ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

自分が価値があると言えば、それが価値である

有名な映画評論家だった淀川長治さん(1909-1998年)は、本当に映画が好きな人だったのだろう。
「日曜洋画劇場」では、1966年の放送開始から、亡くなられた1998年まで解説を行った。最後の解説となった、ブルース・ウィリス主演の「ラストマン・スタンディング」は、実に淀川さんが89歳で亡くなられる前日に収録されたもので、まず、淀川さんは自分のコンディションの悪さを詫びてから、かすれる声で解説を行うという凄まじいものだった。

この淀川さんの解説の中で、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」について、淀川さんは、この映画を4百数十回見たが、見る度に必ず涙を流すと言っておられたのが印象深い。
私はその時、「太陽がいっぱい」そのものより、淀川さんの人生に非常に興味を覚えた。
淀川さんにそこまでさせたのは、作品の素晴らしさだけでなく、この作品に自己のバックグラウンド、あるいは、自己そのものを投影させた淀川さんの凄まじい情念のようなものであるに違いないからだ。

「ナンセス文学」というものがある。ナンセンス文学を難しく解説するとさっぱり意味が分からなくなり、それこそナンセンスだが、早い話が「特定の意味のない文学」である。
特定の意味がないのだから、意味付けは読む者次第である。
私は、あらゆる芸術が、本質的にナンセンスなのだと思う。
淀川さんにとって、「太陽がいっぱい」はナンセンス映画だった。いや、誰にとっても、どんな作品も、本当はナンセンスだ。
だから、淀川さんにすら、「太陽がいっぱい」の意味を、作品の本質の意味として聞いてはいけない。あくまで、淀川さんの「太陽がいっぱい」として解説を聞かないといけない。しかし、それは決して作品の価値をないがしろにしたり、貶めることではない。
いかなる芸術作品も、作品だけでは価値はない。見る者があって初めて価値が出る。優れた人が見れば、作品の価値が引き出される。淀川さんが見ることで「太陽がいっぱい」の価値は無限に大きくなったのである。

あなたにとって最高の小説、映画、絵画、彫刻、音楽、漫画、アニメ、俳句、和歌は、全て、あなたが価値を創ったナンセンス作品である。
良いナンセンス作品を持つことが人生を豊かにする。
その作品に対する、いかなる権威的な定説や解説も無視して良い。重要なのは、あなたの、あなたによる、あなた自身の解説だ。
自分にとって最高のナンセンス作品は何であっても良い。世間の評価(権威者の評価とほぼ等しい)など何の意味もない。評判の映画、小説だといった宣伝文句など知ったことではない。

自分にとってのナンセンス作品に関し、世間の評価はもちろん、その作者や、その映画、アニメなどの制作者がどんな思いで作品を創ったかも、自分にはほとんど関係がない。だから、作者と全く異なる意味付けをしていることもあるだろう。いや、異なって当たり前だ。
学校では、作品に対し、同じ感想や意味を持たせようとするが、とんでもない話である。それは、人が人でなくなることだ。人は意味を創造する権威を与えられているからだ。
繰り返すが、作品に対する、いかなる他人の評価もあなたには関係がない。世間の評判も、権威者の定説も、マスコミの宣伝も全部無視しなければならない。1億円の絵画も、自分が価値がないと思えば梱包の箱にしろ。実際、いまや値段も付けられないと言われる浮世絵の多くは、もともと梱包の箱に使われていた。誰がどんな低い評価をしようとも、自分にとって最高であるなら間違いなく最高だ。価値は自分で決める。私が価値があると言えばそれが価値になるのである。







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個人の心は裸の王様

最近、つくづくと思うのが、「利己的な人間というのは、まだマシだ」ということだ。
利己的な人間とは、自分さえ良ければ他人がどうなろうと知ったことではないという考え方で生きている者のことである。それだけなら、まだ良い方だということだ。
それどころか、積極的に人を苦しめ、困らせて喜びを得ようとする者が明らかに多くなってきている。

例えば、人が2人通れる幅の道があり、もし対向して同じ側を歩いている場合は、どちらかがよけないと衝突する。
そんな時、最も良いのが、道を譲りたいと思うことだ。
次が、相手によけて欲しいと思うこと。
最も悪いのが、相手がよけるべきだと思うこと。
もうかなり昔、道を譲らない若者が多いことが指摘されたが、彼らが大人になったせいかどうかは知らないが、ほとんどの者が「相手がよけるべき」と考えているように思う。
しかし、それは、いまやマシなのである。
今は、異なる側を対向して歩いていても、相手の側にわざわざコースを変え、相手によけさせようとする人間が多くなってきた。おそらく、それは無意識になされていおり、本人に自覚はない。

その家の住人に恨みがあって放火するというのは、良いはずがないまでも、理解できる部分はあるとしよう。
しかし、火事になると、みんなが大騒ぎして面白いから火を付ける者が、これからますます増えるだろう。
前者は、「恨みがあるからやった」で、後者は「面白いからやった」であり、いずれの場合も「いったい、何が悪いのか」と思っているのである。
女性をレイプして、「気持ちいいからやった。いったい、何が悪いの?」という人間は、今も多いし、これからはもっと増える。一般的に、これは、女性の人格を無視したことと言われるが、今後はさらに、無視ではなく、女性の人格を破壊するようなことを行わずにおれない者が増えてくる。「ただのレイプじゃつまらん。もっと刺激的に、もっと女を痛めつけ、屈辱を与えるべきだ」とする者である。

さて、なぜこのような者が増えてきたのだろう。
(個人の)心を優先させたからだ。
心は、面白いこと、楽しいこと、楽なこと、気持ちよいことを求める。
美味しいものを沢山食べたい。自分の安全を第一に守りたい。他人より上の立場に立ちたい。お金持ちになりたい。格好の良い、美人の恋人が欲しい。
心はそう思う。
しかし、心より上のものが存在する。それは、
「質素な食事をしろ」「食べ過ぎるな」「弱い者を守れ」「見下すな」「余分な金を持つな」「自分を磨けば相応しい相手が見つかる」
と言っている。そう言う存在を、神、より高い自己などと言ってきた。フロイトは超自我と言い、ある哲学では、それをただ意識(意識と心は異なる)と言う。
最も抵抗が少なく、意味が分かりやすいという理由で、高位の自己と言うが、我々は、身体と一体化した心を優先し、高位の自己を無視し続け、いまや、高位の自己の存在を忘れてしまった。
心に支配権を与えると、心の性質上、楽な方、楽しい方、快楽を求める方向にのみ突き進むことになる。なら、現在の状況になるのは当然である。
だが、いくら楽しい状況、楽な状況、快楽に溺れる状況を得たとしても、心が支配権を持つ限り、快楽の欲求は増え続けるばかりだし、同時に、不安も増大し続ける。
高位の自己に支配権を渡し、心がそれに従うことで、平和が得られる。
現状を続ける限り、他から滅ぼされるのではなく、我々は自滅するのである。その前に、我々を滅ぼしてくれる者がいるなら、むしろ幸いである。
破滅を避けたいなら、少しでも、心を高位の自己に従わせることだ。心の欲求ではなく、高い意識で良いと感じることをやってみることだ。その中で最も良いのが食を慎むことだ。簡単で分かりやすい。空腹でもないのに食べないことだ。満腹するまで食べないことである。今は、「こんなところでまで食べないといけないのか?」と思わせる者が多くなってきた。電車の中、駅のホーム等のベンチ、路上でバリバリと袋を開けて貪り喰う連中の醜さ、おぞましさをよく見ることだ。それが、高位の自己を捨て去り、個人の心を王様にしてしまった者のなれの果てである。





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来るべき世界

あらゆる動物の中で、人間は大人になるにのかかる期間が異常に長い。ほとんどの動物は1年くらいで大人になる。
もちろん、本能だけで生きていける動物と、知的に教育しないといけない人間との違いはあるが、人間でも、教育に手間と時間をかけるほど幼児化すると言えないだろうか?
また、老後なんてものがあるのも人間だけだ。これも、人間は知的な社会を持つおかげで、他の動物のように、身体の衰えが直接には死につながらないのだが、高齢者をますますないがしろにするようになってしまっている。

人間は、一人前になるのに最低でも15年は必要とされているようだ。日本では20歳で大人であり、17歳は児童だ(!)。しかも、実際は、20歳は一般にひどく幼稚で、成人式は30歳くらいで丁度良いという意見も冗談にならない。
そして、我が国では60歳くらいを定年とするが、事実上、それ以降が老年である。
しかし、18歳未満を児童扱いすることで、中学生や高校生が本当に幼児化している。そして、60歳を社会からの引退時期とみなすことで、60代が本当に老人になっている。
しかも、実際は、17歳まで子供として扱われることで、30代以上まで精神の幼さを引きずり、60歳を老人と思うことで、40代や50代からはっきりと老化を見せ始めている。
その結果、現在の日本は、子供か老人しかいない社会になっていると言えば、妙に納得がいく気がしないだろうか?

ところで、アニメに登場するヒロインは、いくら若くても、精神的には大人である。(最近は、そうでない作品も増えてきた感じはするが、それは置いておこう。)
「カードキャプターさくら」という作品で、ヒロインのさくらは9歳だが、こんなことがあった。
さくらと親友の知世は、翌日の日曜日にピクニックに行く計画を立てていた。しかし、それを聞いた父親は戸惑う。高校生の兄は、表面上は平気な顔をしながら、さくらに、明日はお前が家事当番であるときっぱりと告げる。さくらの母親は、さくらが3歳の時に死んでおり、今では、さくらも含めた家族3人が交代で家事をしていたのだ。
ここからがすごい。現在の日本ではあり得ないことだ。
さくらは残念な顔をしながらも、すぐに納得するのだ。父親も、さくらに同情を示すが、だからといって、善処を考えない。そもそも善処のしようがない。兄は、内心はさくらを可哀想に思っているのだろうが、表には一切出さない。この兄は高校2年生だが、本当に大人である。中学3年生の時に、教育実習に来ていた超美人の女子大生と交際したこともある。また、おこづかいはもらわず、1年中バイトをしている。また、さくらから電話で連絡を受けた知世も、がっかりはしながらも、やはり仕方がないとすぐに諦める。
我が国の実際の9歳なら、そもそも家事の役に立たないし、我慢を知らず、思い通りにならないとダダをこね、わめき、結局、わがままが通ってしまうことが多い。
ちょっと話は変わるが、このアニメでは、さくらのひいおじさんが登場するのだが、いわゆる老人臭さはほ全くなく、忙しく働き、さわやかで逞しく、自分のいたらなさを自覚して成長する。
この作品の原作漫画では、小学校の男性教師とその女子生徒が、対等な立場で恋愛して(世間の手前、隠れてだが)、男性教師は彼女に婚約指輪をプレゼントし、その女子生徒は本当に幸せに感じる。
さっき話に出た、さくらの親友の知世は、「私の一番好きな人が、自分を一番好きになってくれなくてもいい(それでも気持ちは変わらない)」と言う。
そして、そういったことを見ていると、実は、これらが、そんなに違和感のあるものではないと感じる。

本来、人間は、正しく育てれば、遅くとも14歳には立派な大人になる。そして、特に学校に行かなくても、現在の大学生など足元にも及ばないような勉強が自分でできるだろう。
また、70歳を過ぎていても、立派な仕事はちゃんと出来る。ただ、現在の大量消費の経済至上主義社会(欲望社会と言える)では、計算と協調と定型労働ばかりが強要され、年配者向きの仕事がないのは確かである。
私は、人間は、資質としては、10歳で大人、100歳まで、あるいは、生きている限り現役ということは全く可能と思われ、人類が精神的に進歩するなら、自然にそうなると信じるのである。社会もそのために相応しい形があるはずだ。
一応空想とするなら、2歳で幼いながらも、自分の役割を果たし、外見も今の10~12歳並で、数百歳でも若い容姿と能力を持つ潜在力が人間にはあると信じる。その頃には、お金というものは存在しないし、富を独占しようとする者などいない。人々は、自分のやっていることを労働とは思わないだろう。







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潜在意識の法則の、唯一最大の誤り

アメリカのジョセフ・マーフィー(1898-1981)という牧師は、子供の頃からの神秘体験や、心の持ち方で自分や家族の難病が治ってしまうのを何度も見て精神世界に目覚め、聖書の教えを実世界に応用して理想の世界を精神の力で創り出す方法を人々に教えるようになりました。
マーフィーの教えは潜在意識の法則として知られています。

ただ、注意しなければならないのは、心、精神、潜在意識、あるいはその関連の、顕在意識、無意識といった言葉には厳密な定義はありません。なぜなら、人間は、まだまだ、心のことなんてほとんど何も知らないので、それぞれの人が、かなり勝手に独自の意味でこれらの言葉を使っているからです。
現在知られている心の理論は、根本的にはフロイトが構築したものです。ところが、フロイトは実は学者ではなく精神科医です。そして、非常に真面目で熱心なお医者さんではありましたが、実際に治療に成功したことはほとんどありませんでした。しかし、その精力的な治療行為が有意義な実験になって精神分析学を構築したということだと思います。ただ、その献身的で親身な治療により、患者には非常に信頼され、感謝されることが多かったようです。
おそらく、精神科医の治療なんてのは非常に難しく、フロイトでなくても、実際に成果を上げることは難しいのだと思います。
その中で、魔法で治しているのではないかと言われるほどの優れた成果をあげた精神科医がミルトン・エリクソンです。彼は本当に驚異的な存在だったと思います。よって、精神について知りたいなら、エリクソンの教えにあたるのが一番と私は考えています。精神医のみならず、エリクソンの娘が教師として驚くべき優秀さを示したように、心を扱う必要を感じている全ての人についてそう言えると思います。

マーフィーの話に戻ります。
私自身は、マーフィーの潜在意識の法則にはかなりお世話になったわけです。
幼い頃からの引きこもり気質で、おそらく、一生、社会で働くことは無いと思われ、大学に入るも、早々にニートを決め込んでおりました。
それが、19歳の時に、マーフィーの「あなたも幸せになれる」(原題は宇宙の活力といったようなタイトルです)を読み、精神の中に驚くべき力があることを知ると、それが自信になり、引きこもり気質が治ったというのではないですが、セールスマンになってセールスコンテストで優勝したり、有能なシステムエンジニアになって、仕事が新聞やテレビで紹介されたり、取材を受けたりもしたものです。

昨今は、引き寄せの法則が人気があるようですが、私は、引き寄せの法則も潜在意識の法則と変わらないと思いますし、マーフィー自身も引き寄せ、あるいは、牽引(引き寄せと大体同じ意味)の法則という言葉をよく使っていたと思います。
マーフィーを日本に紹介したのは、著名な知識人で評論家・学者の渡部昇一さんです。ただし、彼はマーフィー関係ではずっと大島淳一という名を使い、それらが同一人物であることは知られていなかったと思います。
ところで、私は、渡部昇一さんも好きなのですが、個人的にはあれほど抵抗も感じさせる人も珍しいと思います。彼の主張に対して、非常に納得でき賛成できるかと思うと、まるっきり否定はできないまでも奇妙なひっかかりを感じるといったものもよくあります。おそらく、渡部さんという人は、かなり複雑で多面的な人ではないかと思いますが、渡部昇一論なんて始めますと大変なことになりかねませんので、やめておきます。

そして、マーフィーの潜在意識の法則に関してもそれ(奇妙な抵抗)があります。
その中で、はっきり、これは問題だと思うところがあります。
ひょっとしたら、翻訳でのみそうなっているのかもしれないかと思いましたが、明らかに障害になるところがあります。
それは、顕在意識(意識する心)が主人、指揮官、命令する者で、潜在意識(無意識および無意識の中の無限の力)がそれに従うというところです。
これはまるっきり逆です。
潜在意識が主で、顕在意識が従でないと幸福になれません。
イエスが、「私の思いではなく、あなた(神のこと)の思いが行われますように」と言ったことがそれを指しています。
潜在意識は、直観、閃き、フィーリングとして、我々に命令を与えます。その通りにやればあらゆる苦労はなくなります。
マーフィーも言うように、潜在意識は無限の叡智でもあるのだから、それが当然と思います。なぜ、浅はかで愚かな我々個人の心が、至高の叡智に命令できるのでしょうか?
ただ、直観、閃き、フィーリングを受けるには、心が静かでないといけません。そのためには無欲でないといけません。
あれだけの理論を構築したフロイトが実際には患者の治療には成功しなかったように、マーフィーの潜在意識の法則には、心惹かれるものがありながら、それによって幸福になった人はほとんど皆無であるのは、きっと、我々には根本的に欠けたところがあるのだと感じています。しかし、それが何かが分かれば、事は意外と簡単であると思います。ただ、簡単なことが一番難しいとも言えるのです。世の中、ままならぬものですが、そのままならないということが最大のヒントと思います。
黒住宗忠は、「神様に全部まかせれば、面白いことばかり」と言いましたが、自我がプライドを捨て、無限の叡智に従う時、全てうまくいくはずです。







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ユリ・ゲラーの本物の超能力とは

批判も多いながら、決して影響力の小さくはない謎めいた人達がいます。例えば、超能力者と言われるユリ・ゲラーや宇宙人とのコンタクティー(接触者)と言われるジョージ・アダムスキーのような人達です。
ただ、間違いなく言えることは、彼らが、本物の超能力者やコンタクティーであるかといった議論に決着が付くなんてことはあり得ないということです。
もしかしたら、ユリ・ゲラーは、超能力パフォーマンス(例えばスプーン曲げ)でトリックを使ったことがあるかもしれませんし、アダムスキーもUFOの工作写真を撮ったかもしれません。しかし、それらの全てが虚偽であるとは誰にも言えないでしょう。
我々も、別に、それらにカタを付ける必要はないですし、付けられるはずもありません。言うなれば、どう考えるかは個人の自由です。
また、それで、子供の教育や社会秩序に害悪があるはずもないと思います。もしあるとすれば、それはきっと別の原因があるのだと思います。
例えば、あるところでは、地球が丸いと思っている人と、地球が平たいと思っている人が混在しているらしいですが、その街はとても平和と聞きます。一方、ほとんど全ての人が地球が丸いと思っている街がひどいところだったりします。特定のことがらについての個人的主義や信念と、平和や秩序は別のものです。そう思わないのは独裁者くらいのものです。

ユリ・ゲラーやアダムスキーと聞くと、「ああ、あのペテン師!」「あいつらは嘘つきだよ」と疑いもないような反応をする人達もいると思います。実は恥ずかしながら私もそうだったのですが、それは単に、「そう聞いたから」以上の理由はありません。
例えば、小沢一郎と聞けば、「不正な政治家」「悪いことをしているに違いない」という反応をしたり、中国ではみんなが反日デモをしていると思っているような人も少なくないと思います。それもただ、マスコミに扇動されただけのことで、自分で何か確かめた訳では決してないでしょう。
そして、我々の信念とか観念の大半はそんなものだと思います。子供の頃に、親とか身近な大人、そして、学校でそう言われたからそう思っているというだけで、そんな習慣が出来ていれば、マスコミや活字や企業のCMも簡単に信じてしまうという訳です。

ところで、私はユリ・ゲラーの著書を読んで感心したことがあります。
彼は一度、カジノで超能力を発揮して、大勝ちし、大金を得たことがあるようです。
ところが、その金を持って車に乗っている時、心に凄まじい動揺が起こり、その金を道路に投げ捨てたと言います。
テレビで彼のサイキック・パフォーマンスを見ても、彼について何も分かりませんし、さして興味も感じませんでしたが、それを見て、いくらか関心を持ちました。

ギャンブルで儲けることと、金融取引で儲けることで、注目すべき共通性があります。それは、実際の生産、販売、サービスを行うことなく利益を得るということです。
ヘンリー・フォードは、自伝「藁のハンドル」で、実際の販売やサービスを行うわずに、金を動かすだけの実体のないビジネスを強く戒めていました。
例えば、投資というものは、本当は、それで儲かるかどうかが重要なのではなく、自分が投資するビジネスに本当に期待し、発展を願っているという理由で行うべきものだと思います。
しかし、いまや、儲かりさえすれば良いと思うことに何の疑いも持っていない投資家や投機家だらけになってしまいました。

お金というものは、物やサービスを得るために、別の物やサービスを直接提供する物々交換が不便なので考え出されたもので、それを得るには、販売やサービスの提供を行うべきものです。
ところが、販売やサービスをせずにお金を得れば歪みが生じ、そういったことが多くなれば、歪みも大きくなり、やがて破綻が起こります。その破綻とは、歪みを正そうとする自然の摂理です。得るべきでないものを得た分は、後で強制的に取られるのです。本来、強制的、つまり、無理矢理ということは望ましくありません。混乱、苦痛、災厄を伴う危険が大きいからです。
しかし、個人だって、サービスの提供なくサービスを受けていれば、歪みが生じます。そしてやはり、その歪みを正すための自然の摂理が必ず働きます。それは、その人の平和や幸福に必要なものを奪うことによってだと思います。例えば、愛情や友情や健康といったものです。投資や投機で儲け続けた人を見ると、例外というものは無いと思います。

私なら、恐ろしくて、販売やサービスの代償でないようなお金を持つ気になりません。ユリ・ゲラーは、そのことを直感的に感じたのだと思います。
ユリ・ゲラーのその話が本当であるとすれば、彼にスプーンを曲げる能力があるかどうかは知りませんが(興味もありません)、優れた直観という超能力はあるということだと思います。







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