ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

この世でうまくやっていく最大のコツ

アメリカ合衆国大統領の就任式で聖書を使うことはご存じと思う。
その聖書が新約聖書か旧約聖書かというと、両方入ったものであるというのが常識で、それなら、アメリカ合衆国大統領はキリスト教徒でないといけないことになる。
旧約聖書だけで良いなら、旧約聖書はユダヤ教、イスラム教の聖典でもあるので、大統領がユダヤ教徒、イスラム教徒でも良いことになるが、そうではないようだ。
そういったふうに、大統領の信教が限定されるとは不合理なことだと、私は思っていた。
だが、何が問題であるか、私はやっと分かった。

大統領が元々、どんな信仰を持っていたかは、すぐに分かることだし、キリスト教徒ではない場合もあると思う。そして、それはそれで良いのではないかと思う。
ただ、就任式で聖書に対して宣誓すれば良い、つまり、キリスト教に対して敬意を示せば良いということではないだろうかと思う。
結論として、こうではないかと思う。
大統領個人の信教については、実際は、それほど問題にされない。
ただし、大統領がキリスト教に対し、深い敬意を持っていることは絶対条件である。

考えてみれば、日本でも、実際は、事情は変わらないような気がする。
総理大臣がキリスト教徒だろうが、イスラム教徒だろうが、それは構わない。
しかし、日本の伝統である神道や、圧倒的多数の信仰者を持つ仏教に敬意を持っていることは絶対に必要なのだ。
もし、総理大臣が「俺はキリスト教の信者だが、仏教は大嫌いだ」と言ったら大問題であろう。

つまり、民主主義国家においては、大統領や総理大臣は、いかなる宗教も尊重するのである。
そして、その国で特に主要な宗教に対しては、最大限の敬意を持っていることが必要なのである。
あまりピンと来ない人もいると思うが、宗教の問題は、それほど大きなものなのである。
アメリカ大統領が、普段、イエスの言葉を引用する必要はないが、キリスト教に敬意を払っていないと知れたら、それだけで、大統領をやっていられないと思う。
逆に言えば、大統領や総理大臣は、そういったことが理解出来ないようでは、決して、その職は務まらない。
いや、大統領どころか、会社の社長にしたって、少なくとも、その国で信仰者がいるいかなる宗教も、それを軽んじれば、それだけで会社が潰れることもあり得る。
まあ、特に日本の場合、会社では宗教の話はしないし、しないのが無難だが。

日本で、昔から、このことをよく理解していた為政者は聖徳太子だった。
聖徳太子は、仏教、儒教、神道といった、日本に信者が存在する宗教のいずれも最大に敬ったのである。
そうすることが必要であることを理解していたのだ。
時代を考えれば、実に賢い人だったのだと思う。
尚、聖徳太子が仏教を特に信仰していたというのは、後に作られたお話であると思う。
詳しくは述べないが、聖徳太子自身は神道を信仰しつつ、仏教、儒教も篤く敬ったのだ。
確かに、十七条の憲法に、「仏、仏法、僧を敬え」と書いてあるが、これも、聖徳太子自身は「仏教、儒教、神道を敬え」と書いたのだが、太子の死後、改ざんされたという説があり、私は、それが正しいのではないかと思う。
いずれにしても、聖徳太子は、国を治めるには、いかなる宗教も軽んじてはならないと理解していたのである。

我々も、少なくとも上に立ちたいなら、いかなる宗教も否定してはならないということには、よくよく注意しなければならない。
自身が仮に無宗教であろうが、日本であれば、特に、仏教、神道、さらに、キリスト教も重んじる態度を見せ、その他の宗教も軽んじてはならない。
そして、自分がいくら偉くても、自身の信教を過度に重んじるなどで、特定の宗教に偏った態度は取ってはならない。
だが、こういったことは、特に偉い人でなくても、持っていた方が良い認識である。
「日本は本当は神道の国なんだから、神道を重んじるべきである」と、自分では思っていても、それを言ってはならない。

そして、宗教に限らず、あらゆことにおいて、そうなのである。
音楽においても、クラシックは素晴らしいがロックは低俗といったことは、出来れば考えない方が良いが、少なくとも、そんな態度を見せてはならない。
早い話が、個人的な好みや信念は隠すべきである。それを出して良いのは、明らかに同好の者といるという時だけである。
それが、この世でうまくやっていく最大のコツである。
努々、忘れてはならない。
愚かな人間ほど、場所をわきまえずに、自分の好みや信念を持ち出し、他人にも強要するのである。
こんな重要なことを教えない家庭や学校に、果たして意義があるのかと思うほどだ。まあ、偏見の多い親や教師が多いのだから、期待する方が無理かもしれないが。

<付け足し>
この世で一番の天使は初音ミクさんだと思っていても、それを主張してはならない<自戒(笑)








  
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せめて悲惨を免れるだけの幸運を呼ぶ

人生が順調な者もいれば、そうでない者もいる。
極端に順調な例が、野球のメジャーリーグで活躍する大谷翔平だろう。
そして、彼を応援する者も、概ねでうまくいっている方ではないかと思う。
ところが、大谷翔平を妙に否定的な目で見る者もいるもので、そんな者はきっと、人生がうまくいっていない者だ。
例えば、自分も高校の時に野球をやっていて、プロを夢見たこともあったが、野球部のレギュラーにすらなれなかったり、所属していた野球部自体は甲子園にまで行き、ベンチには入れたが全く出場出来なかった、あるいは、最後にお情けで代打で一打席だけ打席に立たせてもらったが凡退したといった感じだったとする。
ただ、それでも、悔いなくやったと思ったのなら良いが、うまくいかなかったことが重い嫌な記憶になってしまった者は、大谷翔平のような華々しい者を見ると、憎しみの感情を持ったりする場合もあるだろう。
そんな者を「ひねくれたやつ」とか「歪んだやつ」と言うのかもしれないが、そんな者の気持ちも分からないでもない。
そして、そんな者達は、その抑圧された感情のためか、往々にして、何をやってもうまくいかない。

『僕は友達が少ない』というアニメの中で、三日月夜空(性格は悪いが優秀で美少女)が、頭を抱えて「どうしていつも、こう、うまくいかないんだ!」と吐き捨てる場面がある(第2シーズン「NEXT」の方だが)。
そんなものを見て、感情移入する者は、やはり、自分も人生がうまくいっていない者だろう。
実は、私も、なかなかそうだ(笑)。
ミュージシャンになりたくて頑張ったが駄目だった者、科学者になりたかったが大学にも行けなかった者・・・そんな挫折が、深い心のしこりになってしまっている者もいるだろう。
イギリスの作家コリン・ウィルソンも科学者志望だったが、彼の場合は家が貧しくて高校にもいけず、工場労働者になり、陰鬱な日々を過ごし、ついには自殺をしかけた。まあ、それで、青酸カリをまさに口に含もうとした時に、意識の変革が起こり、ついには、世界的作家になったのだが・・・普通は、自殺しないまでも、陰気にうな垂れて一生を送りかねない。

犯罪者になったり、奴隷同然の最低な人生を送る者も、大抵は、子供の時は夢や希望を持っていたと思うのだ。
それなのに、人生の敗北者になってしまったのは、自分の責任であろうか?
そうとしか言えない場合もあるかもしれないが、ほとんどは、単に運が悪かったのだ。
『レ・ミゼラブル』で、ジャン・ヴァルジャンがミリエル司教に会わなかったような人生だ。
ミリエル司教に会うまでのジャン・ヴァルジャンに感情移入し、涙する者なら、やはり、相当についてないやつだ。
私など、涙が止まらない(笑)。

私は、ミリエル司教に会わない場合のジャン・ヴァルジャンの道を進んでいたが、いつも最悪を免れたばかりか、幸運に恵まれ、安楽な良い想いばかりしてきた。それはもう、奇跡のような展開だった。
そして、それはただ、中岡俊哉の『守護霊占運学』という本を読み、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱えていたからに違いない。
ただ、唱え方が足りなかったのだろう。偉人になったわけではない(笑)。それでも、威力が絶大なことは分かった。
人間、そんなに苦労するものではない。
そのためには、私のように、仏・菩薩の真言を唱えるのも1つの手だ。
それで十分だが、私は、その恩恵を受けたこともあり、長年に渡って研究を続け、もっと良い方法があることも分かった。
やり方はいろいろである。
ただし、巷にある、引き寄せの本のような難しいものに取り組んだら、何の成果も出ないまま、あっという間に人生が終わりかねない。
法然や親鸞のように、「所詮、人間に出来るのは念仏くらい」と見極められる人は、賢い人であると思うが、その点に関して「だけ」は私も賢くなったようである。
楽をさせる方法であれば、自信がある(笑)。
それ以上のことは、各自の志の問題であると思う。








  
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これで大丈夫

新型コロナで、人生が大きく変わった人もいれば、ほとんど何も変わらないという人もいる。
昔、日本は、敗戦で全てを失ったかのように見えたが、奇跡の復活と躍進を果たした。
1990年代には、日本でも大不況が起こったが、それも、なんとなくやり過ごした人が多かったと思う。
そして、1995年に阪神・淡路大震災が起こり、町は戦後のような光景になったが、やはり、全体としては反動で活気が出た。
もちろん、いずれの場合も不幸になった人は少なくないのだが、結局は、日本の生命力の強さを感じることになったはずだ。
では、今回の新型コロナに関してはどうかというと、今はまだ分からない。
企業は、どんな状況になっても、それに対応して、生きよう、成長しようとするものだし、実際、むしろ、収益を上げた企業も少なくはない。
日本の歴史の中で、大規模なウイルス被害というのは何度もあり、医学が未発達な時代には、死者の数も半端なかったが、それでも見事に乗り越えて来ているのである。
だが、今回の新型コロナのように、致死率そのものは高くないが、異常な感染力を持つウイルスは例がない。
重症化することも全体としては少なく、身近な人が感染しない限り、危機感を感じない人が多いほどだが、とにかく、存在を示すのである。
ウイルスにはワクチンということで、緊急対策として、十分な治験を行わないまま、ワクチンが出荷され、多くの先進国では、急速なワクチン接種が行われている。
だが、いくらワクチンを打っても、新型コロナウイルスはなくならず、イスラエル、イギリスなど、世界で最もワクチン接種が進んだ国で、むしろ、感染が拡大し、ベラルーシ、エチオピア、ブラジルといった、ワクチン接種が少ない国では感染が少ない、あるいは、感染が減少しているのは、果たして、驚くべきことなのか疑問である。

結局、どんな災害でも同じなのである。
個人も国も、気持ちが前向きであるかどうかで運命が決まるのである。
実はこれは、災害があるかどうかに関係ないのだが、地震やウイルス感染といった災害が起こるごとに、そのこと(気持ちが状況を決める)に気付かされるのである。
だから、新型コロナなどに関係なく、気持ちが沈んでいる人、後ろ向きになっている人、不安の大きい人・・・は、危険なのである。
逆に、前向きでさえあれば、何が起ころうが不幸になることはない。
つまり、気分が良ければ良いのである。
ただし、自分の気分は自分が責任を持たないといけないのだ。
誰も、あなたの気分を良くしてはくれない。
だから、愚痴を言う者、泣き言を言う者は、敗北宣言しているに等しく、そうする限りは、負けるだけである。
宗教の多くが良いものでない理由は、本来、宗教は、人々の気分を明るく、前向きにするためのものであるはずが、その宗教が、人々の気分を暗く、後ろ向きにしているのだから、本当にロクでもない宗教が増えてしまったわけである。

家庭では、子供が小さい時から、文句を言わない、愚痴を言わない、泣き言を言わない、弱音を吐かない子供に育てないといけない。
とはいえ、どんな人間でも落ち込むことはあるが、うまくいく人というのは、気分の切り替えがうまい人だ。
一方、「俺はもう駄目だ」と、いつまでもうつむいている者は、もう救いようがない。
だが、親が後ろ向きなら、子供が前向きになるはずがない。
実際、人間の運命は、親で決まってしまう。
しかし、駄目な親に育てられたとしても、自分で気分を支配するようになれば良いのである。
ウジウジしている者には、どんなラッキーもやって来ない。そのことを忘れてはならない。
まるで駄目なやつというのは、いつもウジウジし、後ろ向きで暗いやつである。

では、具体的に何をすれば良いかというと、何でも良いのだ。気分さえ良くなれば。
ただし、刹那的な気分の良さではなく、本当に気分が良くなることである。
確かに、他人を虐げて快楽(つまり偽物の気分の良さ)を感じようとする者は世の中に多いが、そんな者の将来は哀れである。必ずどん底以下になるのだから。
そもそもが、快楽を求めていると、状況はどんどん悪くなる。なぜなら、快楽は、結局は気分を暗くするからである。

坐禅や静坐は良い方法である。
ただし、坐ることで気分が暗くなる坐禅や静坐は、運命を悪くするだけである。
念仏を唱えたり、祝詞を上げて気分が明るくなるなら良いが、それで気落ちが落ち込むなら、何のための念仏、何のための祝詞であるかである。
仏様、あるいは、神様が金ぴかで、豪華な装飾品を纏っているのは、人々の気分を明るくするためなのである。
気分が良くなる説教をしてくれない牧師、神父、僧は願い下げしなければならない。
イエスも釈迦も、ユーモアがあったに違いないのだ。
心を広く、前向きにしてくれる神仏の名を見つけ、唱えることである。
そうすれば、楽しいこと、嬉しいことしか起こらない。








  
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一語の神

今は、「引き寄せ」という言い方をすることが多いが、本来の概念では「魔法」と言うべきものが、「引き寄せ」とか「潜在意識の法則」とか「超能力」とか「霊能力」として、その使い方が本に書かれている。中には、人気があって、かなり売れているものもある。
ただ、残念なことに、使い方の説明に1分以上かかるものは(つまり、一冊の本になった時点で)使えないのだ。
なぜなら、魔法は考えたら使えないからだ。
使うのに説明を必要とするということは、頭を使うということであるが、思考を通して行うことは魔法ではない。
魔法は、ただ一言で教えられる。
それは、「神の名を唱えよ」だ。

ところが、私は、神(あるいは仏)の名を1つも知らなかった。
二十歳過ぎた頃にも、「天照大神(あまてらすおほみかみ)」を読めなかったし、何となく、阿弥陀とか観音という言葉は知っていても、それらの仏の名前を正しくは知らなかった。
本来は、子供の時から知っている神仏の名を唱えるのが一番であるが、私には、そのようなものがなかったのである。
とはいえ、日本語というのは、一語一語が神なのであり、おそらく、太古の昔、日本人の祖先は、単純な言葉の1つ、あるいは、いくつかを組み合わせて(おそらくは心で)唱えるだけで、岩を浮かせるようなことを軽々と行ったのだと思う。
だから、子供でも、「えい」とか「やー」とか「たー」といった、お決まりの愛用の掛け声を使う子は、その言葉の神が手助けしてくれ、驚くようなことをしているのかもしれない。
実際、私も、ここでも何度も書いたが、子供の時から、およそあり得ない奇跡を何度も起こしてきたのは、いつも(掛け声などで)使う特定の言葉に宿った神の力によるのだと思う。
一語であっても、神であるからには、強い力を持ち、昨日も書いたが、「ア(アー)」だけでも、唱えれば、悩みが消えてしまう。
もちろん、それぞれの言葉の神には個性もあるだろうが、やり方が違うだけで、普通のことであれば、何でも出来るのだと思う。

その中で、調べていたら、「トホカミヱヒタメ」という、8つの言葉が表す8柱の神を唱えるのは良いことであると思った。
よく「トホカミエミタメ」と言われているが、正しくは、「トホカミヱヒタメ」である。
私のように、子供の時に馴染みの神の名を持たなかった者で、どうも親しみの湧く神や仏の名前がない場合、たった一語の神の名を、心で丁寧に唱えれば良いと思う。それだけで、必ず恵があるだろう。
あるいは、「トホカミヱヒタメ」の8柱の神の名を唱えると良いだろう。








  
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勝つ人はここが違う

優れた野球のバッターになりたいなら、1回でも多く素振りをすれば良いのだし、剣の達人になりたければ、やはり、1度でも多く剣を振れば良い。
結果、「いつもバット振ってるよね」「暇さえあれば剣を振ってるよね」と言われるようになる。
誰も見ていなければ、壁や天井や床がそう言ってくれる。

「でも、俺、バッターでも剣士でもないし」なんて思ってはならない。
私は、一流の経営者が部下の幹部達に、
「俺とお前達との差は、素振りの回数だ」
と言うのを聞いたことがある。
こう言えば、「つまり、努力しろってことだな」と思うかもしれない。
しかし、苦しい努力は長続きしない・・・というのも、さっきの一流の経営者が言ったことなのだ。

これに関しては、何かで世界一、あるいは、史上一の人に学ぶのも良いかもしれない。
それで思い出すのが、有名なプロレスラーだったジャイアント馬場さんのことだ。
彼は、世界一でも、まして、史上一でもないが、世界一、史上一に学んで、日本一、アジア一になったのだ。
なら、我々だって、会社一(笑)・・・いや、もしかしたら、業界一くらいにはなれるかもしれない。
上の、一流の経営者は、おそらく、日本の業界で30番くらいだった・・・いや、それでも大したものなのだ。
日本で30番のイラストレーターやパティシエなら大金持ちだ。

で、馬場さんが学んだ世界一、史上一は、バディ・ロジャースという超一流のレスラーだった。
馬場さんは、心底、ロジャースに憧れていた。
ご存じかもしれないが、プロレスは決してスポーツではない。ショーである。
これはもう、あるプロレスの元レフェリー(ミスター高橋さんだが)が著書でモロにバラし、その元レフェリーは「あの本のことで誰も文句は言って来なかった」と言っているようだ。
馬場さんが、ロジャースの「世界一の素振り」について、こんなことを本に書いている(自分では書いていないだろうが、言ったのだとは思う。ちなみに、どの本だったかは分からない)。
馬場さんの時代、アメリカでは、プロレスラー達は、次の試合会場のある町まで個々に移動したが、自然、集団で移動することになる。行先は同じなのだから。
よく一緒に移動するレスラー同士は顔馴染みになり、仲良くなる(反りが合わない者同士もいるだろうが)。
それで、移動中の電車の中で、仲の良い者同士、一緒に酒を飲みながら雑談したり、トランプゲームなどをするようになる。
ところが、ロジャースは、そういったことを全くしなかったそうだ。
馬場さんは、ロジャースはいつも「考えていた」と言う。
ロジャースは常に、プロレスのことを考えていたらしい。
試合でやることとか、ショーマンシップとか、とにかく、お客さんを喜ばせることをロジャースは考えていたのだ。
馬場さんは、「そりゃ、ずっと考えている人と、そうでない人では差がつきますよ」と述べている。
ちなみに、上で述べた「元レフェリー」、ミスター高橋さんも、ずっとプロレスのことを考えていたのだろう。だから、あんな本を書いても、誰にも文句を言われないのだと思う。

パスカルの「人間は考える葦である」の通り、1日中、何を考えているかで勝負は決まるのだろう。
藤井翔太君は、きっと、1日中、将棋のことを考えているのだ。これは、憶持(常に念頭に置いて忘れないこと)しているということだ。
藤井君と、他の棋士の違いは、憶持の差・・・それが、あの一流の経営者が言う「素振りの差」なのだろう。
それは単に、「注意を向ける」「意識する」程度のことかもしれない。
しかし、平凡な人間は、その注意や意識が分散し、散漫になるのだ。
『観無量寿経』(『浄土三部経』の中の1つの経典)で、釈迦は、ただ「阿弥陀仏の名を億時せよ」と言ったのである。それが正しい念仏である。

引用した本と、これらのことについて、参考になりそうな本を下にご紹介しておく。








  
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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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