ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

最悪の場合を覚悟する

今朝の記事で、久々に、五島勉氏の著書『ノストラダムスの超法則 死活の書』(青春出版社)を引用したので、この本をちょっと引っ張り出してみて驚いた。
私が持っているのは、第36刷で、1995年3月20日の印刷とあるから、26年も前の本だが、今日発売と言っても誰も疑わないほど、どこから見ても新品である。
表紙カバーはピカピカツヤツヤだし、本文の紙も全く黄ばんでおらず、真っ白である。
だが、本の小口(前小口)、つまり、背と反対側は、何度も読んでいるので、手垢がついて黒ずんでいる。
通勤時に、バッグに入れて持ち歩いたことは何度もあるので、それなりに乱暴に扱ったような気もするが、カドがどこも凹んでもいない。
私の家にある本は、少なくとも千冊は超えていると思うが、こんな本は他にない。
まあ、最近は、私は、本はほとんどがAmazon Kindle書籍で購入するが、こちらは購入数が1050冊とすぐに分かる。それで考えると、紙の本は数千冊あるかもしれない。
最近は、置き場がないという理由だけで、紙の本は出来るだけ買わないのも納得出来る。
イギリスの作家コリン・ウィルソンは、電子書籍がなかった時代のある時期、蔵書が2万冊あり、本を保管するために、庭に小屋を次々に建てたらしい。それに比べれば可愛いものだ。
尚、ウィルソンは、その蔵書の大半を実際に読んでいたようだ。

話が脱線した。
この 『ノストラダムスの超法則 死活の書』は、私のバイブルだった。
著者の五島勉(ごとうべん)氏は、昨年(2020年)6月16日、91歳で亡くなられた。
博識で、読者を惹きつける面白い文章を書く素晴らしい作家であった。
で、その本の教えを一言で言えば、「最悪の場合を覚悟せよ」である。
私が直接付き合いのあった経営者の方々は、大体、そんな雰囲気のことを言っていたと思う。
即ち、経営においては、「最善を期待するが、最悪を想定して行う」が大切であるようで、彼らの書棚を見ることがあれば、1冊くらいは引き寄せの法則の本があったが、彼らは決して、最善を想定するような脳天気ではなかった。
ただ、ある意味、そのようなマイナス思考ではあっても、楽天的でもある人が多かったと思う。
とはいえ、やはり、良い経営者は、「最悪の場合を覚悟せよ」という、この本の主張と合った考え方をしているのだと思う。
ところで、この本に推薦文を書いているのは、なんと、舛添要一氏と竹村健一氏で、この本の精神の重要さを力説しておられた。

この本の教えを、別の言い方で表せば、
「あなたは野たれ死にすると思え」
である。
木枯らし紋次郎は、明確にそんな考え方をするヒーローだったから魅力があった。
もっと軽い言い方を見つけるなら、「ダメモト」思考とも言える。
「彼がいつか私を捨てるのではないか?」と相談されれば、「はい、あり得ますね。そう覚悟しなさい」となる。
「ある可愛い女の子に告白したい。うまくいくでしょうか?」なら、「駄目ですね。振られると思いなさい」である。
これでは、引き寄せの法則、潜在意識による成功法則と全く逆である。
だが、最悪を覚悟した時、あるいは、どん底にある時こそ、急上昇のきっかけがあるのである。
そんな希望も、この本は説いている。

ただ、この本の価値を認める私が言うが、上記のような主張を、あまり真に受けない方が良い。
ただ、「多少は、このような教えを理解することで、おめでたい考え方をする軽薄な人間になるな」と言いたいだけである。
よく、引き寄せの本を熱心に読んでますとか、アファーメーションをやってますと言う人がいるが、彼らの多くを見て、「こいつ、多分駄目だろう」と思うことが多いのだ。
どこか軽薄で、自己中心的で、甘ったれているのである。
一方、良い経営者は、いかに経営が順調でも、社員を大切に思う限りは慢心しないものなのだ。

とはいえ、「若い時の苦労は買ってでもしろ」というのも、必ずしも正しいとは限らない。
なぜなら、およそ苦労をしたことがないが立派な人物はいるし、散々苦労をした愚か者もいるからだ。
要は、心構えだ。
だが、アファーメーションを本当に数多く繰り返せば、心構えも出来てくると思う。
なぜなら、心構えというものは、やはり、子供の時から聞かされ続けた言葉から出来ているからで、間抜けな人間は、不幸にも、親や教師やテレビから間抜けになる言葉を言われ続けたのだ。
それを打ち消し、真っ当な心構えを作るには、良い言葉を繰り返し心に送るしかないのである。

尚、五島勉氏の『イソップ物語 その恐ろしい真相』『未来仏ミロクの指は何をさしているか』も、個人的に超お薦めである。








  
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せめて立派に

こんな感じの本があった(私は最初のあたりを少し読んだだけ)。
20代か30代の男性が癌で余命3ヵ月の宣告を受けた(余命期間は違っていたかもしれない)。
だが、その男性は諦めず、あらゆる手を尽くす。
しかし、何をやっても効果を発揮せず、希望は消えてしまう。
そして遂に、その男性は、「神様、僕の負けです」と降参したら、癌が治った。
これは、自分の力でやることを諦め、神様に全てまかせたということと思う。

上記のそれは、「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に完全におまかせします)と、アメリカの公式標語「In God We Trust(我々は神を信頼する)」を、究極的に実践したのだと言って良いと思う。
大きな願いを叶えようとすると、いずれ、二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなる状況になる。
自分の手には全く負えない問題だということが明確に分かってしまうのだ。
それでも諦めずに前に進もうとする者が勝利するのだが、とにかく、自分には打つ手がないのである。
ここで、とても奇妙な精神状態になる。
何と言って良いのか難しいが、
「自分の、あるいは、人間の力が小さなものであることを肯定的に認める」
といったような感じだ。
あるいは、
「負けを肯定的に認める」
「負けを肯定的に受け入れる
といったところかもしれない。

五島勉氏の『死活の書』に、こんな話がある。
若い騎士が、美しい姫様と名誉を賭けて、強い騎士と決闘をすることになった。
相手の方が強いことは分かっている。
そこで彼は、天下の予言者ノストラダムスに運命を見てもらうが、ノストラダムスは彼の敗北と死を断言した。
ノストラダムスの信頼に足る雰囲気からも、彼は運命を受け入れ、白い馬と白い鎧(死ぬつもりの時のいで立ち。白装束のようなもの)で決闘に挑んだ。
だが、決闘に勝ち、再度、ノストラダムスを訪れると、ノストラダムスは、
「あなたが死を受け入れたから勝ったのです。本当はあなたの負けだった」
と言い、騎士は納得した。
この騎士は、自分の命、そして、名誉と姫を失うことを受け入れたが、恨みや嘆きはなかった。
本当に、こんな時の心の状態を言うのは難しい。
しかし、私は、良い言葉を見つけた。
それは、
「せめて立派に戦おう」
だ。
いや、五島氏の本にも、そう書いてあったかもしれない(かなり前に読んだので、あまり覚えていない)。
最初の、癌で死ぬことになった男も、希望は断たれたが、「せめて立派に」のような心があったのだと思う。

『武士道』自体に書かれているかどうか知らないが、江戸時代の武士は、戦が起こらず、戦で国や領民を守るという武士の役割はなくなっているにも関わらず、働かずに食べていける特権を持っていることを後ろめたく思っていた。
そこで、「せめて立派に生きよう」と思ったのだそうだ。
それが、世にも稀な美しい精神である「武士道」に昇華されたのだと思う。

法然も親鸞も、自分が本当はつまらない人間だということをよく知っていたのだ。
それで、せめて立派に念仏を唱えようと思ったのではあるまいか。
「せめて立派に」
これが、神仏に近付く鍵であると思う。








  
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運が良くなる大物への甘え方

内輪のセミナーで、良い先生を呼んだ時、その先生が言われたことがある。
「大物には甘えなさい。大物は甘えればお宝をくれる」
私もそうだと思う。
甘えさせてくれないなら大物ではない。
だが、こちらも甘え上手でなければならない。
別に難しいことではなく、いつも変わらぬ、相応しい敬意を払うことだ。
史上最高のプロレスラー、ルー・テーズは十代の時、ジョージ・トラゴスという名レスラーの弟子になったが、周囲の人達はトラゴスの弟子になることに反対した。
トラゴスはレスラーとしては優れていたが、コーチとしてはひどく評判が悪く、弟子を大切にせず、潰してしまうことも多かったという。
だが、トラゴスはテーズの世話を熱心にしただけでなく、車で送り迎えすらしてくれたらしい。
80歳で自伝を書いた際、テーズは、それは自分がトラゴスを(そしてレスリングを)リスペクト(尊敬)していたからだろうと述べていた。
たまに敬意を払うとか、本人が居るところでだけ慇懃(いんぎん。丁寧で礼儀正しいこと)に振る舞えば良いというのではない。
本人が居ようが居まいが、いつでもどこでも、大絶賛するくらい(さすがに本人の前では照れるので控え目にやるだろうが)でないといけない。
まして、たとえわずかでも、陰口を利くようでは話にならない。
本当に敬っていれば、自ずと伝わり、そうであれば、大物というのは優しいものなのだ。

ところで、本物の大物は運が良い。
言い換えれば、いつも運が良いのが本当の大物だ。
そして、運が良い人にくっつくと、自分も運が良くなる。
だから、ますます、本物の大物に甘え、くっつくべきである。

だが、身近にそんな大物がいない場合は?
心配無用だ。
最大の大物は神様、仏様なのだから、神仏に甘え、崇めれば、お宝はくれるし、運も良くなる。
宗教的な信仰の熱心さとは必ずしも一致しないが、神様、仏様が好きな人というのは、運が良いものだ。
例えば、ラーマ神の熱烈なファンで何十万回も「ラーマ」の名を唱えたある人は、毒を飲んでも平気だったという話がある。
法然は、「南無阿弥陀仏」を1日6万回唱えるほど阿弥陀如来を敬い甘えて(念仏とは仏に甘えることである)いたので、危機的状況でも、いつも救われ、最後は暖かい布団の上で80歳で安らかに亡くなった。
もちろん、「神様の奇跡が起こる」という言葉も、丁寧に唱える限り、神を崇め、甘えることになり、きっと幸運に恵まれるだろうし、決定的な幸運が訪れるかもしれない。

美しい女神様が好きなら、インドのターラー女神(仏教ではターラー菩薩)を崇めると良いと思う。
私は、ターラー菩薩の44枚のカードを持っているが、ターラー菩薩は観世音菩薩の涙から生まれたと言われる16歳の美しい乙女の姿の菩薩様だ。
「ターラー」と名を唱えると良い。
心と身体に良い音の聖名であると思う。








  
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壁を壊す

アファーメーション(肯定的断言)を行っているのに、なかなか良いことが起こらないとしたら、その理由は、ほぼ間違いなく、これまでに築いてしまった、強固な心の壁のせいである。
フローレンス・スコーヴェル・シンは、この心の壁を、旧約聖書の『ヨシュア記』に出てくる「エリコの壁」に喩えた。
自分のエリコの壁を壊さなければならない。
『ヨシュア記』では、時の声を上げることで、エリコの壁が崩れた。
ところが、時の声こそがアファーメーションであるとフローレンス・スコーヴェル・シンは言う。
つまり、壁があるなら、まだアファーメーションが足りないのだ。

アファーメーションを心掛けていると、本当によく気がつくのは、放っておいたら、頭の中で、マイナスの言葉がいかに多く起こるかだ。
そのマイナスの言葉がエリコの壁を強化しているに違いない。
そして、長年、アファーメーションをせずに放置した怠惰のせいなのかと思うが、すぐに頭の中で、ロクでもないおしゃべりが始まる。
脳科学の研究によれば、人間の頭の中では、1分間に300ものつぶやきが起こるらしく、現代人の場合、そのつぶやきは、ほとんどがマイナスの言葉だと思われるのだ。
そこで、もう何でもいいから・・・例えば、「大丈夫」「勝った」「ありがたい」「絶好調」などのプラスの言葉を、意識的につぶやかないと、マイナスのつぶやきに攻められ続け、エリコの壁はますます強固になる。
ジョセフ・マーフィーは、どうせなら、1つの言葉で百の概念が起こる言葉をという意味で、「成功」「富」「勝利」などの言葉を、最も高い効果を発揮させるために、静かに、ゆっくり繰り返すことを薦めている。
そして、最も良い言葉の1つが、七田眞氏が『奇跡の超「右脳」開運法』で書かれていた、「神様の奇跡が起こる」だ。
良ければ、暇があれば「神様の奇跡が起こる」と唱えることをお薦めする。
無論、自分の信念、あるいは、好みに従い、「南無阿弥陀仏」「アジマリカン」と唱えても良い。

幼い時から、テレビと学校で叩き込まれた奴隷的常識というエリコの壁は、本当に強固である。
我々の使命は、なんとしても、このエリコの壁を崩すことだ。
そうすれば、我々は先に進み、膨大なお宝を得ることが出来るのである。
エリコの壁が崩れるまで、我々は、諦めず、挫けずに、弛まずアファーメーションを繰り返さなければならない。

「常識に囚われてはいけない」というが、長年かけて作ってしまった世間常識に囚われるのは仕方がない。
イエス・キリストは立派な人だという常識を持っているかもしれないが、あんなのが(笑)、もし現代にいたら、教会に立ち入り禁止になるだろうという意見があるが、私もそうだと思うし、また、そうでなければならない。
教会に有難く受け入れられるようなのがイエスであるはずがない。
トランプ大統領のことを皆、「パワフルだが人格に大きな欠陥のあるロクでもない人物」と誤解しているが、偉大な人間が誤解されるのは仕方がない。
だから、岡本太郎は、「誤解されたっていい、いや、誤解されないといけない」と言ったのだ。
岡本太郎は自分のことについても、「認められなくていい、いや、認められてたまるか」と言ったのである。
ところが、そう思っていると認められるのである。
しかし、我々は、一切に構わず、ただ、アファーメーションを繰り返せば良い。
それこそが、「誤解されないといけない」「認められてたまるか」ということであると思う。
「誤解しないで」「認めて」などという奴隷は、アファーメーションなどしないからだ。

ラマナ・マハルシは、仕事について、「働く運命にあれば仕事は避けられない。だが、働く運命になければ、いくら探しても仕事は見つからない」と言ったが、それなら、仕事が見つからなくても、「これでいいのだ」と思わないといけない。
働いてうまくいくこともあれば、働かずにうまくいくこともある。
賢者たちは、必ずしも、「一生懸命働け」なんて言っていない。
あの邱永漢氏だって、例えばだが、「ヒモになって女に食べさせてもらいうのも手」と言ったくらいである。
だが、こう言われて、「じゃあ、僕、働かずに成功します」なんて言うのは馬鹿である。
それを決めるのは自分ではない。
それを決めるのは、運命、カルマ、神、宇宙のパワー・・・なんと呼んでも良いが、自分を超えたものなのである。
スティーヴ・ジョブズだって言ったのだ。「信じるしかない」って。
そして、アファーメーションを唱える限り、信じて良いのである。








  
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多種類の栄養は本当に必要か?

私は最近、世間の影響を受けたのか、いろんな栄養を摂らなければならないと考えていることに気付き、驚いた。
世界には、挽いて粉にしたトウモロコシ以外のものは食べない未開の民族があるが、彼らは超健康で、特に訓練をした訳でもないのに、文明国のクロスカントリー大会に出場し、好成績を収めたというのをテレビで見たことがある。
また、書名は忘れたが、しっかりした本に、1種類の山芋しか食べない民族がいるが、健康で長寿であるそうだ。

心の力の科学的研究調査の報告書である『トーチェ氏の心の法則』に、今からすれば、昔のエスキモーについての記述があるが、トナカイの肉しか食べない彼らは、文明国の常識では極端に栄養が偏っているに関わらず、彼らは健康で病気知らずだ。
ところが、エスキモーの人達に文明国の栄養と健康の常識を教えたところ、彼らがひどい病気になり始めたという。

栄養は、必ずしも食物から摂る必要はないという説を、生物物理学者の石川光男氏(理学博士)の本で見た覚えがある。
例えば、蟹は、甲羅を構成する元素が存在しない場所に住んでいても、立派な甲羅を持っていることからも、そんなことが分かるのである。
非科学的と言われるかもしれないが、生命体は、元素を必要な別元素に変換する能力があるのかもしれない。
そうであれば、草しか食べず、カルシウムを全く摂取しない牛の乳にカルシウムがたっぷり含まれているのも納得出来るのである。

栄養摂取と肥満の関係も、いろいろ謎の部分がある。
若くもなく、別に胃腸が悪い訳でもないのに、いくら食べても痩せている人がいる。
一方、一種の聖人のように少食粗食で、1日に野菜の汁を0.5リットルしか摂らないが太っている人もいるが、そのような話は、いく例かを本などで見たことがある。

かくいう私も、10年ほど前、一気に30kgばかりダイエットしたことがあり、その時は、1日に少量の米と豆腐と野菜程度を食べていたが、栄養不足で体調が悪くなることは全くなく、健康診断でもオールAの超健康体と判定された。
その後、面倒だったので、毎日、標準タイプのカップヌードル(たまにカレーヌードルも食べたが)の夕食を3ヵ月ほど続けたが、飽きもしなければ、体調に問題が起こることもなく、健康診断では、やはり超健康とされた。
実際、野菜も果物も全く食べていないかった。
アニメの『まちカドまぞく』で、魔法少女の千代田桃が、パンとポテトチップスと牛乳と、一時的にウインナーという食生活で、「あまりちゃんとした食事に興味がない」と言いながら、極めて強靭な身体(と美しい姿)をしているのを見て、(魔法少女だからというのもあるが)別に違和感を感じなかった。

もし、問題があるとすれば、過度に美味なものを食べることで、心に悪影響が起こる可能性があることだ。
別に、極端な粗食に徹する必要はないが、適度なものを、満腹して自分を甘やかすことがない程度に食べていれば、自分は健康だと思う限り、何の問題もないと私は思う。あくまで、個人的信念であるが。

私は、一応は、血栓(血の塊)を作るだけが唯一の害と個人的には確信している新型コロナウイルスへの対応として、毎日、納豆1パックとビタミンCを最低3g摂取しているが、それも、やはり「一応」そうしているだけである。
また、毎日、カップヌードルの生活に戻そうかと画策中であるが、あくまで個人的な考えであるので、そのあたりはご了承を。それで「栄養が足りない」と思えば、やはり、体調に異変があるかもしれないのでね。
世間の常識に従って生きてきた人が、急に、それに背くことを始めるのも危険かもしれない。
やるとしても、徐々に調子を見ながらやるのが無難だろう。








  
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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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