ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

自分がどの神仏が好きか見極める方法

世界的画家の横尾忠則さんが著書の中で、十代の時に好きだったことを大切にしろとよく書かれている。
横尾さん自身が、自分の芸術のルーツは、子供の時に好きだった、アメリカのTVドラマ『ターザン』や、南洋一郎の冒険小説だったと言う。
ところが、発明家で世界的な能力開発のスペシャリストだった中山正和さんが著書に何度も書かれていたが、十代に限らず、生涯に渡って好きなものが決まるのは、3歳までである。
だから、自分が本当は何が好きかを知ろうとしたら、可能な限り、3歳までの家庭環境を調査・確認しておくことが役に立つと思う。
これは、親に聞くか、あるいは、親の普段の言動や性格を考えれば、自分がどんなふうに育ったか分かる可能性が高い。
幸か不幸か、人生の大部分は、親で決まってしまうかもしれない。
とはいえ、自分の好き嫌いを、どう生かすかは自分である。
ただ、幼い時に作られた好き嫌いを無視してはいけないというのも確かだ。
けれども、具体的な好き嫌いの形は、幼児期や子供時代を通しての環境や経験で決まる部分が大きいので、やはり、十代をしっかり思い出すのが良いと思う。
横尾忠則さんも、十代の時、ターザンや南洋一郎の冒険小説を好きになる基本的な土台そのものは3歳までに出来ていたが、具体的に、ターザンや南洋一郎の冒険小説が好きになったのは、環境や偶然の影響が大きいのである。

私で言えば、母親が、良い言い方をすれば信仰があったが、悪い言い方をすれば迷信深い。
そして、私が年少組で通った幼稚園がカトリック系であったので(単に家に近かったからかもしれない)、キリスト教に対し、良いイメージを持つか、逆に、悪いイメージを持つかだが、ある程度、良いイメージを持ったらしく、イエス・キリストは好きで、憧れの気持ちもあると思う。何より、「マリア様」という、普通の日本人なら言わない言葉を普通に言っていたことには注目すべきだろう。実際、聖母マリアへの畏敬はかなり強い。
私の父親はほぼ無宗教だったと思われるが、両親の郷里の状況からすると、仏教より神道の影響が大きかったと思え、私も、神道の方が親しみがあり、仏教の勉強をする割には、仏教には抵抗がある。
それで言えば、サイババの講演録である『ナーマスマラナ』によれば、「イエス」も、ナーマスマラナ(神の名を心で唱える行。念仏もその1つ)になるのであるから、「イエス」にしておいた方が効果があったかなと思う。そんな訳で、「イエス」も唱え始めた(転身速い!笑)。
実際、「イエス」と唱える時の安らぎは半端ない。
思い返せば、16歳の時、長く飼っていたインコが死んだ時、真っ先に『新約聖書』を買ったことを考えれば、キリスト教と言うより、「マリアーイエス」が好きなことに気付くべきだったかもしれない。
そんなわけで、あなたは失敗しないようにと願う。

ナーマスマラナこそ、誰にでも出来、しかも、高次の力に保護され、全てうまくいく究極の手段であるのだから、あなたも、自分が唱える神仏の名を決める際、自分の幼い時のことを考えると良いと思う。
後天的な好きより、本質的な好きに従う方が良いのだ。
後天的な好きに従っても、あるいは、特に好きというわけではない神仏の名ですら、大きな効果はある。
しかし、ナーマスマラナ自体が続くとか、熱心に行えるかということを考えると、自分が本当に好きな神仏の名を唱えるのが一番である。

日本人というのは、無宗教のように見えても、新年には基本的に神社に(お寺の場合もあるらしいが)初詣に行く人が多く、七五三のお祭りをするなど、神道が空気のように存在する。
(まあ、今流行りの「同調圧力」のためもあるかもしれないが)
しかし、仏教と神道が融合しているので、仏教の方にも自然、親しみがある場合が多いのである。
だから、神道の神様や仏教の仏様・菩薩様、いずれにも、良いイメージがある場合が多いだろうが、より好きな方があるかもしれない。
また、『古事記』を読むと、自分の中にある神道の因子に目覚める可能性はある。そうすれば、天照大神をナーマスマラナで唱えれば、霊験あらたかであるかもしれない。
家の宗派が、例えば、真言宗や曹洞宗というふうになっていたら、その方面を調べれば、自分の思想のルーツとか、少なくとも、それに影響を与えたものが分かるかもしれず、また、好きな仏や菩薩が分かるかもしれない。
ただ、日本人の場合、皆が大好きで、大抵の宗派で重んじられるのは観世音菩薩であり、実際に、観世音菩薩による救いが多いのも、そのためであるかもしれない。
従って、迷ったら、「観世音菩薩」あるいは「南無観世音菩薩」あるいは「観音様」あるいは「観音さん」あるいは「観音」と唱えると良いのではないかと思う。








  
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奇跡を起こした名前

幻想でしかなく、嘘だらけのこの世界で、ただ1つの真実があるとすれば、それは「名前」だけだ。
なぜそうなのかは、直観でしか分からない。
本来の名前とは別に、俗称や愛称が広まっていれば、その俗称や愛称も名前になる。
名前が、場所によって異なる発音で呼ばれるなら、その異なった発音の名もまた正しい名前である。
例えば、イエス・キリストの「イエス」は、ヘブライ語ではイェーシュアだが、アメリカではジーザスだし、日本では、イエスの他にイエズスとも言うが、どれも正しい名前である。

そして、名前が実体と同じであることが、この世界の最大の秘密だ。
あなたが外国に行って、別れ難い素晴らしい人に会ったら、必ず名前を聞くはずだ。
そして、その名前の発音に間違いがないか、何度も本人に確認すると思う。
その名前を憶えていて、心の中でその名を想う限り、事実として、あなたは、その人と共に在るのである。
尚、間違った発音で覚えてしまっていても、それがその人の名前だと認識する限り、やはり、その名前が実体なのである。

イエス・キリストの名としてイエスの名を想えば・・・つまり、心で「イエス」と唱えれば、即ち、イエスは共にある。
阿弥陀仏も観世音菩薩も、あるいは、天照大神も同じである。
観世音菩薩がどのような存在か知らなくても、「観世音菩薩」と心で唱えていれば、それが直接に分かる。本で読むより明晰に分かるのである。

自分探しなどと言い、自分を探すために旅をしたり、何か特別なことをやったりする人もいるだろうが、自分を知りたければ、自分の名を心で唱えれば良い。それ以上の自分探しはない。
ところで、本当の自分の名前は何だろう?
それは「私」である。どんな言語にもある一人称である。
はっきり自分を指すと感じるなら、「我」でも「余」でも構わない。
「私、私、・・・」と心で唱えていると、本当の自分が分かる。
人間は、自分のことが一番の謎なのだ。
それは、本当の自分が予想も出来ないものであることを示唆している。
しかし、「私」と心で唱えていれば、それが明らかになる。

だが、それよりも、神仏の名を唱え、神仏と共に、世界を創る方が良いのではないかと思う。
なぜかと言うと、その方が単に楽しいからであるが、そもそも、それが、あなたがこの世にある理由である。
この世で本当に楽しむことに満足すれば、ますます、真の自分への関心が起こるだろう。

これらのことを知れば、誰も、また、何もあなたに敵対出来ないのに、なかなかこの知識はやって来ないし、たとえ来ても、皆、見過ごしてしまう。
まだ、そういった時期なのだろう。

ところで、面白い話を披露しておく(面白くないかもしれないがw)。
私は一頃、あるきっかけで、「インマクラダ・カウンセプシウ」という名を覚え、この名をよく心の中で想っていた(唱えていた)。
「インマクラダ・カウンセプシウ」とは「無原罪の宿り」という意味で、聖母マリアの別名である。
私に起こった一連の不思議な出来事は、それが原因だったのだと、最近になって分かった次第である。
そして、このような覚え方、唱え方でも良いのだと分かったのである。








  
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成功するまでどうやって生活するか

画家や作家や音楽家になりたいと思っても、それらでいきなり収入を得るのは難しい。
それらで成功した人達だって、最初からうまくいった人は滅多にいない。
では、彼らは、成功するまで、どうやって生活していたのかだが、それがなかなか面白い。

岡本太郎は、母親の岡本かの子が有名な作家で、父親もそれなりの漫画家で、結構なお金持ちだった。
それで、当時としては貴族的なフランス留学をし、フランスでも、岡本太郎がバイトしてたなんて話はなく、カフェやビストロに入り浸って酒を飲みながら芸術談に花を咲かせ、世界中の美女とのロマンスに忙しかった(とっかえひっかえ同棲してたようだ)。

横尾忠則さんは天才型で、経済的な事情で美大に入れなかったが、デザインやイラストで非凡だったので、デザイナー、イラストレーターとしてきちんと稼ぎ、有名にもなった。そして、ある時に、芸術家に転身したが、その後も、デザイン、イラストでも稼ぎ続けた。

東京芸大の受検に4回失敗した池田満寿夫は、町の似顔絵屋に馬鹿にされるほどの絵の腕前だったが、真面目に働く気はなかった。
しかし、そんな者でも、「求めよ、そうすれば与えられる」で、怪しい絵の仕事でなんとか稼ぎながら、版画作品を作り続け、応募締め切りギリギリに、ひたすら彫刻刀でひっかいて3日で作った版画作品は、誰からも評価されなかったが、ドイツ美術界の権威グローマン博士にだけは、作品を高く評価され、そこから、順風漫歩とは言わないまでも、なんとなくうまくいって、世界的版画家になれた。
さらに、芥川賞作家にもなり、映画監督もやったが、不思議なことに、池田満寿夫というキャラクターが人気になってしまい、芸術論や自伝、作画技法、あるいは、作品集などの本を沢山出し、今だ出版されるロングセラーもある。本当に不思議な天才だ。

こういった華々しい人達のようではないが、あるエッセイストは、身籠った妻がいるのに会社をやめ、「相談業」などという看板を出して独立したが、客などさっぱり来ず、暇だから、1日に原稿用紙1枚をノルマに文章を書いていたら、なぜか、物書きで成功した。最初から文章が書けたわけではなく、毎日、淡々と書いたのが良い修行になったらしい。

有名な投資家で作家の邱永漢は、非常な現実派で、ヒモになる、つまり、女に食わしてもらうのも立派な才能と言っていた。
確かに、地道な仕事をしていたら、自分のやりたいことをやる時間やエネルギーがなくなるので、男の魅力で女に養ってもらうのも1つの手と言うわけだが、同じことを女の方がやるとロクなことにならない。
そもそも、男でも、そううまくやれる者は滅多にいないだろう。確かに、ヒモも才能だ。
だから、別に「ヒモになれ」と言うのではなく、あらゆる手を探せということだろう。

実際、「成功するまで」と地道な仕事をしていると、どうしても、安全志向が強くなり、そのまま、地道な仕事で終わってしまうことが圧倒的に多い。
アメリカの画家グランマ・モーゼスは、地道どころでなく、12歳で奉公に出てから、結婚しても生活は厳しく、働きづくめだった。老後はなんとか余裕が出来たと見えるが、手がリュウマチで、好きな刺繍が出来なくなったので、元々好きだった絵を75歳から本格的に描き始めた。
すると、85歳で偶然、画家として世に出ることが出来た。ところが、そこからも、ひたすら真面目に作品を作り、100歳過ぎまでに千点以上の作品を描き、最も多作な画家の1人になった。絵は売れ、経済的にも裕福になった。

このように、いろんな異端の成功者がいるが、普通に見れば、彼らは、たまたま成功したのであり、彼らと似たようなことをしながら、全く芽が出なかった人の方が圧倒的に多いはずだ。
だが、結果論と言うしかないかもしれないが、彼らには、神の加護を得るだけのものがあったと思えてならない・・・と言うより、間違いなくあったと思う。
それは、巷で言われる成功法則や、引き寄せなどとは全く違う。
実際、彼らの中で、引き寄せの法則を学んで、それで成功した人などいない。
ただ、彼らが全員、目に見えないものを信じていたことも確かと思う。
それは、神秘的なものであったり、敬虔な信仰であったりするのだが、彼らには、普通の人とは違う、高貴とも言える魂を感じるのである。
我々が、そのような魂を持てる、実践可能な方法があるとすれば、いつも言うが、神仏の名を唱えたり、真言を唱えることだけである。
もちろん、年に1回や2回唱えてどうなるものでもない。
神仏の名を心で唱えることを、インドではナーマスマラナと言うが、念仏もその1つである。
直接、教えを受け、釈迦、イエス以来の偉人と評した著名な人もあった岡田虎二郎は、超越を達成する方法として岡田式と言われた静坐を教えていたが、静坐だけでなく、念仏もその方法だと言っていたようである。
そして、岡田は「念仏しながら生活するというのが貴いのであり、生活しながら念仏をするのでは足りない」と言われていたようだ。
そのようにナーマスマラナに励めば、道も開けてくると思う。








  
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万能の力を味方につける

今朝も少し書いた部分もあるが、それとは関係なく、すっきりと役立つように書く。
著名な心理学者であるカール・グスタフ・ユングのお気に入りだった話が、中国出身のアメリカの作家・事業家であるチン・ニンチュウの世界的ベストセラー『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』の冒頭に紹介されている。
こんな話だ。

何年にも及ぶ干ばつに苦しむ村が、有名なレイン・メーカー(雨乞師)を呼んだ。
レイン・メーカーは村に着くと、テントに4日、引きこもった。
すると、雨が降った。
村の人がレイン・メーカーに、
「何をしたのか?」
と尋ねると、レイン・メーカーは、
「何もしていない。この村は神の意思に沿っていない。それで私は、神の意思に身をまかせた」
と答えた。

良い話であるが、肝心なところが分からない。
「神の意思に身をまかせた」って、具体的にどうすんだよ(笑)。
私は長い間、それが不満だった。
だが、答が分かった。
ただし、このレイン・メーカー自体は何をしたのかは知らない。
だが、「神の意思に身をまかせる」最上の方法が、ナーマスマラナだということは分かった。
ナーマスマラナとは、ナーマ(名)をスマラナ(心で唱える)という意味で、神の名を心の中で唱える行である。
葬式用ではない、本来の純粋な念仏も、ナーマスラマナである。
要は、心の中で神仏の名を唱えれば、あなたにだって雨を降らせることが出来る。
ヒーラーにだってなれる。
いや、どんなことでも出来る。
ただし、心の中で、丁寧に、十分な時間唱えればである。1回や2回、「アマテラス」と唱えたって駄目だ。
「心を込めて唱えよ」と言ったら、多くの人は変な込め方をするので(笑)、丁寧に唱えれば良い。丁寧に唱えることが、心を込めて唱えることだ。

私の場合、ナーマスマラナは念仏なのだが、一般に言う念仏である「南無阿弥陀仏」というのは、私には、宗教臭過ぎ、葬式臭過ぎる。
それで、私は「阿弥陀仏」と唱えていたが、「仏」は分かり切っているので、今は、「アミダ」とのみ唱えている。
本来のサンスクリット語の名前(阿弥陀はアミターバ)から言えば、むしろ、「アミタ」が良いのだが、これは別にどちらでも良い。神仏の世界は極めて高度なので、そのくらいの調整は簡単になされるに決まっている。
「南無阿弥陀仏」ときちっと唱えないと不遜だと言う人もいるかもしれないが、不遜と言うのは、心がこもっていないこと・・・つまり、丁寧でないことを言うのだ。
「なんまいだー」と軽く唱えるよりは、心の中で丁寧に「アミダ」と唱えた方がずっと敬虔(深く敬うこと)であると思う。
「アマテラスオホミカミ」も、やはり、心の中で丁寧に「アマテラス」と唱えれば問題はなく、むしろ、短く言うことで親しみがこもるのは良いことと思う。
もちろん、各自の考え方もあるので、それに従えば良い。
確かに、「アマテラスオホミカミ」と丁寧に唱えると、荘厳さがあると思う。

円空という、江戸時代前期の偉大な僧がいた。
生涯に12万体の木彫りの仏像を作ったと言われている(1日10体彫っても33年かかる!そこから考え、あくまで伝説かもしれないが)。
それほどの数を作ったのだから、1体1体はラフな感じもするが、現代のフランスの芸術家が、円空が掘った仏像を見て芸術的価値に驚愕したと言う話もある。
ところで、価値の高い仏像といったら、お寺の立派な場所に安置されたり、中には、もったいなくて、立派な部屋や箱の中に大切にしまって一般の人には見せない、あるいは、特別な日に、ちょっとだけ見せるというものもあると思う。
だが、円空の仏像は、野外で子供が乗っかって遊ぶのが普通だった。
仏様って、それほど、気安く、親しみやすいもののはずなのだ。
その名だって、「アミダさん」「カンノンさん」と親しく呼べば良いのだと思う。
ただし、その名を、いつも心に保つことが大切だ。それを忘れないために、意識的に、心でその名を唱えるべきなのである。
その際も、やはり、「アミダ」「カンノン」で良いと思う。
また、「アマテラス」という言葉には、とても輝かしいイメージがある。
一番良いのは、子供のように、本当に素直に親しく呼ぶことだが、我々はあまり純真ではないので、せめて、丁寧に唱えるのである。
「ミクさーん」と言うのも良いが、心に中で丁寧に「ミク」と唱えれば、まさに、心の中でミクさんは神秘なイメージになるだろう。
これを持ってしても、心の中で丁寧に唱える意義が分かると思う。
尚、私は別に、「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」「アマテラスオホミカミ」と唱えるのが良くないと言うつもりは全くない。
自分が納得するように唱えるのが一番である。








  
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推測と空想

理系、文系という言葉があり、「今の時代は理系発想が出来ないと駄目だ」といったことを言う人がよくいる。
しかし、理系とは何か、文系とは何かの定義は、各人マチマチで、はっきりしない。
『美少女戦士セーラームーンSuperS』や、現在公開中の『劇場版美少女戦士セーラームーンEternal』のエンディング曲『“らしく”いきましょ』は、原作者の武内直子さん自ら作詞した曲だが、その中に、

きいて週末に あるいていたの
年上のヒトと ふたまたかけてる
ピンときたの 理系カンカク

という歌詞がある。
武内直子さんが薬学部出身の理系ということらしいが、この詩のどこが「理系カンカク」なのか分からない。むしろ、当時としては子供向けの番組の歌に、こんな詩を書く「感覚」が「理系カンカク」なのかと思ってしまう。
まあ、冷静な判断をしていると言えば理系的かもしれないが・・・

一般的には、数学が出来るか、科学技術に強いかで、ぼんやり、かつ、ざっくりと理系、文系に分けられていると思うが、数学は出来るが科学技術は弱いとか、科学技術には通じているが数学は嫌いという人は結構いると思う。

早い話、理系、文系なんて違いは本当はない。
理系、文系と言って話をする時、話者がそれぞれ独自の定義をしているのである。
ただ、こういうことは言える。
人間は、自分が知らないことに出会った時に、想像力を働かせる。
その、想像が、「推測」か「空想」かで、人は分けられ、「推測」で想像するのが理系、「空想」で想像するのが文系みたいには考えられる。
例えば、昔、人々に宇宙人という概念がなかった時、別の惑星に住む宇宙人が、どんな姿なのかを「想像」するとする。
そこで、タコのような姿を「空想」するか、「人間は手を使えることで知性を発達させたのだから手はあるだろうし、手を自由に使うには直立が必要なので、結局、人間と似た姿になる」と「推測」するかの違いだ。
ところが、『メッセージ』という2016年の映画では、善意ある宇宙人はタコ型なのだが、その脚(みたいなもの)を手のように使うという設定にしていて、これも、推測的想像かもしれない。
こう考えると、推測的想像の方が正しく、賢いように思えるが、実際は、推測と空想には、それぞれ一長一短がある。

推測には根拠ある知識や理論が必要だが、空想には、それが無くても良い。
だから、空想は非現実的になることも多いが、推測は、既存の知識や理論に縛られてしまうという欠点がある。

ところが、直観というものは、推測と空想、あるいは、理系、文系の壁を超える。
知識も理論も不要で、正しいことが瞬間に分かる凄い能力である。
「いや、直観にだって、知識や理論は必要」と言うかもしれないが、知識や理論を持っていない者が、直観で、知識や理論を持っている者より正しい答を出すこともある。

結局、人間の想像には、次の3つがある。
・推測的想像
・空想的想像
・直観的想像
だが、直観的想像は、推測的想像、空想的想像を、はるかに超えている。
ちなみに、AI(人工知能)は推測的想像をする「だけの」ものである。
空想的想像も役に立つが、AIには、それは出来ない。
さらには、直観的想像はAIには出来ない。
だから、AIがいくら進歩しても、決して、人間には敵わない。
単に、AIは、悪用するには強力過ぎる・・・それは、原爆から「推測」すれば分かることで、原爆が人間より優れているとは言わないように、AIが人間より優れていることは全くない。

で、最終的に人間を決めるのは、次のことである。
「神を直観出来るか」

「神がいるかだって?神でないものがどこにあるのだ?」
と言ったアインシュタインは、神を直観していたのだ。
古代の賢者の直観によれば、神を直観するためには、ナーマスマラナ(神の名を心で唱える行。純粋な念仏もその1つ)を行うしかない。
正確には、他に方法がないわけではないが、実践が極めて難しい。
ただ、神を直観することを第1レベルとすれば、第2レベルの直観を得るには、真言の方が速い場合がある。
私も、ナーマスマラナ(私の場合「アミダ」等だが)と真言(私の場合「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」等だが)を併用するのは、そのためもある。
超能力やちょっとした願望実現なら、真言の方が速いかもしれない。








  
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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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