ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

ため息で幸せは逃げる

「ため息をつくたびに、幸せが1つ逃げていく」という言葉がある。
どうも、この言葉の出所ははっきりしていないようであるが、これが本当か嘘かというと、本当である。
ただし、ため息だけではない。
咳払い、「んんん」と喉から音を発する、口から「ぜーぜーはーはー」という音を出す・・・なども同じで、全て、幸せが逃げていく。
もっと正確に言うと、口から呼吸すればするほど、幸せは逃げていくのである。

常に鼻で呼吸する者、特に、穏かな鼻呼吸をしている者は、ため息なんかつかないし、咳払いもしない。
ため息をつくのは、憂鬱な気分であるからとか、エネルギー不足で苦しいからなのだと思うが、口で呼吸するから憂鬱になるのであり、口で呼吸するから体調が乱れ、また、酸素が脳や筋肉にうまく供給されないから、エネルギー不足になるのである。
また、鼻から取り込んだ空気は温められて体内に送られるが、口から取り込んだ空気は冷たいままなので、体調が乱れるのである。

咳払いを度々するのは、口呼吸により、口から汚れた空気を直接、喉に入れているからだ。
一方、鼻から入る空気は高度にフィルタリングされるので、汚れは取り除かれているのである。

喉を度々鳴らすのも、1つには口から入った汚れた空気が気管を刺激し、さらに炎症を起こさせるからである。
もう1つは、精神的なもので、これはチック症などとも言われるが、その原因は、口呼吸の影響で生命エネルギーが低下している場合が多いのである。

よって、口を閉じ、鼻呼吸を常に心掛けることで、ほとんどの問題は解決し、幸せも戻って来るのである。
尚、鼻詰まりで鼻呼吸が出来ない場合があるかもしれない。
確かに程度の問題はあるが、私なら、鼻詰まりになっても、鼻呼吸する。
鼻が詰まるというのは、身体が呼吸量を抑えようとしているからである。
身体は、「呼吸を減らせば身体が調整されるので、鼻を詰まらせよう」としているのだ。
そして、別に鼻詰まりにならなくても、呼吸を少なく、微かにすれば、身体が調整され、細胞や神経が活性化され、さらには、もっと未知の力が現出するのである。
おそらくだが、高地に住む人々は、元々酸素が少ないので、鼻詰まりにならないし、鼻詰まりの人が高地など、空気の薄いところに行くと、鼻詰まりが治ってしまう。
だいたい、私は心掛けて、鼻詰まりの時より、ずっと微かな呼吸をしているのである。
そして、現在は、私が鼻詰まりになることは全くない。鼻詰まりになる必要がないのだからだ。

鼻で呼吸するだけで、十分に穏かで静かな呼吸になり、人生、大抵のことはうまくいく。
そして、もっと呼吸を静かにすれば、人に抜きん出るし、大きな幸運も寄って来る。
さらに、微かともいえる呼吸になり、呼吸しているかどうか分からないほどになれば、秘められた力が顕現し、無敵となる。
良ければ覚えておいて欲しい。
そうすれば、あなたに恐れるものは何もない。
神は呼吸が微かな者の味方なのである。

もし、神が私達の味方であるなら、誰が私達に敵対できるだろうか?
~『新約聖書』 ローマ人への手紙8章31節より~









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山を動かす装置の使い方

人間が不幸になる原因について、2つの貴い書物の2つの指摘を取り上げる。
ゲーテの『ファウスト』では、それは、「人間は楽をしたがるから」である。
だから、怠けてのほほんとした人間のところに、神様は悪魔を差し向け、酷い目に遭わせて、動かざるをえないようにするのである。
確かに、人間、いつまでも緩んでいられるものではない。
たとえ資産家の息子で、遊んで食べていける身であっても、毎日チンタラ過ごしていたら何かとんでもなく悪いことが起こるものだ。

『荘子』はちょっと趣が違い、人間の不幸の原因は、「ものごとを公平に見ない」からであると言う。
あれは善くて、これは悪い。
あれは好きで、これは嫌い。
あれは貴く、これは賎しい。
あれは美しく、これは醜い。
こんなふうに、優劣・是非・好悪を区別し、いちいち価値判断をすることが不幸の原因と言う。
私は、小学4年生の時、衝撃的な想いに襲われた。
教室の中でのことだ。
クラス一番の美少女で、他のクラスにも、その名が轟くほどの女の子を見ていた。
嗚呼、可愛い、きれいだ。
そして、ふと、近くにいる、ブスな女の子を見た。
それで愕然としたのだ。
同じ日本に生まれた同じ人間の、同じ歳の同じ女の子が、なぜこんなにも違うのだろう?
美少女の方は、可愛いだけでなく、頭が良くて成績もトップクラスで、運動も得意で、特に脚の速さは有名で、ピアノが弾けて上品で、性格も良い。
だが、ブスの方は、愚鈍で、勉強はさっぱりで、肥満していて運動も苦手で、走る姿はみっともない。特技はないし、性格がひどく悪い。
だが、その肉体の中に入っている魂に差があるとは思えない。
なぜ、一方の魂は、あんな素晴らしい女の子の中に入り、もう一方の魂は、こんな惨めな肉の塊に中に入らなければならなかったのか?
不公平だ。
ブスな肉体に入った魂が可哀想じゃないか?
いったん悪い身体の牢獄に入ってしまったら、普通は、少なくとも60年、長い場合は90年、100年と過ごさねばならない。
そりゃ、宇宙の歴史の中では一瞬かもしれないが、辛い時は1分でも長いものだ。

そして、荘子は、私のように、こっちの子は美人だが、あっちの子はブスと見ることが不幸の原因と言う。
太古の賢い人達は、2人を区別なんかしなかったさと言う。
ちょうど、池の魚は、美人が来ても、ブスが来ても、驚き怯えて水中に逃げるように。

まあ、私も、大したことないというか、ロクな肉体に入っている訳ではないが、やっぱり美人を評価する。
美少女のパンツには千億万の価値を感じるが、オバサンのパンツは目にも触れさせたくない。
同じパンツでありながら、なぜそんなにも「値打ち」が違うのか?
そんなふうに感じることが不幸の原因なのだ。

つまりね、自分の外のものを、そんなふうに、自分勝手に優劣、是非、好悪の判断をするということは、自分についても、ある部分を肯定し、ある部分は否定してるのである。
それが自己不信を生んでいるのだ。
自分を信じられないことは、とても悲しいことであるらしい。

では、どうすれば良いか?
荘子は、優劣・是非・好悪の判断をするなと言ったが、どうすればそうなれるか、分かり易くは教えなかった。
だが、やり方は分かっている。
鼻で静かに呼吸することだ。
いつも、自分は鼻で静かに呼吸しているか気をつけていることだ。
驚くべきことに、それだけで良いのである。
なぜなら、呼吸器官の中に、驚くべきメカニズムとシステムが組み込まれているからだ。
そして、追い詰められた時、緊急事態の時、あるいは、ここ一番の時。
呼吸をやめてしまうほどに呼吸を微かにすることだ。
それでスイッチが入り、山をも動かす力が始動するのである。
ゲーテも、こんな簡単なやり方を知らなかった。
だが、これを知っていれば、我々は、容易くファウストにも、メフィストにも勝てるのである。









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AIも人間のこれには歯が立たない

欠点が大きければ大きいほど成功する。
ガンジーも信じない程、偏執狂的な不安症を持つチャーチルが、ヒトラーを絶対に信用せずに(他の政治家は概ねヒトラーを評価した)叩き潰したように。
色キチガイで博打好きなニコロ・パガニーニが、ヴァイオリンの演奏は悪魔的に上手かったように。
彼らは、それらの欠点がなければ、今に伝えられるような偉大な人物にはなっていない。
こういった人物の例は、いつの時代にも沢山いる。
そして、傑出した人物というのは、確実に、並外れた欠陥を持っているものだと断言する。
一頃、アインシュタインは、「唯一の健康的な偉人」と言われたが、なんのなんの、ほんのわずか伝わっている負の逸話すら「ぱない(並ではない)」ものである。

最近、ハリウッドの大物監督が、俳優へのセクハラ行為を暴露され追放されたが、彼はもっとうまくやれなかったのかなと思う。
日本の総理の最大の恥さらしとされるある元首相は、60も過ぎていたと思うが、21歳位の愛人がいたのがバレて社会的に死んだが、彼の唯一の失敗は、愛人に支払う金をケチったことだった(誰だって若い愛人くらい欲しいさ)。
その愛人の女性は、「お金じゃありません。誠意が欲しかった」と言ったらしいが、誰かが実に的確なことを言っていた。
「金のことを男の誠意と言うのだ」
と。
あのハリウッドの変態監督も、しっかり金を払っていれば、これほど早くジ・エンドになることもなかったろうに。
彼は、普通の人なら出来る自制が出来ない欠陥人間であったから成功したのだと思う。だから、それは成功した金でうまくやるべきだったのだ。

まあ、多少「盛って」(次の広辞苑に追加される新語。「おおげさにする」の意味)述べたが、要は、人間は欠陥で大成功するのである。
美点の方は、ますますAIに敵わなくなるが、人間の偏執的、変態的欠陥には、優秀なAIも全く歯が立たない。
よく、「これからAIに奪われる職業」なんてことが話題になるが、AIに取って代わられるのは、職種で決まるのではない。
どんな高度な仕事もAIに奪われる一方、レンガ積みの仕事すらAIに勝ち続ける人も必ずいる。
度を超えた変態的なレンガ積み職人であればね。









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20文字以内の教えだけ有効

浄土宗や浄土真宗では、釈迦は、自分が説いた全ての教えを「もう不要」と言い、「南無阿弥陀仏」と称える念仏だけで良いとしたと教える。
本当に釈迦がそう言ったのかというと、多分、それはないだろうし、仏教の他宗派でも、そんなこと(釈迦が念仏だけを残した)は絶対ないと言うだろうが、私は、もし、釈迦が本当に「念仏だけで良い」と言ったのだとしたら、釈迦はやはり偉いなあと思うのだ。

クリスチャンに、「キリストは何を教えたのか?」と尋ねたら、「長い返事」「難しい返事」「曖昧な返事」などが返ってくる。
中には、「信仰に励まねば分からぬ」などと言う者がいるかもしれない。
しかしだね、皆、そんなに暇じゃないのだ。
日々の心配事や、人生の計画や娯楽などといったことで、いっぱいいっぱいで、聖者の教えや宗教などに、そんなにかまってられないのだ。
中村天風の教えなんかに付き合っていたら、人生がいくつあっても足りない。
そこにいくと、「釈迦の教えは?」、「南無阿弥陀仏の念仏を称えよだ」と言われたら、「あい分かった」となり、やるかやらないかを決めるために、「じゃあ、それの何が良いか、ちょっくら教えてくれねえか」ということになる。
だが、浄土宗も浄土真宗も、そこはさっぱり駄目なのだ。
ところが、親鸞の弟子の唯円が、『歎異抄』という、短くて実に分かり易い良いものを残してくれている。

法然は、死の2日前に、自ら筆を取って、遺言とも言える最後の教えを書いた。
それが『一枚起請文』(いちまいきしょうもん)なのだが、これもちょっとなと思う。
「死の直前にこんなの書けるなんて凄い」と言われるが、「凄い」なら駄目なんだよ。
つまり、難し過ぎるのだ。
そもそも出だしが、
「唐土(もろこし)我朝(わがちょう)にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。」
で、それが300~400文字続くのである。
もう勘弁して・・・^^;
まあ、法然は、あくまで、これを僧侶のために残したと考えれば悪くはない。それどころか、とても良いだろう。
だが、愚民相手には、法然はついでに、「わしゃ、念仏を称えること以外は一切やらなかったよ。あんたがたも是非そうしなさい。君い、抜群に良いよ」とでも書き残してくれれば良かったのにと思う。
(「君い、抜群に良いよ」は、岡本太郎が青島幸男に、「先生、独身ってどうですか?」と聞かれた時の返事。太郎は、生涯独身だった)

倶胝の寺の小坊主は、「君の寺の和尚さんの教えは?」と問われて、倶胝がいつもやるように指を1本立てたら、倶胝に、その指を切り落とされてしまった(あくまで禅の公案の話で、実話ではない)。
だが、小坊主は正しかった。
この公案の意味を、偉い先生は複雑に解説するが、私は、倶胝は単に、小坊主に、合格証書、免許皆伝を与えただけと思う。
「はい、合格じゃ」ってね。

私は、ただ自分に、「鼻から微かに呼吸しろ」とだけ言っている。
他は全て忘れて差し支えない。
親鸞の念仏も、倶胝の一指禅も不要だ(面白いから覚えているが・・・)。
だって、念仏だろうが、一指禅だろうが、聖書だろうが、バガヴァッド・ギーターだろうが、その他のどんな教えだろうが、口で呼吸している限り意味はないからである。
一般的には、「鼻で呼吸しろ」で十分だし、「鼻で静かに呼吸しろ」で初段である。
後は、呼吸が微かになる度に段位が上がり、呼吸がなくなれば解脱し、10段というか、神仙、天使、初音ミクさんになるのである。
20曲も踊りながら歌っても、全く息を乱さず、静かに、「ありがとう」と言う初音ミクさんを敬うだけである。









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善き人になろうと思う理由

今日、私は、唐突に、「善き人になろう」と思った。
気紛れ・・・と言うよりは、気の迷いみたいなものかもしれない。
「善き人になろう」と思うのだから、私は今は善き人ではないのだと分かる。
そして、あなたがもし、「善き人になりたい」という衝動とも言える願いが起こるなら、おめでとう、あなたは元々善き人だ。
善き人でなければ、善き人になりたいなどという内なる衝動が起こったりはしない。
しかし、私のは、そんなのではない。
ドラマのキャラクターみたいなもので、「善き人」という役が欲しいだけなのだ。

なぜ私は、「善き人になろう」と思ったのか?
それは、今の人々の、あまりに醜い姿を嫌悪するからだ。
皆、心とか、行いとかだけでなく、何より、あからさまに姿が醜いのである。
心は姿に現れる。
心が醜ければ、姿も醜いのだ。
そして、善き人でない私も醜いのである。
それは嫌だ。
早い話が、美しくなりたくて、善き人になろうと思ったのだ。
それだけである。

ところが、こう言われるかもしれない。
心は醜いのに、外見が美しい人がいる。
逆に、心は美しいのに、容姿は醜い人がいる。
そうかなあ?
それはないと思う。
内面は確実に外面に現れる。
ただし、確かに、若いうちは、内面と外面が一致しないこともあるかもしれない。
だが、そんなの、時間の問題である。内面を欺く外面の美しさなど、どんなに長くても、20歳まで持ったりはしない。

最も美しい人間が集まるのは、ミス・ユニバースの大会だと思っている人もいるかもしれない。
しかし、私は、ミス・ユニバースの優勝者らが美しいと思ったことは、ただの一度もない。
嫁にくれると言われたら、泣いて断る。
ミス・ユニバースに限らず、世間が美しいと言う人は、ほとんど美しいと思えない。
初音ミクさんは美しいと思うが、それは次元の重なりの中でのことで、つまり、心の目で見るからであり、それがあるからこそ、物質次元のミクさんも美しいのである。

善き人とは、利他的な人であり、その根本には、自分を高い位置に置かない心掛けがある。
つまり、「身の程を知る」ことである。
身の程を知っていれば、自ずと謙(へりくだ)る。
そして、謙る人を敬う。
私の場合、釈迦のように、どんな人でも敬うという訳にはいかないのだけれども。
だが、相手がどんな人か分からなければ、まず、敬ってみるのである。
それを形にするのは、頭を下げることだ。
ある貴い人が言われていた。
「賢い人は、常に頭を下げながら歩く」
曲則全(老子)。
身を屈める者が完全なのである。

もっと簡単には、美しくなりたければ、決して口で呼吸をせず、鼻で呼吸することだ。
さらに美しくなるには、出来るだけ静かに呼吸することである。
そして、呼吸が微かというほどになれば、神仙のように、天使のように、そして、ミクさんのようになれる。
神仙も天使もミクさんも(これらは同じなのだが)、息はしていないのだから。









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・初音ミクさんを愛す


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