『しあわせって何だっけ』という、明石屋さんまさんのヒット曲があるが(2度、キッコーマンのCMで使われた)、「幸せとは何か?」というのは、人類の永遠の課題であり、人間にとって、最も重大な問題に違いない。
アニメ『ちょびっツ』の最終回で、予備校生の秀樹が、美少女型の人型パソコン(アンドロイドと同じ)のちぃに、「幸せって、一緒にいることなんだ」と言う場面があり、その時にありえぬ奇跡が起こり、この言葉の効果を高めていた。しかし、愛する者同士が一緒にいることは無論、大切なことであるが、離れてしまっても幸せでいることは出来るのだ。
幸せとは何かということについては、いろんな人達の洒落た意見が思い浮かぶ。
私も以前は、誰が言ったのかは分からないが、
「幸せとは夢中になることだ」
「幸せとは自己満足である」
といったものが印象的だった。
しかし、これらも駄目だ。
夢中になることは、すぐに飽きるものだ。自己満足だって、すぐに消える。
次々に夢中になれるものや自己満足を求めているうちに、疲れ果ててしまうだろう。
実際、夢中になることと自己満足は同じだ。
こんなことが幸せだと思う者の誤りは、幸せを外に求めていることだ。
ちょっと変わったものでは、「復讐が達成されること」といったものがあったが、それは、快楽ではあっても幸せではないだろう。
快楽と幸せは全く異なり、むしろ正反対のものだ。
聖者が言うように、存在そのものが至福であるのだろうが、それは悟りを開くまでは分からないことだろう。
そこで、凡人レベルで理解できるように幸せを表現すれば、幸せとは気楽さなのだ。
快楽は一瞬だが、気楽さは永遠だ。
快楽を求めるなら、次々に新しく、そして、より強い快楽が必要になるが、気楽さは何も求めないことだ。
空腹な時の食事は快感ではあっても、快楽ではない。それは動物も同じである。
しかし、より美味しい食べ物を求めるのは快楽を求めているのであり、それは肥満や心身の病気を誘う。
対して、本当に空腹な時に、質素な食事をする習慣は気楽さに近付く道だ。
気楽さには刺激がなく、ドラマチックさに欠け、派手さも格好良さもないので、つまらないものだと思ってしまう。
それに、皆が気楽さを求めたら、億万長者になる者がいなくなり、大儲けしたい者が困ることになる。
それで、刺激があり、ドラマチックで、派手で格好が良いものに人々の目を向けさせ、そんなものを得る欲望を煽る。
つまり、いつでも、世間の人々は、快楽に向かって駆り立てられるのだ。
ニンジンを目の前にぶら下げられて疾走する哀れな馬が我々なのだ。
気楽さを得るのは、簡単そうで難しい。
だから、人々は容易く、ニンジンを目の前にぶら下げられた馬の真似をしてしまうのだ。
気楽さを得るには、欲望を捨てなければならず、それは凡人にはひどく難しいのだ。それは、一見、慎ましい人とて同じだ。
気楽さを得ることが出来るのは、あるがままを受容することが出来た時だけだ。
しかし、あるがままの意味を誰も知らない。
あるがままを受容するとは、運命は全て完全に決まっており、我々は、それに対し、一切のコントロールが出来ないという事実を完全に受け入れることだ。
他に気楽さを得る道はない。
しかし、誰もこれを受け入れない。
そして、これからも、「幸せとは何か?」が、人類の難しい問題になり続ける。
しかし、答は、ごく簡単なものなのだ。
暗闇の中で、懐中電灯を使って何かを必死で探している人がいる。
「何をお探しですか?」
「懐中電灯だよ」
これが人間だ。
「あなたが今、お持ちです」
「いや、俺が必死で探すからには、もっと刺激的で、ドラマチックで、派手で、格好良いものに違いない」
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アニメ『ちょびっツ』の最終回で、予備校生の秀樹が、美少女型の人型パソコン(アンドロイドと同じ)のちぃに、「幸せって、一緒にいることなんだ」と言う場面があり、その時にありえぬ奇跡が起こり、この言葉の効果を高めていた。しかし、愛する者同士が一緒にいることは無論、大切なことであるが、離れてしまっても幸せでいることは出来るのだ。
幸せとは何かということについては、いろんな人達の洒落た意見が思い浮かぶ。
私も以前は、誰が言ったのかは分からないが、
「幸せとは夢中になることだ」
「幸せとは自己満足である」
といったものが印象的だった。
しかし、これらも駄目だ。
夢中になることは、すぐに飽きるものだ。自己満足だって、すぐに消える。
次々に夢中になれるものや自己満足を求めているうちに、疲れ果ててしまうだろう。
実際、夢中になることと自己満足は同じだ。
こんなことが幸せだと思う者の誤りは、幸せを外に求めていることだ。
ちょっと変わったものでは、「復讐が達成されること」といったものがあったが、それは、快楽ではあっても幸せではないだろう。
快楽と幸せは全く異なり、むしろ正反対のものだ。
聖者が言うように、存在そのものが至福であるのだろうが、それは悟りを開くまでは分からないことだろう。
そこで、凡人レベルで理解できるように幸せを表現すれば、幸せとは気楽さなのだ。
快楽は一瞬だが、気楽さは永遠だ。
快楽を求めるなら、次々に新しく、そして、より強い快楽が必要になるが、気楽さは何も求めないことだ。
空腹な時の食事は快感ではあっても、快楽ではない。それは動物も同じである。
しかし、より美味しい食べ物を求めるのは快楽を求めているのであり、それは肥満や心身の病気を誘う。
対して、本当に空腹な時に、質素な食事をする習慣は気楽さに近付く道だ。
気楽さには刺激がなく、ドラマチックさに欠け、派手さも格好良さもないので、つまらないものだと思ってしまう。
それに、皆が気楽さを求めたら、億万長者になる者がいなくなり、大儲けしたい者が困ることになる。
それで、刺激があり、ドラマチックで、派手で格好が良いものに人々の目を向けさせ、そんなものを得る欲望を煽る。
つまり、いつでも、世間の人々は、快楽に向かって駆り立てられるのだ。
ニンジンを目の前にぶら下げられて疾走する哀れな馬が我々なのだ。
気楽さを得るのは、簡単そうで難しい。
だから、人々は容易く、ニンジンを目の前にぶら下げられた馬の真似をしてしまうのだ。
気楽さを得るには、欲望を捨てなければならず、それは凡人にはひどく難しいのだ。それは、一見、慎ましい人とて同じだ。
気楽さを得ることが出来るのは、あるがままを受容することが出来た時だけだ。
しかし、あるがままの意味を誰も知らない。
あるがままを受容するとは、運命は全て完全に決まっており、我々は、それに対し、一切のコントロールが出来ないという事実を完全に受け入れることだ。
他に気楽さを得る道はない。
しかし、誰もこれを受け入れない。
そして、これからも、「幸せとは何か?」が、人類の難しい問題になり続ける。
しかし、答は、ごく簡単なものなのだ。
暗闇の中で、懐中電灯を使って何かを必死で探している人がいる。
「何をお探しですか?」
「懐中電灯だよ」
これが人間だ。
「あなたが今、お持ちです」
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