ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

人の一生の運のトータルは同じだ

ある日本人男性が、やや政治的に不安定な国で電車に乗っていた。彼はトイレに行くが、使用中だったので、別の車両のトイレに行った。その時、元いた車両が戦闘機に爆撃されて破壊された。そこのトイレが使用中でなければ、彼は死んでいたところだった。この出来事により、彼は、人生の全ては偶然なのだと悟った。
だが、彼がトイレに行きたくなったのも、自分のいた車両のトイレが使用中で、彼が他の車両に行かざるをえなくなったことも、そして、その後で、元居た車両が爆撃されたことも、全て、最初から決められていた神のシナリオである。
人の立場から見れば偶然であっても、深い見地から言えば全て必然である。

私は中学生の時、以前見た、あるテレビドラマのある回をどうしても、もう一度見るだけでなく、ビデオ録画したいと思った(ビデオの時代だった)。
それで何をしたかというと、ただ、ビデオ装置の録画リモコンを握り、その番組が放送されるのを待った。その番組が再放送されるという情報を調べもしなかったし、何のあてもなかった。
しかし、その番組はすぐに放送され、私は楽々と録画できた。そういうことは何度もあり、失敗した記憶はない。
1つの考え方として、私が予知能力を発揮し、その番組が放送されることが分かった時に、それを見て録画したいという衝動が起こったと言えるかもしれない。
だが、実際はこうだ。その番組が再放送されることや、私がそれを見たいと思うことも、そして、録画しようと考えることも、全て、あらかじめ決められた運命だったのだ。
逆に、こういうこともあった。
私は、あるテレビコマーシャルを気に入っていて、それを録画しようと思って、やはり、録画リモコンを持って待っていた。
よく放送されていたCMだし、こちらに関しては、普通に考えて、そのうち録画できるはずだった。
しかし、そのCMは、それ以降、一度も見ることはなかった。
私が録画リモコンを持って狙ったその時に、放送終了したかのように、世界から消えてしまったのだ。
そして、これもまた、神の決めたシナリオだったのだろう。

今はもうほとんどいないと思うが、少し前には、戦争中、捕虜の敵兵の首を切った経験を話す老人がいた。日本軍はそんなことをよくやっていたのだ。
彼は、「あれは戦争だから仕方がなかったのだ」と言う。
このようなことに関して、丹波哲郎さんが、著書で、やはり「罪なし」と書かれていたのを憶えている。ただ、そこで命令拒否をすれば、非常に霊格が向上するとも書かれていた。
捕虜の首を切ったり、あるいは、目をつぶすなどの残虐行為をした者の中には、罪の意識に苦しむ者も多いだろう。
しかし、そのような状況になり、自分がそんなことをすることもまた、避けられぬ運命である。
そうすることが、神の決めたシナリオであったなら、どうあってもやったことだ。言うなれば、捕虜の首は既に神によって切られていた。それをやった人が悩む必要はない。
ただし、逆に自分が首を切られることになっても、首を切る者を恨むことはできない。相手もまた、神の意志の通りに動いているだけである。

ところで、人生経験の豊富な人ほど、人の一生の運のトータルは、みな同じであると感じるものだ。
幸運なところもあれば、不運な部分もある。大きな幸福を得た者は、同時に大きな不幸も背負うものだ。
ハワード・ヒューズは、長身イケメンで、俳優、映画制作、事業で大成功し、世界屈指の富豪になったが、重病になり、190cmを超えていたが体重は30kgほどしかなくなり、ベッドから動くことも出来ない身体になって、何も食べられず、そして、ほとんど誰にも看取られずに孤独に死んでいった。
アンデルセンは青年時代までは苦難が多く、また、一生女に縁がなかったが、偉大な詩人・作家としての名誉を得、決して豊かではなかったが、国王から年金をもらうことが出来たので働く必要もなく、生涯、世界旅行をして過ごした。
平凡な人間でも、やはり、たとえば、家族運や結婚運はないが、一生安楽に過ごすといった人もいるだろうし、その逆に、モテモテだったり、家族には恵まれても、生涯、金に苦労し、心労が耐えないという人もいるだろう。
ある程度の年齢にならないと分からないだろうが、やはり、人間の運勢はバランスが取れていて、、一見、凡人か傑出した人物の違いはあっても、そうは変わらないものかもしれない。
だから、不運なところは、出来ることならむしろ喜べばいいし、恵まれたところがあれば、それを他人に回すとか、かえって慎み深くすることで、大きな不幸を免れるかもしれない。
だが、やはり、人の一生の運命は決まっていて変えられない。自分には、人生を支配するどんな力もないことを知り、どんな出来事も受け入れるなら、たとえどんなに不幸に見えても、安らかでいられる。そして、神はそんな人間の自我を破壊してくれ、その者は、魂の束縛を解き放つことだろう。









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絶対に成功しない道を選ぶ

2300年程前に実在したと言われる中国の賢者で、老子と共に老荘と称され、道教の始祖と言われる荘子の教えは、一言で言えば、「なりゆきにまかせろ」となると思う。
なりゆきに任せるには、荘子は、作為をするな、無用であれ、思慮分別を捨てよ、判断をするな・・・と、およそ文明や進歩に逆らうようなことを重要なこととした。

1970年に大阪で開催された万国博覧会のテーマは「人類の進歩と調和」だったが、この国際博のシンボルである太陽の塔を制作した大芸術家、岡本太郎は、この塔は、進歩などというものに対して「No」と主張しているのだという。
荘子と通じるところがあるように思われる。

ところで、そんな荘子の教えは、割に受け入れようとする人が、昔からいた。
良寛さんだって、荘子により救われたのである。
ただ、ちょっと気になると言うか、おかしな受け入れ方をする者も多いのだ。
それは、「なりゆきにまかせれば、良くなるのですね」といったものだ。
「良くなる」とは、まあ、楽になる、愉快なことが起こる、運が良くなるといったことで、簡単に言えば、都合の良い状況になるという意味だろう。具体的には、金が儲かる、素敵な恋人や伴侶が出来る、地位が上がる等で人々に敬われるといったところだろうと思われる。
言っておくが、そんなことは決してない。
なりゆきに任せようが、任せまいが、結果は何も変わらない。
金に苦しむ運命にあれば、作為しようがすまいが、金がなくて困り続けるだろう。
恋人が出来ない運命であれば、積極的に女を追いかけようが、引きこもっていようが彼女は出来ない。
金持ちになるとしたら、なりゆきに任せようが、作為ばかりしようが、いずれにしろ金持ちになる運命だったというだけのことだ。
女など煩わしいと思い、なるべく女性と関わらないようにしているはずが、常に美女が寄ってきて困るという人が本当にいる。それも宿命だ。
ラマナ・マハルシは、「働く運命になければ、いくら探しても仕事は見つからないだろう。逆に、働かなければならない宿命であれば、仕事は避けられない」と言ったが、その通りである。

岡本太郎は、非常にエキセントリック(風変わり)なことを言った。
「私は、常に破滅する道を選んだ」
「嫌われたっていいじゃないか。いや、嫌われないといけない」
「誤解されたっていいじゃないか。いや、誤解されないといけない」
「売れなくていい。いや、売れてたまるかと思っていた」
「僕は、成功しないことを目指していた」
岡本太郎のこういった言い方は人気がある。
しかし、ここでも、表立ってか、心に秘めてかはともかく、
「なるほど、そう思っていたらかえってうまくいくのですね」
というとんでもないことを言い出す者が多いのだろうと思う。
誤解されないといけないと言っているのであるから、徹底的に誤解され、死ぬまで蔑み疎まれなければならないのだ。
成功しないことを目指しているのだから、成功しかかったりなどしたら、支援者を殴ってでも成功してはならない。いや、そもそも、成功するようなことに決して手は出さない。
岡本太郎はそう思っていたはずだ。

ダスキンの創業者、鈴木精一さんは、「自分に対しては損と得とあらば損の道をゆくこと」「他人に対しては喜びのタネまきをすること」などの人生観を経営指針として示したが、何かそれを成功の秘訣だと大誤解している人が多い。
損な道を取ったのだから、損すれば良いのである。
鈴木精一さんが大成功したのも、単に宿命である。

だが、荘子や、あるいは、岡本太郎、鈴木精一のような信念を本当に持っていたら、世俗的な成功をするかどうかは全く分からない(そもそも何の関係もない)が、そんなものよりはるかに良いものを得るのは間違いない。
エマーソンが、「内にあるものに比べれば、前と後ろにあるものなど、取るに足りない」と言ったようなものである。









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叶いもしない願望がなぜ起こるのか

アメリカのある高額な自己開発プログラムでは、「あなたの欲望は神が与えたのだ。それは叶えることが出来るから神から与えられたのであり、あなたはそれを達成せねばならない」とされていたが、これがアメリカ的発想と言うのかもしれないし、多くの成功哲学が根本的な思想としている。
喩えとして、こんなことを言う場合もある。
「子供に美味しそうなケーキを見せて、それを与えないなら残酷なことだ。神は、あなたに願望だけ与えて、それを達成する力を与えないはずがない」

そうではないのだ。
神は、その欲望を利用するために我々に与えるのだ。
そして、それは見事に使えるのだ。
ケーキやアイスクリームを欲しがる子供に、どんな条件だろうがそれをいちいち与えていたら、子供が肥満してしまうではないか?

欲望の見事な利用法を教える前に、1つのお話を引用する。
アメリカの長編テレビドラマ『燃えよ!カンフー』は、西洋人と中国人のハーフであるケインが、少林寺で修行した後、アメリカを放浪するお話だ。
ケインが修行していた少林寺に、盲目だが武術の達人で、ほぼ悟りの境地に達した、ホーという名の高僧がいた。
ケインがホーに「何か望みはないのですか?」と問うと、ホーは、ある寺の祭りに行くことだけが唯一の望みだという。
「願望と言うには、あまりにささやかです」
ケインが尊敬の念を込めて言うと、ホーは、
「いや、これも願望であることに違いはない」
と、自分の至らなさを認める。
時が流れ、ケインは少林寺での修行を終え、少林寺を出る。そして、しばらく経った時、ケインはホーが行きたいと言っていた祭りに行く。ケインにも期待があったのかもしれないが、そこに念願叶って訪れていたホーと感激の再開を果たした。
だが、そこでホーは、傲慢な皇帝の甥にピストルで撃たれ、怒りに目が眩んだケインは皇帝の甥を槍で殺してしまう。
「皇帝の甥を殺したのか?」
瀕死であったが、ホーはケインを案じる。
「申し訳ありません。でも、我慢が出来ませんでした」
ケインは自分の激情にかられた愚行を師に詫びるが、師は、
「私でもそうしただろう」
と弟子を赦し、そして死んだ。

なんとも素晴らしいお話だと思う。見事に宿命を描いている。
ホーはささやかとはいえ、欲望を持っていた。その欲望が起こした惨事であった。
いや、ケインとて、ホーに会えるかもしれないという期待を持たなければ避けられた出来事だった。
だが、ホーが悟っていたなら、それが定められた運命だと分かったことだろう。

欲望とは、叶えるためではなく、消すために神が我々に与えるのだ。
ただし、宗教で言うように、無理に欲望を抑えるためではない。
抑圧された願望は変質して噴出する。
子供の頃に、エロチックなものを過度に悪いものとして排除された者が性的変態になるようなものだ。
欲望は不自然に抑えるのではなく、自分には、それを叶える力は全くないことを知るために利用するのだ。
あの高額な成功プログラムの教えと全く逆なのである。
我々には、いかなる願いも叶える力は無いのだ。
願いが叶わないと言っているのではない。叶うかどうかは神の想い次第で、我々の想いなど、何の関係もないのだ。
そして、願いが叶うかどうかは、既に決まっている。しかし、我々には、どんな結果になるのかは分からない。ただ、なりゆきに任せるしかないのだ。
ある男の前に、彼が理想と思うような美しい少女が現れ、彼女を得たいとどんなに強く願っても、彼には状況をコントロールする力は全くない。彼女と結ばれるかもしれないし、そうではないかもしれない。だが、彼が何をやっても、結果は既に決まっていて変わらない。彼の想いなど、なりゆきには何の関係もないのだ。
彼は、自分の願望は認めつつ、自分にはどんな支配力もないことを受け入れるしかないのである。
これは難しいことだ。
しかし、それをやれて初めて、彼は魂を束縛から解放し、神と一体となれるのである。

初音ミクの『from Y to Y』という歌(作詞作曲編曲はジミーサムPさん)の中に、
「君と過ごせたら、と 願うことさえ許されない世界なのかな」
という歌詞がある。
願うのは自由だ。
しかし、叶うかどうかは、自分には分からない。そして、結果は既に決まっている。
自分は、その結果に対し、いかなるコントロールも出来ない。
それを受け入れることで、我々は神に帰るのである。

ホーは自分の願望は認めつつ、なりゆきに任せていたのだろう。
でなければ、むしろ彼は、祭りに行かなかったはずだ。
そして惨事は起こったが、それは神の決めた運命だった。
ケインが皇帝の甥を殺したのも、避けられぬ宿命であったのだ。
世界は全てそうである。

荘子は、こういったことを受け入れることが出来る者は極めて少ないと述べている。
だから、彼が言うところの道(タオ)と一体となれる者、別の言い方では、神と1つになれる者はほとんどいないのである。
だが、これだけでは面白くないだろうから、最後まで読んでくれた方に、魔法を得る秘法を1つ教える。
それは、叶うはずのない願いを持つことだ。全てを知っていた政木和三さんが、慈悲心から普通の人に教えたことでもある。









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クラシック音楽を聴いて眠くなるのは決して悪いことではない

クラシック音楽を聴くと眠くなると言ったら、お堅いクラシックファンに蔑まれるかもしれない。
ところで、私は、昨日、ドヴォルザークの『新世界より』を通して聴いた。
CDをWAVEデータ化(音質の劣化は無い)し、iPod touchに転送したものをヘッドフォンで聴いたのである。
演奏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で指揮はカラヤン。20世紀の遺産とも言われる名演奏らしい。
そして、何を聴いていたか、ほとんど覚えていない。
途中から眠ってしまっていて、ずっと自我意識が無かったのだ。
だが、素晴らしい演奏だった。
クラシックの聴き方として、これで良いと思う。

元々が、クラシック音楽は、自我を楽しませることを目的としていない。よって、聴いていてワクワクしたり、シビれたり、興奮することはない。
ただし、自我にとって不快でもない。自我を適当に静めた上で、深奥の意識と共鳴するのであり、対象は、日常の意識(自我意識)よりずっと深いところにある意識だ。
よって、眠くなる方が自然なのである。

ロックやポップニュージックは自我を楽しませる目的で創られている。ただ、これらの分野でも、名曲と言われるものは、同時に、やや深い意識に入り込む性質がある。しかし、クラシック音楽とは比較にならない。

ヒーリング・ミュージックというものは、心地よい旋律で自我の注意を集めて静かにさせてしまうのである。音楽を聴いている間は心が静まっている。
自我の注意を引き付けることに関してはクラシックより強い効果がある。クラシックは、自我がどう感じるかについては、本質的にどうでもいいいからだ。
そして、やはり優れたヒーリング・ミュージックもまた、深い意識に働きかける。だが、普通は、その効果はあまり高くない。ストレスの元になる自我を一時的に静めることが第一の目的だからである。

クラシックも、『新世界より』もそうだが、非常に旋律が心地良く感じられる部分もあり、その部分のメロディーに詩を付けて唱歌にすることもある。
唱歌として、『新世界より』では第2楽章を使った『家路』、ウェーバーの『魔弾の射手』の序曲を使った『秋の夜半(よわ)』がよく知られているし、ホルストの組曲『惑星』の木星の部分は、やはり自我意識的にも心地良く、平原綾香さんがデビュー曲に使ってヒットした。
しかし、これらはもはやクラシックではない。ヒーリング・ミュージックとしては非常に優れたものになるが、クラシックの本来の良さは無くなっている。

そもそも、クラシック音楽の作者は、自我で知的に考えて創っているのではない。
ほとんど無意識状態で創ったのである。自我をはるかに超えた深い意識から曲が出てくるからだ。
クラシック音楽の巨匠は、全て即興(即座に音楽を創ること)の大家でもある。即興で名曲が出来るのは、自我がほとんど消えて、深い意識と交流している時だ。実のところを言えば、クラシックというのは、本質的に全て即興である。制作に時間がかかった場合は、ただ、自我を消すのに難儀していたのに違いなく、自我が消えてしまえば、曲は即時に出来る。

フランス国家ラ・マルセイエーズを創ったクロード・ジョゼフ・ルージェ・ド・リールは、音楽家ではなく、技術軍人で、音楽は趣味だった。その彼が、天啓を受け、不意に自我が消えたのだろう。一夜で、この名曲を作詞作曲したのである。ただし、夜が明ければ自我が戻ったようで、他に名曲を創ることは無かった。

よって、聴く方も、自我で考えながら聴いても、ほとんど意味はない。
さっさと自我が眠り、超越した意識により聴くべきものなのである。

ただ、自我が眠っていても、意識が目覚めていることが好ましい。
道元が、『正法眼蔵』の中で、「仏道とは自己を忘れること」と書いているが、自己を忘れることとは、自我を消すことなのであるが、それは眠ってしまうことではない。
自我は消えても、意識は目覚めている状態なのである。
道元は、それを座禅で成し遂げさせようとし、只管打坐(しかんたざ。ただ座れ)と言った。岡田式静坐法を普及させた岡田虎二郎の静坐法の真意もそこにある。
ところが、クラシック音楽というのは、それを自然に成し遂げさせるものである。
座禅や静坐では、眠ってしまえばそれまでだ。
しかし、クラシック音楽は、眠ってしまっても、音楽が超越意識に働きかける。
自我のみ消え、意識が目覚めていることが望ましいが、眠っていても駄目な訳ではない。そして、そう遠くない時に、意識が目覚めたまま、自我が消えることを体験できるだろう。
クラシック音楽の良さをよく分かっている人に、クラシック音楽の良さを聴いても、曖昧なことを言う場合が多い。言葉による説明とは観念であるが、クラシック音楽は観念ではないからだ。
クラシック音楽は、道元の「ただ座れ」と同様、「ただ聴け」ば良いのである。
ただ、クラシックに慣れていないなら、やはり旋律の美しいものを選ぶのが良いかもしれない。
『新世界より』『惑星』は一般にも人気のある曲で、聴き易い。
スメタナの『わが祖国』は、誰でもその旋律の美しさは感じられ、多くの人がどこかで聴いて覚えていると思う。
『月の光』(ドビュッシー作。ベルガマスク組曲の第3曲)も、親しみやすい美しい曲だ。
決して何も考えずに、ただ聴くことをお奨めする。
幸い、スメタナの『わが祖国』の第2曲『モルダウ』(単独で演奏されることが多い)は、私が昨日聴いた『新世界より』のCDに同時収録されている。下にご紹介しておく。









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無力感は黒い服を着た天使のようなもの

英国の作家で啓蒙家のコリン・ウィルソンの本を読むと、人間の不幸の原因が無力感であるとよく書かれていることに気付く。
自分には必要な力が無いという実感が強くなると、その人間は倦怠感、自己憐憫、自己嫌悪に陥るが、それは生命エネルギーが枯渇した状態である。つまり、生命力が欠乏しているということであるが、考えてみれば、人間に限らず、生き物という言葉が該当する存在は、生命力の高さが幸福なのだと言えば、割にぴったりくると思う。
アントニオ猪木さんがよく「元気ですか!?」と言うが、言われても困るだろう。元気な人は元気だし、そうでない人はそうでない。
ただ、誰しも元気で、生命力に溢れていたいのである。

ウィルソン流に言えば、無力感を克服するには、自分には力があるという実感が必要だということだろうが、力とは何かというと、能力と運である。
しかし、いろいろやってみて、時には努力もしたが、能力も運も得られない。
そこで、宗教や、あるいは、伝統的宗教とは異なる新思想を研究したり、成功哲学や、幸運の科学ともいえる潜在意識の法則や引き寄せの法則に熱心に取り組んでみるが、冷静になることが出来るなら、望む力は決して得られていないことが分かるのである。
江戸時代の観相(顔や身体の相で運命を鑑定する占術)家の水野南北は、「食が全て」と言い、食を慎みさえすれば、能力も幸運も得られると説き、自分があらゆる点において最低の人間であったに関わらず、富と健康と名誉に恵まれ、長寿を全うし、また、多くの人を幸運にしてその正しくを証明した。
しかし、ニュートンが発見したように、物は引力によって地上に落ちるのが法則であるのと同様、食を慎めば力を得られるのが法則としても、食を慎むことは難しく、誰にでも出来ることではない。特に、現代では絶望的である。
何のことはない。食を慎むことが出来るかどうか自体が運なのである。

ウィルソンは生命力を高めるために、色々な方法を説きはしたが、どれも難し過ぎて実行すら出来ないもので、結局、人々を混乱させるだけに終っている。彼は、洞察においては天才なのだが、現実的なノウハウとなると、途端に最高の無能さを発揮するのだ。

無力感が原因で生命力を無くすのではない。
事実は全く逆で、自分には力があると思うことが、あらゆる不幸の原因であり、結果、生命力を無くすのである。
自分には何の力もなく、いかなる状況も出来事も、自分の望むようにコントロールできないことを本当に受け入れることができれば、生命力は最高になるのである。
野生動物が決して病気にならないのは、生命力が最高だからだが、彼らは、状況を支配しようなどとは思っていない。自我が無いからだ。(言うまでもなく、野生動物が不死身だと言っているのではない。家畜の病原菌や人間が与えた人工的な餌などと無縁の純粋な自然状態では、滅多に病気にならないという意味だ)
自我とは、実に、好ましい状況を望むものである。つまり、欲望が自我の正体だ。
しかし、自分には一切の力が無いということを受け入れると、自我は弱まり、ある至高の力により、それは破壊される。それが悟りと言われるもので、その時に、我々は生命力どころか、生命そのものと一体になる。生命とは、実に宇宙そのものである。
無力感とは、黒い衣を纏った天使なのである。逆に、世間に溢れるのは、力を与えようとする天使の顔をした悪魔である。

コリン・ウィルソンは、人類は3千年もの間騙され続けてきたとよく言っていたが、彼もその片棒を担ぐどころか、新手の強力な詐欺をやったのである。
しかし、それも必然であった。彼に騙されるという言い方が悪ければ、混乱させられることが必要な人が多くいただけのことだ。私もそうであった。そして、それは面白いものであった。しかし、その遊びはもう終りである。
白い彫刻を鮮明に見ようと思えば、黒い背景の中に置くべきである。
コリン・ウィルソンや水野南北の本は、別に誤りという訳ではないが、メインの彫刻ではない。しかし、背景として有用である。彼らの本を読んでから、『バガヴァッド・ギーター』や『エメラルド・タブレット』を読むと、理解力が増すと思う。現代人は、こういった回り道は嫌いなのであるが、学習のコツとは、そのようなものである。ただし、それが出来るかどうかも運である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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