母親に育てられた息子は、すっかりねじれた性格の若者に育つ。すでに息子の方も、母親に愛されていないことなど何とも思っておらず、彼にとって母親は単なるおばさんだった。その彼が、後に、女としての感情に欠ける若い女性に、母親の思い出話をする。彼が母親と喧嘩して家を飛び出した時、走ってきた車にあわやはねられそうになった。その時の彼を見る母親の顔に彼は驚く。そこには、恐れとか強い不安の色が見え、驚くべきことに彼を気づかっていることが感じられたのだ。彼は言う、あんな母親でも、どこか通じているんだと。そして、彼は、その若い女に、あんたにはそれが無いと言う。彼女は人造人間だったのだ。

恐るべき寿命を保つアニメ作品「新世紀エヴァンゲリオン」では、純粋なマシンとは言い難い巨大ロボットであるエヴァンゲリオンのパイロットになる条件に、母親がいないことをあげているのは、実に興味深いことだ。
シンジ、レイ、アスカという3人の少年少女は、母親との関係性があまりに薄い。シンジとレイは母親を知らないし、アスカは、一応は知ってはいるが、より悲惨だ。アスカの母親はアスカに何の興味も示さないが、アスカは母親を慕い、母親に認めてもらおうと懸命になる。そして、その夢が叶おうとした時、自殺した母親の姿を見るというものだった。

以前、私は、このブログで、
悟りを開くと母親は消える
を書き、かなりのアクセスを得た。
このテーマは、やはり人間にとって、実に重要なものだ。
尚、この時、最後にあげた「父親に愛されていなかった11歳の少女」と「母親に嫌悪されていた9歳の少女」の話を出典なく上げたが、初めのは武内直子さんの「美少女戦士セーラームーン」の原作の土萠ほたるで、後のが、都築真紀さん原作・脚本のアニメ「魔法少女リリカルなのは」のフェイト・テスタロッサだ。

我々は、ある意味、母親との関係を解消すべきなのである。母親に限らない。肉親との精神的絆を昇華してしまうことが必要だ。これはもちろん、憎みあうとかではなく、親しくはすべきだが、他人と比べて、ことさらに親密であるべきでないということだ。
仙道で知られる高藤聡一郎さんは、修行が進んで、悟りまで後一歩となった時、内なる声を聞いたという。「この一線を越えると、肉親も他人と感じるようになる」と。
ジョージ・アダムスキーは、地球以外の惑星では、転生は普通に受け入れられているが、前世で夫婦や肉親であった者とも会うこともあり、それはそれで親しくなるのだが、進化した星では皆がお互いに親しいのであり、その中で特別なものではないと言う。
いずれも自然なことと思う。
これは、決して、親や子供に冷淡になることではない。むしろ逆だ。本当の意味で親しくなるのだ。
我々は、本当はどこから来て、どこに行くのか。この人類の深いテーマへの解答を得た時、それが理解できるはずだ。
岡本太郎は、直感的に理解していたから、「俺は宇宙だ」と言っていたが、全ては根源的、実相的に1つである。しかし、個人個人が分離し、孤立感を強めたことが人類の不幸の大原因なのだ。
きっと、全体に溶けることと、個性を保つことの両立がどんなことか理解できないことが、人が解脱できない原因なのだろう。自我は個体性を失うことを恐れる。
だが、ロマン・ロランの言う大洋感情、アブラハム・マズローの至高体験、W.B.イェイツのエクスタシー、夏目漱石の天賓、岡本太郎の爆発といった体験で、万物と一体化した時の至福感を知ると、それがとんでもない誤解であると知る。
人の本性は至福でしかないのである。







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崇めるという気持ち

神話をなくした国は滅ぶと誰かが言ったが、言った人はその訳を理解しているのか、それとも直観的に分かったのかは知らない。しかし、それは本当のことだ。
思想家の吉本隆明(「たかあき」「りゅうめい」いずれも使われる)さんは、「共同幻想論」で、国家が幻想で成り立っていることに気付いたと述べているが、神話と関係付けると、「神話という幻想で、民族としてのアイデンティティー(同一性)を守っている」という意味にもなると思う。そういった1つの主体性があるのだから、フロイトは、民族や国家の精神分析すら出来ると言ったのだろう。(ただ、彼は理論は超一流だが、精神分析という実践は下手だった。それでよく誤解される。)
しかし、そういったことは2番目の理由ではないかと思う。
もっと単純で、もっと重要なことがあるのだ。

国家元首を神として崇めるというのは、善政さえ行われていれば、それで案外、国は栄え、民衆は幸福なものなのだ。
だが、これも常なのだが、元首自体が堕落してしまうのだ。日本のように、元首であった時すら高貴さ、高潔さを持ち続けた日本の天皇というのは、特例中の特例であり、もっと見直してみても良いと思う。ただ、周囲が良くない場合が多かったので誤解されているのだ。

結論を言うと、人間には「崇める」という気持ちが絶対に必要なのだ。
崇めるとは、自我の上位に、自我に絶対的に優るものを置くということだ。自我は王様になってはならないのである。自我は、自分の上に、より強く尊いものを置いた時に制御されているのだ。すると、偉大な人間の側にいれば、その偉人に似てくるように、自我はその尊いものに似てくるのである。
ギリシャ神話や古事記の神様は、必ずしも高潔な性質ばかりを持っているのではない。だが、それでも人は崇め、従うのである。それは時には理不尽である。しかし、神様には、必ず人間に優るところがある。1つは、その神様が司ることでの絶対的な力であり、そして、もう1つが、神様は決して誓いを破らないことだ。神様ですら、掟には従っている。自分で立てた誓いを必ず守るという高貴な掟だ。これは、人には極めて難しいことである。
だから、人は、神様を「崇めないといけない」のではなく、「崇めさせてもらえる」のである。人には、崇めるものが必ず必要なのだ。それが無いと、暴走した自我が、自分や民族を滅ぼすのである。
国家元首は、いかに神と崇められても人間であり、彼自身も、崇める絶対的なものを持たないといけないのだが、それを持たなくなる危険性が高いのが自我の性質だ。そして彼は堕落する。しかし、日本の天皇はそうでなかったのである。きっと、天皇には、何か貴い誓約があるのだろう。それを持つものが神である。我々も、もし神のように誓いを絶対的に護れるなら、神と言って差し支えないと思う。

神は死んではならない。人は崇めるものを持たなくてはならない。
だが、ちょっと楽な話をしよう。
いつの時代でも、若者とは無作法なものだ。若者は道を譲らないし、そもそも、前を見て歩いていない。憤る向きもあるだろうが、あなたも若い頃はそうだったかもしれないのだ。
私も、通勤中に中学生達とすれ違うが、確かにそうだ。
だが、思わず道を譲ってしまうというか、譲らざるを得ない相手がいる。譲るのではなく、譲らせていただくような気持ちだ。
中学生なのだが、ギリシャ神話のアルテミスのような美少女がいるのだ。お前はアルテミスに逢ったことがあるのかと言うなら、あるといっておきたい。彼女がキュンティア(アルテミスの別名。英語のシンシア)なのだ。
私の自我を屈服させる気持ちを起こさせる相手がいるのは偶然ではない。宇宙の英知が仕組んだことであり、その意図を感じ、アルテミスを通し、宇宙の英知を自我の上位に置くことで、私はそれと溶け合い、一体化するのである。だから、奇跡も、この世も私のものなのである。神は神に道を譲る。彼女と私もそうだ。これを、神が神に逢うというのである。







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IT技術者になる真の方法

IT技術者になりたいという人も少なくないと思う。
しかし、立派に仕事の出来るIT技術者に、IT技術者の仕事とはどんな様子か・・・つまり、楽しいか、厳しいか、やりがいがあるか、辛いか、プライドを持てるか等と尋ねると、人によって返答は著しく異なる。
それが、それぞれのIT技術者の主観とか偏見ということもあるのだろうが、そもそもが本当に皆、かなり違う仕事をしていて、待遇等も著しく違うという面もある。もちろん、IT技術者と言っても範囲は広いが、たとえ同じ分野であっても、人によって、やっている仕事は相当違うものなのである。

私に、IT技術者になることを勧めるかと聞くなら、私の回答は最も変わっている。
それは、「良い仕事を引き寄せることが出来るならおやりなさい」である。
そして、これは、案外に本質を突いているのである。
どんな仕事でも同じだ。俳優になるにしたって、その仕事が楽しいかどうかは、仕事の内容次第だ。もちろん、最初から好きな仕事ばかりとはいかないだろうが、それでも、若い頃から、面白くない仕事であったとしても、いろいろな意味でだが、良い仕事が来る人とそうでない人がいるのである。

例えば、ITの仕事の中でも、企業の業務システムを開発する、いわゆるSE(システムエンジニア)の仕事は、一言で言うなら、「お客様のわがままを聞く仕事」だと私は思っている。非常にしんどくて嫌な仕事であることも確かだ。だが、そんな仕事をしながらも、どこか楽しい思いをよくする人がいるのである。
例えば、天使が付いていて、限度はあるにしても、力を貸してくれるなら、そうでない人より、はるかにうまくいくし、楽しいに違いない。そして、そういった感じのことは確実にあるのである。

戦(いくさ)において、戦力や戦術というのはもちろん重要だが、それが全てではない。勝敗を分けるのは、状況を作り出せる意思の強さである。ビジネスや恋愛も全く同じだ。
全ては、現象界を支配する能力が決するのである。松下幸之助や本田宗一郎は、世間的なことも十分にやったと思うが、例え同じくらいやっても、さっぱり駄目な者もいるのである。

状況を支配するには、誠実さや不屈の闘志なども必要であるが、その上で必要なことは、強い信念と人々のためを思う心であるに違いない。
ビル・ゲイツは、一貫して、それまでは一部の人達のものであったコンピュータを誰でも使えるものにしようとし、実際にそれを成し遂げたし、スティーブ・ジョブズも、ゲイツとは異なった視点でそれを実現するため、コンピュータを楽しいものにし、誰もが喜んで使おうとするものにしたのだ。
昔で言えば、ヘンリー・フォードは、それまで政府や金持ちのためのものであった自動車を、自動車会社の工場労働者でも買えるものにしようとして、それに成功したのだ。
だから、彼らは幸運であり、必要な状況を全て引き寄せ、時代の流れまで作り出した。
どんな仕事でも、それを通して、人々の役に立とうと思うなら、適職になるだろうし、運にも恵まれるに違いない。







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果てなき自信を得る方法

「自信を持て」と言われつつ、「謙虚であれ」と言われる。
さらに、「謙虚であれ」と言われつつ、「卑屈になるな」と言われる。
確かにその通りなのかもしれないが、これらに関する世間のさじ加減は独断的で、実際のところ、我々は混乱してしまっている。

だが、誰もが、今、このままで自信を持つべきなのである。
自信があってこそ謙虚でいられるのだ。自信の無い、表面上の謙虚さを卑屈と言い、それは、相手によって露骨に態度を変える。自信の無い者が、弱い相手に見せる傲慢さがその本性である。
人は自信を持つべきだし、誰もが、自信を持つに値するはずなのである。
壮大なる自信の言葉を述べよう。

私は世界の所有者、
七つの星と太陽年の所有者、
シーザーの手腕、プラトンの頭脳の所有者、
主キリストの愛、シェイクスピアの詩の所有者。

これは、アメリカ最大の賢者ラルフ・ウォルドー・エマーソンのエッセイ集「精神について」で、「歴史」と題したエッセイの冒頭に書かれた詩だ。
エマーソンは、「歴史」の中で述べている。
「偉人や英雄について書かれたものを読むとき、自分について書かれていると思わないといけない」
世間に教育されていない子供はみんなそうしていると言う。
福音書は、イエスであるあなたについて弟子達が書いたのであり、「神統記」は、詩聖ヘシオドスがゼウスであるあなたの物語を描いたのだ。
そして、エマーソンの「歴史」や「自己信頼」を読むと、それが紛れもない事実であることが分かる。
ジョセフ・マーフィーは「あなたは不安なしに生きられる」(絶版)で、旧約聖書を読む時、その意味を知りたければ、かつて自分がそれを書いた時のことを思い出せば良いのだと述べている。
シェイクスピアもウェルギリウスも、全て自分が書いたものである。
サルトルも言った。本を読むことは、それをもう一度書くことであると。
ダ・ヴィンチの絵を見た瞬間に自分でそれを描いたのであり、ベートーヴェンを聴く時にはベートーヴェンになっているのだ。

ひろさちやさんは、「空海入門」で、普通の仏教は、仏陀になることを目標とした教えだが、空海の密教は、今すぐ仏陀になって、仏陀として生きる仏教であるという。
ニサルガダッタ・マハラジは言う。「神であることを体験しなさい。体験が一番だ。時間も空間も超えた者。身体も心も超えたものとして振る舞いなさい」
仏陀とは、人のままの仏(如来)であり、キリスト(神人)とは、人のままの神であろう。なら、仏陀が傲慢なはずがないし、キリストが謙虚でないはずがない。
いかに王でも、奴隷の真似をしていれば家来は従わない。王は王らしくあるべきである。
あなたが本当はキリストであっても、キリストらしくなければ神の力は発揮されない。イエスは、それを教えるために、キリストらしく生きる手本を示したのである。それを弟子達が記したのが福音書である。













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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
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・サイコパス
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